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薄氷(うすらい)の彼方  作者: 社れいら
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(後編)【第3章】砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)

 1 意識


 何だか意識してしまって、困ったものだ。


「三田村、営業に出ます」


 とっとと外回りを行うことにした。


(今晩は、尾崎さんの休暇で延期になっていた歓迎会だ。早めに社に戻ってこなければ)


「尾崎も営業に出ます」


 尾崎さんが椅子に掛けていた黒のジャケットとトートバッグをつかんで、俺の真後ろをついてきた。


「よっ、名コンビ!」


 二課の仲間に茶化され、彼女の顔がほころんだ。


 営業室を出てエレベーターの前で待っていると、尾崎さんが話しかけてくる。


「三田村さん、今晩楽しみですね」


 俺の右腕をソフトにつかんだ。


「ああ、歓迎会」


 よそよそしく彼女の腕を払い、素早くエレベーターに乗り込む。階下まで、だんまりを決め込んだ。


「今日は自転車で向かうよ」


「じゃあ、私も!」


 駐輪場までちょこちょこと小走りでついてくる。尾崎さんが自転車に搭乗するのをなぜか待っている俺。そのあとも後ろをついて走ってくるものだから、背後が気になって仕方ない。


「まずは菊池様のお宅、それから周辺の営業に行くよ」


「はい!」


 菊池さんは、本店赴任直後に一度挨拶に訪れたお宅で、二度目の訪問となる。タワーマンションの10階にお住まいの40前の女性で、ご主人と10歳くらいの娘さんの3人暮らしだ。娘さんを小学校に送り出した後は、自宅でフラワーアレンジメント教室の講師をされているが、毎日ではない。


(今日は休講の日だから、いらっしゃると思うけど)


 エントランスのインターホンを押すと、即座に返答があった。


ART(アート)自動車の三田村です」


「あ、はい、どうぞ。今開けますね」


 エントランスのドアが開いた。10階までエレベーターで上がる。


「この瞬間、好きなんですよね、私。お客様に会える直前。何だかワクワクしちゃう」


「根っからの営業好きですね、尾崎さんは」


「あ、表情が緩みましたね。三田村さんだって同じってことですね」


(ダメだダメだ、尾崎さんに主導権を握られている)


 エレベーターの扉が開いた。


「さあ、行くよ」


「はい!」


「菊池様、こんにちは、三田村です」


「あら、その方は?」


「同じくART自動車の尾崎です」


 尾崎さんは首から提げている社員証を菊池さんに向けた。


「どうぞ、お入りになって」


 誘導されるままリビングに入る。


「尾崎さんは初めてですよね。新人さん?」


「営業経験は僕のほうが若干長いですが、本店では僕の先輩なんです」


 彼女を差し置いて、先に返答してしまった。


「そうなの、やり手の女性なのね」


「いえいえ、とんでもないです」


「へ~、何だかお似合いね」


「何をおっしゃるんですか、菊池さん」


 コーヒーの香りが漂ってくる。俺は紅茶のほうが好きではあるが、コーヒーがまるでダメって訳ではない。


「三田村さんはコーヒーが苦手なんですよ」


「こら、尾崎くん」


「あら、そうなの。ごめんなさい、存じ上げなくて。入れ直すわね」


「申し訳ありません。せっかく入れていただいたのに」


「お気になさらずに。これは私が飲みますから」


(ふうう、尾崎さんは何を言い出すのやら。ヒヤヒヤするじゃないか)


 菊池さんは、アップルティーを差し出してくれた。


「お気遣いいただきありがとうございます」


「とんでもない、お待たせしました。で、今日はどのようなご用事?」


「菊池さんが乗られているお車が、来春モデルチェンジすることになりまして、パンフレットが出来上がりましたので、さっそくお届けにまいりました」


「そうなの。実を言うとね、私、つい先日離婚したのよ」


「えっ、そうなんですか」


 尾崎さんと同時に同じ返答を発した。


「車はね、元々私の所有だったから問題なかったし、このマンションも財産分与として受け取ったの。でもね、お仕事がフラワーアレンジメント教室だけでしょ。娘を引き取ったから、これからどうなっていくかと思うと不安でね」


「そうだったのですね、知らなかったこととはいえ、失礼いたしました」


「三田村さんが初めてうちに来てくださったときは、すでに破綻していたんですけどね。誰にも相談しなかったから結構大変だったんですよ。こんなときに相談できる人がいればよかったんですけど知り合いもいなかったから」


「もう少し早くおっしゃってくださったら、いいアドバイザーさんをご紹介しましたのに」


「あらそうなの、残念。お話しすればよかったわね。今だから正直に話すけど、あなたの優しそうな人柄に魅了されて、ああ、この人が伴侶だったらなって密かに思いを寄せてたのよ」


「それは、ありがとうございます」


「でも、こんな可愛い女性を伴って来られると、私のつけ入る隙はないわね」


「誤解しないでください。そんな関係じゃないですから」


「私、わかるのよ、何となくだけど。あなたたちは相性がいいはずよ」


「そうだったらうれしいんですけどね。でも三田村さんは私なんかちっとも相手にしてくれなくて」


 尾崎さんが口をはさんできた。


「それは本心の裏返しよ」


「そうですか、よかった、三田村さんについてきて……」


「尾崎くん、お客様に何という話をしてるんだ。申し訳ありません、素直すぎて僕は正直手を焼いています」


「まんざらでもない様子よ」


 菊池さんは、俺と尾崎さんを交互に見た。



「では、失礼します」


 俺たちはまたそれぞれの自転車でお昼過ぎまで顧客回りをした。



 2 兄妹


 自宅に帰り着いたときケータイが鳴った。珍しく母からだった。


「あ、母さん、どうかしたの?」


「実はね、優名の結婚が決まったのよ」


「あっ、そうなんだ! おめでとう! で、優名は?」


「今、旦那さんになる人と外出してる」


「あの優名がねえ、奥さんか……」


「結婚式がね、9月10日なのよ。哲、空けといてくれる?」


「もちろんだよ」


 あの幼かった妹もついに結婚か。とても喜ばしいことなんだけど、離婚歴のある俺が兄で、何だか申し訳ない気がする。それはそうと、優名、俺にカレシの話なんか一切しなかったぞ。けしからんやつだ。どんな男なんだろう。母さんから事前情報を仕入れとけばよかったな。まあ、次の休日、優名にお祝いの言葉でも送るか。


 

 定休日に実家に帰った。


「あ、兄さん」


「優名、聞いたよ。結婚が決まったんだってな。おめでとう! で、相手はどんな人なんだい?」


「それがね、今来ているの」


 俺は妹のカレシを早く見たくて、客間に急いだ。


 愕然とした。そこにいたのは、俺よりも遥かに年上のミドルエイジの男性であった。目が合うと慌てて立ち上がり、俺に向かって深々とお辞儀をした。


「初めまして。近藤涼次(りょうじ)と申します」


「は、初めまして。優名の兄の哲です」


「おじさんで驚かれたでしょう?」


「あ、はあ」


「ですよね?」


 母と優名も客間に入ってきた。


「あら、近藤さん、お座りになって」


 優名と近藤さんは座卓の奥に隣り合って座る。俺は彼と差し向かいに腰を落とした。


「兄さん、そういうことなの」


「あの、失礼ですが、近藤さんはおいくつですか?」


「優名さんの20歳年上の49歳です」


「初婚ですか?」


「いえ、バツイチです」


「お子さんは?」


「二人います。大学生の女の子と高校生の男の子です。二人とも元嫁が引き取りました」


「いつ離婚されたんですか?」


「10年ほど前です」


「それからお子さんとは?」


「小学生のときは会っていましたが、中学生になるころから会ってくれなくなって、それ以降会っていません。でも、養育費は支払い続けています」


「お仕事は何をなさっているのですか?」


「もう、兄さん、いきなり次々と聞かないでよ」


 優名が俺の質問を遮ってきた。


「そうよ、哲、近藤さんの立場も考えてあげて」


 母も割り込んだ。


「いいですよ、私はシステムエンジニアをしています」


「妹とはどこで?」


「兄さん! もうそこらへんでいいじゃない」


 優名が俺をたしなめる。


 かくいう俺だって20歳年上の女性と交際している。しかし、妹までもが20歳年上の男性とつきあっているだなんて想定外だ。兄妹をして同じ状況とはありえない。自分を差し置いてこう感じるのも勝手だが、何だかやるせない面持ちだ。


「だから兄さんには話せなかったのよね。どうせ反対するんだから」


「い、いや反対も何も。少しばかり予想と違ったから驚いているだけだよ」


「あ、お兄さん……」


(お兄さん?)


「お兄さんのお気持ちはよくわかります。でも、私は優名さんを幸せにする自信があります。子どもたちにも優名さんといっしょになることは賛成してもらっていますし」


「優名が幸せなら俺は構わないが。どうなんだ、優名は幸せなのか?」


「うん、兄さん、私は幸せ。幸せになるのに、年齢は関係ないと思うのよね。リョーくんは、とっても優しいの」


(リョーくんだと!)


 

 3 定義

 

 俺は兄として、優名を愛している。こんな俺が愛を語るなどもってのほかだが、曲がりなりにも人を愛してきたし、今も愛する人がいる。愛とはいったい何なのだ。


 妹の婚約に納得がいかず、ベッドに横たわりながら、とてつもなくもやもやしている。


 人間的に好きな人はたくさんいる。近藤さんも別に嫌いなタイプではない。だが、妹の婚約者となれば話は別だ。


 ひとりの人を心から愛する意味は、美沙子と出会ってから何度も考えてきた。愛し合うその心のやり取りの中にこそ生まれるのが本物の愛。及ばずながら、このように解釈してきた。いや、解釈などと頭で考えるものではない。そもそも言葉に表わすことなんてできないものなのだ。それを言葉や形に表現しようとするから無理がある。こんなこと、初めからわかっている人はそうそういないだろう。家族から目いっぱいの愛情を受け取ってきた人でさえ、本物の愛を知るには足りない。


 愛し愛され、心が満たされるうえに、相手のためなら自己を犠牲にしてもいいと思う、それが愛? いやそれも違う。犠牲なんて言葉を使うこと自体、愛じゃない。それを相手が望むわけもないからだ。


「愛の定義、そんなものあってないようなものだ」


 そうつぶやいて、目を閉じた。


 いつの間にかうとうとして夢を見た。


 美沙子と手をつないで歩いている。進んでいくうちに地べたが凍ってくる。お互いが一歩前に進むたびに足元に氷が張るのだ。先を見渡すと青々とした高原と青空が広がっているのに、歩む足元だけが、歩くにつれて凍っていく。いかにも、このまま先に進むのかどうか試されているみたいだ。


 足元からの冷気が全身に回ってくる。俺は美沙子を抱きしめた。が、美沙子から暖かさが伝わってこない。抱きしめれば抱きしめるほど、俺の体も凍りついてしまいそうな冷感が迫りくる。


 夢なのか現実なのか、夢ならこんなにリアルな感触を得ないはずだ。ブルブルと震えては、愛に見放されているような痛ましい冷たさに心をひねられている。


 顔をしかめ、おもむろに目を開けたが、そこに美沙子の姿はなかった。気がつくと一面吹雪いている。


「美沙子! 美沙子!」


 大声を張り上げているのに、かすれた小さな声が、吹雪の轟音(ごうおん)にかき消される。


「美沙子! 美沙子!」


 もう一度叫ぶ。しゃがれ声が音になる前に消え去っていく。吹雪の中にひとり、立ち尽くす俺。心も体も()てついている。


 どこか覚えのある感覚だった。幼いころからずっと消えずに住み続けているこの奇妙な感覚。心が病む度に現れる、この不快な感覚。


 何だか胸の重圧を感じ、飛び起きた。


「俺は心の底から美沙子を愛しているのだろうか?」


 目覚めた瞬間、そんな疑念にさいなまれた。


「本当に彼女のことが好きなの?」

「本当に好きだとは思えない」


 俺が俺を責めてくる。


「愛とはいったい何なんだ」

「愛とはいったい……」


『砂上の楼閣』、無意識にそんな言葉が脳裏をかすめた。美沙子の苦痛を微塵も知らずに。



 4 天井


 哲の成長を願ってきた。明らかに彼は成長している。彼は私のおかげだと口にするが、元来哲の持っている才能がここにきて開花したのだと思っている。


 彼がどのように変化しようとも、私はそばに居続けようと決心していた。だが実際に著しい成長を目の当たりにすると、彼にふさわしい人生を歩んでほしいと願うようになっていく。


 本店勤務となり、彼を取り巻く人間関係も変わり、遠いところに行ってしまった感覚は否めない。娘の有沙でさえ彼とつきあいたがるのだから、年頃の女性なら彼を射止めたいと思うのは無理もないだろう。


 いつの間にか年甲斐もなく、若い女性に嫉妬している私がいる。彼と離れたくない。離れたくない。お願いだから、私が生きている間は私だけの哲でいて。


 私は白いシーツがピシッと敷き詰められたベッドの上に横たわっている。


「大野さん、大丈夫ですか。そろそろ行きますね」


 白衣の女性の一言で、私はゆるりと起き上がってストレッチャーに移った。真っ白な天井が幾何学模様に見えてきて、何とも気味が悪い。見たくないために目をつぶった。そのまま手術室に運ばれていく。


 数日前の手術の説明がぼんやりとよみがえる。


「たぶん最初で最後の手術となります。根治手術ではなく、クオリティ・オブ・ライフ向上のための手術です」


「クオリティ・オブ・ライフ?」


「はい、生の質を上げるための手術です」


「せいとは? 生きるためのってことでしょうか」


 ドクターには、包み隠さず話してほしいと現状の説明を請うた。悲しくはなかった。これが私の人生なんだと早々に受け入れられたからだ。


 初めて入院したときは、まだ哲とおつきあいを始めたばかりだった。


「メンテナンスだよ」と笑ってごまかしたが、病名を告げられて間がないころだったのだ。病気を理由に哲と離れようと何度も思ったが、短くてもいい、幸せになりたい、という素の心が私を彼に近づけさせた。


 幸せだった。でも刻々と終わりの日が近づいてきている。そのうち彼にも真実が伝わるだろう。自分でもよくここまで隠し続けられたものだと感心する。娘でさえもまさか私がこんなに早く死の淵までたどり着くとは思ってもいなかっただろう。



 再び目を開けると、あの薄汚い幾何学模様がぐにゃりと目前に迫ってきた。


「大野さん、わかりますか?」


「はい」


 小さく声を出したが、酸素マスクで覆われていて、声は届かないんじゃないかと思われた。が、看護師さんは口の動きでちゃんと判断されたようで、バインダーに挟まれた用紙にささと記入しているのが目に入った。


「母さん!」


 声をかけてきたのは有沙だ。


「美沙子!」


 隣に母の姿もあった。


「美沙子、ごめんよ、ごめんよ」


 母の頬を幾筋もの涙が伝う。


(なぜ謝るの、母さん。母さんの娘でよかったよ。私こそ母さんの面倒を見られない親不孝な娘でごめんなさい)


 声には発しないのに、母は「うん、うん」とうなずいていた。私の心の声が通じたようだった。


 もうウチには帰れないだろう。哲に聞かれたら「旅行に行った」と伝えてほしいと、有沙には入院前からこんこんと言ってある。


「今日はここで泊まるね。母さんのそばにいたいから」


「私も泊まっていいかい?」


「おばあちゃんは帰ってて。私がついているから大丈夫だよ」


「そうかい。じゃあ、有沙、お母さんのこと頼むね。明日朝また来るから」


 母は消灯の時間までいてくれた。心電図モニターの乾いた音が病室に重く響いている。


「おばあちゃんを見送ってくるね」


 有沙と母が病室を出ようとしたとき、サイドテーブルの上に置いていたケータイのランプが光った。


「おばあちゃん、ちょっと待ってね」


 点滅するランプに気づいた有沙は、発信相手を確認すると、そっとケータイを私の枕元に置いて出ていった。哲からだった。着信音が途絶えるまで、画面に表示されている彼の名前を眺めることしかできない私。この状態で出られるわけがない。


「電話がかかってきたんじゃないの? 出なくていいの?」


「いいの、いいの。さ、おばあちゃん、行きましょ」


 心が嗚咽を始めた。会いたい、哲に会いたい。手術による痛みよりも、心のほうがちくちくと布を縫うように痛んだ。


 有沙が戻ってきた。自動販売機で買ったのか、缶コーヒーを握っている。


「いつの間にやら冬の始まりだね」


 そう言うと、ふうふうしながら缶コーヒーをすすり始めた。


「電話……三田村さんからだったね。会いたいよね? 母さんのことだから、入院していること、いや、病気のこともまだ伝えてないんだよね」


 私はこくりとうなずいた。


「本店勤務になってから、あまり会っていないようだし。連絡しなくていいの?」


「い・い・よ」


「母さんって、ホント人がいいよね。相手のこと尊重し過ぎだよ。自分の気持ちを表に出さないから病気になっちゃうんだよ。三田村さんに会いたくてたまらないくせにさ、ちっとも『会いたい』って表現しないんだよね」


「あ・り・さ」


「あ、ごめんなさい。気にしないで。じゃあ、アタシはここで横になるからね」


 有沙が簡易ベッドを広げ始めたとき、誰かが個室のドアをノックした。


「おじいちゃん!」


 年老いた父だった。母と入れ違いで病院にやってきたのだ。


 有沙は簡易ベッドを少しずらし、私の頭もとに椅子を置いた。


「おじいちゃん、ここに座って」


「あ、ああ。で、具合はどうなんだ? 手術は無事終わったのか?」


 父は有沙のほうに振り向いて尋ねた。


「うん。うまくいったから。心配しないで」


(有沙も大人になったもんだわ。上手な嘘がつけるようになってる)


「そうか、それならよかった。時間も時間だし、顔も見られたから帰るとするか。美沙子、しっかり療養するんだぞ」


 点滴をしていない左腕の肘から上を挙げて、緩やかに手を振る。


「おじいちゃん、ありがとう。出口まで送るね」


 有沙と父の後姿を朦朧(もうろう)とした中で見送ると、天井の模様をキッと睨んだ。

 


 5 興奮


 哲は私のケータイに伝言を残していた。それに気づいたのは翌朝だった。


「母さん、具合はどう? 眠れた? 苦しくなかった? あれ、ケータイ、留守録されてるみたいだよ。聞いてみようか」


 矢継ぎ早に言われてとまどっていたら、有沙がケータイを耳に当てた。


「三田村さんが母さんを探してるよ。知らせないで本当にいいの?」


「有沙!」


「勝手に聞いちゃってごめんなさい。でも母さん、三田村さんに会わなきゃ。絶対に会わなきゃ。旅行に行ったなんて言えないよ、アタシ」


 突然、病室のドアが開く。


「大野さーん、調子はいかがですか」


 担当の看護師さんだ。


「点滴の中に痛み止めが入っていたから、さほど苦しくなかったでしょう。痛み止めは少しずつ減らしていって、明日には点滴を抜きますからね。酸素マスクと心電図は外しておきますね」


 看護師さんはてきぱきと取り外し、私の脇に電子体温計を挟み込む。


「しばらくはこのままで休んでくださいね」


 点滴の速度をこころもち緩め、体温計を確認しながら病室を出ていった。


 そのときだった。


「美沙子!」


 息せき切って哲が病室に駆け込んできたのだ。


「哲さん!」


 いの一番に有沙が声を上げた。


「有沙さん! これはいったいどういう……」


 間髪入れず、有沙が問いかける。


「どうしてここが!?」


「美沙子、い、いや、美沙子さんに連絡が取れなくなって、マンションに駆けつけたんだけど、夜になっても人気(ひとけ)がなくて。おとといも昨日も同じだし。で、管理人さんに聞いてみたけど、個人情報で教えられないと言うし。初めは旅行にでも行ってるのかと思ったけど、何だか胸騒ぎがしてね。もし入院してるとしたら、かかりつけのこの病院に違いないと。案の定、入院してたんですね」


 哲は息継ぎもあまりせず一気にしゃべった。


「とりあえず、掛けてください」


 有沙の差し出す椅子に、彼はそそくさと腰を下ろした。


「何があったの? 何も知らなかったのはひょっとして俺だけじゃないの?」


「哲……」


「哲さん、母は昨日手術したばかりなの。あまり問い詰めないでいただけます?」


「有沙さん! 俺と美沙子さんの仲をご存じでしょう? なのに、どうして俺を蚊帳(かや)の外にしたんです?」


「蚊帳の外ですって!? 母の思いはどうなの? 尊重しちゃだめなの!?」


「美沙子の意思なのか!?」


 彼は私をまじまじと見つめた。


「すまない、つい興奮してしまった。で、具合はどうなの? 大丈夫だよね?」


 哲は振り返って有沙の答えを待った。


「え、ええ」


「よかった。俺、美沙子が退院するまで毎日来るからね」


 彼の動揺に、涙が滲んだ。ゆっくりとまばたきをしたら、つうと目じりから流れ落ちる。


「今日のところは、母を休ませてあげたいの。哲さん、わかってください」


「はい、では明日改めます」


 彼は病室のドアを閉めた。心をここに残して。



 6 確認


 本店に異動となってからいろんな出来事があった。尾崎さんとの関係、妹や父母との関係、心が漂流していたのは嘘じゃない。


 俺なりに過去を清算し、本物の愛についても熟考した。けれども恥ずかしいことに、やはり俺の優柔不断さは完全に姿を消さなかった。その結果がこれだ。誰をも幸せにできない、それが俺。


 美沙子の顔は血の気がなく、蒼白くくすんでいた。手術の翌日だから仕方ないのだろうけど、それにしても尋常じゃなかった。もしや、もしや。


 俺はいつまでふらついているのだろう。あれほど強く誓ったはずなのに。美沙子との愛を成就させたかったはずなのに。なぜ俺だけが取り残されている? 強靭な愛だと信じていたのは俺だけなのか? いや違う。美沙子のことだから、きっと俺に憂慮させまいと知らせなかったのだ。


(あー、何とももどかしい)


 自暴自棄を取っ払おうと、ひとりで夜の繁華街に出た。普段は、友人か会社の仲間としか飲み歩かないが、いつもより黒い空模様に吸い込まれるようネオンの中をむさぼり歩いた。


「いらっしゃい」


 行きつけのスナックに入った。


「あら、三田村さん。おひとり?」


「ああ」


「珍しいわね。以前ごいっしょだったカノジョは?」


(そういえば、一度尾崎さんと来たことがあったかな)


「あの子はカノジョなんかじゃないよ」


「そうは見えなかったけどねえ」


「よしてくれよ、飲まずに帰るぞ」


「それは勘弁して。まあ、お掛けになって。話ならたんと聞くから」


「そう、聞いてくれるか?」


 ウォッカのソーダ割りを注文した。一口飲み込むと気が緩んでしまい、美沙子との経緯を吐露してしまった。


「三田村さんってそんなに素敵なのに、意外と自信がないのね」


「えっ」


「だって、ホントはその人のことが好きで仕方ないのに、わざとフラフラして自分の気持ちを確かめようとしてるじゃない」


「わざと?」


「そうよ。三田村さんが心から愛しているのは、その年上の女性よね。なのに、どこかで遠慮しちゃってる。もっとバーンとぶつかればいいのに。前に連れてきた女性だって、あの子をカノジョにしようなんて微塵も思ってなかったでしょ。普通は、あわよくば~って考えるのが男子。彼女のほうも三田村さんにのぼせ上がってたもんね。ホントは好きでもないのに自分を(あざむ)いて好きになろうと無理してたんじゃないの? そうやって年上のカノジョさんとの関係を確かめようとしていたのよね」


(そうか、そうだったんだ。俺は一瞬でも尾崎さんを受け入れようとした。それは心が彼女に向かって揺れたのではなく、美沙子への愛を確認したかったからなんだ)


「ママ、ありがとう」


 ジャケットを無造作に抱え、さっさと勘定を済ませて外に出た。一段と冷える夜だった。


 砂上の楼閣――


 俺はとんでもない言葉に翻弄されていたものだ。自分自身の心に忠実に生きよう。そう決意して家路を急いだ。


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