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薄氷(うすらい)の彼方  作者: 社れいら
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(後編)【第1章】愛の行方

 1 帰還

 

 空港に到着した。2年ぶりの日本だ。ああ、懐かしい故郷の匂い。


 俺は2年間一度も日本に帰ってこなかった。正月も盆も。それだけタイでの営業店を形あるものにしようと躍起になっていた。意外と俺のこの気質がタイという土地に合ったのか、大勢のお客さんと仲良くなれた。文化も馴染んだ。そして何より、与えられた数字を挙げることができた。2週間前に本店異動の辞令が下り、予定どおり日本に戻ってきたのだ。


(早く美沙子さんの顔が見たい。とはいえ、まずは実家に顔を出さなきゃ。そのあとは親友たち。美沙子さんのところは最後に取っておこう)


 空港から実家までは、バスで1時間半かかる。


「もしもし、母さん? 空港に無事着いたから。うん、うん、心配ないってば」


 母は、父との対面を気にしてくれていた。父との確執も、俺の中で許容できるまで回復していたのだが、(いま)だに母は気がかりで仕方ないらしい。


 ロビーからバス停に向かおうとしたとき、聞き覚えのある声が耳に入った。


「はい、2枚お願いします」


 知里(ちさと)だ。これから搭乗するようだ。


「さ、行きましょ!」


 知里の笑みが向かった先は、見知らぬ男性であった。俺より(とお)は年上に見える。


(誰だ? あの男性は)


 二人親しげにゲートに向かって歩いていく。俺に気づいた様子はない。ふと視線を下げると、指を絡ませて手をつないでいる。いわゆる「恋人つなぎ」というやつだ。それが目に入ったとき、ようやく腑に落ちた。


(そういうことか)


 2年という月日の無情な移ろいを、そこはかとなく感じてしまった。


(帰国して早々、知里に逢うなんて。しかもあんな状況を目撃するとは)


 ブルーな気分を抱えたまま、そろそろとバスに乗り込む。案外と()いていた。後ろから二番目の座席に座り、荷物を足下(あしもと)に置く。


 バスの中では、美沙子さんの面影ばかりが巡っていた。


(どうしているだろうか? 俺を待ってくれてただろうか? もう俺のことなんか忘れちまったかな?)


 しかし、一切の連絡を断ったまま、よく2年間も耐えられたものだ。彼女と過ごした1年は、短かったとはいえ大変凝縮した日々だった。その記憶が大きな支えになったのは間違いない。


 記憶だけで己を奮い立たせたなんて、今までの自分じゃとても考えられない。本当に彼女には感謝しても、し切れないと切実に思う。


 美沙子さんの姿に想いを馳せていたら、あっという間に実家の最寄りのバス停に到着した。


「ただいま」


「にいさーん、お帰りなさい!」


 サンダル履きの妹が飛び出してきて、俺に抱きついた。


「おいおい! 優名(ゆうな)!」


「兄さん、久しぶりー! ああ、何だか異国の香りがするわ」


 俺の胸の中で、鼻をくんくん鳴らす。


「ははは」


 妹の天真爛漫さに、俺はずいぶんと助けられてきた。優名がいなければ、俺の人生はもっとすさんでいただろう。


(さとし)、お帰り」


「ああ、母さん、ただいま。父さんは?」


「さっき出かけたの。あなたに正面から会うのに抵抗があるんでしょうね」


「そうなんだ……」


 俺は、少しばかりホッとした自分に気づいていた。


「兄さん、これからの予定は?」


「うん、1週間ここで過ごした後、本店勤務なんだ」


「本店かあ。またひとり暮らしだね。独身貴族だあ」


 優名も母も美沙子さんのことは知らない。


「すごいだろ、32歳にして大出世だぞ」


「でも兄さん、そんな大きな組織で平気なの? いつからそんなにたくましくなったのよ」


「これでもタイじゃモテモテだったんだぞ。結婚を申し込まれたことだってあったんだから」


「きゃ、兄さんが!? 信じられなーい」


「どうやらこれは、俺に与えられた天性なのかもな」


「うふふ、じゃあ日本でもその能力を目いっぱい発揮してね」


 そう放ちつつ、優名は俺のボストンバッグをひったくって奥へ入っていく。


「ちょ、待てよ、優名」


「兄さん、お土産はー?」


「あるよ、そこに座りな」


 優名はまるで、しっぽを振りながら「待て」という指示に従う子犬のようだ。根っからの人懐っこさで世渡りもうまい。


「ほら、これ」


 紙袋を得意げにかざすと、優名はそれをぶんどるようにつかみ取り、中をのぞき込む。小さな包み紙を乱暴に開け、頬を赤らめた。


「わあ、かわいい! さすが兄さん、私の好み、よくわかってるわね!」


 花柄のシルバーネックレスをさっそくつけようとする。


「あれ、まだ何か入ってる……あ、お揃いのブレスレット!」


「どっちにしようか迷って、結局どちらも買ってきてしまったよ」


「兄さん、それ、大正解!」


「ははは、優名はわかりやすくていいなあ」


「どういう意味よ?」


「いい意味だよ。純粋で屈託がなくて」


 すねた素振りをしながらも、喜びを隠せない表情を浮かべる。


「あ、母さんにはこれ」


「私にもあるの? 私のものなんていいのに」


「ソープカービングっていうんだ。石鹸には見えないだろ? 彫刻が繊細過ぎて」


「とてもきれいね。もったいなくて使えないから飾っておくわね」


「それから……父さんの分。渡しておいてくれる?」


「わかったわ」


 手提げ袋を母に手渡した。


「ちょっと休みたい。俺の部屋、まだあるよね?」


「そのままよ。お掃除はしてあるからね」


(実家で寝泊まりなんていつ以来だろう)


 階段のきしむ音を確認しながら2階へ駆け上がった。ボストンバッグをベッドに放り投げる。寝転んで、潤に電話した。


「テツ~! 戻ってきたのか!」


「おう、さっそく飲み会手配してくれよ」


「了解~。リッキーには俺から話しとく」


「コップジャイジャ!」


「何だよ、それ」


「タイ語だよ。『サンキュー』って意味さ」


「ずいぶんとタイにかぶれた様子だな。こりゃあ、みやげ話が楽しみだ」



 実家での1週間は矢のように過ぎた。父とは相変わらずあいさつ程度の会話しかしなかったが、それでも穏やかに過ごすことができた。そこにはもう、昔のいかつい父はいなかった。


(本店勤務が始まる前に、美沙子さんに会いたい)


 ケータイのアルバムには、二人並ぶ2枚の写真。


(この写真、何度眺めただろう)


 回想にふけっていたら、1階から優名の声がした。


「にいさーん、ご飯よー」


「今行くー」



 2 再会


 実家を出て、美沙子さんのマンションを目指した。


(待ってくれていただろうか)


 それが気がかりで仕方なかった。


 彼女のマンションが近づくにつれて、鼓動が激しくなる。うるさいくらいだ。


(あれ?)


 相談所のドアには、「外出中」というプレートが掲げられていた。


(ようし、驚かせちゃうぞ!)


 はやる心を抑えつつ、隣の103号のインターホンを押した。


「はーい」


「こんにちは」


「あ、三田村さん!」


「確か……有沙さん? ですよね?」


「はい。覚えてくれてたんですね」


「もちろんですよ。で、あのう……大野さんは?」


「母は今、クライアントさんのお宅に行ってます。私、相談所の留守を任されていたんですけどね、お昼ご飯を食べにこちらに」


「昼食中でしたか、すみません」


「いえいえ、ちょうど終わったところなんです。どうぞ入って待っててください」


「とんでもない、出直しますよ」


「出直していただくなんて申し訳ないです。すぐ戻りますから、どうぞ」


 俺としたことが、断れずに上がり込んでしまった。


 2年前に美沙子さんとともに過ごした空間。ここで今、娘さんである有沙さんと二人で美沙子さんを待っているという、何ともキテレツな絵図だ。


「あれから大野さんは元気でしたか?」


「それがね、そうでもなかったんです」


「えっ、そうでもなかったって……」


「はい、よくわからないんですけどね、あれからしばらくして、何やらとてつもなく悲しい出来事があったようで。毎日のように泣き明かしていたんです。私も自分の生活があるからずっとついていてあげることはできなかったんですけどね。できる限りここに足を運んできてはいたんですけど、理由を話してくれないんです。あの年齢で泣き明かすって、よっぽどのことがあったんでしょうね。仕事がらみでメンタルを病むってことは今まで一度もなかったから、仕事関係ではないと思うんですけど。あ、こんなこと、三田村さんにするお話ではないですよね、ごめんなさい。母に叱られちゃう。内緒にしておいてくださいね」


 俺は、美沙子さんと別れてからの彼女の様子を初めて知って、胸をえぐられそうになった。


「今は、今は大丈夫なんですか?」


「ええ、それでも半年近く続いたかな。かわいそうで見ていられなかったです」


(知らなかった。あんなに気丈に振る舞っていても、心は押しつぶされていたんだ)


「あ、また私、余計なことを。くれぐれもこの話は母にしないでくださいね」


「わかりました」


「ところで、三田村さんはどうしてそこまで母のことを気にかけてくださるんですか?」


「大野さんには本当にお世話になったんです。大野さんがいなければ、離婚問題は大きく膨れ上がって、ちゃんとした離婚ができなかったと思います」


「珍しいですね、女性の相談者が多い中、三田村さんのような方が通ってきてくださるなんて」


「僕はどうも、女性の気持ちを忖度(そんたく)するのが下手みたいです」


 美沙子さんの心情を察せなかった自分自身への戒めも込めていた。


「ただいま~」


「あ、母だわ。三田村さん、これね!」


 有沙さんは、唇をとがらせて人差し指をその前に立てた。俺は黙ってうなずいた。


「有沙―、どうして相談所にいないの? あら、お客さま?」


 俺はソファーから立ち上がって、彼女を迎えた。


 

 3 気配


「あっ、三田村さん!」


「こんにちは。お久しぶりです」


「あっ、あ……」


「母さん、どうしたの!?」


 彼女はよろよろとその場にしゃがみ込んだかと思うと、うつむいて肩を震わせた。


「母さん!」


「美沙子さん!」


 とっさに口走ったものだから、有沙さんが驚いてこちらに目をやった。


 二人して、美沙子さんを抱えてソファーに座らせる。


 両手で顔を隠し、すすり泣きを始めた彼女をしばし見守っていたが、ただならぬ気配を察知した有沙さんが

「ちょっとコンビニに行ってきます。母をよろしくお願いします」

と軽く会釈をして出て行った。


 玄関ドアが閉まった途端、俺は彼女の隣に駆け寄り、力任せに抱き寄せた。


「ごめんなさい。美沙子さん、ごめんなさい。俺を許してください。美沙子さんのことちっともわかっていなかった俺を」


 彼女は俺の背中に手を回してきて、そのままひたすら声を立てずに泣き続けている。俺は彼女の心が落ち着くまで抱きしめ続けた。彼女は子猫みたく、俺の胸の中に身を預けている。


 やっと状況が飲み込めたかのように、彼女が蚊の鳴くような声を発した。


「帰ってきたのね……」


「はい」


「いつ?」


「1週間前です」


「哲さん、ちっとも連絡してくれなかった」


「連絡するなって言ったのは美沙子さんのほうですよ」


「そうだったわね」


 涙でぐしゃぐしゃの顔をのぞき込もうとしたら

「見ないで。ひどい顔だから」

と言う。


 あまりに愛おしくて、もう一度固く抱きしめた。


「有沙に気づかれちゃったね」


「そのようですね」


「でも……哲さん、会いたかった」


「俺も。改めて連絡先を交換してもらってもいいですよね?」


「もちろんよ」



 4 男女


 美沙子さんのケータイが鳴った。


「有沙だわ」


 泣き止んだころを見計らったかのように、有沙さんから電話がかかってきたのだ。


「うん、うん、わかった。じゃあね」


「有沙さん、何て?」


「『今日はもう家に帰るから早退でいい?』って」


「気を使わせてしまいましたね」


「有沙、三田村さんのこと気に入っていたから、相当ショックなんじゃないかしら」


「おっと、そうなんですか。それは複雑ですね」


「そう、親子で三角関係なんてね」


「何だか申し訳ないですね」


「で、どうなの? 今後の予定は?」


「来週から本店勤務です」


「やったじゃない、思っていたとおり、出世コースを着実に歩んでるわね」


「今のところはね」


「大丈夫よ、哲さんなら」


「本店のそばに住むから、ここまでちょっと遠くなりますね」


「ええ、2時間くらいかかるわね」


「毎週会いに来ますから」


「無理しなくてもいいのよ。お休みの時くらい羽を伸ばしてね。私は今のままで十分だから」


「無理なんか。むしろ会える日を楽しみに仕事にも熱が入りますよ」


「そうなの」


 彼女の表情がいくぶん柔らかくなった。


「それにしても、美沙子さんがこんなに子どもっぽいとは驚きました。泣きじゃくるなんて」


「だっていきなり現れるんですもの。込み上げてもくるわよ」


「ははは、可愛らしいところがまだ残っていますね」


「残ってるって何よ」


 彼女は甘えるように俺の胸に顔をうずめてくる。俺は恥ずかしげもなく、さらに強く抱きしめ返す。


 空間からすべての音が消えた。


 彼女の泣き腫らした目を見つめ、おもむろに顔を近づける。目を閉じた彼女の唇にそっと自身の唇を重ねた。


 カノジョという位置づけではなく心の支えとなってきた人だから、こうして男女の関係になるのは正直照れくさい。だが、ごく自然でそこに違和感はなかった。


 ゆっくりと唇を離し、こう告白した。


「美沙子さん、俺と人生をともに歩んでくれませんか」


 口づけの余韻でおとなしくなっていた彼女が、間をおいて小さく答える。


「いいの? 私なんかで。すぐおばあちゃんになっちゃうよ」


「いいんです。美沙子さんはありのままでいてくれたら」


「じゃあ、本命のカノジョができるまでね」


「何を言ってるんですか、お仕置きしますよ」


 俺は再び彼女の唇を奪った。さっきよりも激しく。彼女は、それ以上何も言わなかった。



 5 物色


 気がついたら翌朝を迎えていた。


「哲さん、おはよう」


「あれ? 俺、ここで?」


 どうやらソファーで眠ってしまったようだ。


「俺、何か悪ふざけとかしてないですよね?」


「悪ふざけ?」


「あ、ええと、あの、美沙子さんを……」


「ふふ、したかもよー」


「えっ、ホントに!?」


「冗談よ。疲れてたんでしょうね、そのままソファーにバタンキュー」


「ははは、美沙子さん、『バタンキュー』って。死語ですよ」


「えー、そうなのー?」


「やっぱり美沙子さんとの会話は楽しい。明日から本店に行きたくないよ」


「ごねてないで、さあ朝ごはん食べましょ」


 思い描いていたときがやってきた。美沙子さんとの生活、けれど、それも今日限りだ。


「私は相談所に行くからね。ゆっくりしていってね。あ、あまり物色しないでよ。時間が空いたら相談所にでも来てちょうだい。予約はないけど事務作業があるし、有沙がそろそろやって来るからね」


「了解」


 シャキッと敬礼のポーズをすると、彼女は含み笑いをした。


(物色するなと言われてもねえ。好きな人の暮らしは気になるもんねえ)

 美沙子さんが出て行ったあと、彼女の言葉を(ないがし)ろにして、キョロキョロと室内を見て回った。


(へえ、意外とキチンとしてるんだ)


(あ、ここは寝室だった)


 見て見ぬふりをして、そうっとドアを閉める。


(昨日の出来事が夢のように思える。あんなに勢い余って泣きじゃくっていたのに、さすが切り替えが早いな)


 昨夜のことで頭がいっぱいの俺は、自分自身の未熟さにかき乱されないよう、美沙子さんの作った野菜スープを一気に飲み干した。



 6 強気


「母さん、おはよう」


 有沙が相談所にやってきた。気だるい挨拶だ。


「ほら、母さんじゃないでしょ、ここでは」


「はいはい、所長さん」


「どうかしたの?」


「どうかしたのって。母さんのせいよ」


 すたすたと私の前にやってきて、続ける。


「母さん、昨日の出来事、説明してくれる? アタシにだって聞く権利はあるよね?」


「権利? う~ん、権利があるかないかといえば厳密にはないわね」


「母さん!」


「わかったわよ。三田村さんとの関係が知りたいんでしょ」


「アタシ、母さんに、三田村さんを気に入っているって話を散々したでしょ。ひどいよ」


「ごめんなさい。でも言える状況じゃなかったのよ。2年前に別れたしね」


「別れたって……。結局、よりを戻したんじゃないの?」


「うん、まあ、そういうとこかな」


「もう、仕事になんかなんないわよ。母さんのことが信じられなくなった。今日を限りにココ辞めさせてもらうわ」


「そんな急に」


「いい年齢(とし)して、みっともない。母さん、三田村さんの人生をかき回す気? かわいそう。彼には相応のカノジョを見つけてもらって応援するのが母さんの仕事じゃないの。何よ、横取りしちゃって。姉さんだって近々子どもが産まれるんだからね。そうなると、母さんはおばあちゃんになるのよ。わかってる? 息子みたいな男性と恋愛するなんて馬鹿げてる。ホント、三田村さんが気の毒だわ。彼が母さんと同じ歳になったとき、母さんいくつだと思ってるの? まさか計算もできないって訳ないよね。アタシ、ここの相談所の所長さんの考えについていけなくなったわ。それが辞める理由。じゃあ、母さん、元気でね。新しい人をまた雇ってちょうだい」


 有沙は早口でまくし立てた後、振り返りもせず出て行った。


(娘を傷つけてしまった)


 確かに有沙は哲さんの話をよくしていた。その度に後ろめたさを感じつつも、何食わぬ顔で聞いていた。事実を話したところで受け入れてくれないのが目に見えていたし、2年後にどうなっているかなんてわからなかったからだ。


 けれど、2年のブランクを経ても彼の気持ちは変わっていなかった。それはとんでもなくうれしかったが、裏腹に有沙を、かけがえのない娘を傷つける結果になってしまった。とはいえ、己の心をごまかすことはできない。彼の将来や前途なんて、これでもかというくらい何度も何度も思案してきた。が、いくら離れようとしても、どちらともなく心が寄り添ってくるのだ。有沙が考えているような、幼い恋愛ではないと信じている。誰にどう言われようが、自身の心に正直に生きたいのだ。


 私にしては強気だと、我ながら驚いている。周りの人たちの幸せを願うがあまり、自分の思いを置き去りにしてきた過去の私が、二度とそうなってはいけないと背中を押したのだろう。心の声は素直に受け入れなさいと。けれども、娘との距離がここまで広がってしまったかと思うと、胸が痛み、仕事に集中することができなかった。


  

 7 名前

  

「美沙子さん……」


 身なりを整えた哲さんが相談所のドアを少し開け、ささやくように声をかけてきた。


「あれ、有沙さんは? まだ?」


「それがね……」


「あ、ひょっとして。俺が『美沙子さん』なんて口走ったから」


「いいのよ、いつかはわかることだから」


「美沙子さん、俺、今晩、家に帰るつもりにしていたけど、明日の朝までいていいかなあ」


「えっ、ここから本店に出勤するってこと?」


「うん」


「かなり早起きしないといけなくなるわよ」


「でも……美沙子さんといっしょにいたい。それに娘さんとのことは俺の責任だから」


「責任だなんて。そんなの感じなくていいわよ」


「いや、それは無理だよ」


「私たち親子は大丈夫。時が解決してくれると思うから」


「大きな亀裂にならなければいいけど」


「まあ、今晩のことは哲さんにお任せするわ」


「ホントはいてほしいくせに」


「もう、哲さんたら」


「その代わり、明日の朝起こしてくださいね」


 了解の目配(めくば)せを送った。


 哲さんが、接客用テーブルで紅茶を入れる準備をしてくれている。何度もここで入れてきた紅茶。今やどこに何があるか把握していて、ティープレスで茶葉を蒸らす手順やタイミングもすっかり覚えていた。


「美沙子さん、紅茶が入りましたよ」


「あら、いつもと香りが違うわね」


「さすが美沙子さん。これ、タイの紅茶なんです」


「そうなの。初めてだわ」


「一息入れません?」


「そうね」


 思い起こせば、2年前にもこうして紅茶をすすった。


(あのときは一時でも長く彼を引き留めたくて、わざと熱い紅茶を入れたんだっけ。哲さんは私の本音に気づいてくれたかな)


「美沙子さん、何考え事してるんですか?」


「ううん、何でもない」


(こんな日が来るなんて。確かに哲さんはこうして目の前にいる。とても信じられないけど、現実なのよね)


「美沙子さんの頬、つねってもいい?」


「哲さん!」


「ほら、やっぱり。俺の勘は当たったようですね。夢みたいって思ってたでしょ。あはは」


「哲さん!」


「さっきから『哲さん』としか言ってないですよ」


「哲さん!」


「あはは」


「哲さんは、いつの間にこんなに大人になってたの」


「俺は全然変わっていないですよ。まだまだ子どもですよ。美沙子さんに比べたらね」


「どういう意味よ」


「あ、あちっ。熱かったですね、紅茶。まるでタイに行く直前に美沙子さんが入れてくれた紅茶のよう」


「哲さん!」


「ほらまた。あはは。美沙子さん、もう熱いのを入れなくてもいいんですよ、俺はどこにも行かないから」


(あのとき、火傷(やけど)するほどの紅茶を入れた理由、哲さんはやはり気づいてたんだ)


「そうだ、美沙子さん、これからは『美沙子さん』『哲さん』ではなく、呼び捨てにしません?」


「呼び捨て?」


「そう、『みさこ』『さとし』ってね」


「えっ、いいの?」


「『いいの?』って。 もしかして未だに年齢を引け目に思ってる?」


「そりゃそうよ」


「俺がいいって言ってるんだから、そのままでいいんですよ。何度言わせるのやら。あ、ひょっとして有沙さんに何か言われたんでしょ。多分そうだ、今ごろになって引け目なんて」


「もう、さとしにはお手上げね」


「おっ、みさこ、その調子、あはは」


 私は哲さんにかなわないと思った。やっぱり年齢は関係ないのだ。否定しても否定してもそう思わせてくれる。哲さんの持つ自然のエネルギーというかパワーというか、それにぐいぐい引き込まれてしまう。だからこそそれが、私なんかでいいのかと思わせる要因になっているのだ。だけど、すべてを受け入れたいし、受け入れてほしいと望むのは正直なところ。

 

 いつか彼には新しいカノジョができるだろう。それはそれで仕方ない、でも今はまっすぐに私のほうを向いていてくれる。それでいいのだ。そう、それでいい。何だかんだ言ってもやはり私は相手の幸せを優先してしまう。こういう性分なんだ。きっとカノジョができたら「彼のため」といって身を引くんだろうな。で、目いっぱい落ち込む。わかってる、うん、わかっている、けど今は、今は彼を信じたい。


「考え事してると、せっかくのおみやげが冷めちゃいますよ、みさこ」


 彼が私の腕をつんつんとつついた。


「さとし……」


「さとし……何だかいい響きですね。みさことの距離がうんと縮まったみたい」


 

 8 不動


 哲は、夕方の来客前に103号に戻った。相談所を閉めて帰ると、そこには、シャワーを浴び、ソファーで寝そべっている哲がいた。


「今日は私の寝室を使ってね。私は娘の部屋で寝るから」


「えー、いっしょじゃないの?」


「当然です!」


「じゃあ、起きておこうっと」


「ダメよ、明日は本店初日なんだから」


「あ、そうだ、実家から持ってきたものがあるんだ」


 彼はバッグから1枚のDVDを取り出して、こちらに差し出した。


「なあに?」


「『フラッシュダンサー』。母が大好きで、昔ビデオテープを持っていたんだけど、あまりに好きすぎてDVDも買ってたみたい」


「わあ、当時、映画館で3回も見たわ」


「よかった、ちょうど美沙子の青春時代の作品かな、と思ってね。観る?」


「観る観る」


 体を寄せ合って最後まで視聴した。


「0時過ぎたわ、そろそろ寝ましょう」


「いやだ。まだ美沙子といたい」


「明日朝早いでしょう?」


「いやだ、眠らない」


「しょうがないわねえ、いっしょに寝てあげるから」


「ほんと?」


「ほんと。まるで子どもね」


 私は自身の寝室で、哲と絡まって眠った。


 一方が大人になり、もう一方が子どもになる。そして、その時々で逆にもなる。


(このバランスが、私たちの関係を不動にしているのかな)


 彼の頭をなでながら、そんなふうに思った。



 9 本店


「本日から営業二課に栄転となった三田村くんだ」


「三田村哲、32歳です。タイ店で2年間店長を務めました。初めての本店勤務となりますが、どうぞよろしくお願いいたします」


 頭を上げると、女性社員が3人固まって何やらひそひそと話している。その中のひとりが挙手して質問してきた。


「三田村さんは独身ですかー?」


「えーと、はい、今は」


「今は……ということは、そういうことですね」


「はい、そういうことです」


 女性社員らは、輪をかけて雑談に熱中した。


「おい、そこ。静かに。おしゃべりしてないで、三田村くんにいろいろと教えてやってくれ」


「はーい、課長」


 原田課長は俺に顧客リストを手渡して、挨拶回りから始めるよう指示した。


 デスクには、パソコンのみ。持参した文房具などを並べていく。


「三田村さん、これ使ってください」


 隣の席の女性がボールペンやメモ帳などをこちらに渡してきた。


「あ、ありがとうございます。いいんですか?」


「ええ、前に勤務していた方が結構置いていったんです。よかったら使ってください」


「では、遠慮なく」


 営業二課は男性が課長を入れて5名。女性は3名いるが、営業職員は1名だけのようだ。主に、新型車の販売をメインにしている課である。どうやって販路拡大していくかのプレゼンも多いようで、営業力をさらに強化するには格好の課である。


(顧客のリストアップと挨拶回りの準備……と)


「あ、あの、私、尾崎しおりって言います。この課に所属して3年目です。三田村さんのようにバリバリ営業できるよう頑張ってます」


「そうですか。僕は……」


「おーい、三田村くん、歓迎会は来週の火曜日か水曜日、どっちがいいかなー」


 原田課長がデスクから声をかけてきた。


「課長、僕はどちらでも差し支えありません」


「じゃあ、火曜日空けといてくれるー?」


「承知しました」



 初日はデスクワークに特化した。


(担当地区のリストアップは完了。明日からさっそく現場だ。どんな出逢いがあるか、ワクワクするなあ)


「ああ、そうだ。三田村くんは尾崎くんとペアで回ってくれるかな」


「えっ、ひとりで大丈夫ですよ」


「尾崎くんはこう見えても結構やり手なんだぞ。お互いに刺激し合える関係になるかもしれないから、とりあえず一度同行してみればいい」


「あ……はい、わかりました」


 何だか鼻をへし折られた気分だ。けど仕方ないな、課長命令だからな。


「三田村さん、明日はよろしくお願いします」


「こちらこそ。担当エリアの情報をいろいろ教えてくださいね」



 10 終着点


 翌日は尾崎さんと連れ立って、担当エリアを回った。第一印象の穏やかなイメージと違って、営業現場ではシャキシャキしていてそのギャップに驚いた。


「原田課長がおっしゃっていたとおり、尾崎さんは結構やり手のセールスレディですね」


「そんなことないですよ。あ、三田村さん、ここでお昼しません? ワンコインで食べられますから」


「おっ、こういった情報はありがたいですね」


 尾崎さんは、年齢を問うと27歳だそうだ。入社して5年というが、元来の明朗さと人の(ふところ)にスッと入り込むトーク力で、かなりの顧客をファンにしているようだ。


「三田村さんが二課に入って来られて、課が華やいだ気がしますー」


 快活で会話のテンポもいい。ショートカットで小柄だから見た目はかわいい印象だが、気を抜くとペースに飲み込まれそうで、正直言ってちょっと苦手なタイプだ。


「早く馴染んで二課を盛り上げたいですね」


 彼女は俺よりもずいぶんと食べるのが早い。サバの味噌煮とご飯はみるみるうちになくなっていく。


「三田村さん、次は隣の区を回りましょうね」


(彼女のフットワークは見習うべきところがある。さすが本店は違うな。うかうかしてられない)


 一息にお茶を流し込み、会話もほどほどに食堂を出た。



 本店勤務二日目は(またた)く間に終わった。二日目の夜になり、やっと美沙子に電話することができた。


「昨日は電話できずごめんなさい。それこそ『バタンキュー』で」


「『バタンキュー』、ふふ! で、どう? 本店は大変?」


「まあこんなもんでしょ」


「かわいい女の子が隣のデスクにいたとか?」


「美沙子!」


「図星?」


「いやいや、確かに隣のデスクは女子ですけど……」


「いいのよ、自由に羽を広げて」


「ダメですよ、そこは嫉妬するところでしょ」


「そう? じゃあ。いやあよ、私以外の女の子に目を向けちゃ」


「はは、女の子!」


「ええ、私も一応女の子」


「ははは。でね、その隣の女子、かわいいってもんじゃないんですよ。しっかりしすぎて、俺にはどうも苦手なタイプ。けど仕事はかなりできて、キャリアウーマンって感じ。きっとああいう子がどんどん出世して部下を手のひらでうまく使っていくんだろうな」


「へーー」


「何だよう、『へーー』って」


「哲が女子の話なんかするの初めてだからね」


「やっぱり妬いてくれてる?」


「そうらしいね」


 俺は本店で起こった出来事や感じたままを美沙子に聞いてほしかっただけなのだが、どうも余計なことをしゃべってしまったようだ。尾崎さんは本店での先輩といえども、営業経験は俺のほうが長い。部下にイニシアティブを取られたままではいたくない。そんなことも美沙子に話したかったが、つきあっている女性に他の女性の話をするのはタブーだ、そう思えた。


 女性はいくつになっても女性なんだ。美沙子は年齢という負い目を抱いているだけに特別敏感になっているのだろう。年齢差のある女性とつきあうってことはそういうことなんだ。彼女の持つ負い目をいかに和らげてあげるか、それはつきあっていくうえでの大きなポイントだ。単なる恋愛感情なら「好きだ」「愛している」と表現すればいい。けれども、彼女の幸せを願いつつ愛を育んでいくには、越えなければならないハードルが多々ある。


 愛の行方は、交際する相手によってずいぶん違ってくるものだ。俺は美沙子とともに歩むと決めた。その覚悟が揺らぐことはない。ただ、この恋愛のたどり着く終着点がどこかが今もって定まらず、わずかとはいえ、心に暗い影が生じている。


(ああ、俺はいったい何考えてるんだ。まだこちらに来て二日しか経っていないのに)


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