(前編)【第3章】俺の心
1 母親
俺は、薄暗い胸の中に小さな灯りがほんわりと灯ったような暖かさを感じていた。
大野さんと向かい合って食事をするのは二度目だ。彼女は慣れないのか、お箸の上にちょこんとご飯を載せては口に運んでいる。
思い立ったように俺は、こう切り出した。
「大野さん……尋ねてもいいですか?」
「なあに?」
「大野さんも離婚歴あるんですよね。何が原因で離婚されたんですか?」
予想どおり、彼女は吹き出しそうになった。
「え、どうして? 気になるの?」
「い、いえ、話したくなかったら無理に話さなくてもいいですよ。二度も失敗してるでしょ、僕。だから、今後の人生で参考になればいいなあと思っただけですから」
俺は、離婚という共通の経験を彼女と共有したいと、どこかで思ってはいた。が、これまでそれを口にすることはなかった。
離婚する夫婦の理由なんて、その夫婦独特のものだ。他人に聞かせるものではない。だが、食事中というのも相まってか、突如聞き出したい衝動に駆られたのだ。
「大野さんは、僕みたいな有責配偶者じゃないですよね?」
「有責配偶者……専門用語をよく覚えていたわね」
「はぐらかさないでくださいよ」
「ごめんなさい。でも私の離婚事由なんて、話したところで珍しくも何ともないわよ」
「旦那さんのう・わ・き……とかですか?」
「急に小声になっちゃうのね。悔しいけど当たり」
「よく耐えられましたね」
「耐えたというより許したという感覚かな。今となっては、もっとちゃんとした離婚の仕方があったと思うし、自分自身が自分のアドバイザーにもなれたでしょうけど、あのころは今のような知識もなかったのよね。それに……」
「それ……に?」
「夫を愛していたからね」
「愛していたから離婚した?」
「そう、信じ難いでしょうけど、離婚することが彼を幸せにすると思ったの」
寂しげに下を向いた彼女を見て、俺はとっさに詫びた。
「そうでしたか、イヤな出来事を思い出させてしまいました。ごめんなさい」
「いいのよ、過ぎたことだから」
これ以上質問攻めにするのはやめようと思った。にもかかわらず、なぜだかさらに問いたい衝動を止められなかった。
「もう一ついいですか?」
「まだあるの? ええ、いいわよ」
「再婚とか考えます?」
「再婚? ああ、それはないわね。今の私が三田村さんくらいの年齢なら考えるかもしれないけどね」
「ぶっちゃけ、大野さんは10歳くらい年齢をごまかしても大丈夫ですよ」
「お世辞でもうれしいわ、ありがとう」
「うちの母と4つしか変わらないなんて、信じられないですから」
「うちの母!? そうよね、三田村さんの母ですって名乗っても誰にも疑われないものね」
「あ、僕また気に障ること言いましたよね、ごめんなさい」
大野さんには冗談にしか聞こえなかったようだが、彼女に対する俺の発言は常に本気だ。
とはいえ、彼女の前で母親の話をするなんて、俺は何て失礼なヤツなんだ。傷つけてしまったかな。
2 過去
三田村さんからどんな質問をされても、私は素直に答えた。それは聞き手がピュアなので、自然にそうなってしまうのだ。それにしても、私の離婚歴や再婚願望についてまで聞かれたのは、さすがに意表を突かれた。
もし私が三田村さんと同年代なら、こうしていっしょにご飯を食べながら楽しいおしゃべりをして「胸キュン」ってとこだろうか。間違っても離婚事由で盛り上がるなんてことはないだろう。だからといって、この立場を恨めしく思う気持ちなんかは、さらさらない。こうして私を母親のように慕ってくれる、それだけで胸の中に温かいものが注がれた気分になるのだ。
そういえば、彼の最初の離婚事由については尋ねたことがない。
「三田村さん、私からもいいかな?」
「何ですか?」
「私も唐突に聞くけど、一度目の離婚原因って何だったの?」
「それはですね……、こちらも信じてもらえないでしょうけど、大野さんと同じなんです」
「えっ、奥さんの浮気?」
「いえ、そこはちょっと違うんですけどね。別れることで彼女を幸せにできると思ったんです」
「どういう意味?」
「そのときの奥さんを大事に思っていました。だけど結婚によって、僕は彼女の夢を奪ってしまったんです。まだハタチ過ぎで若かったですからね。彼女の夢を応援したかったんですけど、実際はそうならなくて」
「彼女の夢って?」
「絵を描くことです。絵というかデザインですね。ある大手出版社への持ち込みで彼女のデザインが認められたんです。それはもう彼女、大喜びで。それからは描くことに夢中になっちゃって。デザイン画作成に注ぎ込む彼女の熱量がハンパなかったんですよ。途中で現実に引き戻せないっていうか。それでも僕は無理やり引き離そうとしてたんです。多分、彼女の描く絵に嫉妬してたんでしょうね。それからは口論が絶えなくなってきて。あるとき、このままじゃせっかく開花しようとしている彼女の才能を潰してしまうんじゃないかって思えてきたんです。で、気がついたら離婚を持ち出していました」
「そうだったのね、ごめんなさい、つらい過去を蒸し返してしまったわね」
「いえ、大丈夫です。かえってわだかまりがなくなったようで、とても清々しいです」
「でもなぜそれを、知里さんに正直に話せなかったんでしょうね」
「はい……僕自身もよくわからないんです。ちゃんと話せばわかってくれたはずですよね」
「そうね。三田村さんのことだから、それをカミングアウトされたときの知里さんの気持ちを考え、不憫に思えたのかな」
「若気の至りっていうやつですかね」
「ふふ、まだ若いくせに」
彼の顔に笑みが戻った。
3 存在
翌日の商談は無事成立した。俺はいの一番に、大野さんに電話した。子どものように褒められたくて。
「やったわね」
「ほら、僕の言ったとおりでしょ」
「おめでとう」
「お祝いしてくれます?」
「昨日、前祝いしたばっかりじゃない」
「そうでしたっけ」
俺の満身の笑い声が、営業所全体に響き渡った。
「何だよ、彼女に報告かー?」
先輩営業マンに腕をつつかれた。
「いえ、母親です」
「はあ? お前マザコンなのか!?」
女性事務職員からの冷ややかな視線を感じながらも、心は満たされていた。
いいのだ、大野さんのことは俺の胸中にひっそりと納めておく。どうせ話したって理解はしてもらえないだろう。離婚相談所の所長さんに報告したなんてな。
いつの間にか、大野さんは俺にとっていなくてはならない存在になっている。といっても、カノジョとか恋人とかではない。ましてや母親なんかじゃない。どういう立ち位置なのかと聞かれたら、何と答えるだろう。
そばにいたい人――
そばにいてほしい人――
そばにいるだけでいい人――
心を研ぎ澄ませてみたが、的確な言葉が見つからなかった。
業務中だというのに、ちらちらと思い浮かぶ彼女の面影。
俺の目に映る大野さんはとにかく優しい。優しすぎるくらいだ。
一般的に離婚経験のある者は、社会性が欠けているとかわがままだとか思われている。しかし、あながちそうでもなく、極端に優しい人が引き起こす相互のズレという場合もあるのではないだろうか。その優しさゆえに、心を大っぴらにできず封印してしまう。そしてある日突然、閉じ込めていた感情が漂流してしまい、自分自身を見失ってしまうのだ。その結果、偽物の自己を本物の自己だとパートナーに誤解され、収拾がつかなくなるのではないか。
俺自身が優しい人間だと言っているのではない。だが大野さんに接していると、彼女の外に出さない心が少しはわかる気がしてくる。それは、彼女の持つ究極の優しさをして生じた負の結末なのではないかと。
だとすれは、同じ傷をもつ俺も優しい類に入るのかもしれない。だからこうして、彼女と心を通わせたいと願う自分がここに存在するのだ。
4 確信
大野さんとはその後、毎日毎日メッセージのやり取りが続いた。通信上のデートもどきを俺は楽しんでいたのだ。会いに行こうと思えばすぐにでも行ける距離なのだが、彼女の時間を奪ってはいけないと何となく遠慮してしまう。それでも十分満足だった。もはや、学生時代のようなガツガツした恋愛には興味がなくなっているのだ。
彼女との話題は、いかにも同年代の恋人同士にありがちなものではなく、時事ネタや本・映画・ドラマ・歌謡曲の流行り廃りなど多岐にわたっていた。エンターテインメントに疎い俺は、彼女が「よかった」と言うものはジャンルの偏りなく積極的に視聴し、その度に時間を忘れて送受信に耽った。
ところが1か月近く経ったころ、彼女との連絡がさっぱり取れなくなった。翌日になっても返信がないという、かつてない状況に戸惑っている。どんなにスケジュールが詰んでいても、必ずその日のうちに返信してくれていた。何かあったのかと心配でたまらない。気になって電話もしてみたが、留守番電話の音声が流れるのみ。
こうなると、営業所での打ち合わせもうわの空である。
上司に声をかけられた。
「おい、どうしたんだ、何かあったのか」
「はい、いえ、わかんないんです、母親が」
支離滅裂な回答になっていた。
「お母さんがどうかしたのか、何だったら早退してもいいぞ」
「いえ、大丈夫です」
会社では大野さんのことを母親と呼んでいたため、このときもそう口をついて出た。
翌々日になっても返信がなく、俺はみさ離婚相談所の開いている時間帯に訪ねてみた。
「えっ! 何で!?」
ドアの外側に、『しばらく休業します』の張り紙。
ドアにもたれ、そのままそろそろと地べたにへたり込んでしまった。
(一体全体、大野さんはどこへ?)
ポケットの中で着信音が鳴った。ケータイを取り出すと、大野さんからのメッセージだ。
《心配してるでしょう? ごめんなさいね。実は私、おとといから入院してるの》
(えー、にゅ、入院!?)
急いで画面をスクロールする。
《やっと落ち着いたんでこうしてケータイいじってるけど、本当はまだ安静中なのよ。三田村さんから何度も連絡をもらってたようだから、取り急ぎ返信しなくちゃと思って》
さらに、メッセージは届く。
《経過は順調みたいだから安心して。退院が決まったらまた連絡するからね》
《あ、ちなみに入院先を聞くのはご法度。教えたら来ちゃうでしょ? パジャマ姿見られたくないのよね。すっぴんだし(笑)》
(ああ、とりあえず元気そうでよかった)
こんなにも誰かを心配したことが過去にあっただろうか。不安一色に心を占領されたといっても過言ではない。
大野さんに対して特別な感情を抱いているのは否定しない。だがそれは、手を伸ばせば届く、声をかければ返事する、そんな距離感のはざまでただのんびりと浸かっていただけだ。これまで彼女への想いを表に出したことはない。
でも今日は確信した。
俺は大野さんが好きなんだ。
連絡が取れなくなって初めて顕在したこの想い。いや、顕在していたが、外に出すのはおこがましいと、俺が抑え込んできたのだ。
この好意は恋なのか愛なのか。恋と呼ぶには訝しい。まして愛を語るなんて陳腐に過ぎない。表現するなら、恋も愛も包括した「思慕」といったところか。
たとえるなら、乾いた土地に恵みの雨が降る、そんな感じ。待ち焦がれていたものにやっと出逢えたような。そしてその雨を崇拝するような。
生きてきた道のりは違うものの、今までこれほど心が通じる人はいなかった。これからもいないのではなかろうか。
振り返ると二度の結婚生活は、言わばままごとのように見えてくる。できるなら消し去りたい過去だ。いやそうじゃない、過去があったからこそ、ここに辿り着いたのだ。軽々しく葬ってはいけない。これからはこの過去を糧に、今後歩む道を「誰とどう生きるか」に心血を注ぎたい。
彼女が退院したら、この想いを打ち明けよう。
ひとりの女性、いや、ひとりの人間としてあなたを大切にしたい、かなうならば唯一無二の関係になりたい、と。
受け止めてくれるだろうか。
5 夢
1週間後、三田村さんに架電。ワンコールで出た。
「あっ、三田村さん? 大野です。今朝、無事に退院したからね。ご心配をおかけしました。もうすっかり元どおりだから……」
私の話が終わるのを待ち切れなかったのか、彼が割って話し出した。
「ホントですよ、どれほど心配したか。急にいなくならないでくださいよ」
私は軽く笑って続けた。
「いなくなってなんかないわよ。ちょっと体のメンテナンスを受けてきたってとこかな」
「大野さんがいなくなったら、僕はどうしたらいいか路頭に迷っちゃうじゃないですか」
「そんな、オーバーな」
こう返しながらも、こんな言葉をかけられたの、生まれてからあったろうか、と心が躍った。
私だって、どれほど心細かったか。友人はおろか両親にも入院を伝えなかったから、1週間ひとりぼっちだった。会ったのは、入院初日に保証人をお願いした弟ひとりきり。
「もう来なくていいからね」
と声をかけたら、本当に見舞いにも来なかった。
まあ、弟は弟なりの生活があるからしょうがないよね、とあっさりと割り切ったが。
たった1週間の入院なのに、ここまで淋しいとは意外だった。「淋しい」なんて吐き出す相手はいない。ひとりで辛抱するしかなかった。
けれど三田村さんの声を聞いて、甘えてもよかったのかな、という思いがちょっぴりよぎった。
(いやいや、そんなことできる訳なんかない)
超特急で自分自身を納得させた。
入院中にこんな夢を見た。
どこだかわからないが、とにかく寒い。凍えそうな寒さだというのに、防寒着も羽織っていない。彷徨い続けて疲れ果て、もう一歩も歩けずへなへなと座り込む。見渡すと、そこは一面の湖だ。うっすらと氷が張っている。力を振り絞り立ち上がる。
片足を踏み入れてみると、いとも容易に薄氷が割れる。もう片方の足も薄氷の上に載せてみる。また割れる。載せては割れる、の繰り返し。なのに体は沈まない。
薄氷を踏みしめながら、前へ前へと進む。すでに寒さは感じなくなっている。不思議なことに、恐怖感は皆目ない。
見渡す先に誰かいる。進んで行くにつれ、その様相が明瞭になってくるが、まだ誰だかわからない。
「誰? あなたは誰?」
絞り出すのに声にならない。
手を差し伸べられている。私も手を伸ばす。ゆっくりと薄氷を壊し歩く。徐々に近づいていく。もう少し、もう少し、あと少し。
「あっ、あなたは!」
そのとき大きく薄氷が割れた。手は届かなかった。湖の奥深くに沈んでいく私。だが痛みも哀しみも感じない。心は至極穏やかだ。スローモーションのようにしめやかに沈んでいく。
これが無我の境地かと諦めかけたとき、現実に引き戻された。
もう一度目をつぶり、湖のふちに立っていた人物を思い起こしてみたが、結局かなわなかった。虚無感のみがそこに取り残された。
6 表情
俺は仕事を早めに切り上げ、みさ離婚相談所に足を運んだ。依然として『しばらく休業します』の張り紙が貼られたままだ。
「大野さん、今どちらですか?」
急ぎ、電話する。
「自宅よ」
「自宅って?」
「内緒」
(そういえば、彼女の家がどこなのか尋ねた覚えがない)
「今からお伺いしたいんです」
「病み上がりの辛気臭いオバサンの顔を眺めたいって?」
「いえ、大野さんにどうしても伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?」
「はい。ご住所を教えていただけませんか?」
「はあ、仕方ないわね、相談所の隣よ、103号」
「えーー!」
大野さんといっしょに外出しても、彼女とは相談所のあるマンションの入口でサヨナラしていた。こんな時間になってもまっすぐ帰らずどこまで仕事熱心なんだと感心してきたが、実際は自宅に帰ってたんだ。何という不覚。そりゃそうだよな。妙に納得した。
「実は今、大野さんの相談所の前まで来てるんです」
「あらまあ!」
「数秒で着いちゃいますけど、大丈夫ですか?」
「え……」
「あ、僕は、普段着でもノーメイクでも気にしませんから」
「……じゃ、じゃあ、3分待ってもらっていいかな」
「わかりました」
長い長い3分が経過した。102号の相談所から103号の前まで大股で移動し、やんわりとインターホンを押した。
辛子色のニットと黒のカーディガンにロングスカートという、普段のかっちりした装いと違った彼女がドアを開けた。
「どうぞ、お入りになって」
「はい……おじゃまします……」
身を固くして奥へ入ると、真っ先に、ダイニングテーブルの上で口を開けて鎮座しているボストンバッグが目についた。入院先に持参していたものだろう。
「慌てたわよ、とりあえずソファに掛けて」
言われるがまま、リビングのソファに腰かけた。首をあまり動かさず、目だけをキョロキョロさせて室内を見回してみる。淡いグリーンで統一されていて、とても寛ぐ空間だ。
「で、伝えたいことって?」
紅茶の用意をしてくれているのがわかった。
「体調はもういいんですか?」
「ええ、すこぶる快調よ。伝えたかったって見舞いの言葉?」
「あ、はい、そうなんです」
とても言い出せなかった、この胸の想いを。近くにいる、それだけで満足してしまったからだ。
「そうだ、ちょうどよかった。ねえ三田村さん、あそこの電球の交換をお願いしていいかなあ?」
「ああ、お安い御用ですよ」
洗面所の天井の電球が切れていた。テキパキと交換した手さばきを感謝され、単純にもひとりで舞い上がった。
その高ぶりに便乗して投げかけてみた。
「大野さん、僕、ちょくちょくここに遊びに来ていいですか?」
「えっ、ええ。三田村さんさえよければ」
「よかった。正直言うと、断られるんじゃないかってヒヤヒヤしてたんです」
「伝えたいことってひょっとしてそれだった?」
「ばれちゃいました?」
「やっぱりー?」
俺は「好きです」って伝えたかったのだ。でもこれでよかったんだって思えた。二人でこうして笑い合えるなら、それ以上何を望むだろうか。同じ時間を共有できるなら、何もいらない。
並んで紅茶をすすりおしゃべりしているうちに、夜が更けた。
「遅くなってしまいました、帰りますね」
こう言い放った途端、彼女の表情が曇ったのを俺は見逃さなかった。
玄関で靴を履きかけたとき、彼女から小さな声が漏れた。
「哲さん……」
「ん?」
「私……」
「それ以上言わないで、美沙子さん」
靴を脱ぎ散らかした俺は彼女の肩をたぐり寄せ、力いっぱい抱きしめた。
呼吸と時とが瞬時に止まる。
ストンと脇から落ちたバッグの音が無機質に響く。
夜の帳の中、鼓動だけが祭りのように騒いでいる。
願わくは永遠にこのままで――
互いに、止まり続ける時に身を委ねる。
束の間の甘美。
願わくは永遠にこのままで――
だが無情にも、時は再び刻み始める。
呼吸も疎らに動き出す。
俺はおもむろに体を離し、彼女の顔も見ずにこうつぶやいた。
「ゆっくり休んでくださいね」
バッグを拾い上げ、そそくさと外に出た。後ろ髪を引かれる苦しさに抗い、駐車場まで突っ走る。
運転席に腰を下ろしたとき、やっと息を吹き返すのを実感した。すると今度は、罪の意識に打ちのめされた。
(俺は何てことを)
7 景色
三田村さんはすべてを察していたのだ。わずかの時間だったが、忘れられないあのぬくもり。思い出しては全身が熱くなった。
(はしたない女だと思われただろうな)
私はその夜、なかなか寝つけなかった。
翌日から、みさ離婚相談所を再開した。見慣れた景色なのに、なぜか霧がかかったみたいに霞んでいる。
さすがにこの日の予約はなし。日誌の整理でもしようか。そう思ったとき、彼からメッセージが届いた。
《大野さん、おはようございます。よく眠れましたか?》
時を置かずに返信する。
《はい》
《昨夜はすみませんでした》
《いえ、お気になさらずに》
私は彼が謝る理由が理解できた。私の心の内を察知したからだろうが、確かめもせずに一方的な行動を取ってしまったと悔いているに違いない。
でももしかしたら、私の勘違いかもしれない。この心許なさに同情し、つき合ってくれているだけなのかも。
彼の気持ちを確かめたい思いと、何も聞かないでおきたいという思いが絡み合っていた。
(もし勘違いならそれでもいい。勘違いのまま心の隅に保存し、温めておきたい)
8 嫉妬
次の日も俺は、仕事帰りに大野さんの家を訪問した。何事もなかったかのように。
「はーい」
ドアを開けたのはスマートなポニーテールの女性だった。
(うん? 誰だ?)
「どちらさま?」
「あ……、三田村といいます。大野さんにお世話になった……」
「ちょっと待ってくださいね」
俺と同年代であろうその女性はドアを全開して固定し、奥の部屋に戻って行った。
「母さん、お客さん」
(えっ、母さんってことは!?)
「こんばんは、三田村さん」
「大野さん、突然すみません。あのう、先ほどの女性って娘さんですか?」
「そうなの。驚いた?」
「い、いえ。あ、いや、はい」
「どうやら入院していたことが弟から娘の耳に入ったみたい。あの子は下の娘で有沙っていうの」
「そうなんですね。心配して来てくれたんですね」
「どうでしょ、心配してくれたのかなー?」
背後の娘さんに聞こえるよう、トーンが上がった。
「病後が気になったものですから。ご家族がいらっしゃるなら安心ですね。じゃあ僕はこれで失礼します」
「そんなこと言わずにどうぞ。娘も紹介するわ」
「いえいえ、また出直します」
娘さんが奥で聞き耳を立てている気がしたので、大野さんの耳元でこうささやいた。
「昨日のこと謝りたかっただけですから」
「あ、わかりました」
玄関ドアが物悲しい音を立てて閉まった。
(なんだろう、この空しい気持ち。娘さんが来てくれたんだからよかったじゃないか)
大野さんの隣にいるのは俺じゃない、なぜか心にポッカリと穴が空いたような喪失感がじわじわと襲い来る。
(妬いてる? 娘さんに? まさか!)
小刻みに首を何度も横に振り、否定しようと努めた。
(言葉に甘えておじゃますればよかったかな。さすがにそれはダメだよな)
(大野さんは今ごろ、「あの人誰?」と娘さんに問い詰められているだろうな。何て答えたのかな)
9 本性
俺は大野さんへの連絡を控えた。気になってはいたが、訪問する勇気が持てなかったのだ。そんな小心者の自分を置き去りにし、営業活動に明け暮れた。店内での接客と外回り。新型車の案内に、馴染みの顧客をせっせと回った。
同じ市内の広瀬さんは、俺にとって思い出深い第1号のお客さまである。ご主人が当社の自動車を気に入り、昨年亡くなるまで乗り続けてくれた。その後も奥様がひいきにしてくださっている。
「三田村さん、今日は何のご用事?」
「新型車の案内に回っています」
「そう、でもうちは主人が亡くなってからあまり乗らなくなったからね」
「お気になさらずに。新しい情報の提供もサービスの一環ですから」
「それより三田村さん、いつもの覇気がないわね。どうかなさった?」
「そう見えます? 何かと悩みの多いお年頃なんですよ」
「ひょっとして、ご家庭のこと?」
「どうしてこうも女性は鋭いんですかね」
「だめよ、奥様を泣かせたりしちゃ」
「いえいえ、泣きそうなのは僕のほうなんですけどね」
「それは深刻ねえ。三田村さんは感情を内に秘めるタイプだから、なかなか思いの丈をぶつけるなんてしないんでしょうね。それに私、前から思ってたんだけどね……」
「はい」
「こう言っちゃ不謹慎なんだけど、あなたにはうんと年上の女性がお似合いなんじゃないかしらねえ。素直になれて自然体でいられそうだから」
「広瀬さんもそう思います?」
「あら、自覚がおありのようね」
彼女は口元に手を当てて、クスリと笑った。
「三田村さんはこうして積極的に営業してるけど、意外と繊細な面があるから。若くてシャキシャキした女性だと気後れするんじゃないかしらねえ」
「そこまで僕の本性を見抜いてくださるとは感慨深いです」
広瀬さんとはかれこれ7、8年のつきあいだ。俺のことを孫のように気にかけてくださっているのがひしひしと伝わってくる。
「まあ、上がってコーヒーでも召し上がって。あ、三田村さんは確か紅茶派でしたね」
そう言うと、玄関横の和室に俺を招き入れた。
部屋を見回していると、チェストの上に置かれたモノクロの写真が目に飛び込んできた。近づくと、夫妻の若い時代のスナップ写真だ。二人寄り添い、すましている。デートの写真かな、とほほえましく眺めていたら、広瀬さんが紅茶を運んできた。
「この写真って、お二人のデートのときのですか?」
「あらまあ、お恥ずかしい。実はそうなの、初デエト。この後、とんとん拍子に縁談がまとまってね。当時は恋愛結婚って珍しかったのよ」
「わあ、広瀬さんって恋愛結婚だったんですね」
「そうなのよ、意外でしょ」
「そんなことありませんよ。ご主人とはどこで知り合ったんですか?」
「三田村さんにお聞かせするような話ではないわ」
広瀬さんは、少女のように顔を手で扇いだ。
「よっぽどお気に入りなんですね、この写真。ずっと飾ってあるみたいですから」
「そう、あの人との思い出は全部宝物なの」
「宝物……」
「主人が亡くなったときね、一生分かと思えるくらい涙を流したのよ。どれだけ愛していたか、いなくなって初めて思い知ったのよね」
「近くにいるときには、なかなか気づかないものなんでしょうね」
「そうね。そばにいるのが当たり前だったから。三田村さんはまだお若いから、愛が何たるかなんてよくわからないでしょうけど、大事なのは心よ、心」
「は、はあ」
確かに俺はまだひよっこだが、今はタイムリーにずっしりと胸に応えるものがある。
「どうぞ、召し上がって」
座布団に座り、紅茶をいただく。
「三田村さん、さっき言ったことは忘れてちょうだいね」
「年上の女性ってことですかね?」
「ええ。余計なこと言っちゃったわと思ってね。奥様との仲を引き裂くような発言したようで、ごめんなさいね」
「いえ、全然気にしないでください。結構図星ですから」
「そうなの? それはそれで何やら複雑だわね」
彼女は眉をひそめ、愛想笑いをする。
俺は広瀬さんに大野さんのことを話したくてうずうずした。が、離婚の事実さえ知らない彼女に話せる由もなかった。
「沈んでいた訳はわからないけど、とにもかくにもいつもの三田村さんに早く戻ってね。私はあなたのファンだから。あまりあれこれ考えすぎないようにね」
「はい、ありがとうございます。広瀬さんのおかげで、元気を取り戻せそうです。では、またまいりますね」
すっくと立ち上がったら、大野さんに会いたくてたまらなくなった。
10 優越
帰宅しても胸の内がざわざわして落ち着かない。広瀬さんの言うとおり、俺はいろいろと考えすぎる嫌いがある。相手の心を詮索しようとするのはよくないが、今回はどうしても納得のいく答えが見つからない。
俺があの夜、彼女の表情から感じ取った心情は勘違いだと思えて仕方なかったからだ。俺はいったい何を求めているのだろう。子どもを見るまなざしで包んでくれただけかもしれないのに。そう思い始めると、そうとしか思えなくなってきた。でも勘違いなら勘違いのままでいい、彼女との時間を大事にしたい。
推測に没頭していたら気が重くなってきた。
(なるようになるさ)
そう気持ちを切り替えようとベッドに横たわった途端、ケータイの着信音に飛び起こされた。
《三田村さん、こんばんは。今日来られますか?》
大野さんからのメッセージだ。
娘さんを避けるように逃げ戻ったあの日から1週間経っていた。彼女のマンションまで、車で飛ばせば20分で行ける。
《大野さん、こんばんは。はい、大丈夫です。30分後にまいります》
モヤモヤを振り切り、家を飛び出した。
(いったい何なんだ、磁石みたいに引き寄せられるこの不思議な感覚は――)
焦る心がアクセルを何度も強く踏ませ、荒い運転に自身の幼さを自覚した。
このインターホンを押すのは三度目だ。ぱたぱたと聞こえる足音。その直後、大野さんのはにかむ笑顔が俺を出迎えた。
「娘さんは?」
「ああ、二日で帰っちゃったわ。思っていたより私が元気そうだったからでしょうね」
俺も彼女も、あの夜の出来事には一切触れなかった。普段どおりの紅茶、その芳しい香りが漂っている。
「娘さんには、僕のこと何か聞かれました?」
ふふふと彼女の口角が上がる。
「大野さん、何ですか、その不気味な笑いは」
「知りたい?」
「そりゃあ知りたいですよ」
「有沙がね、『あの人カッコいいね』って言ってたわよ」
「はは、そりゃあどうも……じゃないですよ。関係性は問われなかったんですか?」
「問われたわよ」
「で、何て?」
「大切なお客さまって」
「なあんだ、がっかり」
「がっかり……って。じゃあ、何と返せばよかったの?」
「あ、まあ、確かにそうですね」
俺は何となく、もっと突っ込んだ会話があったのではないかと推察した。が、それ以上は追及しないことにした。
ふとリビングの片隅に目をやると、一本のアコースティックギターが立てかけてあるのに目が留まった。
「大野さん、あれは?」
「ああ、若いころフォークソングに夢中になってね」
「そうか、大野さんの若いころって、フォークソングの全盛期だったんですよね」
「もう、こんなトコで歳の差を大っぴらにする?」
「ははは、すみません」
「でね、そのころ自分でもオリジナルソングを結構作ったのよ」
「大野さんが? 聴きたいです! 弾いてみせてくださいよ」
「えー、ブランクがあり過ぎるからイヤよ」
「さわりだけでいいですから。お願いしまーす」
手のひらをこすり、可愛くおねだりしてみる。
「しょうがないわね。ちょっとだけだからね」
彼女は紅茶をソファの前のテーブルに運んだあと、恥ずかしそうにギターを抱えてきた。俺はソファの中央から端に座り直す。
いったん隣に腰かけたがまた彼女は立ち上がり、今度は本棚から一冊のノートを取り出した。テーブルの上で広げられたノートは、年月の経過で黄褐色に変色していた。覗くと、歌詞とCやGなどのコード進行が女の子っぽい丸文字で書かれている。
「ホントにサビだけよ」
と、アルペジオで少し爪弾くと、二度咳払いをし、思い出すように口ずさみ始める。
いつからだろうか友達以上に君が映り始めた――
ああ――
冬色ごよみ冬色ごよみ――
春の風までいく日か――
「こんな感じ」
そう言うと、頬をほんのり赤らめた。
「スローバラードですね。この曲って大野さんのオリジナル?」
「そう、何だか照れるわね」
もうこれ以上はリクエストしないで、と言わんばかりの視線をこちらに送って、ギターを元の位置に戻しに行った。
俺はこの短いメロディラインに酔っていた。フレーズを何度も何度も頭の中で繰り返してみた。サビしか聴いていないのに全体のストーリーが広がってくる。危なっかしい恋人同士が挫折を乗り越えてハッピーエンドに向かう、そんな歌詞を勝手に想像し、しばし余韻に浸っていた。
(何て感受性の強い人なんだ)
「ごめんなさい、あっけにとられた?」
俺が何も発せず固まっていたから、そう見えたのだろう。
「とんでもない」
胸の奥にしまった、彼女を独り占めしたような優越感を。
11 感性
日付が変わったころ、俺は彼女のマンションを後にした。
寒いから見送りを断ったのに、駐車場まで到着したとき彼女が息を切らして走ってきた。
「哲さ~ん! 忘れ物~!」
「あっ、マフラー、ありがとうございます」
受け取ろうとして、白いものに気づいた。雪だ。雪がちらつき始めたのだ。月明りに照らされ、目映いほどにきらめいている。
何というきれいな光景だろうか、はらはらと舞い落ちる美しさに目を奪われたそのとき、
「わあ、キレイねー」
彼女が空を見上げた。白い息が寒空に溶け込んでいく。
(きれいと思うものを同じ時をしてきれいと感じるなんて)
空を見上げて手のひらをかざし、そこに落ちては消える雪の結晶を見つめる彼女の仕草。同じように天に手を向けていた俺は、ハッとなって慌てて両手を後ろに引っ込めた。
(とことん同じ感性なんだ。こんな人、この世にほかにいるだろうか)
思いは内に秘め、白々しく会話を続ける。
「今年初めてですね」
「そうね」
「美沙子さん、風邪ひかないように暖かくして寝てくださいね」
「ええ、哲さんも」
受け取ったマフラーを握りしめた。心はここにいたいと叫んでいたが、押し殺して車に乗り込んだ。
エンジンをかけながら、彼女をミラー越しに確認する。ゆるりとアクセルを踏んだ。豆粒ほどになるまで手を振り続けている姿が、目に焼きついて離れそうにない。潤んだ瞳で、視界がぼやけた。
愛しい――
こんなにも愛しい――
ああ、どうすることもできない――
凍てついた心――
侘しい――
こんなにも侘しい――
ああ、どうすることもできない――
慟哭しそうな心――
どうやら人を愛すると、誰しも詩人になれるようだ。
12 無垢
どれほど眠っただろうか。赤子のようにむさぼり眠った。やっと哲さんに会えた安堵感でいっぱいだった。たった1週間だというのに、彼を待ちわびるだけのやたら長い日々であった。
彼に抱きしめられた日が、すでに遠い過去の出来事に思える。安堵の後に必ず訪れる淋しさ。いくら都合よく考えても、ハッピーエンドが待っている訳はないのだ。
私は無垢に何を望んでいるのだろう。20年という隔たり、どうあがいても埋められない莫大な時空間。今このときを共有しているとはいえ、これを埋める時間と手間はどのくらい必要なのだろうか。
ただただあなたに追いつきたいと願った。でも、追いつけない。待ってくれているのに、手を差し伸べてくれているのに、どうやってもあなたの居場所に辿り着けない。このままじゃあなたの枷になってしまう。私というお荷物が、あなたを向かいたい夢の入り口の扉にすら届かなくさせている。
ここにいてほしい――
帰らないで――
せめてせめてあと数分――
言いかけて飲み込んだ。
省みることも忘れて、過去をまた繰り返そうとしている愚かな私。「あなたの幸せのため」、これで身を滅ぼしたのに。作り笑いなんかしてもすぐに暴かれてしまうというのに。そうするしかできなかった。何て下手くそな女優なんだろうか。
人を好きになると絶えずつきまとうこの苦痛。流れ出る情愛をせき止めようとすると、かえって激しく胸がうずく。ときに暴走する情熱を止められなくなる。抑えようとすればするほど痛みはより波打ち、もがき苦しむ。
そうかと思えば、モノクロからカラーに変化していくときめきに身体が震え、喜びに感極まる。頭の天辺から足の爪先まで求め、求められたいと乞う。
種々の感情が一斉にひしめき、心が千々に乱れる。これが恋心というものだ。どこまで人の心は複雑にできているのだろうか。
哲さんが恋しい。ずっといっしょにいたい。だけど……私じゃない、隣にいるべきなのは。
あなたには自由に羽ばたいてほしい。私のために立ち止まらないでほしい。私は、陰から密かに見守ってさえいられればいい。いつまでもいつまでも、そうしていられればそれでいい。
現実を見なきゃ。いくら離婚歴がある傷者同士といったって、まだ彼には大きな未来がある。彼の傷を治す相手は私じゃない。
そう自らを律し、かつ自らにしつこく忠告しながらも私は、あの夜のぬくもりを思い出していた。彼は何か言いたげであったが、それを振り切って出て行ったようだった。その先の言葉がほしい。でも彼を大切に思うなら、それを言わせてはいけないのだ。
13 葛藤
彼女を抱きすくめた夜、キザだが俺はこうささやきたかった。
「美沙子さん、このまま聞いてください。俺は美沙子さんが好きです。年齢など気にしていません。あなたがこうして俺の前にいて同じ時間を過ごしているだけで幸せなんです。ご存知のとおり俺は二度も失敗をしています。だからもう恋愛には億劫になっていました。けどカッコいい言い方をすると、男女の恋愛を超越したっていうのかな、美沙子さんとはそんな関係を築けると思ったんです。あ、誤解しないでください、決して女性として見ていないという意味ではありませんから」
あのシチュエーションならこんなふうに告白できたはずだ。しかし、結局のところ尻込みしてしまった。男として彼女を支えることができるのかと、もう一人の俺にたしなめられ、ああするのが精一杯だったのだ。彼女にこの不安定な心を見抜かれてしまったようで気まずかったというのもある。その上、築きかけた自信に待ったがかかったようにも感じた。
客観的には、気が触れているように映るだろう。女性のほうが20も年上なんて。年の差カップルはいるにはいるが、芸能界のような別次元の人たちという位置づけだ。けれども現実を見てみろよ、これほどまでに美沙子さんに心を奪われている俺がいるではないか。最終的に幸せを手に入れた彼らでも、俺と同様に「ここぞ」というタイミングを逸してしまった経験はあるのだろうか。
もし俺が勢い余って告白をしたとしても、彼女は首を縦には振らないだろう。それは、彼女なりの優しさをもって、俺の前途を遮断してはいけないという気持ちを優先するだろうから。断じてそうではないと、どうやって伝えればいいのか。きちんと伝えないと、どんな言葉も態度も安っぽく見えるだろう。
考えあぐねたが、結論は出なかった。