(後編)【最終章】本物の愛
1 決心
連日、美沙子の病室を訪れた。日を重ねるうちに悟った。恐ろしい事実を受け入れなければならないことを。
美沙子は渾身の力で病と闘っていたが、回復する様子はなかった。それどころか、徐々にかわいそうなくらい弱っていく。
抱きしめてあげたいが、抱えようとすると苦痛を訴えるのだ。
俺は有沙さんを病室の外に連れ出して、もう待てないとばかりに詰め寄った。
「実は……母は……母は、余命1か月なんです」
目の前が真っ暗になった。その場に立ちすくんだ。と同時に、有沙さんに突っかかっていた。
「どうして今まで俺に黙ってたんだよ!」
彼女の両腕をがっしと掴んで揺さぶった。
「よ、よしてください、三田村さん」
「あ、失礼、つい」
「いえ」
あまりの衝撃で正気ではいられなかったのだ。
「母は、三田村さんには知らせないようにと。わかってあげてください」
「声を荒らげてすみませんでした。気づかなかった俺が悪いんです。有沙さんもさぞつらかったでしょう」
「今だから言いますけど、母は三田村さんのことばっかり言ってたんですよ。『私がいなくなったら哲、悲しむかなあ、心配だなあ、哲と幸せになりたかったなあ』なんて、あなたのことばっかり。私、あなたに嫉妬しましたよ。家族よりも三田村さんのことばっか口にするから。一時は恨みもしましたしね。あなたは仕事だか新しいカノジョだかにぞっこんみたいでしたし」
「新しいカノジョ?」
「はい、母からそう聞きました」
(やはり、尾崎さんとのこと気にしていたんだ)
「それは誤解です」
「今となってはどうでもいいですけど。それより今お話ししたことは母には言わないでください」
尾崎さんとの仲を疑われたことなど、もはや眼中になかった。1か月、1か月、それだけが脳裏をグルグルと駆け巡っていた。
そして、俺はある決心をした。
2 縮図
キウイジュースが飲みたいと所望したら、有沙が絞ってきてくれた。一口含んでは喉に流し込む。何だかいつもより気分がいい。
哲はあの日から毎日のように見舞いに来てくれる。それを心待ちにしている日課であった。
「美沙子いる?」
いないわけないのに、もじもじと病室に入ってきた。
「どうしたの?」
「お願いがあるんだけどいいかな」
「何? 今の私じゃ無理でしょ」
「手を出して」
「手? やだわ、しわしわで」
「ホントだね」
「哲ったら」
私の手のひらをしげしげと見つめると彼は、右ポケットから小箱を取り出し、開けてかざした。
「じゃじゃーん、美沙子さん、結婚してください」
(えっ、何が起こってるの?)
小さく頭を下げていた彼が少しずつ顔を上げながら、私の顔を覗き込む。
「お嬢さん、お返事は?」
「これって……だめよ」
そう言うが早いか、彼が私の唇を人差し指で押さえた。
「ノーとは言わせないからね」
私の左手を引き寄せ、薬指に指輪をはめた。
「俺にも入れてくれる?」
言われるがまま、差し出された指輪を彼の薬指へ。
「遅くなってごめんね」
「哲……」
「幸せになろう」
「哲……」
返す言葉が見つからない。
「それと、これも」
差し出したのは婚姻届だった。
「俺はもう書いているからね。3度目の正直だよ」
「哲……」
「何だよ、さっきから俺の名前ばっか」
鼓動が高鳴るのを自覚した。
「美沙子、さあ書いて。今日から大野美佐子でなくて三田村美沙子だよ。あれ、『み』ばっかだね」
私は首を小さく横に振った。
「これ以上あなたの戸籍を汚せない」
「そんなこと気にしなくていいよ。戸籍は俺の人生の縮図なんだから。イヤな過去も幸せもここに凝縮されてる。けど、すべて受け入れてくれるよね」
しばらくの沈黙のあと、私はそろそろと起き上がり、哲に見守られる中、サインをした。
離婚を生業としてきた私が、この期に及んで結婚とは。しかも20歳も年下の男性と。余命いくばくもない私なのに。
きっと彼は私の余命を耳にしたのだろう。それでもこれほどうれしいことはない。できるならもっと生きたい。彼と別れたくない。心を押し殺した生活は、ほとほとうんざりだ。これからは彼に甘えて生きていこう。あとわずかだけれど。
「よろしくお願いします」
絞り出した声は、声にならないくらい、か細いものだったが、哲にはちゃんと届いていた。
「何だよう、美沙子、改まって。長い間待たせてごめん。ずっといっしょにいようね」
私の手を、包み込むように握り続けてくれる哲。
「哲の幼いころの話を聞かせて」
そうせがむと、彼は拒むどころか、過去の出来事を一つひとつ回想しながら語り始めた。ときにははにかむような笑みを浮かべ、ときには思いつめたように目を潤ませる。そんな彼の姿は、心を解放し、すべてを許し、運命を受け入れたように映った。
私は、今の今になってやっと飲み込めた、哲が哲である理由が。彼の心の奥にじわりじわりと潜り込んでいくにつれ、本当の意味でひとつになれた気がした。
3 絆
余命を知ってから1か月と10日後に、彼女は旅立った。小雪舞い散る凍えそうな日。雪の結晶のごとくキラキラとはかなくこの世を去っていった。
なぜか悲しくなかった。夫として葬儀に参列し、冷ややかな視線を浴びたけれど、とてつもなく誇らしかった。二人はすでに強い絆で結ばれていたからだ。
美沙子はかつて目にしたことのないほど美しく、かつ、厳かに横たわっていた。その肖像は俺の心の真中に深く深く刻み込まれたのである。
最後のお別れ。そっと彼女の体を抱え込む。冷たいはずなのに、温かさが伝わってくるようだ。静かに髪をなでる。二度と息を吹き返さないとはとても思えなかった。
さようなら――
さようなら、美沙子――
さようなら、俺だけの、俺だけの美沙子――
ありがとう――
今際の際まで愛する人に寄り添える幸せを、ひしと噛み締めた。
数日後、美沙子が亡くなる直前に初めて会った長女の亜美さんから連絡があった。
「母の形見分けをするんですが、三田村さんも参加していただけます?」
「いえ、僕は美沙子さんとの思い出さえあれば十分です。あ、ただ、結婚指輪はいただいていいですか。彼女を永遠に感じていたいからです」
翌日、美沙子がはめていた結婚指輪を受け取った。来る日も来る日もうれしそうに左指を眺めていた美沙子。可愛らしくて女性らしい表情が思い浮かぶ。あの1か月あまり、本当に幸せだったんだろう。優しい眼差しがよみがえってくる。
「三田村さん、これ」
有沙さんが1枚の写真を持ってきた。
「あ、これは……」
出逢ったころに撮影した写真。俺が公園に連れ出したときの貴重な写真。
(懐かしいな。美沙子、プリントアウトして持ってたんだ)
何気なく裏返してみる。瞬時に体中が震えた。
(アイシテル サトシ)
現れたのは、美沙子直筆の文字だ。
あ、ああ――
涙があふれてきた。
ああ、ああ――
美沙子がいなくなったことを実感した瞬間だった。
ああ、ああ――
へなへなと床に座り込んでしまった。
「三田村さん、大丈夫ですか!」
亜美さんと有沙さんが歩み寄って声をかけてくれたが、言葉にならない。大の男が人前でむせび泣いている。とんでもなく滑稽に映っただろう。しかし、むき出しになった心を諫めることはできなかった。
(美沙子もこの写真を大切にしていたんだ。俺の成長を見届ける一方で、自身の想いはここにとどめていたんだな)
そう確信すると、彼女に会いたくてたまらなくなった。会えるわけないのに。何て浅はかだったんだ。
俺は、この先二度と恋愛はしないだろう。十分すぎる愛を美沙子からもらった。ほかに何もいらない。
4 宝物
(アイシテル、ミサコ)
美沙子の言葉に呼応するように、心が切なく叫び続ける。
頬に触れたい――
髪を撫でたい――
瞳の奥を覗きたい――
まるで氷片が刺さったかのように、心の傷跡がズキズキとうずいている。美沙子がいなくなった悲しみで? それは言うまでもないが、それだけじゃない。死に直面していたにもかかわらず、それに気づけなかった俺自身の不甲斐なさに憤怒してもいるのだ。
俺の最大の欠点である優柔不断。それに加えてこの鈍感さ。いや、普段の俺はこんな鈍感じゃない。きっと美沙子を大切に思うがあまり、宝物みたく鍵をかけ、誰の目にも触れない秘めたる場所に置いてきたせいだろう。
そんな俺をちっとも責めない彼女に、俺は甘えていたんだ。美沙子と俺は心がつながっている、そう安心し切っていたからだ。俺の心が多少ぐらぐらしたって彼女はそんなの許す以前の包容力で、俺をちっとも縛ろうとせず、自由にしてくれた。それが俺に対する愛情だったと思うと、さらに涙を誘う。
今一度、俺の前に現れて声を聞かせてほしい。「サトシ!」と声をかけてほしい。俺の帰りを待っていてほしい。
俺は美沙子が好きだ。本当にいなくなってしまったとは信じがたい。いつでもあの場所に帰ればそこにいて、優しく包んでくれる。その度に胸が高まる。抱きしめたくなる。
時折、眠っていても突然目が覚めることがある。心がさすらい、迷子になる。手を伸ばしたところで、こんな俺に温かいまなざしを向けてくれる人はもういないのだ。
これからだった。本店勤務での経験を積んで、大人の美沙子に近づきたかった。二人きりのささやかな幸せを見つけていきたかった。時間を巻き戻せるなら過去に戻りたい。
こんなに後悔したのは生まれて初めてだ。どんな苦い過去も攻撃することなく受け入れるから、どうか美沙子を生き返らせてほしい。どんな過去にもひるまない、怯えない、恨まない、だから美沙子を俺に返してください。
目に焼きついた面影を頼りに生きていけるほど、頑丈ではないようだ。現実を受け入れる器の小さい俺。
愛する人を失った悲しみに明け暮れた人は、この世にどれくらいいるのだろう。何をきっかけに深い悲しみから抜け出せたのだろうか。
心、心、心。
心ってやつはこんなにもひ弱でつぶれやすいものなのか。体の一部でありながら、思いどおりに操れない。人生は悲喜こもごもというが、今はどんな喜びも悲しみで塗り替えられてしまう。切りつけられるようなこの心の痛みが癒されるのには、どれほどの時間が必要なのか。
俺は自身に呼びかける。
「おい、三田村哲。泣いてもいいか?」
「思いっきり泣けばいいよ」
ドキリとした。応えてきたのは美沙子だ。
「美沙子、ごめん。意気地なしだろ俺」
「ううん、心に忠実に生きて」
柔和な笑みを投げかけて、彼女はひっそりと姿を消した。
5 償い
日常が始まった。俺はARTを退職することにした。本店で働けたことは名誉でもあり、誇りでもあった。やめるとなると心残りを感じるかと思っていたが、案外と清々しい。俺の営業手腕を買ってくれて、やめないでほしいと引き留めてくれる同僚や上司。ありがたいが決意は変わらない。
俺は、美沙子の意思を引き継ぎ、相談室を再開する。俺には似つかわしくないかもしれないが、離婚相談に加え、心のケアを必要とする方のために心理カウンセラーの資格を取得し、その支援をしようと決めたのである。
思い返せば、ART自動車に勤務していた期間、多くのお客さまに可愛がってもらった。俺みたいな粗忽なヤツを信用し、他社への乗り換えもせず家族ぐるみで購入してくださった方が大勢いらっしゃった。御用聞きにうかがうと、家族の話などプライベートを気さくに話してくれたし、意見を求められたりもした。年配の方は子どものように接してくれた。どれも懐かしく貴重な体験だ。
「みなさん、お世話になりました」
「三田村くん」
「原田課長にはご迷惑やご心配をたくさんおかけしました。退職しても、ART以外の車には乗りませんから、また営業に来てください」
「わかった、新車の営業に行くからな、待っとけよ」
課長は俺の肩を二度ポンポンと叩いて、大きくうなずいた。口元は笑っていたが、目はとても寂しそうだった。
「三田村さん!」
「尾崎さん。あなたにもとてもお世話になりました。二課の華として今後とも盛り上げていってくださいね」
「三田村さんったら」
今にも泣きべそをかきそうな表情だ。
「おっと、泣かないでくださいよ。永遠の別れじゃないんですからね」
事務の女性から花束をいただいた。
「柄じゃないよな、そう思いません?」
「三田村さん、どうかお元気で」
一人ひとりと握手して、営業二課を後にした。拍手が徐々に小さくなっていく。エレベーターに乗り、1階へ。エントランスまで送ってくれたのは、尾崎さんひとりだった。
「ここでいいよ。課に戻って」
「三田村さん、本当に、本当にありがとうございました」
そう言って深々と頭を下げる。自動ドアが開き、外に出ていくまで彼女は頭を下げ続けた。
多くの人たちが俺を大人にしてくれた。本店のメンバー、友人たち、家族。そして何といっても美沙子の存在はことのほか大きい。今の俺があるのは美沙子のおかげだ。美沙子が今の俺を作ったといっても過言ではない。
人はひとりでは生きられないってことを、ここに来て痛感している。二人なら、極寒の地で薄氷を踏みしめる勇気だってもてる。だがこれからは、ひとりで進んでいかなくちゃならない。
けれど、美沙子とともに歩んでいると感じていたい。美沙子の意思を引き継ぐ理由は、彼女をそばに感じ続けたいだけでなく、俺としての償いでもあるのだ。
さようなら、美しい思い出たち。俺はけじめをつけて、人生をやり直す。見ててくれ、美沙子。
薄氷の割れ目から狂い咲きの花一輪。あんな冷たい場所に根を下ろしながらも、力強く生きている。煌びやかに、艶やかに、そしてたくましく。俺も決めた目標に向かって揺るぎなく進もう、そう固く誓った。
6 初冬
1年後。
薄氷が覆い始める冬の始まりに、「カウンセリングルームひだまり」をオープンした。どんな季節であろうとも、ここだけは暖かい場所にしたい、そう願って名づけたのだ。
カーテン越しに差し込む日差しが、ハンガーラックに掛けられた瑠璃色のジャケットを、より鮮やかに輝かせている。
「おめでとう、お父さん!」
一番乗りでやってきてくれたのは、有沙さんだった。大きな胡蝶蘭の鉢植えに、顔半分が隠れていた。
「お父さんはやめてくれよ」
「ふふ」
「あ、その笑い方、お母さんにそっくりだね」
「そう? 母さんを思い出す?」
「そうだね。美沙子の笑い声は頭から離れないよ」
「母さんのこと、ホントに愛してたんだね」
「もちろんだよ」
「あんなに歳の差があったのに」
「年齢なんて関係ないよ。有沙ちゃんも、本気で誰かを愛したらわかるよ」
「本気で……」
突如、インターホンが鳴った。
「おーい、テツ、いるのか?」
潤と力也だ。出迎える間もなく、揃って気ぜわしく入ってくる。
「おう、来てくれたのか」
「当り前じゃないか」
粉雪が舞っていたのか、潤の肩にうっすらと雪解けのあとが見えた。
「ほい、これ」
「おっ、サンキュー、潤!」
俺好みの紅茶のセットだ。受け取ろうとしたとき、潤が有沙さんに気づいた。
「あ、えーと、有沙さん? でしたっけ?」
「は、はい」
「有沙さん、親友の潤、で、こっちは力也」
「初めまして」
「あ、初めまして」
「私の名前、ご存じでしたのね」
「ああ、テツから何度も聞いていたからね」
「あ、テツ、これも」
「頼んでいた万年筆、見つかったのか?!」
「そりゃ、ほかでもないテツの頼みなんだからな。どんな手を使っても探し出すさ」
「コップジャイジャ! この万年筆で仕事したかったんだ」
「出た! タイかぶれ! ってか、今の時代パソコンがあるから、文字を書くことなんかないんじゃないのか」
「それがさ、相談室のデスクから手書きのはがきや手紙がたくさん出てきたんだ。美沙子、クライアントとこうやってやり取りしてきたんだな、というのがわかってさ」
「そうか、美沙子さんの思いを引き継いだんだもんな」
「おー、書きやすい、書きやすい」
ターコイズブルーをふんだんに使ったマーブル模様の万年筆。みずみずしく気品のあるデザインがすぐに気に入った。俺はコピー用紙を1枚取り出し、くるくると試し書きをしたあと、『三田村哲』と丁寧にしたためた。
「なかなかカウンセリングルームって感じに仕上がったじゃないか」
力也は相変わらず忙しなく、うろうろと部屋中を見回している。
「あっ、この写真」
「そう、美沙子と俺」
「いつの写真?」
「出逢って3か月くらいかな。俺、まだ子どもだよな」
「今も子どもだけどな」
「リッキーには言われたかないな」
「ははは、俺もカウンセリング受けてみようかな」
「俺の?」
「あったり前じゃないか。ほかに誰がいるんだよ」
「そりゃそうだよな、ははは」
「有沙さん、うるさいやつらだろ。勘弁してくださいね」
「いえ、私、賑やかなの大好きですから」
「有沙さん、今度、いっしょに飲みに行きません?」
「おい、リッキー!」
俺は周りの人間に恵まれている、心からそう思う。
本格的な冬が始まろうとしている。この時期になると、美沙子への想いが一段と高まる。
7 薄氷
俺は踏みしめた。薄氷を力強く。これは夢ではない。俺の勇気でもあり決断でもある。
俺にとって薄氷とは何だったのか。
脆いはずの薄氷。しかし、意外と堅固でちょっとやそっとじゃ壊れなかった。脆いと思い込んでいただけだったのだ。
お互いに相手を気づかうがあまり、知らず知らずのうちに作っていた「遠慮」という心の隙間、それこそが薄氷だったのではないだろうか。二人の年齢差を卑屈に感じ、それがこの隙間を作っていたのだと思う。本当は厚くて割れることのない氷が一面に広がっていたのに。一歩踏み込むと放たれるパキッというかすかな音に怯え、小さなヒビが入るような予感を怖がっていたんだ、美沙子も俺も。俺たちは間違いなく似た者同士だった。
美沙子の命は尽きてしまった。けれど俺は美沙子を忘れない。いつまでも生きているのだ、永遠の妻として。
俺はそのうちあなたの年齢に追いつくだろう。その日まで俺に向かって微笑んでいてほしい。そしてあなたの年齢に達したとき、こうつぶやいてほしい。
「お疲れさま」
「誰よりも愛している」
その日まで、俺もあなたをひたすら愛し続ける。
見上げると桜色の空。あなたのように温かく柔らかく俺を包み込む。冬が始まったばかりだというのに、こんなにも優しく穏やかなたたずまい。
大きく深呼吸して、新たなクライアントを待つ。
「本日はどのようなご相談でしょうか?」
美沙子が守ってくれている、この相談室。おかげで今日も、予約はいっぱいである。
(後編)【あとがき】
愛とはいったい何なのか。
執筆を進めていく過程で私は、この疑問に何度も遭遇した。そしてひとつの結論に達した。それは、「『愛とは何か』と考えるものではない」と。
愛するのは心なのである。科学的には脳が操作しているともいえるが、私は心がそうさせていると考える。
理由も根拠も必要ない、人を愛するには。進みゆく時間を共有し、そこから生まれるお互いの心。相手をとおして自分という存在が浮き彫りになり、言葉を発さなくても無垢の心が通じ合う。そういうものなのだ。
二人が歩む道には、さまざまな人間関係と困難が待ち構える。自分の心と他者の心、それを重ね合わせるのは怖いものである。なぜなら、人は愚かなものだからだ。何が正しくて何が間違っているか、正解はない。だから戸惑い、ときに想定外の道を行く。
ただ、人を愛する心に嘘はつけない。被おうとすればするほど、むき出しの心が容赦なく現れる。不意に涙がこぼれ、心が揺さぶられる。どうすればよいのかわからなくなり、制御できない。狂おしい。それでも愛さずにはいられない。
そうしてこの苦悶を通り越したとき、二人だけの境地にたどり着けるのである。
人として生まれた以上、人を全うしなければならない。その経路には、あらゆる感情がうごめく。それは必ずしもプラスの感情でなくマイナスの感情もあるだろう。愛イコール素晴らしいものではなく、愛という感情があるがゆえに、嫉妬や独占欲が生まれるのだ。
とはいえ、私は愛を肯定する。愛するからこそ、愛されるからこそ、人は存在できるからである。
美沙子と哲の結末は、意外であっただろうか。想定内だった方もそうでなかった方も、これが小説に接するきっかけになってくれれば、この上なくうれしい。
小説は、感情移入することで登場人物の心に触れ、その感情を共感することができる。また、なぜそのような行動を起こし、そのような思いに至ったのか、想像することができる。この想像力や推察力が、今後の他者とのコミュニケーションを図るのに大いに役立つのである。
私の作品が読者に対してどれほどの影響を与えるかは、まったくもって未知数だが、自己の周りに存在する「愛」に気づく一助になってくれれば、著者としては申し分がないところである。