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グリンガレットと緑の騎士  作者: 雪村4式
22/28

第二十二章 邂逅

 二十二〈 邂逅 〉


 気付いたのは、ケルンナッハだった。

 もう一人の女がいない。

 迎賓館を過ぎ、王殿へと向かうサヌードに寄り添い、何やら耳打ちする。サヌードは顔色を変え、グリンガレットの腕を掴んだ。

 指輪が消えている。

 サヌードは彼女が演じた一幕の裏側を察した。

「そなた、・・・あの女を逃がしたな」

「何の事やら、わかりませぬ」

「おのれ、しらばくれるか」

 サヌードは怒りの形相を露わにしたまま、ケルンナッハを向いた。

「ファグネルに追わせよ」

「は、捕えるように申し伝えますか」

「捕えれば最善。無理ならば、殺しても構わぬ」

 ケルンナッハが、音もなく去っていく。

 再びグリンガレットを振り向き、拳を振り上げようとして、堪えた。

 まだ、周囲には目がある。ここで、手を上げる事はできない。震える声で

「上手くやったと、ほくそ笑んでいるのだろうな」

 言うと、彼女の手をようやく放す。力を込めて握られていたせいで、彼女の白い手首が赤く変わっていた。

 グリンガレットは痛む手首を抑え、敵意をその眼に込めて彼を見た。

「逃がすと思うのか。甘くは無いぞグリンガレット、いや、モルガンと呼んで欲しいか」

 彼女は応えなかった。ただ、唇を引き締め、微かに天を仰いだ。


 デリーンは走っていた。

 グリンガレットの相貌が、脳裏を離れない。それでも、彼女は走らなければならなかった。

 逃げ切らなければ、今は、それしか彼女の期待に応える事は出来ない。

 通路の先は、城壁の外に繋がっていた。

 不法に滞在する者達で埋め尽くされたその一帯は、かつては旧市街があった場所である。崩れた泥の煉瓦の隙間から顔を出して、デリーンは方角を見定めた。

 東の森に行きたかった。

 森の民の本能が、彼女の思考をそこに向けていた。

 森に行けば、身を隠せる。それに、ベリナスと最後に一緒に居た時、彼はまだ森にいた。もう移動したかもしれないが、もしかしたら会えるかもしれない。

 彼女の容姿は、否応なしに目立った。

 膝丈に切ったとはいえ、ドレスを着た女が、このような時分に廃墟化した町を走るのは、あまりにも奇妙だ。だが、身を変えるにも、その手段も無ければ、彼女が逃げ込めるような場所も他には無い。

 一刻も早く、この場を離れるしかなかった。

 月明かりは、彼女の体を隠してはくれなかった。

 走る彼女の姿は、幾人もの目に触れた。それでも、必死に走った。

 薄汚い野営地の間を、かき分けるように道を探し、森への街道に辿り着く。

 ここから、まだ先があった。

 森との間には、平原が広がっていた。

 身を隠せる場所は、数えるほどしかない。慣れない石の道を走ったせいか、足の裏が痛み、体が鉛のように重く感じる。

 再び走り出した時、彼女は馬の嘶きを聞いた。

 馬蹄の音と、金属がぶつかり合う音が、背後から迫っている。これは、騎士の駆ける音だ。

 ここまで、来て。

 デリーンは唇をかみしめ、短剣を握りしめた。

 振り向いた先に、騎影を見とめた。絶望が、心に押し寄せた。

 追手は四騎だった。既にデリーンの姿を見つけていた。まだ距離があるにもかかわらず、剣を抜いていた。逃げ切るのは、無理だとデリーンは悟った。

 だが、ここで捕えられては、グリンガレットの想いが無駄になる。それだけは、許せない。

 ならば、最後まで戦うしかない。

 ついに、騎馬が追い付き、彼女をぐるりと取り囲んだ。

「女、無駄な抵抗だ、剣を捨てろ」

 一人が言った。

 隊長格の近衛騎士ファグネルだった。

「誰が、むざむざと」

 デリーンは、四方を囲んだ敵に視線を巡らせ、どこかに隙が無いかと、必死に探した。

 しかし、相手は多勢だった。しかも、騎馬に跨った騎士だ。彼女の短剣がいかに鋭くても、飛びかかろうものなら一太刀で切り捨てられるのは目に見えている。

「出来得る限りは捕えよと言われている。だがな、殺しても構わぬとも、言われておる。女、どうする」

 ファグネルが笑った。呼応して、周囲の騎士も笑った。

 不愉快な笑いだ。

 デリーンには迷いはなかった。

 捕らわれるという事は、また、グリンガレットの弱みを作る事になる。ならばいっそ、ここで剣を交えて、死ぬ方が良い。

「殺すなら、殺せばいい。だけど、ただじゃ死ぬもんか」

 せめて、この隊長一人だけでも道連れに、そう思った。

 短剣を構え、まさに立ち向かおうと覚悟を決める。

 その時だった。

 森の方角から、かつ、と音がした。

 ファグネルが、真っ先に気付いた。目を細め、月光に照らし出された人影を見る。

 全身を、ぼろぼろのフードで覆い、木の枝を杖がわりにして、男が立っていた。

「まずいよ、止めなって」

 囁くような声がした。

 小さな人影が、男の側から離れ、草むらに走りこむのが見えた。

 男は、かつ、かつ、と、杖の音をさせながら、ゆっくりと、騎士達に近づいてきた。

「女一人に」

 男は、かすれた声を発した。

「騎士が四人も揃って狼藉とはな」

 どこかで、聞いた声だ。

「何だ貴様は」

 男の最も近くにいた騎士が、馬首を向けた。

「流浪の民か。我らへの暴言、許せぬぞ」

 切り捨てても、誰も何も言うまい。騎士はそう考えると、、剣を掲げ、真っ直ぐに男へと切先を向けた。

 男は、歩みを止めなかった。

 剣など、眼にも入らぬようだ。杖を突く音だけが、周囲に響く。

「止まらぬか、貴様」

 騎士が、逆上したような声をあげた。威嚇していた剣を、今度は上段に振りかぶる。馬の腹を蹴り、男へと向かった。

 デリーンは目を伏せた。

 男が斬られたのかと思ったからだ。だが、男はそこに立っていた。杖がわりにした木の枝を、まるで槍をしごくかのように構え、悠然と騎士達を見ていた。

 その先で、騎士が落馬した。

 何が起きたのか、デリーンにはわからなかった。

 交差した一瞬の間に、男の杖が騎士の喉元を突いていた。

 ファグネルは目を疑った。

 神業としか思えない一撃だ。自身も槍を使うが、あの速さは只者ではない。

「おのれ、邪魔立てするか」

 左の騎士が吼えた。ファグネルも我に返った。いくら相手の腕が立とうと、所詮一人だ。それに、手にしているのは槍ではない。ただの木の枝だ。ならば、剣で薙げば折れる。

「左様、流浪の輩の分際で、我らに歯向かうなど、身の程を思い知らせてくれる」

 ファグネルもまた、声を荒げた。

 騎士達の注意が、デリーンからそがれた。その隙を見て、彼女は走った。

 慌てて追おうとするのを、男は、身を挺して塞いだ。

「貴様・・・」

 ファグネルが目を剥く。

 三人に対峙するように立って、男は左手でフードを外した。

「仔細は解らぬが、貴公らの振る舞い、騎士道に背く」

 黒い髪に精悍な眼差し。その相貌に、ファグネルは思わず呻いた。

「馬鹿な、キリアムか! わざわざ捕らわれに来たか」

 ファグネルが声をあげた。

 キリアム!?

 デリーンは咄嗟に足を止めた。振り向き、自分を守ろうとする男の背中を見つめる。

 それは、まさしくキリアムだった。まだ顔には痣も残り、よく見れば革鎧も傷だらけで、歩くのもやっと、という雰囲気だ。だが、それでも彼は堂々と立っていた。

「私は王を殺してはいない。故に、逃げも隠れもせぬ。だが、一人の騎士として、許せぬものは許せぬ」

 ファグネルを、杖の先で指した。

「ふ、その様な体で何を言うか。むしろ良い土産ができたわ」

 騎士が、キリアムを目がけて駆けた。

 キリアムは、体を半身にして杖を突いた。一分たりとも無駄のない動きで、剣刃を躱し、一人目の騎士の体を撃つ。相手の体重もかかって、杖が真二つに折れた。同時に、騎士の体が落馬した。

 キリアムの動きは早かった。落馬した相手に折れた杖先を薙ぎつけると、その剣を奪い取った。返す刀で、側面から迫っていたもう一人の相手を斬る。

 悲鳴をあげて、その男も馬から落ちた。

 何かが風を切る音がした。

 咄嗟に、キリアムは剣を上方に薙いだ。

 鈍い手応えとともに、一本の短槍が弾かれる。

 ファグネルが投げた槍だった。

「卑怯な」

 キリアムが睨みつけた先で、ファグネルは顔面を蒼白にして立ちすくんでいた。

 三人もの騎士が、たった一人に、こうまで簡単に倒されるとは。しかも、得意の投げ槍まで、あっさりと躱されてしまった。

 これは、勝ち目がないと、彼は悟った。

「く、キリアム、覚えておけ」

 ファグネルは言い捨て、城の方角へと一目散に駆け出していく。

 三人の騎士も、命までは奪われていなかった。

 呻きながら立ち上がる三人に、キリアムは、

「失せよ」

 一言だけ言った。

 騎士達は、我先にと逃げ出していった。その姿は、騎士というにはあまりに無様だった。

 その光景を、デリーンは茫然と見た。

 彼が、キリアム。

 予期せぬ邂逅に、心が震えた。同時に、ふつふつと怒りが込み上げる。

 キリアムは、サヌードに囚われてはいなかった。

 自分は、グリンガレットは、あの男に騙されていた、それが、今分かった。

 草むらから、人影が飛び出した。デリーンはその顔に見覚えがあった。

「騎士の兄さん、何をしてんだよ、見つかっちまったじゃないか」

 あれは確か。

「ビオラン。あんた、西の森のビオランだね」

 どこかで聞いた声に、ビオランは目を丸くした。

「その声は、確か、デリーンさん。だっけ」

「デリーン?」

 聞いた事のある名前だ。キリアムが、振り向いた。

 女と目が合った。始めて見る顔だ。ドレスを着ているが、おそらく街の女ではないだろう。

「あんた、キリアムだね。グリンガレットが言っていた。・・・畜生、あんたが無事だってわかってりゃ」

 彼女を意地でも連れて逃げたのに。その言葉を飲み込んだ。

「グリンガレット!、彼女を、知っているのか」

 キリアムは我を忘れ、、思わず彼女に詰め寄っていた。

「知っているさ、さっきまで一緒だったんだから」

「彼女は無事か、無事なんだな」

「無事だよ、今のところは、・・・多分」

「そうか、良かった」

 言うと、突然キリアムの体が前のめりに崩れかけた。あわてて支えると、体が熱かった。

「この騎士の兄さんさ、すごい熱なんだよ。足だって怪我しているし。それなのに、逃げりゃあいいのに街に戻るってきかなくてさ」

 こんな体で、彼は自分を助けてくれたのか。

 デリーンは彼の顔をよく見た。怪我をして腫れてはいるが、精悍で良い顔をしている。グリンガレットが「我が殿」という時、微かに見せる柔らかな表情の意味が、少しだけ解るような気がした。

「安全な所に運ばないとね、この熱は危ないよ。・・・ったく、ベリナスの旦那が、近くにいればいいんだけど」

 呟くと、キリアムが、ピクリと目を開いた。

「ベリナス。・・・ああ、ベリナス卿か」

「あんた、知っているのかい?」

 キリアムが、デリーンを見上げ、納得したように頷いた。

「そうか、森の民の娘、・・・彼が探していたのは、貴女か」

「旦那が、あたしを」

 キリアムが、微かに微笑んだ。思わず見惚れるほどの、優しい笑みだった。

「ああ、待っている。・・・行こう。多分、そう遠くない」

 杖が無くなった。それでも、彼は進もうとした。足を引きずるように、彼は前だけを見ている。デリーンとビオランは、慌てて彼に肩を貸した。



 王殿の奥、両開きの豪奢な扉を開くと、そこは女の部屋だった。

 天蓋の突いたベッドに、刺繍を施した織物を張った肘掛け椅子。敷物は、幾種類もの毛皮が組みあわされている。姿見は三面に作られ、つま先から頭まで、全てが映しだされるほどに輝いていた。

 壁面には、絵画が並び、大理石の彫刻が四隅に並べられている。

 これで、積もった埃さえ気にしなければ、驚く程に豪華な一室である。

 振り向いて、グリンガレットは皮肉めいた瞳でサヌードを見た。

「今度の牢獄は、なんとも良い趣味でございますね」

 椅子の上を指で払う。何年分の埃が宙に舞うのを気にする様子もなく、彼女はその上に、わざと勢いよく腰を下ろした。

 舞い上がった埃を吸い込んで、サヌードがせき込んだ。

「ここは、王妃の寝室ですね」

 どこか満足げに、室内を見回す。憎々しげに、サヌードは彼女を睨んだ。

「そなたは、モルガンを名乗ったのだ。今更、塔には戻せまい」

「良い、演技でしたでしょう?」

「ああ、なかなかの小芝居だったな。流石はあの女の娘か、小賢しい策を弄しおって」

「その言葉、そっくりお返しいたします。モルガンの息子殿」

 サヌードの表情が、一瞬鬼気迫るものになった。

 気にするようでもなく、グリンガレットは肘掛の埃を指でこすり取ると、ふっと吹いた。

 また、埃がサヌードの方へ飛んで、彼は顔をしかめた。

「小賢しいのはお互い様です、しかし、貴方にとっても、悪い芝居ではなかったでしょう」

 手招くように指を折る。仕草につられ、サヌードはグリンガレットに近づいた。

「貴方を王にするのなら、私がモルガンを名乗る方が、ずっと都合が良い。そうではありませんか?。どこの馬の骨とも分からぬ、モルガンの娘より」

 声が、ほんの少し艶を帯びた。唇が、薄桃色に濡れている。彼女の碧眼が、官能的にさえ見える色を浮かべて、サヌードを見つめていた。

「確かに」

 サヌードは呟いた。

「正騎士や貴族どもを説き伏せるならば、ずっと話は早い。だが、私はそなたを信じてはおらぬぞ」

「それは、何故でございます?」

「私は、そなたごときに惑わされるほど、愚かではない。モルガンを演じるのは、私の為ではなく、己の保身であろう」

 言いながら、グリンガレットの肩に触れた。白い滑らかな肌を指先が舐める。その皮膚はまるで陶器のように冷たくみえて、実は温かかった。

「流石は、サヌード卿」

 声が、微かに冷気を纏った。サヌードの指を払いのけ、上目遣いに彼を見上げる。

 グリンガレットはモルガンを名乗った。そして、自らの命に期限を設けた。

「そなたがモルガンを名乗る限り、そなたを我が妻とするは叶わぬ。なるほど、上手い逃げ道を見つけたものだ。それほどまでに、我が妻となるは嫌か」

「私は、私の伴侶となるものは私が選びます。そう言ったはず。しかし、私がモルガンになる事で、貴方に与えられるものもある」

「ほう・・」

 サヌードは目を細めた。グリンガレットの言葉をじっと待つ。

「貴方がそれを望むなら」

 グリンガレットは立ち上がった。擦り切れた靴を脱ぎ捨て、毛皮の上をすべるように歩く。

「貴方を我が子として、認めることも出来る。王位を、我が息子サヌードに与える。そう、私が言うだけで、あなたはモルガンの子、サヌードとして王になれる」

 サヌードはなるほど、と頷きつつも、

「不義の子として、永遠の汚名とともにな」

 応えると、グリンガレットは無言で微笑んだ。

「その気もない顔をして、よく言う。驚くほどに口が立つものだな」

 苦々しく、その冷たい微笑を見据える。

「そなたの誘惑に乗って、私が頷けば、我が王位は成れど人心は離れる。所詮ただの血統によってのみ選ばれし王だとな」

「貴方が王位を欲するのは、その血統が故ではありませぬか。矛盾しております」

「わが血統は、資格だ。私にはその資格がある。そして、王となるは、我が力だ」

「策を企て、人を陥れるのが力ですか」

 見下すように言って、グリンガレットは再び皮肉な笑みを浮かべた。

 サヌードの顔色が変わった。

 平手が、グリンガレットの頬を打った。

 思った以上に強く打たれて、グリンガレットは眩暈がした。

 少しだけ後悔する。最近殴られる事が増えた。デリーンは少し違うけど、オヴェウスの時といい、今回といい、自分は何故こうも相手を挑発してしまうのだろうか。そして決まって痛い思いをする。でも、相手の頭に血を上らせるのは、小気味が良い。我ながら、なんとも性格の悪い事だ。

 頬を抑えながら、それでも一歩も引かなかった。

「貴方も、オヴェウスも、結局は一緒ですね。女に手を上げるしか能が無い」

「それ以上、言わば」

 再び彼は手を上げた。また殴られるのを予感して、彼女は思わず目を閉じた。

 だが、痛みはこなかった。

 かわりに、彼女は突然、抱き寄せられた。怒りと憎しみをその瞳に閉じこめたまま、サヌードは感情の赴くままに、グリンガレットを抱きしめた。

「およしなさい!・・・やめて」

 グリンガレットは必死に叫んで抵抗した。

 爪を立て、身をよじる。押し倒されそうになると、彼女は思い切りサヌードの首筋にかみついた。

 サヌードは悲鳴を上げ、離れた。離れ際、彼の指はグリンガレットのドレスを引き裂いていた。

 首筋から血を滲ませて、サヌードは彼女を睨んだ。グリンガレットは腰から地面に倒れ込み、這うように椅子の陰に隠れた。

「それ以上、近寄らないで、舌を噛みますよ」

 グリンガレットは、肩で息をしながら言った。

 サヌードは首を抑えた。

「そなたが、例えモルガンを名乗ろうと、そなたは我が手中の珠だ。逃しはせぬぞ」

 グリンガレットに抱き付いた事を、微かに後悔していた。感情が急に制御できなくなった。彼にとっても、これまでにない事だった。サヌードは自分自身を必死に肯定するように、言葉を重ねた。

「そなたは我が王位を導き、いずれ、我が妻になる。どれほどに抗おうと、私に従う他に、道はないのだ」

 グリンガレットの声は、氷のように冷たかった。

「王位など、くれてやりましょう。だが、私が貴方に送るのは、ただそれのみです」

「私はそなたを手に入れる。必ずな」

 サヌードは、自らの手を見た。首筋の血は止まっていたが、指先が赤く濡れていた。

「貴方こそ、忘れてはなりませぬ」

 グリンガレットは、胸元を抑えながら、それでもまだ静かな怒りを込めていた。

「私が貴方に従うは、我が殿の命を守らんがため。我が肉体はここにあれど、我が心は、我が主と共にあり。彼の身にもし何かあったなら、その時は、私は貴方を殺します」

「我が殿か」

 サヌードの口が、乾いた笑いを浮かべた。

「よかろうグリンガレット。だが、我が王位の件、約束を違わば、その時は覚悟せよ。そなたも、そなたの主とやらもな」

 後ろ手に、扉を開き、そっと部屋を出る。最後まで、彼女を見つめ続けていた。

 両開きの戸が固く締まる。

 足音が遠ざかるのを感じて、グリンガレットはその場にへたりこんだ。

 身体中が痛み始めた。当面の危機は去った。だが、これからどうすればいいのか、彼女にもまだ答えは見えていなかった。



 焚火の炎が、時折黒い煙を吐いた。

 生木をくべたのだろう、鼻がむず痒くなるような臭いが立ち込めている。

 騎士崩れと思われる男から、熱い豆入りの皿を受け取り、一口含んで、

「・・・不味い」

 ぽつりと、ビオランはこぼした。

 男が、ビオランの顔を覗き込んだ。仲間内ではカリと呼ばれている。中年で風采は良くないが、こうみえてベリナスの信頼も厚い元騎士の一人だ。

「そう言うなよ、これでもましな方だ」

 言って、火にかけた鍋をかき混ぜる。

「マイルス、お前も食うか」

 側に立っていた鼻の潰れた騎士は、首を横に振った。

「そうか、人気がねえな」

 カリが仕方なさげに手を離そうとしたところへ、

「俺はいただくぜ」

 背後から、ベリナスが声をかけた。

 ベリナスは、野営のテントの入り口を慎重に閉じ、頬を擦りながらビオランの隣に腰を下ろした。

「騎士の兄さんは?」

 ビオランが顔を上げて訊いた。

「気を失った。よく、ここまでもったもんだ・・・て痛え」

 スープを口に含み、口中の傷に染みたのか、顔を顰める。

 カリが、そんな彼を見て、にやにやと笑った。

「姐さんにやられたね。今度は何を言ったんだ」

「うるせえ」

 不機嫌そうに答えて、ベリナスは一気にスープを流し込んだ。

 ・・・まったく、俺はいつもこうだ。

 デリーンが戻った。本当はどうしようもない程嬉しかった筈なのに、ベリナスは彼女を見るなり、

「・・・また、似合わねえ服を着ているな」

 と、言った。

 殴られたのは、当然だ。自分が悪い。悪いのは解っているが、そんな皮肉しか出ない自分が恨めしい。

 遠くから、馬の嘶きや足音が響いていた。先程よりも、大分数も増えている。キリアムを探しているのだ。そのうちに、この辺にもやってくるだろう。

「いずれにしても、長くは隠せんな。どこか、人目につかねえところに運ばんと」

 ビオランに向かって言った。以前見た時よりも、怖くないと、ビオランは不思議に思った。

「そうは言ってもね、遠くには運べないよ」

 いつの間にか、デリーンが立っていた。

 ビオランは驚いて振り向いた。ベリナスは平然としていた。微かな気配で気付いていたものらしい。

「着替えたのか」

「ええ、ちっとはマシになったでしょうよ」

 嫌味をこめて言うと、デリーンは小さく舌を出した。

 茶色のチュニックと、馬乗用の下衣は男の物だ。灰色の帯を二重に腰に巻き、短剣をさしている。背には、矢筒とともに、長弓を掛けていた。

 髪を高く結い上げ、唇には薄く朱をさしたせいか、先ほどまでとは大分印象が変わっている。この姿では、城から逃げた女とは分からないだろう。

「大変な目にあったみたいだな」

「まあね」

 彼女は言いながら、右手の小指につけた白銀の指輪を触った。見たことの無い指輪だ。彼女がそういった装飾品をつける姿を、ベリナスは初めて見た。

 デリーンは、二人と向かい合う形で座った。カリがすすめるスープを丁寧に断って、ビオランを見る。表情がふっと和らいだ。

「ありがとうね、あんたのおかげだよ。グリンガレットにかわって、礼を言うよ」

「グリンガレットって、姫様の名前だね」

「あら、あんたも姫様って呼ぶんだね」

「そりゃそうさ、だって、どうみてもお姫様だろ」

「そうだね、お姫様だ」

 デリーンが頷くと、ビオランは無邪気に顔を輝かせた。

「姫様は、無事なのかい?」

「ああ、多分ね。あの子はああ見えて強いから、心配はいらない」

 そう思いたくて、彼女は言い切った。

「だと良いがな」

 ベリナスがぽつりと呟く。

「あんたねえ」

「っと、すまん。つい」

 デリーンに再び殴られそうになって、慌ててベリナスは両手を上げた。

「大将はいつも一言多いんだよ。姉御にかまってほしいんだとさ」

 カリが笑いながら茶化した。デリーンが睨むと、あわてて彼も口をつぐむ。

「冗談ばかりも言っちゃおれんぜ」

 ベリナスが真顔になった。

「この野営地なんざ、すぐに目を付けられる。どこか、せめてキリアムとお前だけでも、身を隠せる場所を見つけんとな」

「あたしもかい?」

「ったりまえだろうが。一応は追われる身だぞ」

 困ったように頭を掻いて、カリと、マイルスという騎士崩れに顔を向ける。二人は肩をすくめて見せただけだった。

「今夜が勝負だ。明日になっちゃあ、手配が回る。他の野営の連中が眠っているうちに動かさないと。くそ、何処かいい場所は無えかな」

 ベリナスは爪をかんだ。珍しく焦っている様子に見えた。

 突然、ビオランが思い出したように声をあげた。

「もしかしたら、・・・大丈夫っては言えないけど、もしかしたらあそこなら、匿ってまらえるかもしれない」

 ベリナスは驚いて森の民の少年を見た。

 ビオランは彼を見返すと、自信なさげではあったが、大きく頷いた。



 城は、混乱に包まれていた。

 前王妃が、モルガンが戻った。それも、若かりし日の姿で。

 噂は瞬く間に流れ、夜だというのに正騎士や貴族が王殿につめかけていた。

 三の城壁を閉めて、アブハスは対応に追われていた。

 彼自身、寝耳に水だった。サヌードに事情を問い合わせたが、曖昧な回答しか来なかった。彼は確かに「モルガンの娘」を見つけたとは言った。だが、モルガン自身を見つけたとは、一言も言ってはいなかった。

 明日の会議で、事情を説明する事を約束して、アブハスは押し寄せた人々を追い払った。一旦、片が付くと、王殿へ取って返しサヌードを探す。だが、サヌードはどこかへと姿を隠してしまっていた。

 かわりに、王の従順な召使であるケルンナッハが、いつにもまして恭しく彼を迎えた。

「この有事に、サヌード卿の姿が見えぬとは、何事か」

「サヌード卿は、王妃の警護に当たられております。誰も入れるなとの、ご命令にございます」

「何を言うか、儂は別だ。サヌードの命令など、無視してかまわぬ」

「それは、出来かねまする」

「何故、儂の命が聞けぬ?」

 ケルンナッハは顔を上げ、白眉の下の窪んだ眼に、静かな翳を浮かべた。

「これは、サヌード卿の命令ではありませぬ。モルガン様の意志にございます」

「なんと・・・」

 アブハスは、唇をわななかせた。

 彼が仕えるよりもずっと長く、この城と共に生きてきたケルンナッハが、そうと認めている。これは、言葉よりも重みがあった。

「では、真なのか」

「妃殿下のお姿、このケルンナッハ、一度たりと忘れた事はございませぬ」

 はっきりと、彼は言った。

 アブハスは、それ以上話しても、今は無駄だと悟った。

「明日の朝には、サヌード卿も一度、王殿をお出になりましょう。その時に」

「うむ、ならば、政殿で待つと、お伝え願おう」

 ケルンナッハは頷いた。

 動転する心を抑えながら、アブハスは戻るしかなかった。



 サヌードの姿が消えてから、グリンガレットは身につけるものを探した。

 引き裂かれた青いドレスは、自分を惨めな思いにさせる。衣装棚には古い衣服が沢山残されていた。どれも華美で、贅沢な品だった。その上、煽情的なものが多かった。流石に憚られて他を探すと、引き出しの下に、より古いものを見つけた。

 絹糸で織られたような、滑らかな生地のドレスだった。純白というよりは、少し銀色がかった白地で、裾のあたりには薔薇を模した刺繍が飾っている。腰元がふんわりと膨らんで、可愛らしかった。

 更に棚を探って、服に見合う白地の皮靴と、肩にかけるケープを見つけた。これで王冠でも見つければ、まさに王女といった風体になるだろうが、自嘲気味に笑って彼女は止めた。

 馬鹿げている。

 思いながら、大きな姿見の前に立った。

 そういえば、塔の部屋にも鏡があった。鏡とは貴重なものだ。それなのに、この城には幾つも飾っている。

 やはり、女城主の城であったからだろうか。

 姿見の中には、若き日のモルガンがそこに居た。

 その眼も、唇も、肌も、髪も、彼女であって彼女ではない。

 鏡の中の自分が、嘲るように自分を見つめていた。

 突然、軽い眩暈がした。

 かと思うと、彼女は自らと向かい合っている事に気付いた。

 自ら? いや、違う、これはモルガンだ。

 眼前に立つ、鏡の中のモルガンが、語りかけた。

 ・・・何故、サヌードを拒絶したの?

 そう彼女は言っていた。

 ・・・サヌードを受け入れ、彼を籠絡すれば良かったのに。そうすれば、全ては上手く事が運ぶわ。

 それは、彼女の言葉なのか、単なる幻想にすぎないのか、確かに彼女はその声を聴いた。

 ・・・貴女の目的は、緑の革帯。サヌードを手なずけ、オヴェウスから革帯を奪わせてしまえばいい。それが一番の近道でしょう。

 邪悪な心が、まるでたわいもない悪戯をささやくように、語りかける。

 ・・・悩んでいるのね?

 優しく、そっと手が伸びた。

 ・・・革帯さえ手に入れてしまえば、あとは好きにできる。サヌードなんていらなくなる。殺してしまえばどう? 革帯は、・・・そうね、キリアムに捧げてしまいなさい。そうすれば貴女は望み通り、彼の僕となり、二人で永遠を手に入れられる。

 モルガンは笑った。

 ・・・だって貴女は、私としての運命を、・・・私の名を、選ぶのでしょう?。

 彼女の微笑みは、極上の葡萄酒のように甘い香りを湛えていた。

「それは、違います」

 グリンガレットは、冷たい目で彼女を否定した。

「私はまだ、貴女を選んだのではありません」

 鏡に向かって、話しかけた。。

 ・・・だけど、もう既に、名乗ってしまったわ。それは、変えられない。

「たとえ、そうであろうと、私の心は、それを認めていない」

 ・・・愚かな選択よ。それが分からない?

「これより先、私が貴女の名を名乗ろうと、あの御方の名を名乗ろうとも、私は貴女たちとは違う。私は、もはや私なのです」

 それは、決意だった。

 グァルヒメイン卿が、彼女に与えたこの名にかけて。もはや間違いは繰り返さない。

 モルガンは、冷ややかに彼女を見つめた。

 ・・・純潔を守るの? エレイン?

 それがいかに愚かしい事かを、彼女は責めていた。

 ・・・貴女が清純であることを望めば望むほど、緑の革帯の呪いは増す。貴女の心の価値が高まれば高まる程、人はそれを汚すために欲望を募らせるのよ。貴女は、永遠にその輪から、抜け出せはしないわ。

「私をその名前で呼ぶなモルガン!」

 グリンガレットは叫んでいた。

 それは私の名ではない。

 ・・・じゃあ、貴女は誰なの。貴女は、私? それとも、彼女の方?

 モルガンは、なおも笑った。

 ・・・それとも、只の人形?

 違う。

 違う。違う。違う!

 ・・・・・・・あんたは人間だグリンガレット・・・・・・

 この声は、デリーン!

 グリンガレットは叫んだ。

「私はグリンガレット。貴女達が生み出した、不毛なるその因縁を、断ち切るためにここに居るのだ!」

 荒い息を吐き、両肩を震わせて、彼女は拳を握りしめる。

「その為に、・・・こうして生きながらえてきたんだ! 貴女たちが見捨てた、このブリトンの地に」

 グリンガレットは、側にあった燭台をつかみ上げ、鏡に投げつけた。

 鏡が割れ、破片が四方にはじけ飛んだ。

 怒りを帯びた眼差しは、モルガンの幻影を払いのけていた。そこに残ったのは、確かな彼女の眼差しだった。

 額の傷が痛みだした。この痛みを思い出したのは、いつぶりの事だろう。

 そして、気付いた。

 何故か、心が軽くなっている。何かの呪縛から、放たれたようだ。

 呪縛!そうか、呪縛か。

 グリンガレットは、あの隠し部屋で指輪をつけ、鏡に映った自分をモルガンと感じたことを思い出した。

 あれは、呪縛だったのだ。

 飛び散った鏡の破片を探す、すると、見つけた。

 ドルイドの呪法の跡だ。この鏡には、非常に弱い魔法が駆けてある。それは、モルガン王妃の思念のようなものだ。

 おそらく隠し部屋の鏡にも、もしかしたらあの塔の鏡にも、同じような呪法が施されていたのかもしれない。だが、何のために。

 少し思案して、グリンガレットは思い当たった。

 これ自体は、決して悪意のある呪法ではない。むしろ、本来であれば、この鏡を使うものを、保護するようなものだ。ただ、その相手が私であったため、彼女の力と私の心とが、同化してしまったのだ。同じ力同士が交じり合う、ここにも同じ法則が生まれていた。

 きっと彼女は、失った本当の娘が、いつの日かこの城に戻る日のために、これらの鏡を残したのかもしれない。そう思うと、割ってしまった事が、少しだけ申し訳なくなった。

 片付ける気にもなれず、姿見の残骸に背を向ける。すると、決して大きくはない木の扉が壁面にあるのに気付いた。どうやら雨戸になっているようだった。

 試しに力を込めるてみた。意外にも簡単に開いた。小さな中庭に繋がっていたが、その先には高い塀があって、さすがに登れそうにはなかった。

 ふと、闇の中に、月明かりに浮かぶ塔の先端が目に入った。西の塔だ。かなり、近い。

 気持ちが落ち着いていくと同時に、琴の音が聞こえ始めた。だが、以前ほどは、心を乱されることは無くなっていた。

 この琴の音は、そのままにはしておけない。

 もし、自分に新たな選択肢が残されず、サヌードを王に選ばなければならないとしても、この琴が生む魔法を止めることが出来たなら、最悪の事態を少しでも防げるかもしれない。

 グリンガレットは、夜空を見上げた。

 月はまだ、煌々と輝いていた。


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