(前編)【第2章】私の心
1 起動
三田村さんを送り出してから4か月。季節は日差しが目に沁みる時候へと移ろい始めていた。
私は相変わらず、連日の相談業務をつつがなくこなしている。彼のことは気がかりではあったが、自分から連絡するのは差し控えていた。たまに若い相談者が訪れると彼の様相を重ね、どうしているだろうかと安否が気になることはあった。
そんなある日、ケータイにメッセージが入った。
《大野さん、ご無沙汰しています、三田村です。ご報告があるので、久しぶりにお伺いしてもよろしいでしょうか》
(あっ、三田村さん!)
4か月しか経っていないのになぜか懐古の念が湧き上がってきて、彼からのメッセージを何度も読み返した。そして胸の高鳴りを抑えつつ、平然と返信をした。
《三田村さん、お久しぶりです。お元気でしたか? はい、都合のいい日時をお知らせくださいね》
この4か月の間に、知里さんとの関係に進展があったのは間違いない。どんな顔つきで現れるだろうか。そのとき私は、どんな言葉をかければいいだろう。
ドギマギしながら面談日の予約を調整した。
3日後、彼は相談所にやってきた。
「失礼します」
初対面のときとは別人のような晴れやかな面持ちで、相談所のドアから顔をのぞかせた。心なしか、服装も以前より明るめに感じられる。外見から心の内や個人情報が垣間見える、こんなことは日常茶飯事だ。職業柄、洞察力が養われたのだろうな。
私は、3日前のドギマギをすっかり忘れていた。
彼はせかせかといつもの椅子に腰かけ、先陣を切って話し出す。
「大野さん、その節はいきなり相談をやめてしまって失礼しました。あれからひと悶着あったんですが何とか落ち着きましたので、ご報告にまいりました」
「ひと悶着……落ち着いた……」
「はい、大野さんの推測どおりです、二度目の離婚をしました。世間的には、社会不適合者です」
苦笑をひとつ見せ、さらに続ける。
「僕の勘違いだったんですよ、知里を愛してるって気持ち。本当のところは、自分だけのものにしたいという独占欲が僕を盲目にしてたようです」
「まあ、愛するがゆえの欲求ではあるけどね」
「わがままな欲求に唆されて、相手を不幸にしてたんですね」
はにかむ表情に、以前のような物憂さはまったく見受けられなかった。
(これで私との関係も終止符ね)
どんな言葉をかけようかと悩んでいたら、彼が思いもよらずこう言った。
「そこでなんですけど、大野さん、僕を鍛え直してくれませんか?」
「うん? 鍛え直す?」
「はい、今回の離婚で自分の弱さを思い知ったんです。で、このままの日常をただ続けていたのでは何も変わらないし、また同じ過ちを繰り返すかもって先行きが不安になって。大野さんならたくさんの人間模様を見てきているでしょうし、年齢を重ねてこられた分、正しい生き方っていうのかな、それをご存知でしょう。そのスキルでぜひ、僕を指南してほしいんです」
「年齢を重ねて」の部分が引っ掛かり、ダメ出ししたかったが口にはしなかった。この未成熟で不安定な若者のもつ危うさが、何だか愛くるしく映ったからだ。
コンピューターを再起動した直後のように、私の心は心地よく回転した。と同時に、なぜかしら目頭が熱くなった。
2 疑念
すでに離婚が成立しているのなら、これ以上根掘り葉掘り問いただす必要はない。私の本来の役目は終わったも同然だからだ。
だが、人生の教示を求めるのであれば、これまでの足跡を新たに掘り下げていかなければならない。折に触れて、彼の癒えた傷をうずかせはしまいか、それが心配であった。
それにしても、「指南してほしい」なんて本意なのだろうか。私の前で従順に見せておいて本音は別の所にあるのでは? もしかして私のほうが操られている? 知らず知らずのうちに懐柔させられている? 彼に対して初めてこのような疑念を抱いた。
そんな思いをかき消すように、彼は続ける。
「いいですよね、大野さん?」
「あ、はい、いいですよ」
強気の口調に圧倒された。
(もしや、疑念を見透かされた? まさかね)
「今日は、報告だけにまいりましたので、指導してもらうのは次にします。あ、もちろん指導料はお支払いしますから」
(えっ、指導料の件を言い出せず戸惑っているふうに見えたの?)
三田村さんは、次回のアポを取るとあっけなく帰って行った。
(何なの、グラグラ揺れちゃって。私としたことが)
師匠として仰いでくれているのはうすうす感じていたが、ここに来て彼の心根が推し量れなくなっていた。4年のキャリアが崩れていく音が耳元でどよめき、軽い悪寒に見舞われた。
単なるジェネレーションギャップから生じる杞憂であってほしい。師匠はどんなことがあっても弟子を疑わないものだ。そう言い聞かせて、次の面談日を手帳に書き入れた。
3 懸念
(俺って大野さんにあまりいい印象を与えてないのかな)
そんな懸念が脳裏をかすめた。
(そうだよな、ニ度も離婚歴のあるヤツなんてな。大野さんはいつも丸ごと受け止めてくれるけど、ホントはどうなんだろう。大勢いる相談者の中ではクセのあるほうだろうか。いやいや、もっと手に負えない人はいるに決まってる)
いったん相談を断ったのは、自分自身でけりをつけたかったと大野さんには伝えたが、これ以上彼女に不甲斐ない姿を見せたくなかったというのが実のところ大きい。大野さんに相談したらきっと、俺を守ってくれようとするだろう。だが、俺は傷ついても構わなかった、いや、むしろ傷つきたかった。あえて傷跡を残し、それを今後の戒めとしたかったのだ。
大野さんの指導を受けようと思ったのも、率直に言って、彼女ならどう考えるか、その答えをもらい、己の肥やしとしたかったからだ。彼女の一挙手一投足は、俺の血となり肉となる。「訓練してほしい」なんて言い方をするとちゃんちゃらおかしいが、別に変な意味ではなく、「一人前の人間形成を目指してレッスンしてください」と、真摯に請いたかったのだ。彼女から教えられることは非常に多く、それを吸収して新たな自己を確立していくために、もはや不可欠な人となっているのである。
とはいえ指導料を支払うのだから、これはれっきとした仕事の依頼である。俺も大野さんもその点はわきまえているはずだ。俺は大野さんにとって、20歳ほども年下の若輩者。繕っている場合ではない。素の自分を見せてこそ改革の余地があるのだから。そう考えると、俺は彼女にかなり依存しているようだ。だが、優しく包んでくれるのは俺が顧客だからだろう。もし親子という関係なら、とうに放り出されているのが目に見えている。
明日は離婚後初めてのレッスン日。前回、報告だけをしに行ったのは、あの日でこの離婚に関するすべてを終わらせたかったからだ。これからは生まれ変わりたい。
それと、欲張りな願いではあるが、チャンスがあればもう一度伴侶を得たい。次こそは永遠の伴侶を。そのためには何をおいても、自分自身を磨かなければならないのだ。それにようやく気がついた。
4 鼓動
三田村さんは、珍しく休日の朝に訪問してきた。これまでの相談のような切羽詰まった様子はまるで感じられない。
「大野せんせーい、始めてくださーい」
その明るさに違和感があり、すぐには慣れそうにない。
基本的に私がテーマを決めて、「こんなとき、どうする?」という問いに対して彼に回答してもらうスタイルで進めることにした。
たとえば、「未明に奥さんが『お腹が痛い』と訴え、うずくまっている。さあ、あなたならどうする?」といった具合。
できるだけ結婚生活を意識した内容にしているが、時たまビジネスのテーマをぶつけてみたりする。彼は営業マンなので余計なお世話かなとは思ったが、ビジネスマナーを急きょ投げ込んでみると、ハッと不意を食らった素振りをする。それが何気に新鮮で可愛らしいのだ。
ビジネスマナーといっても、教科書どおりにはいかない場合やローカルルールもあるため、その辺の知恵も伝授することにした。
具体的には、「約束の時間の5分前にはお客様宅を訪問しましょうっていうのは正しい?」といった質問。一般的には正しい。だがリアルでは、常識をひっくり返すローカルルールが点在する。「約束の時間まではフライングとして礼を欠き、少し過ぎた時間に訪問するのが適切」というエリアもあるのだ。
こんな質問も投げかけてみた。
「三田村さん、説得の三原則ってご存知?」
「説得の? 何?」
「三原則。人を説得するにはね、三つの要素が必要なの。三田村さんは営業マンだから知っているかな。カウンセラーの資格を取得したときに心理学も勉強したのよ。私は営業マンじゃないけど、これらの心理テクニックって日常生活にもとても役立つのよ」
「へー、知らない。で、その三原則って?」
「そうね、次回までに予習してきてもらえる?」
「師匠~、もったいぶって!」
「三田村さんのためです」
「ははは」
このような訓練が、月に2度のペースで3か月間続いた。今まで担っていた離婚相談とは違って、所内が和気あいあいとしている。こんなお客さん、初めてだ、離婚相談以外で定期的に訪問してくれるなんて。しかも話が横道に逸れても、そこからだって学びがある、と喜んでくれる。何とも摩訶不思議なお客さまである。
ある日、余談に花が咲き、終了時間を1時間近くもオーバーしてしまった。時計に目をやると、午後8時を回っている。
「僕のせいで終業が遅くなってしまいましたね。申し訳ありません。大野さん、この後、相談者はもうお見えになりませんよね?」
「ええ、今日の予約は三田村さんオンリーでしたから」
「よかった。じゃあ、これから食事に行きませんか?」
「えっ」
驚いて固まってしまった。
「唐突にすみません、ぶしつけでしたか?」
「い、いえ、行きましょう、行きましょう、はい、行きましょう、行きましょう」
鼓動の高まりを聞かれまいと、すっとんきょうな返事をしてしまった。
5 緊張
離婚してから、男性と向かい合って食事するなんて、思い返してみたが記憶にない。婚姻中は、対象といえばもっぱら夫だったし、子どもは二人とも女性。同級生や昔の同僚とたまにランチをするが、それも皆女性だ。
どんな話をすればいいんだろう。相談所では今や、師匠と弟子という形がほぼできあがった。けど一歩外に出たら、どう振る舞えばいいのか当惑してしまう。ただ、これだけは明らかだ。三田村さんと肩を並べれば親子に見えるだろう。
「大野さん、好き嫌いあります?」
思案に夢中で、彼の声が耳に入らなかった。
「大野さんってば!」
「あら、ごめんなさい」
「好き嫌いは?」
「い、いえ、特にないですよ」
(何、緊張してるの私。年甲斐もなく)
男性に食事を誘われたという以前に、ここまで緊張する理由はこうだ。
私は元々、他人といっしょに食事をするのが苦手なのだ。こんなことを言うと鼻で笑われるだろうが、食べるという本能的欲求を満たす行為を人に見られることに、異常に抵抗がある。だからこそ人が心を開ける格好の場所といえるのかもしれないが、それ以前に、そうやすやすと心を開いていいものかと疑心暗鬼になるのだ。
「すみません、何のリサーチもしていなくて。この辺りに夕食を、いえもう夜食ですよね、できるお店ご存知ですか?」
おっと、また彼の言葉を聞き逃すところだった。
「ごめんなさい、あまり外食しないからよくわからないのよ」
「そうですか、じゃあ、ネットで検索してみますね」
そう言って画面を凝視したかと思うと、
「ここなんかどうですか」
と、ケータイの画面をこちらに向けてきた。
「いいですね、この近辺にこんなお店があったんですね」
屈託のない彼の表情につられて、間髪入れずに返答してしまった。
三田村さんは、離婚で慰謝料を搾り取られたのかな。あれ以来、離婚の話はどちらともなくタブーとなった。本人から話してくれば耳を傾けるけれど、離婚相談として訪問されていない以上、こちらから積極的には聞けないのだ。
そんな半透明さを痛切に感じながら、私たちは連れ立って相談所を出た。
6 警告
思ったよりひんやりと風が冷たかった。振り返れば、三田村さんが初めて相談所を訪れたときもこんな季節だった。あれから丸1年、また凍てつく冬が始まろうとしている。
「思ったよりひんやりと風が冷たいですね。初めて大野さんとお会いした日もこんな季節でしたよね。1年間、あっという間でした」
ドキッとした。まるで心の内側をのぞかれているようだ。
波長が合うとは、きっとこういうのをいうのだろう。
だがここには越えられない厚くて高い年齢の壁が立ちはだかっている。できることなら、彼が弟子を卒業してもずっといい関係でいたい、そう私は願った。
相談所から10分程度歩けば、数件の飲食店がある。彼がネットで検索した店は、小ぢんまりとした洋食店であった。
「僕、ハンバーグが大好物なんですよ」
子どものようにはしゃいでいる。
「じゃあ私もつきあうわ」
彼はハンバーグ定食を2つ注文した。
向き合って席に着いたものの、さあ困った、何を話していいかわからない。相談所での雰囲気とはまるきり違う。しんとした沈黙が続く。
(やっぱり苦手だ、こういうの)
お客さんたちのガヤガヤとした雑音の中、ここだけがスポットライトを浴びているかのような静けさだ。その上、さまざまな料理の混ざった匂いが漂い、一層私を気持ち悪くさせる。まともに食事なんかできそうにない。けれど誘ってくれた三田村さんの前でそんな素振りを見せる訳にはいかない。
彼はうつむいて何やらケータイを操作している。その状態の中、定食が届く。
「あれ、大野さん、食べないんですか?」
「あ、ああ、食べます食べます」
(何か話して、食事から気をそらせなければ)
「三田村さん、ご兄弟は?」
見切り発車してしまった。
「妹がひとりいます」
「いくつ違い?」
「3つです」
「近くにいらっしゃるの?」
「ウチから車で10分くらいのアパートに住んでます」
「ご結婚は?」
「あ、まだです」
「お仕事は?」
「動物病院で働いています」
「動物がお好きなのね」
「本当は獣医師になりたかったようなんですけどね」
「そうなんですね」
「……」
「……」
やってしまった。沈黙に耐えられず、思わず機関銃のように乱発してしまった。
もう一人の私が警告する。三田村さんは友だちではない、お客さまなのだ。人生の指南は承ったが、プライベート空間にまで土足で踏み込む真似だけはしていない。なのに、ああ、なんて無様、こんな所で畳みかけるように問いかけちゃって。面接じゃあるまいし。
相手との距離感も見定めないでぐいぐい食い込んでいく、この、TPOをわきまえない図太さや無神経さが年齢のせいだと思われるとイヤだなと思った。年齢差は紛れもない事実ではあるが、関係性にダイレクトに亀裂を入れるものではない。しかし、それがうまく伝わらず、年齢の壁によって誤解が生じるケースも相当あるのではないだろうか。
邪推ばかりが駆け巡り、憂鬱を招いたようだ。これ以上の会話を続ける気力を失ってしまった。いささか短絡的だが、もうこれっきりかも、と覚悟を決めた。
定食を半分残した器を見て、彼がさらりと言う。
「大野さんは小食なんですね」
「え、ええ。せっかく誘ってくれたのにごめんなさいね」
「いえいえ、こちらこそいきなりですみませんでした」
三田村さんには申し訳ないが、「また行きましょう」という言葉がなかったのが救いであった。
7 焦燥
俺は、洋食店で大野さんが意気消沈していた心情を感じ取っていた。楽しく過ごせなかったのは俺のせいだ。うまく表現できないところに俺の未熟さがある。
彼女は、俺が会話に詰まってしまった原因が自分にあると思っているだろうが、そうではないと言ってあげられなかった。彼女の憂鬱そうな表情と同じくらい、実は俺も自己嫌悪に陥っていたのだ。
大野さんのことだから、あの日の感傷をまだ引きずっているだろう。俺はあんな繊細な人に出逢ったことがない。二度も失敗している俺が言えた義理ではないが、なぜ離婚したのか腑に落ちない。よっぽど結婚生活に疲れたのだろうか。
彼女にとって俺は顧客の一人。離婚相談が終わったら縁が切れて当然だ。なのに、こうしてつながっていられるのは、何かしらの縁があるとしか言いようがない。大野さんから見れば俺なんかまだまだ子ども。いっそ子どもとして彼女に甘え続けていたいが、そういう訳にもいかない。
誤解されたまま糸が切れてしまうのがこわい。それはそれで仕方ないとはちっとも思わないのだ。できれば早急にこの誤解を解きたい。
(ああ、何てもどかしいんだろう)
あれから1週間何の連絡もしていないから余計に気に病んでいるのでは、そう思い始めると、ますます焦燥が膨らむ。
何故あんな無愛想な受け答えをしてしまったのか、ほかに会話を継続する手立てが浮かばなかったのか。
もう見限られてしまったか、それとも俺からのコンタクトを待っているのか? 電話しようか、でも何て? 何を話せばいい、用件もないのに?
車中に流れるお気に入りのサウンドにも耳を傾けず、頭は考え事でいっぱいだ。
気持ちを切り替えるために、いったん車を広い路肩に停めた。意図しないため息がひとつ。同時に電話が鳴ってビクッとなった。大野さんからだ。動揺を抑え、3つ数えて出た。
「はい、三田村です」
8 機会
二人で食事をしてから1週間が過ぎた。一向に三田村さんからの連絡はない。あの日の覚悟が確信に変わりつつあった。
そんな折、松下さんという60代の女性との面談中に、「車を購入したい」という話が持ち上がった。熟年離婚に際し、自動車は譲り受けないため、新たに必要となったのだ。
「懇意にしている営業さんを知っているのでご紹介しましょうか」
と投げかけると、
「ぜひともお願いしたい」
との回答を得た。
三田村さんの声が聞ける絶好のチャンスだ。実を言うと、このような機会をうかがっていた。相談の中で車の話題が上ったときは、すぐに彼の顔が浮かぶ。
松下さんの前で電話する。
「はい、三田村です」
「三田村さん、今いいですか?」
「はい」
「お客さまがお見えになっているんですけど、車を購入したいとおっしゃってるんです。三田村さん、商談に応じていただけます?」
「もちろんですよ」
「わかりました、ではお客さまに三田村さんの連絡先を伝えておきますね」
よかった、元気そうな声だ。彼の喜ぶ顔が目に浮かび、とんでもなくうれしかった。
夕方、三田村さんから電話があった。
「大野さん、ありがとうございます。ご紹介くださった松下さんから先ほどお電話をいただいて、明日お店にお越しくださることになりました」
「早々と。さすがは敏腕セールスマン!」
「いえいえ、僕の力じゃないですから。ところで大野さん、今晩お伺いしてもいいですか?」
「今晩って、前祝いするには気が早くない? まだ商談成立した訳じゃないでしょ、いいの、そんなにはしゃいじゃって?」
「もう成立したようなもんですよ、大野さんからの紹介なんですから」
私の心もはしゃいだ。
「えらく大きく出たものね」
「はい、こう見えてもいっぱしのセールスマンなんですよ」
「いいわよ、じゃあ、7時にいらっしゃって」
彼は時間どおりにやってきた。コンビニ弁当を二つ提げて。
9 感謝
大野さんに心を読まれているのかと錯覚するほど、絶妙なタイミングだった。俺は考えすぎていたのだろうか。自分に対して青臭さを感じてしまった。
どうあがいても、彼女にはかなわない。それは、年齢の差だけが原因ではない。彼女は、大人としての品格と他者への配慮、これらを持ち合わせているのだ。もし俺が彼女と同じ歳だったとしても、あのようなきめ細やかな対応ができるとは思えない。
ペットボトルの紅茶の残りを一気飲みし、急ぎエンジンをかける。
小一時間で営業所に戻り、大野さんから聞いたお客さまの名前を所定のオーダーシートに書き入れた。情報はこれ以外何もない。だから、何をお勧めすべきかについては、まだ判断できる状態ではない。とりあえず連絡待ちだ。
(とにもかくにも、大野さんの厚意に報いなければ)
オーダーシートをデスクに戻したちょうどそのとき、見知らぬ番号から電話がかかってきた。出てみると、松下さんという女性であった。大野さんから紹介された方だ。これまで乗っていた車種、購入したい理由や用途、購入車の要望までひととおり聞き出せた。それ以上の詳しい情報は面談のときでいいと判断。明日ディーラーまでお越しいただく約束を取りつけたところ、試乗したい車があるようだったので、その手配に取り掛かった。
(ここまで来れば、あとは、ニーズに合う車と出逢ってくれることを祈るばかりだ)
名前のみのオーダーシートに、聞き取った情報を漏らさず記入した。
一息ついたとき、大野さんへの感謝が込み上げてきた。さっきまで抱いていたマイナスの感情はきれいさっぱり一掃されている。無性に彼女に会いたくなった。そう思うが早いか電話する俺。
「大野さん、ありがとうございます。ご紹介くださった松下さんから……」
10 空気
「大野さん、いっしょに食べましょう!」
三田村さんは相談所のドアを開けるや否や、私に向けてコンビニ弁当をかざした。
「あら、いらっしゃい」
そっとドアを閉めた彼に向かって手招きすると、小走りで駆け寄ってきた。
「電話でも伝えましたが、大野さんのおかげで成約までこぎつけそうです」
「だからー、喜ぶのはまだ早いって」
「いいんです、大野さんから……、あ、何でもないです」
何か言いたそうにニヤニヤしながらうつむいた。
「何だかうれしそうね。とにかく明日はよろしくね」
先日の張りつめた雰囲気は微塵もない。鬱々と考え込んでいた過去はとうにかき消されていた。
これっきりなんて、やはり私の早合点だったのかな? それとも私の消沈した気配を察し、彼の優しさをしてわざと道化しているとか? いや、ただ単に商談がうまくいきそうだからテンションが上がっているのかも?
いろいろと想像を張り巡らしたが、だんだんとどうでもよくなってきた。彼とこうして時をともにするだけで、とても心地いい空気に包まれたからだ。
「お弁当のときも紅茶なのかしら?」
「はい、お願いします」
遥かの新婚時代の記憶が呼び戻されたような錯覚に、図らずも「ふふっ」と声が漏れた。そして即座にこう祈った。
(どうか心の内を三田村さんに気づかれませんように)