(前編)【最終章】二人の心
1 相性
時は素知らぬ顔で刻々と過ぎていく。私は哲さんとの関わり合いをためらっていた。多分彼も同じなんだろう。
時折ぼんやりしつつも、目の前の業務を淡々とこなす。相変わらず相談者の苦悩を聴き取っては、元に戻す方法を探るべきか離婚に向けて背中を押すべきか頭を悩ませている。
28歳の小宮さんは、夫からの離婚申し出があり相談に来られた女性である。飄々とした印象ではあるが、身ぶりや口ぶりから燃えたぎる感情が湧き出ていて、それが私を圧迫する。
「大野さん、聞いてください。主人ったら、年上の女性に入れあげているんですよ。それも一回りも上の。若い女の子ならまだしも、余計に腹立たしいです」
「困った旦那様ですね」
「ありえませんよね、大野さん」
これが世間の本音なんだろう。年齢差のある、しかも女性が年上の組み合わせともなると奇異な目を向けられる、ごく自然な反応だ。
「で、小宮さんはどうしたいの?」
「そりゃあ、首根っこ掴んでガツンと目にもの見せてやるわよ、アタシを蔑ろにしたらどうなるか」
そう吐き捨て、不敵な笑みを浮かべた。
愛情と憎悪はまさに表裏一体だ。愛が強ければ強いほど、それが裏返ったときの憎しみも大きい。愛を貫くのは、よほどの覚悟がないと難しく険しい道のりなのだと再認識した。
突如、さっきまで一触即発にも思えた彼女の顔に暗雲が立ち込め、トーンが急降下する。
「大野さん、私ね、主人をとっても愛しているんですよ。だから少々の遊びには目をつぶってきたんです。でもね、今回に限ってはどうも違う、私の勘なんですけどね、浮気じゃなさそうなんです」
「何か根拠があるの?」
「最近、やたら『相性、相性』って言うようになったんですよ」
「相性?」
「はい、主人が言うにはね、私より相性がいい人と出逢ったらしいんです。そんなこと口にする人じゃなかったからね、だからこれは、今までとちょっと違うかもって」
つぶらな瞳に今にも零れ落ちそうな涙をため、訥々と語る。
(心が混迷し、情緒不安定になっているようね)
そう感じた私は、2時間かけてその心に寄り添った。彼女の表情は徐々に和らいでいき、ホッと胸をなで下ろした。
小宮さんが帰ってから、じっくりと考えてみた。そう、相性についてだ。相談の最中に私は、このうら若い女性の相性に対する発言を受容しながらも、心の中で慎ましく反逆していた。そもそも相性の良し悪しに年齢が関係あるのかと。
同じ時代を生き、同じ話題を共有する、このように同年代で話が合うのは自明の理。ただ、これと相性が合うのとは、まったく別物だ。もちろん、それをもって伴侶のいる人が不貞の理由とするのは論外だが、年齢そのものが相性を壊す元凶ではないと確信したのである。
なぜ哲さんに心惹かれるのかその真相が計り知れなかったが、突き詰めると相性なんだと、ここに来てやっとつじつまが合った。
2 主人公
俺と美沙子さんは、年齢は違うものの似た者同士なんだと思う。相手を気づかうがゆえに遠慮してしまう。内心を握りつぶしてチャンスを逃してしまう。そんなつもりはないのに誤解され傷つく。この傷をお互いに癒し合いたいと切に思っているにもかかわらず、それをストレートに放てない、それはやはり相手を気づかってしまうから。
俺はこの世に生を受けたちっぽけな人間。愛を育てたいと地上に降り立ち、「三田村哲」という役柄を演じる。
前世なんて信じないが、もしかしたらあまりにも傲慢なヤツで、人生をやり直させるためにこのような男に仕立てられたのではないか。次は三田村というヤワな男に生まれ変われと。誰に命令されたか知らないが、何とも迷惑な主人公という役どころを与えられたものだ。
そのせいで俺は、この意気地のない三田村を一生背負っていかなければならなくなった。
美沙子さんは、あんなに他人の人生を抱え込んでつらくないのだろうか。本人はいたって前向きだが、俺は彼女の翼が傷んでいるのを知っている。その傷があるからこそ他人の痛みもわかるのだろうけれど、自身の痛みはおくびにも出さず闊達に振る舞っている。きっと、傷を負った心に薄氷のような冷たいベールをかぶせ、締め切っているのだろう。
俺だって、いっぱしの営業マンとして顧客に愛嬌を振りまいているとはいえ、本心には蓋をしていると言っていい。
このままじゃダメだ。互いに勇気をもって薄氷を壊し、心を露わにしなきゃ。そうやって、主人公は主人公らしく生きるんだ。
こう決意したとき、脆弱な自分を作り上げた背景が生々しく思い出された。
3 理由
仕事柄、来る日も来る日も俺は営業車で走っている。普段は空なんか気にも留めないのに、今日はやけに赤い空に釘づけになった。大スクリーンのごとく迫りくる血潮はいかにも挑発的で、俺に向かって何か言いたげだ。
やめておけ――
前に進め――
どちらなのか――
どうして空までもが俺の心を乱す?
俺はいつもそうだ。こうしようと決断しても、なかなか一歩が踏み出せない。いわゆる優柔不断と呼ばれる輩のひとりだ。常に肯定と否定のはざまをのらりくらりと漂っている。失敗の原因は恐らくここにあるのだろう。自分でもわかっている。そして過去に遡れば、自分自身に自信がないことが最も大きな理由。
空にどす赤く染められた雲が、子どものころの記憶を呼び起こした。俺は家に帰るのがイヤだった。あえて遠回りする日は、決まってこんな派手な雲だ。まるで俺を鋭く責め立てるような。
父は幼い俺を可愛がってはくれなかった。積極的な虐待を受けていた訳ではなく、今でいうネグレクトといった親子関係だ。子供心に、俺に向けられる冷たい視線や無関心さに違和を感じ取っていた。
対照的に、父に抱き上げられては歓喜の声を上げる妹。ほころぶ父の顔。その様子を見るにつけ、妹ひとりがひいきにされている現状に合点がいかなかった。ただ単に俺が妹よりも年長者だからか、それとも俺のことが嫌いなのか。
その後、俺が母の連れ子であると知るまでには10年もの長い歳月がかかった。
一方、母はしょっちゅう自分を責めていた。俺を守ろうとする母に対し、近隣に轟くほどの怒号を浴びせる父。ときに手を上げてはよろめく母の姿にたじろぎ、身震いした。いたたまれなくなり母を救わなければと俺の小さな心は奮うが、いざとなると恐怖におののいて体がすくんでしまう。俺の前では気丈に振る舞っていた母だが、記憶にあるその顔は崩れそうなくらい歪んでいた。
この光景は心の奥底に深くかつ鮮明に刻み込まれた。母を守れなかった悔恨の念から心がギシギシと軋み、乾き、そして荒んでいく。家族とは一体何なのだ。期待しても空しいばかりの感情は切り捨てるしかないのか。
望むものは家族の温かさ、それだけだったがかなう日は訪れなかった。
(すべての始まりがそこにあるような気がする)
怯えながら暮らす冷め切った家庭、愛されない無念さ。なぜ俺を愛してくれないのか。なぜ母は粉々になっても耐えているのか。「愛というもの」に対する不信感が日ごとに募る。
どんなに愛したってどのみち愛してはくれないのだと自暴自棄になり、やがて「愛というもの」を蔑むまでに至った。今ならこの根源の輪郭くらいは理解できるが、反抗心を禁じえない時期もあった。
俺の心が未だに彷徨っているのは、この幼少期からの負の連鎖が生んだトラウマに支配され続けているからなのだ。
そんな俺だって、人並みに女性を好きになり結婚をした。が、二度も破綻した。何も特別なことは欲していない、愛を肯定したかっただけなのだ。
いや、それだけではない。改めて自問自答してみると、「愛というもの」の本質をはき違えていたのではないかとも思えてきた。相手に愛情を注いでいるつもりでも、それが独りよがりじゃ愛とは呼べない。どうやら俺は、愛情そのものを安く見積もっていたようだ。心からその人を愛するということがどういうものかを理解するには幼すぎた。俺は美沙子さんに出逢って、まざまざとこの間違いを思い知らされた。
いつまでも過去と対峙し、縛られ続けてはいけない。自らに非はないのだと、その心を解き放してやらなければ。そして、愛に臆病な自分とはおさらばするのだ。
連なっていた赤い雲は散り散りとなり、いつしかその行方をくらましていた。今夜も真白な雪が舞い散るのだろうか。
4 静寂
もう二度と誰かを愛するなんてないと私は思っていた。恋愛なんて、今後の人生において無用の長物に過ぎないと信じて疑わなかったからだ。
だけど私の心は、「三田村哲」というひとりの人間にいつの間にか占拠されている。この名を目にし、口にし、思い浮かべる度に胸が高鳴る。育まれた愛情、その波が滔々と押し寄せる。これ以上、心にとどめておくのは至難の業だ。無理やり閉じ込めておくのにも限界がある。
哲さんに素直な気持ちを打ち明けよう。
「これからは、あなたと手を携えて歩みたい」と。
私は自身が経験しただけでなく、相談業務を通して離婚に直面する夫婦を大勢見てきた。そこからの学びはとても大きい。
幸せの形は実にさまざまで、皆それぞれにこれを掴もうと躍起になる。ただ幸せというのは、一方的に搾取しようとしたり相手に押し売ったりするものではない。相手に幸せを与えると同時に自らも幸せを得られる、そんな関係がうまくいく秘訣だと思う。なぜなら、愛情は味のない水のようなものだから。与えられすぎると飽き飽きするし、与えるばかりだといつか枯渇してしまう。ある側からない側に無意識に継ぎ足しできるのが本物の愛情ではなかろうか。
こんなこと逐一話さなくても、哲さんとは通じ合えるだろう。だけど、私自身の口からちゃんと伝えたい。
雪の匂いに、そっとカーテンを開けた。静寂の中で、雪の粒がほのかな光を放っていた。
5 転機
「三田村くん、ちょっといいかな」
翌日、出勤した早々、俺は営業所長に呼ばれた。
「君の業績が本社で評価されてな、ぜひ新しい店舗を任せたいという意向だ」
「ホントですか! 異動先はどこです?」
「次の勤務地はだな、三田村くん。タイなんだ」
「は? タイ? 東南アジアのタイですか?」
「うむ。今後わが社は、あちら方面へ事業拡大していく方針らしい」
「そんな!」
「君の手腕が認められてのことだ」
「所長、少し考えさせていただけませんか?」
「断る理由もないだろう、三田村くんは守る家族もいないようだし。タイ店で売り上げが上がれば、日本での出世コースまっしぐらだぞ」
「は、はい……」
「じゃ、頼むな。異動は春からだが、早めに向こうに行って現状を視察してほしい。引っ越しの準備もあるだろうから、しばらくは早上がりしてもいいぞ」
とぼとぼとデスクに戻った。
(何ゆえ俺が? これからなのに)
真っ先に美沙子さんの顔が浮かんだ。
(彼女に心を打ち明けようと決心したばかりなのに)
何でこんな運命なんだ、俺は。一つの決心がついたところへ追い打ちをかけるように、またもや新たな選択を迫られる。会社の命と開き直れば楽だろうが、今の俺には、そう簡単に飲み込める状況ではない。
彼女との人生を捨て、ひとりぼっちに戻れっていうのか。冗談じゃない、このタイミングで海外赴任なんてな。そうさ、断ろう。
美沙子さんはどう答えるかな。「頑張って」? それとも「行かないで」?
とにもかくにも、俺の頭ん中は真っ白だ。
6 吹雪
何かあったのかな。私はふと、そんな直感に襲われた。取り急いでメッセージを送る。
《哲さん、こんにちは。次いつウチに来られる?》
1時間ほど経ってから返信があった。
《美沙子さん、こんにちは。接客中だったので、すぐに返信できずごめんなさい。今日おじゃましてもいいですか? 早上がりできそうなので午後6時ごろには伺えます》
即座に「OK」と返した。
夕食を作っておこうかな。またコンビニ弁当でも持参しかねないからね。
《晩ごはん、用意しておきますね》
もうそろそろ6時だとそわそわしていたら、インターホンが鳴った。
「さすが営業マンね。時間ピッタリ」
彼は自慢気な表情をした。
「雪、降ってた?」
「ううん、日暮れてひんやりしてるだけ」
「そうなの……」
ああ、何だか変。営業マンとお客さんみたいな会話。
「あっ、いい匂い。ビーフシチューですね」
「ご名答! もう少し煮込んだら食べましょ」
いつしか私は、彼との食事に抵抗がなくなっていた。
食事を始めて数分後、彼がつぐんでいた口を開いた。
「美沙子さん、俺ね」
「待って。私からも伝えたいことが」
「いや、俺から先に言わせて。美沙子さん、俺……転勤が決まったんだ」
「えっ、どこに!?」
「それが……それが、タイなんだ」
「タイ……」
「うん、東南アジア」
「あ……、そうなのね……」
降り出した雪が瞬く間に横殴りとなり、鈍い音で窓を叩く。
「でもね、断ろうと思ってる」
「え、どうして? 出世への登竜門なんでしょ?」
「う、うん、それはそうなんだけど。美沙子さんを置いて一人で赴任するなんて」
「何言ってるの、冷静に考えて」
「だけど」
「だけどもへったくれもないわ。こんなチャンス二度とないわよ。つかまないでどうするの!?」
「俺は美沙子さんに」
「だめ、行かなくちゃだめ。断る理由なんかない」
「でも俺」
「チャンスだって言ってるでしょ!」
「俺は美沙子さんといっしょにいたいんだ」
「私といることが幸せとは限らないでしょ!」
「何だよ、その言い方!?」
彼が初めて声を荒らげた。
「わからず屋ね、もう帰って!!」
「わかった、帰るよ!!」
夕食もそこそこに、彼はバッグとジャケットをひったくるようにつかんで出て行った。
(どうしてわかってくれないの!?)
荒らげた彼の声が何度もリピートされて轟々と響き、心中は窓の外と同様に吹雪いている。
(今日は彼に、思いの丈を打ち明けるはずだったのに)
彼の声がずっと耳から離れず、別れを示唆されたような錯覚に涙がボロボロこぼれた。冷え切った心が、涙さえも凍りつかせそうだった。
7 自信
翌朝、美沙子さんから電話があった。恐る恐る出る俺。
「もしもし」
「哲さん、私です」
彼女の次の言葉を遮って、先に謝罪する。
「美沙子さん、昨日は感情的になってしまって言い過ぎました。ごめんなさい」
「いえ、私こそ。ごめんなさい」
「俺はまだまだ未熟者ですね」
「哲さん……」
「あ、俺、また自分勝手に話してますね、ごめんなさい。ってか俺、謝ってばかりですね」
「……哲さん、あのね、一晩悩んだんだけど、どうしても哲さんに話しておきたいことがあって。今日会える?」
「はい。実は俺もなんです」
橙の空が、彼女のマンションに着くころには、くすんだ薄墨色に変わっていた。
「いつこちらを立つの?」
「来週早々には」
「そう……決心したのね」
「はい、それで……」
俺は覚悟を決めて、こう告げた。
「美沙子さん……2年待っていてくれませんか?」
「えっ」
「昨夜の美沙子さんからの言葉を一晩噛みしめたんです。で、再確認したことがあって」
「再確認?」
「はい、それは美沙子さんに対して俺が持っている想いです。これは、単なる恋愛感情じゃなく、それを超えたものだということ。そして美沙子さんが俺に対して持つ想いも同じじゃないかと」
俺は彼女の反応もそっちのけで一方的にしゃべり続けた。それは、彼女が俺を受け入れてくれるという自信が気づかぬうちに生まれていて、俺にそうさせたのだ。
「どこにいても、俺の中には美沙子さんが、美沙子さんの中には俺が生きている、そう感じているんです」
彼女は黙って聞いてくれた。時折うなずきながら。
「心がつながっている、これほどまでに心強いものはありません。俺はもっと大人になって戻ってきます。だから待っていてください」
彼女の頬を一筋のしずくが静かに静かに伝う。
正直俺は、ここまでできた人間ではない。平然と話してはいても、今にも飛び出してしまいそうな燃える心と闘っていた。
できることなら、あなたの手を掴んで強引に連れ去りたい。離れたくないと駄々をこねたい。でもあなたは、きっと俺の手を振りほどくだろう。そうする訳が痛いほどわかるから、俺はあんなふうに言い切ったのだ。
8 雨音
目の前にいる人が不意にいなくなる。永遠じゃないとはいえ、すぐには手の届かない場所に行ってしまう。これがどんなにやるせなくて淋しいものか、私は知っている。寒風吹きすさぶ闇の中にひとりぼっちで立っている、そんな心境だ。だが強いて旅立ちへと背中を押したのは、彼のためでもあり私自身のためでもあった。
私との愛を優先してしまったら、その結果彼はどうなる? せっかくのチャンスをつかめず、その先の人生をみすみす棒に振ってしまうではないか。それにより生まれた罪悪感がしこりとなり、いつまでも心の重りとなる気がして私は怖かったのだ。
生きて行くうえで愛は不可欠だ。しかしながら、離別によって愛が成就することもあるのではないだろうか。たとえ見える場所にいなくとも、心の中に愛を咲かせ続けることが。
私は哲さんからの言葉をもらうと、とっさに自分の思いを引っ込めた。そしてきっぱりとこう願い出た。
「わかりました、でも一つ条件があります」
彼はこっくりとうなずいた。
「私の連絡先をすべて消去してもらえませんか?」
「えっ、どうして……」
彼はそのあとを続けたげに見えたが、言葉はそこで止まった。私にはわかった。返す言葉が見つからなかったのではない、私の意図を察したのだ。
今の時代、そばにいなくたってコミュニケーションを取る手段はいくらでもある。それに海外といってもアジア圏内、たやすく戻って来られない距離でもない。わざわざ連絡手段を断たなくてもよいのではないかと思われるだろう。けれどそうすると、彼ゆえの不器用さと危うさをもって甘えが生じてしまう。終始つながっているイコールこのようなリスクをはらんでいるということなのだ。便利さは、ときに成長の機会を奪う。
私は、彼に一回り大きな人物になってほしいと願っていた。成長するにつれ、一層私とは釣り合わなくなることは百も承知だ。でもそれで私を必要としなくなったとしても、一見悲しいようだが私としては本望なのである。
雨が降ってきたのだろう、室内が騒々しい。けたたましい音にかき消されないよう、一層彼の声に耳を傾けた。
私は彼の「待っていてほしい」という願いを快く受け入れた。彼も神妙な顔つきを向けながらも、私の申し入れを承諾してくれた。
「ありがとうございます。ホッとしました」
彼が微笑む。
「こちらこそ肩の荷がおりたわ。ありがとう」
伝ったしずくを指で払い、私も微笑みを返す。
「けど、美沙子さんが伝えたかったことはほかにあったのでは?」
「もういいの、全部あなたの話に凝縮されていたから」
9 写真
「いっしょに写真を撮らない?」
予期せぬ提案に面食らったが、俺は迷いなく了承した。
「はい、チーズ」
顔を寄せ合い、ケータイをこちらに向けてシャッターを切った。
こうして二人で写真を撮るのは二度目だ。
美沙子さんと出かけたことはほとんどない。それは彼女が年齢差を気にしていたからだ。
「どうせ親子にしか見えないでしょ」
と、俺が誘っても頑なに断った。
それでも半ば強引に連れ出し、近くの公園に赴いたことがある。あれは、俺が離婚相談を終了したいと告げた直後。ちょうど桜も終盤の時期だった。写真嫌いの彼女にツーショットをせがんで、やっとOKをもらったのだ。
「はい、チーズ」
その瞬間、柔らかな風が通り抜けた。彼女に目をやると、肩まで伸びた髪がふわりと花びらといっしょに風になびいている。その姿が夕日に照らされて、大げさかもしれないが、俺には神々しく映った。
「美沙子さん、これ覚えてる?」
「あっ、あのときの」
「そう」
「やっぱり親子にしか見えないわね」
苦笑交じりの彼女を目の当たりにして、これが見納めなのかと思うと胸が締めつけられた。
連絡先を消去してほしいと請う彼女が、そしてあんなに撮影を拒んできた彼女が、自ら写真を撮ろうと申し出た。そこに彼女なりの強がりを感じ取った俺は、ケータイに保存された2枚の写真を大切に残しておこうと固く決心した。
美沙子さんが入れてくれる最後の紅茶。心なしか普段よりも熱く感じる。飲み干したらサヨナラだ。
(彼女の断ち切れない想いが、こんなところにもうずくまっているのか)
むせび泣きそうな切ない心。でもそれを見せてはいけない、旅立ちの日なのだから。
無理やりに笑顔を作った俺は、残りの紅茶とともに別れの言葉も飲み込んだ。
断腸の思いでドアを閉める。
(さようなら、俺の青い恋心)
雨がみぞれに変わっていた。肩にのしかかる、雨とも雪とも解せない重い固まり。あたかも胸の内を見透かされているようだ。
だが冬も終わりに向かっているのだろう、雪どけの予感に少しだけ足どりが軽くなった。そのとき彼女の作った曲の一片が、どこからともなく降りてきた。
(春の風までいく日か)
そう遠くない春。
(サヨナラを告げなくてよかった)
心の底からそう思った。
10 儚さ
私は春が嫌いだ。少女が大人の女性に変わる転換期に似、そのぎこちなさに嫌悪感を覚えるからだ。
特に桜の散り際は堪える。その潔く散りゆく形相に生きざまを重ね合わせ、哀愁で胸がいっぱいになるのだ。果敢に生きた命の終焉のようなものをも見て取れる。満開の最中、あれほどまでに「蝶よ花よ」ともてはやされても、散り際には誰も見向きもしない。そればかりか、散った後の花びらは雑踏に紛れ、まるで存在感がない。
ところが、哲さんと訪れた公園で私は、堪え忍ぶほどの不快感には苛まれなかった。彼に添い、目にした桜の花片は一枚一枚ひらひらと宙を舞い、それはそれは美しかった。
(あのころから私の心の中には、哲さんへの愛が芽吹いていたのだろうな)
そんな春がまた近づいてきている。
春の訪れにより形を変えた薄氷は、緩やかに湖の奥へ落ちてゆく。次第に水と化し、跡形もなく朽ちる。何とつれないのだ。身を焦がす恋愛をしようがしまいがお構いなしだ。季節はとどまることを知らない。
哲さんと別れてまもなく、また私は同じ夢を見た。
崩れた薄氷もろとも私の体は沈んでいく。ほとりにたたずむ人。その姿形はぼやけているものの、誰なのか今度はハッキリとわかった。あれは哲さんだ。思いっきり両手を伸ばしてみたが、奈落の底に向かい粛々と沈み続ける私。彼の像はどんどん遠く小さくなっていく。
されど、かすかではあるが私には見えた。彼は笑みを浮かべている。
よかった――
本当によかった――
あなたを愛してよかった――
安堵で満たされたとき、ハッと目が覚めた。すぐさま体を起こしたら、途端に涙があふれてきた。止まらない。やがて嗚咽となった。
悲しいのではない。彼の笑みがうれしかったのだ。幸せそうで柔和なその笑顔がとてつもなく。
愛とは何て儚いものなんだろう。だが、儚さばかりではなかった。私の心には確かな愛の証が、夢ではないこの現に残ったのだ。
11 脆さ
俺は美沙子さんに出逢って、少しは成長しただろうか。
出逢ったころは、恋い慕う関係になろうとは露ほども思わなかった。こんな俺らの胸中を誰かに明かしたところで、せいぜい下品で低俗な恋愛だと馬鹿にされるのがオチだ。親友にすら、目を覚ませと揶揄されるありさまだからな。
いくら説明しようとしても言葉で表現できるものではない。心と心の結びつきは、愛し合う二人だけにしかわからないものなのだ。
愛とは何て脆いものなんだろう。二度も恋愛ごっこをしてきた俺は、愛が脆くて壊れやすいのは、薄っぺらな愛情しか知らなかったからだと思い込んでいた。今になってようやくわかった、愛が深ければ深いほど、その脆さが表面化するのだ。
それでも、これほど脆いにもかかわらず愛を求め続けるのは、脆さゆえに欠けてしまった心のすき間を埋め合いたいと願う人間の持つサガなのかもしれない。
俺の心を覆っていた薄氷は静かに割れ、その破片は鋭くこの胸に刺さった。そのままここを去っていく俺。春が来れば刺さったかけらは溶けるのだろうか。時は、俺から彼女の面影を忘れさせるのだろうか。いや、忘れるなんてあるもんか、追憶は色褪せないはずだから。
これからの2年間は仕事に打ち込むつもりだ。そう、一心不乱に。そして再びあなたと出逢いたい。
生まれ変わった俺は、今度こそ胸を張ってあなたに告白する。
「ともに人生を歩んでください」と。
ただ、愛をダイレクトに表現するのはもうちょっと先に取っておく。俺にそれを語れるほどの包容力が培われてからだ。
(ああ、約束は必ず守るさ)
そう心に誓った後、固唾を飲んでケータイを睨んだ。そして「大野美沙子」という電話番号を含む一切のデータを消去した。
優柔不断な俺からすれば上出来だ。
【あとがき】
本章のラストで哲は、「大人になって戻ってくる」と美沙子に告げた。しかし美沙子と出逢ってからの哲は、美沙子の薫陶の甲斐あってか、ぐんぐん大人になっていったと私は第三者としてそう感じている。自身で気がついていないだけだ。
だが美沙子は、「もう十分大人になったわよ」なんて言葉は一切口にしなかった。そう気づいているにもかかわらず。それはひとえに、哲の決意を覆したくなかったからだ。そこには、自らの身を虚ろにしてもなお、愛した人の未来を尊び、かつ自由に開放する大人の愛が存在したといえよう。
『薄氷の彼方』は後編に続きます。美沙子と哲の2年後からこの恋愛の結末までを描きます。