(後編)【第2章】青天の霹靂(へきれき)
1 秘密
美沙子のマンションに向かっていると、突然大雨が降り出した。
(やけに急だな)
夕方の5時半なのに、辺りはみるみるうちに暗くなった。ワイパーを作動させるや否や、電話が鳴った。見ると、尾崎さんからだ。イヤホンで応答する。
「はい、三田村です」
「三田村さん! 助けて!」
「尾崎さん、どうかしたんですか!?」
「アパートの外階段から滑り落ちちゃって」
「えっ、どこか打ちました?」
「いえ、どうにも動けなくって」
「救急車を呼んでください。俺も病院に行きますから」
「三田村さん、今どこですか?」
「自宅を出て数分のところですが……あ、尾崎さんのアパートは確か……」
「四丁目のグリーンハイツです」
「あ、遠くない場所にいますよ、今から向かいます。数分待てますか?」
「はい、待てます」
大雨の中、車を飛ばす。
尾崎さんのアパートは路地裏にあって、真ん前まで車の侵入はできない。近くの公園に駐車して、全速力で走る。彼女はびしょ濡れになって、外階段下でうずくまっていた。
「尾崎さん、大丈夫ですか?!」
「あ、三田村さん、すみません」
「どうしたんですか! あ!」
スカートに血が滲んでいる。雨に打たれたせいで、淡いピンク色のスカート全体にうっすらと血が広がっていた。
「立てます?」
「はい」
彼女を肩につかまらせて、公園まで歩き、車に乗せた。
「シートが汚れますから、ここで結構です」
後部座席の足元で、膝を抱えて小刻みに震えている。痛みを伴っているのだろう、それを我慢している様子が表情からうかがえた。顔からは血の気が引いている。
(ここから一番近い病院で救急外来があるのは……あ、山下病院だ。一般外来もぎりぎり開いている時間)
急ぎ車を走らせる。
(間に合った)
彼女の肩を抱え、救急搬送入口に向かう。
「すみませんが、急いで診てもらえますか!?」
出てきた看護師の指示で彼女を救急外来の診察室に寝かせた後、向かい側の待合室で待つことにした。
息つく間もなく看護師に呼ばれた。
「あの、あなたとのご関係は?」
「同じ会社の者です」
「身元保証人になっていただけますか?」
「はい」
書類にサインをして、再び待合室へ戻る。ふと窓に目を向けると、木々が枝葉を大きく揺らせている。
(嵐のようだな)
小一時間経ったころ、女性の医師が俺の前に現れた。
「処置は終わりました。これから一般病棟に移ってもらいます」
ストレッチャーの後ろをついていく。彼女が運ばれた先は、婦人科の病棟だった。
病室から空のストレッチャーが運び出された後、恐る恐る病室内に入った。
「尾崎さん」
「三田村さん、すみません」
「気にしないで。で、どうだったの?」
「お恥ずかしい話ですが……流産です」
「えっ、尾崎さん……」
「はい、妊娠していたんです。なのに、急な雨で階段から滑り落ちちゃって。もうどうすればいいかパニックになって、三田村さんに電話してしまいました。ホントにすみません。ご迷惑をおかけして……」
「そうだったんだ。俺はいいけど、体は大丈夫なの?」
「はい、私のほうは大丈夫です。でも子どもは失ってしまいました」
「そうなんだ。何と声を掛けたらいいのかよくわからないけど、まずは自分の体をいたわってあげなきゃ。しかしそんな体で、よくあれほどの仕事をこなしてたね」
ねぎらいの言葉をかけると、彼女はそっと目頭を押さえた。
「三田村さん、お願いがあります。このことは誰にも言わないでください。どうかどうか」
「安心して。誰にも話さないから。で、明日はどうするの?」
「風邪ひいたことにして、会社に連絡を入れます」
「そうだね。僕も何も知らなかったことにしておくからね」
「申し訳ありません」
「今日は入院となるのかな」
「はい」
「体も心も休ませてあげて……」
そう言って去ろうとしたとき、彼女が俺の袖口を引っ張った。
「あと少しだけここにいてください」
俺は正直、早くこの場を立ち去りたかった。婦人科病棟、しかも4人部屋。ひとつのベッドは空いているが、二人の患者がカーテン越しにこちらの様子をうかがっているのが見て取れた。付き添いは誰もいない。彼女の夫や家族ならまだしも、ただの会社仲間だ。俺が彼女の流産の相手だと勘違いされそうでイヤだったのだ。だが、目の前で瞳を潤ませ「いてください」なんて言われたら、それを振り切って出ていくことはできない。俺はしばらく彼女の傍らにいてあげることにした。
「ありがとうございます。そこの椅子に掛けてください」
小さな丸椅子に腰かけ、話しかけた。
「尾崎さん、確か独身だよね。彼氏は知っているの、妊娠してたこと?」
「彼とは先月別れたんです。その直後に妊娠が発覚して。それでも産もうと思っていたんですけど、こんなことになっちゃいました」
「そうだったんだ。ごめんね、根掘り葉掘り聞いちゃって」
「いえ、いいんです。三田村さんがいてくれるだけでどれほど心強いか」
俺は30分程度病室にいたが、これ以上話し続けると彼女の負担となりそうだったので、去ることにした。
ずっしりと憂鬱がのしかかっている。行きがかり上とはいえ、美沙子以外の女性と秘密を共有したことが心苦しかった。
外はすでに真っ暗だ。救急搬送入口の灯りだけが冷たく異彩を放つ。雨は小降りになっていた。
美沙子に電話する。
「どうしたの? 今日は早めに来られるって言ってたけど」
「うん、それが……行く途中に路上で倒れている人がいて、病院まで運んであげてたんだ」
「えっ、どこの病院?」
「山下病院」
「哲のマンションのそばの?」
「そう。家を出たばかりだったからね」
「で、その人はどうなったの?」
「ひとまず落ち着いた」
「ご家族は?」
「連絡を取りたくないようで。身寄りがないのかも」
「そうなの。大変だったわね。お疲れさま」
「うん、ホントに疲れた。今から美沙子のところに行きたいのは山々だけど、明日も早いし、今日はこのまま帰るよ、ごめん」
「いいわよ、ゆっくり休んでね」
「はい、おやすみなさい」
夜9時を回ったころ自宅に着いたが、心のモヤは晴れないままだ。
(あの尾崎さんが妊娠してたなんて。しかも別れた彼氏の子どもだとは。流産したのは気の毒だけど、何だか信じられないな)
人はそれぞれ、いろんな事情を抱えているものだ。一見幸せそうに見えても、その陰では号泣している人だっているだろう。何が真実で何が嘘なのか、外見じゃ判断しかねるのが世の常だ。
尾崎さんの彼氏って誰なんだろう。俺の知っている人かな。まさか、原田課長と不倫? いやいや、それは飛躍し過ぎだ。でも、何であんな子が気になるんだろう。関係ないのに。かわいそうで同情してるだけだよな。
どんなことがあっても美沙子の元に行くつもりだった。なのに、何だか後ろ髪を引かれるようで行けなかった。尾崎さんと秘密を持ったことが心の重荷となったのだ。
もう一度美沙子に電話しよう。
「もしもし、今着いたから」
「今日は大変だったね」
「うん、行けなくてごめん」
「気にしないで。いつでも会えるから」
「俺、何か変かな?」
「変って?」
「ううん、何でもない」
「疲れてるだけよ」
「そうだよな。もう休むね、また連絡する」
「わかったわ、じゃあね」
やましいことをしたわけでもないのに、やたら詫びたい気分に見舞われる。
尾崎さん、尾崎しおりさん。なぜだか救急車を呼ばずに俺に電話してきた尾崎さん。誰にも明かせないだろう事実を俺に告げた尾崎さん。出社してきたら、どう対応すればいいだろう。
2 傍観
彼女は3日間の休暇の後、出社してきた。
「三田村さん、おはようございます」
「あ、尾崎さん、風邪は治ったんですか?」
ウインクをしたら、彼女も、し返してきた。
「ええ、すっかり。ご迷惑をおかけしました」
「ちっとも。尾崎さんの分も売っといてあげたから」
「さすが、三田村さん。頼りになります」
「ははは」
俺は笑って見せたが、心の底からは笑えなかった。
朝のミーティングが終わった後、原田課長から、尾崎さんとともに顧客回りする指示があった。老人ホームや保育園などの施設を回る日だったので、女性である尾崎さんがメインで、俺はサブという形で回ることになった。
「三田村さん、お願いします」
「了解」
二人して自社の車に乗り込んだ。俺が運転することになり、彼女は助手席へ。
「最初は、わかば保育園からね」
彼女の提案どおりに、わかば保育園を目指した。
「尾崎さん、体調はどう?」
「ホントはまだ完治はしていないの。でも風邪ごときで3日も休んじゃったからね、有給休暇を使ったとはいえ、何だか気がとがめちゃって」
「無理しないでくださいよ」
「三田村さんはホントに優しいんですね」
「いえ、普通です」
「三田村さん、カノジョはいらっしゃるんですか?」
「え? えらく唐突だなあ。でもはっきり言っとく、いるよ」
「そうかあ。残念!」
「はは、残念って」
「で、どんな方なんですか?」
「どんなって。普通ですよ」
「三田村さんのカノジョだから、きっと素敵な女性なんでしょうね」
「ま、まあ……。あ、着きましたよ、わかば保育園」
駐車場から園内に向かうと、3~4歳の園児10人ほどがダンスの練習をしていた。
「まあ、かわいい!」
彼女は小走りで園児の元に駆け寄る。
「尾崎さん、無理しちゃだめだよ」
「平気よ」
そう言って園児らと同じように踊り出した。全体を見渡していた保育士さんが気づいてこちらに向かってこようとしたが、俺が
「そのまま続けてください」
と叫ぶと、笑顔で元の位置に戻っていった。
傍観していると、見よう見まねで踊り続ける彼女の周りに、園児らが面白がってまとわりついてくる。
「こらあ、ちゃんと踊りなさいー」
「おばちゃん、こわーい」
「おばちゃんじゃないよ、おねえさんだよ」
「おねえさん」
「おねえさん」
「おねえさん」
複数の園児に取り囲まれている。
「さあさ、みんなで手をつなぐとこですよー」
尾崎さんは子どもの扱いが慣れている様子だ。俺はどちらかというと子どもが苦手だから、懐かれることもないし、ましてやこんなふうにはしゃぐなんて到底できない。彼女は本当に子どもが大好きなんだな。そう考えると、あの出来事が余計不憫に思えてくる。
商談は彼女の明るさに救われ、うまく運んだ。
「さすが尾崎さんですね」
「いえいえ、楽しかったですよ。子どもは無邪気でいいですねえ」
「さ、次はひかり老人ホームに行きましょう。今度は打って変わって年配の方のお相手ですよ。尾崎さんの手腕を次も期待していますからね」
3 年齢
翌週の休日、俺は美沙子に会いに行った。早めに家を出て遠回りをし、以前の担当地域の顧客だった広瀬さんのうちに寄ってみた。
「あらあ、三田村さんじゃないの」
「ご無沙汰しております。お元気でしたか?」
「元気元気。いつ海外からお帰りに?」
「先月です。これ、広瀬さんにおみやげ」
「あらまあ、いただいていいの?」
「どうぞどうぞ」
「私ね、あなたの噂を小耳にはさんじゃって」
「もしかして?」
「そう、離婚なさったのね。三田村さんが海外に行くまで知らなかったから、結構無神経な発言したとずっと後悔してたのよ」
「気にしないでください。今は幸せですから」
「あら、そうなのね。よかったわ。新しくおつきあいする女性ができたのね」
「は、はい。広瀬さんがお似合いじゃないかとおっしゃっていたとおりの、年上の女性です」
「そう。いくつくらい? 3つ? 4つ?」
「もう少し上です」
「えっ、10歳とか?」
「いえ、聞いたらきっと驚きますよ。実は、20です」
「あらまあ! それ、障りないの?!」
「障りない……とは?」
「だって、彼女はさぞ不安でしょうに。年齢に引け目を感じて、自分の気持ちを押し殺しているかもしれませんよ。三田村さんのことだから、その辺はフォローしてあげているのでしょうけど。でも多分、陰で苦しんでいるんじゃないかしらねえ。三田村さんにその自覚がおありならいいんだけど。彼女に気を配ってあげなきゃね」
「あ、ありがとうございます」
(こんなにも心の通じる美沙子のそばにいるのに。美沙子の心なら重々理解してるつもりなのに。広瀬さんは考えすぎだよ)
「あ、そうそう、話は変わるけど、最近ダッシュボードの辺が妙にガタガタいうのよ。この車も寿命が近いのかな。主人が好きだった車だから手放したくないのよね」
「ちょっと近辺を走行して確認してみましょうか。キーをお借りできます?」
「いいの? 見てくれる?」
「もちろん、いいですよ」
「じゃあ、お願いね。その間に紅茶を入れておくわね」
乗ってみるとすぐにわかった、ダッシュボードの辺りが妙にビビッている。
俺は広瀬さん宅の周辺をぐるりと走り、数分で戻ってきた。バックしてするすると車庫に入れる。
「恐らくエアバッグの固定ボルトが緩んでいるからだと思います。今は直せないので、近々ディーラーにお持ち込みくださいね」
「さすが、三田村さんね。いつまでも私の担当でいてほしかったわ」
広瀬さんにキーを手渡す。
「どうぞ、召し上がって」
「はい、いただきますね」
いつもの和室に招かれて、紅茶を堪能した。
「三田村さんからいただいたおみやげ、開けてみたの。いっしょに食べましょう」
「いえいえ、そういうつもりで持参したんじゃないですから」
「私ひとりだもの、おつきあいしてちょうだいよ」
「あ、はい、そうおっしゃるなら」
タイの菓子を広瀬さんと口にする。
そのとき広瀬さんが、申し訳なさそうにこう言った。
「三田村さん、やっぱり私はいつも過ぎたことを言ってしまうみたい。許してちょうだいね」
「ご心配には及びません。俺は彼女を守っていきますから」
「だったら安心ね。今度こそ幸せになってね」
4 公認
夕方、美沙子のマンションに着いた。
「遅かったのね」
「うん、途中で、以前のお客さんのお宅に寄って、おみやげを渡してきたから」
「タイの?」
「うん。あ、美沙子、待ちくたびれた?」
「ま、まさか」
彼女は少女のように照れ隠しをした。
「そうそう、先日突然有沙がやってきてね、こう言うのよ。『母さんが幸せならそれでいいよ』って」
「有沙さんにも公認の仲になったってことですね、よかった」
「ええ、でも不思議なのよね」
「何が?」
「認められてないうちはそうでもなかったのに、認められたら急に不安になっちゃって」
「不安? 俺たちのこと?」
「そう、何だか心がざわざわして落ち着かないっていうか」
「考えすぎだよ」
「そうかしらね、哲がどこか遠くにいってしまいそうな気がして」
ハッとした。広瀬さんのさっきの言葉を思い出したからだ。こうして二人でいながらも、「心がざわざわする」と言う。いくら「好きだ」とささやいても「愛している」と告げても、やはり不安は拭えないのか。つまるところ、年齢差がそうさせているのか。
「美沙子、大丈夫だよ。俺たちは大丈夫」
彼女の肩を引き寄せ、背中に手を回した。
お互いの体温が伝わる。心も同時に伝わる。
なのに、体を離した途端にうつむく彼女の顔をのぞき込むと、物憂げな表情であふれている。
「大丈夫だってば」
なにゆえ100%伝わらない? なぜ? 年齢は関係ないと何度も何度も口酸っぱく言ってきたのに。
「どうして? 俺が信じられない?」
「ううん、そうじゃないの。哲が本店勤務になってから、何となく振る舞いが違う気がするのよ」
「俺が?」
「うん、何だか遠くに行ってしまったような。あ、距離じゃなくて、遠い世界にいってしまったような気がして」
「そうかな」
「私ね、それでもいいと思ってたの。哲が私の元を去ったとしても、それが、あなたが成長したせいなら本望だと。でもだんだんと自分の気持ちがわからなくなってきたのよ。私のそばを離れないでって……」
彼女はそれ以上語らなかった。心が雑巾のように絞られた気がした。胸がギュッと締めつけられる。尾崎さんとの一件を話せないままの自分に腹が立ってきたからだ。
(俺の中には優柔不断がまだくすぶっている)
それに気づいた瞬間、彼女のマンションを飛び出した。
「ごめん、ちょっと行ってくる。今日はもう来られないと思う。明日ちゃんと話すから、俺を信じて待っていて」
5 誘惑
俺は自分の心を清算したかった。要所要所で現れる優柔不断の種。都度、摘み取ってきたはずなのに、次から次へと芽を出してくる。
急ぎ向かったのは、尾崎さんの住むアパートだ。なぜ俺に電話してきたのか、なぜ俺に秘密を明かしたのかきっちり聞かなくちゃ。
「あ、三田村さん」
「聞きたいことがあるんだけどいいかな」
「はい」
彼女は、足下に散らばるハイヒールを端に寄せた。
「どうぞ」
「いや、ここでいい」
俺は、理由を知りたかった。俺に対して放った言動の理由を。それだけなのに。それを問い詰めるために来たのに。
「三田村さん!」
尾崎さんがいきなり俺の首に両腕を絡め、顔をすり寄せてきた。
「サトシさん、好きです!」
「尾崎さん!」
「初めて会ったときから好きでした」
力ずくで彼女の腕を振りほどいた。
「やめてくれ、尾崎さん。俺にはカノジョがいるんだ。時間をかけて愛を育んだ女性なんだ。君にこんなふうにされると困るんだ」
「でも、三田村さん、すぐに駆けつけてきてくれましたよね。病院でも付き添ってくれましたよね。それって私に好意があるってことじゃないんですか」
「違うよ、尾崎さん。放っておけなかったからだよ」
「それこそが好意があるってことじゃないんですか」
「困っている人を目の当たりにすれば、誰しも放っておけないだろ」
「けど、優しく手を握ってくれたじゃないですか。ただの親切ならそこまでしないですよね」
返答に困った。矢継ぎ早に畳みかけてくる彼女の言葉に圧倒された。そうなのか、と錯覚させられるほどの迫力があった。
「とにかく俺にはカノジョがいるから。はっきり言うけど、君とはつきあえない」
「秘密……」
「えっ?」
「私たちの間には秘密ができましたよね」
「秘密?」
「あの日、そして今日。カノジョさんに、まさか一部始終を話した訳じゃないですよね」
「君のために守秘を貫いているだけだ」
「ほら、私のため。やはり好意を持ってくれているってことじゃないですか」
彼女はまた俺にしがみついてくる。
「三田村さん、好き!」
フローラルの甘い香りがした。甘さの中に、どこか官能的な香りもする。気を緩めたら誘惑に負けそうだ。
俺は彼女の手を離し、捨て台詞を吐いた。
「こんなことはよしてくれ」
6 葛藤
俺にとっては青天の霹靂のような出来事だった。俺は自身の心から尾崎さんの存在を消し去るためにここにやってきたのだ。なのに、あのように告白されて翻弄するとは。
消し去った後の晴れ晴れとした心境で美沙子に報告するはずだったが、結局のところ、わだかまりを残したまま尾崎さんの家を出るはめになった。
俺の態度がおかしいことくらい、美沙子はとっくに察しているだろう。多分に悩ませていると思うと心苦しい。美沙子に対する罪悪感が膨らんでいく。
(正直に話そう)
(いや、何でもかんでも口に出すのが正しい訳じゃない)
二つの考えが駆け巡る。どちらを選択すればいいのか。
俺のこういった優柔不断さは、ときにこうして見え隠れする。美沙子と出会ってからこの優柔不断さは表に出なくなったように感じていたが、心の奥には根強く潜んでいるようだ。
その度に喚び起こされる幼少時代。俺だって父に甘えたかったし、すり寄ったら笑顔を返してほしかった。この後天的に作られたであろう性分が父や母のせいだとは思っていない。だが、もしあんな環境でなければ、また違った自己が創られたのではないだろうか。
それともうひとつ思うのは、両親に甘えられなかった幼少期が原因で、大人の女性に惹かれるのではないかということ。女性に甘えたい欲望が、美沙子のような包容力のある年上の女性に魅かれる理由なのではないのか。だとすれば、それはそれで意味のある過去だったとうなずける。どちらにせよ、優柔不断が随所に頭をもたげてこないよう、今一歩自分を鍛える必要がある。
小学一年生のころだ。
川でザリガニを捕まえるのが流行っていて、下校中に、ある橋の下まで降りて行ったことがある。短パン姿の俺はランドセルを河原に投げ捨て、靴下を脱ぎ、ザブンと川の中に入った。水嵩はひざ下くらいだ。ザリガニを見つけることに一心不乱になり、あの赤い姿のみを探し求め、川の中を歩いた。
「いた、いた」
早々に1匹目を発見した。かぶっていたキャップの中に入れる。楽しくなってきて、川の中を歩き回った。なぜだか2匹目はなかなか見つからない。躍起になって、後ろを見ず歩き続ける。どれくらい歩いただろうか、振り向くとランドセルが米粒ほどになっていた。そのとき、
「いてっ!」
川底に沈んでいた何かが、足の裏に刺さった。
「いててて」
慌てて川から出ようとしたが、水位は太もものあたりまでになっていて、思うように足が動かない。力を振り絞ってようやく元の場所に戻った。確認すると左足裏に2センチ程度の切り傷があり、血が流れ出している。
「痛い、痛い」
噴き出る血を凝視したら、余計に痛みが増した。今にも泣き出しそうになったがぐっとこらえた。
取り急ぎ靴下で押さえる。靴下がじわじわと赤く染まっていく。
「帰らなくちゃ」
天を仰ぐと、噴き出す血が広がったような薄気味悪い空だった。帰りたくなかった。悪さをすれば閻魔様に舌を抜かれるよ、と見せつけられた恐ろしい閻魔像も、こんなおどろおどろしい赤黒い姿をしていた。特段悪さをしたわけではないのに、そんな重い気分に包まれ、不快な胸騒ぎだけが転がり続ける。
片足を引きずって帰路を急ぐ。が、いつもなら30分もかからない道のりが1時間以上かかった。
山の彼方で夕日が沈みかけている。あまりに帰宅が遅かったからか、母が自宅の前の通りで待っていた。俺の姿が見えるや否や息せき切って走ってくる。
「どうしたの?!」
血に染まった靴下と引きずる左足を見て、母は何が起こったのか理解できたようだ。掛けていたエプロンを引き裂いてケガをした箇所に巻きつけ、俺をおぶった。
「お母さん、お母さん、ごめんなさい!」
我慢していた涙が急にあふれてきた。
「いいんだよ、思いっきり泣いて。男の子だって泣きたいときはあるよね」
母の背中にギュッとしがみつく。
「痛かったねえ、もう大丈夫だよ」
母はとにかく優しかった。その背中は、こたつのようにほんのりと温かい。
自宅に帰り着くと、父が普段よりも早く帰宅していた。
「どうしたんだ」
「サトシ、ケガしたみたい」
そう言い放った途端、父が大声を張り上げた。
「甘やかせるな! おろせ」
母はビクビクしながら俺を下ろし、玄関先に座らせる。次の瞬間、父の手が動いた。ぎゅっと目をつぶる。予想どおりその武骨な手は、俺の顔をめがけて飛んできた。
「お前はどれだけ親に不愉快な思いをさせるんだ! 寄り道してるからケガなんかするんだ」
足先よりも腫れた頬よりも心が痛んだ。あまりにも対照的な父と母。俺は口をつぐんだまま一言も発さなかった。涙がとめどなくぽたぽたと流れては、膝の上に落ちる。父は俺の顔をまざまざと見つめ、こう吐き捨て、奥に入って行った。
「こいつはホントに忌々しい」
母は何も返さない。父の姿が見えなくなったときやっと
「ごめんね、サトシ。お前を守ってやれなくて」
と俺を抱きかかえた。
俺はそれから、心の内を外に出さなくなった。薄氷をかぶせたのはそのころからだったように思う。覆われた内の感情はときに暴走しそうになったが、強引に抑え込んだ。こうして、本当の心と抑え込まれて変化した心が共存し、もはやどれが自分なのかわからなくなっていく。
次第に、二つの心が葛藤する場面が何度も訪れては決めかねてさまようことになっていった。
7 共鳴
私には哲の心がよくわかる。すべてを話さなくても、会話の中から真意が手に取るようにわかるのだ。それは何も、哲がわかりやすい性分だからではない。言葉や眼差しの端々に見え隠れする機微が、私の心に共鳴するのだ。
彼には私に話せない何かがある。そこに女性が絡んでいるのは間違いない。きっと職場の同じ課の女性に違いない。
彼にはまだ危うさが存在しているようだ。最初の離婚を知里さんに打ち明けられなかった哲。あのような重大な事実を告げられなかったことを、知里さんが知ったとき悲しむんじゃないかと想定するのは早計で歪曲した考えだと思う。それは思いやりなんかじゃない。ただのエゴだ。そしてそれこそが哲の最大の欠点である。
優しさと優柔不断は紙一重だ。優しいからこそ相手を傷つけまいと本心に隠す。しかし、隠す行為が必ずしも相手に対する思いやりとは限らない。逆もまたしかり。相手に隠し事はしたくないと何もかも吐露するのも間違っているということだ。何を話し、何を話さないか、その判断はつきあう相手によって変わる。
私は哲の生い立ちを知りたいと思った。タイ店での成功、そして顧客にあれほど可愛がられる性格、そもそもの性分は明るく屈託のない人だ。にもかかわらずときたま現れるゆらゆらとした捕らえどころのない彼は、後天的に作られたものではなかろうか。
そんなことを考えていたら、次のクライアントが訪問してきた。
「初めまして。長野亜希子と申します。今日はよろしくお願いいたします」
長野さんはご主人との離婚協議がなかなか整わず、養育費や慰謝料などの相場や概算、年金分割などの知識について知りたいと尋ねてこられた40歳の女性である。
「私、実は夫からDVを受けているんです」
「DV……どのような?」
「言葉の暴力はしょっちゅうで、時に手が出ることもあります。2年くらい前がピークで、蹴られた衝撃で肋骨骨折をして数日間入院していました」
「それは大変でしたね。で、最近はどうですか?」
「昨年から多少おさまってやれやれと思っていたのですが、今度は子どもに当たるようになって。さすがに辛抱できなくなったんです」
ヒアリングシートを確認すると、お子さんは12歳の男の子と9歳の女の子だ。
「子どもさん二人ともに当たるんですか?」
「いえ。きつく当たるのは上の男の子だけです」
「何か原因がありますか?」
「あ、はい……実は……上の男の子は、前の夫との子どもなんです」
「そうなんですね、それでご主人があまり可愛がってくれないんですね」
「はい、息子も懐かなくて……あ、それでも小さいころはそうでもなかったんですよ。小学校に上がったくらいからでしょうか、頭ごなしに怒号を浴びせるようになったのは」
「下のお子さんの表現力が増して、可愛くなってきたからでしょうかね」
「多分、そうですね」
「長野さんはどうしたいんですか」
「このままだと息子、あ、翔太っていうんですが、かばいきれないなら別居するか、場合によっては離婚も視野に入れています」
ここに相談に来られる方はみんな心が疲弊している。今に至るまでこらえてきて、どうしようもなくなって頼ってくる。あと少し早く相談に来られるとまた違ったアドバイスができたものを、どの人も家庭の問題だからと外に出したがらない。円満であったころに戻りたい、戻れるに違いない、そんな思いで修復を試みるのだろうが、結局のところ破綻寸前まで来てSOSを発信する。どのタイミングで相談に来られるかによって、修復する手段か離婚する方法かを選択してアドバイスすることになる。
それにしても、やはり犠牲になるのはいたいけな子どもだ。いがみ合う両親を直視し、怯える子だっているだろう。心に負った傷を癒せないまま大人になる子もいるだろう。その傷を負ったまま新たな人格が形成され、それに後々苦しむのだ。
私は長野さんが帰ったあと、もしかしたら哲にも苦しい過去があり、それを隠しているのではないかと思った。彼には未だ覆いかぶせたままの人格があるのではなかろうか。そして、そうなってしまった原因が過去にあるのでは。だったら、一部始終を話してほしい。心を開放してほしい。これほどまでに信じ合っていても、相手の負担になってはと、まだ見せていない部分がある。それは私も同じかもしれないが。
今度哲に会ったら、過去について問いただしたい。彼の心の奥の奥に潜りたい。語ってくれるだろうか。