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薄氷(うすらい)の彼方  作者: 社れいら
1/8

(前編)【第1章】出逢い

 1 事実

 

 インターホンの冴えた音が鳴り響いた。


(ん? 今日の予約は午後からだけのはず)


 パソコン操作に集中していた私は、とっさに手を止め、壁際のモニターに移動する。


「す、すみません、こちらは離婚相談所で間違いないでしょうか?」


 おどおどした活舌の悪い男性の声が、インターホン越しに届く。モニターには顔半分しか映っていない。


「はい、そうです」


「飛び込みなんですけど、今から相談に応じていただくことは可能ですか?」


「はい、ちょうど空いていますので大丈夫ですよ。どうぞお入りください」


 そう答えると、男性は遠慮がちにドアを開け、忍び足で入ってきた。


「失礼します……」


 私は飲みかけのコーヒーをすばやく一口だけ喉に流し込み、急ぎドアのそばに歩み寄る。


「アポなしで申し訳ありません。わ、わたくし、三田村と申します」


 朴訥(ぼくとつ)そうな若い男性だ。スーツに羽織っていたとみえるネイビーのコートを片腕に掛けている。


「初めまして。みさ離婚相談所の所長をしております、大野美沙子と申します。所長といっても一人でやってるんですけどね」


 名刺を手渡し、接客用テーブルに彼を誘導する。


「こちらにおかけになって」


「は、はい」


(声がうわずっているわ。かなり緊張しているようね)


「三田村さんは、コーヒーと紅茶、どちらがお好きですか?」


「紅茶……です」


 テーブルの隅で紅茶を入れる用意をしながら、私は彼に問いかけた。

「ここはどのようなきっかけで知ったのでしょうか?」


「相談所のホームページです」


(あの手作りのホームページがヒットしたのね)


 人口約10万人という地方都市で小ぶりなマンションの一室を借り、離婚相談所を開設して早や3年半。こんな田舎で需要などあるのかと知人にからかわれたが、何とか細々と続けてきた。夫とは約5年前に協議離婚。その経験を活かして離婚問題に悩む人々の力になりたいとカウンセラーの資格を取得し、一念発起してこの相談所をオープンしたのだ。


「ではまず、このヒアリングシートに書ける範囲で記入していただけますか」


 ティープレスで茶葉が蒸れるのを待つ間、彼の記入していく手元を目で追う。紅茶をカップに注ぎ、シートの前に音を立てずに置いた。


 記入し終わったタイミングでシートを受け取り、内容を確認する。


三田村哲(みたむらさとし)、29歳……か。私より20歳年下だ。隣の市で一人暮らし。職業欄は……ART(アート)自動車、あ、車の営業さんか。奥さんも同じ29歳、子どもはいないようね。外見からは、有責(ゆうせき)配偶者(はいぐうしゃ)という印象は醸し出されていないけれど)


「それで、いかがなさったのでしょうか?」


「あ、はい、お恥ずかしい話なんですが、先週の日曜日に、いきなり妻から離婚の申し出があったんです。慌てふためいて、理由とかを妻に執拗しつように問いただしたんですけど……『離婚したい』の一点張りで、それ以上何も語ってくれないんです。こんなこと相談する人もいなくて、途方に暮れてしまいまして……」


(妻からの離婚申し出ね。よくあるパターンだわ)


 彼の話を傾聴し、カウンセリングノートに書き留めていく。


「ここに来るまでの間に妻は、離婚届を置いて家を出て行きました。多分、実家に身を寄せていると思います」


「で、三田村さんの現在のお気持ちは?」


「理由も告げず去って行ったことに、少し憤りを覚えています。心当たりがないから納得がいかないのです。だから離婚を承諾するのには抵抗があります」


「そりゃそうでしょうね。すぐに結論を出す必要はありません。ベストな方法を探りながら、じっくりと進めていきましょう。何回か通ってきてもらうことになりますが大丈夫ですかね?」


「はい、仕事の合間に時間を作ってまいります。気持ちの整理がきっちりつくまで、大野さんの力をお借りできればと思っています」


 それから1時間半、結婚してからの経緯に耳を傾けた。


 当事者の一方の話だけが事実ではないとわかってはいても、目の前の人の語る内容が事実であると信じないと前には進めない。明らかにねじ曲がった考えは指摘するが、できるだけ本人の意向を尊重したい。だから、相談者側に肩入れしてしまうのはどうしても避けられない。このときも普段どおり注意深く話を聴き、可能な限りのアドバイスをした。


「ありがとうございました。失礼します」


 丁寧に会釈をしつつ去って行く彼を見て、この子には不幸になってほしくないなと思った。いつも相談の後にはこのような思いに駆られるのだが、今回はやや違った感情が芽生えた。子どもほどの年齢だったせいだろうか、さながら家族の幸せを願う、そんな母性的な感情であった。

 


 2 真実 

 

 自宅アパートに戻った俺は、コンビニ弁当のふたを開けながら、大野さんからのある言葉を思い出していた。


知里(ちさと)さんの身辺調査をしますか?」


 妻の知里がなぜ突然の三下り半をつきつけてきたのか、実は、思い当たる節がない訳ではなかった。しかし、それが直接的な原因かどうかは、知里に問い詰めないとわからない。


 このことは大野さんにはまだ話せなかった。一部始終を知らない彼女はこう言っていた。万が一、知里が別の男性に心惹かれたのなら慰謝料請求ができると。知里が離婚の原因を作った側になるからだそうだ。原因そのものが自分にあるとすれば、逆に慰謝料請求をされかねない。そういえば大野さんは、「有責配偶者」という文言を使っていた。自ら婚姻を破綻(はたん)させた側をそう呼ぶそうだ。


 結婚後の金銭管理はすべて知里に任せてきた。だから、どのような家計なのかと問われても何の返答もできない。


 知里は派遣会社で働いていて、半年ごとに職場が変わる。業務内容によって収入が変わる上、期間満了でブランクのときもあるようだ。手取りは月に平均すると十数万円らしい。


 片や俺は輸入車ディーラーの営業マンで、販売台数により一定でないとはいえ月々約30万円程度の収入がある。そこから生活費として知里が20万円を引き出すルールとなっていたので、毎月ほぼ10万円が通帳に残るという計算になる。俺はドライブが趣味だから、仕事も趣味もそう変わりはしない。車のメンテナンス費用や部品代などで小遣いは消えている。


 結婚して3年半経つが、知里はいつから離婚を視野に入れていたのだろう。そのときから離婚に向けてコツコツと準備をしていたのだろうか。そんな気配にはまったく気づかなかった。まさかの離婚を目論んでいたとはな。何て鈍感なんだ、俺は。


 それから大野さんは、こうも言っていた。もし離婚になったら、婚姻してからの財産は夫婦で折半できると。子どもがいないから養育費は関係ないが、財産分与やら慰謝料やら、離婚にはお金がらみの問題が多くて厄介だ。


 いやいや、知里との離婚は考えていない。誤解が生じているなら解かなくちゃならないし、何より知里と話し合わなくちゃ。


 ため息をつき、うなだれると、知らぬ間に弁当はご飯一口だけになっていた。


 大野さんの言葉がまた頭をよぎる。


「身辺調査ねえ」

 ボソッと声が出た。


 真実が知りたい、だけど真実は知りたくない。不快なジレンマが渦を巻いている。


 結論を出すのはまだ早い。大野さんに相談しながら事を進めよう。


 次の予約は1週間後だ。かなり年上ではあるが、心の内を丸ごと吐露できるのは、彼女の人徳か、それともプロのスキルか。まあ、どちらも兼ね備えていないとこんな仕事できやしないよな、人生の分岐点に立つ男女の問題なんてな。


「今日はもう考えるのをよそう」


 弁当の空パックを無造作に捨て、ベッドに飛び込んだ。


 

 3 美談

 

 私は、三田村さんの相談が終わった後の準備に追われていた。次の予約が押し迫っていたからだ。


 相談者は、初回の人から、すでに1年近く通ってきている人までさまざまである。圧倒的に女性が多く、三田村さんのような若い男性は少ない。


 母親同伴で来られた30代女性の相談を終わらせ、ホッと一息ついたとき、相談所の電話が鳴った。新たな予約である。


 繁盛とまではいかないが、ここに離婚相談所があることが少しずつ認知されてきた。時代に相応した広告宣伝などは一切していない。言うなれば、隠れ家的なスタンスだ。それは、人生における負のイベントを飯の種にしているという後ろめたさが、心の片隅に居座っているからである。


 相談の終了後、相談者は仰々(ぎょうぎょう)しく感謝の意を述べて帰っていく。その様子を見れば、後ろめたさなど抱く必要は毛頭ないはずなのだが、なぜか完全に払拭(ふっしょく)できないのだ。突き詰めれば、自分自身が美しい離婚をしていないという帰結にぶち当たる。


 よくある離婚事由であった。そう、夫の不貞(ふてい)。でも、ちっとも取り乱しはしなかった。夫の「美沙子との離婚で僕は幸せになれる」という言葉を信じたからだ。お人よしも過ぎると笑われるだろうが、未だ彼を愛していた。私と離れることが彼の幸せとなるなら本望だと思った。だから、「愛する人の幸せのため」とみじんも疑うことなく離婚届にハンを押した。


 それを戦前生まれの母に報告すると、強く諭された。


「私は今の今まで美沙子の決断には反対してこなかったけど、今回ばかりはあまり賢明とはいえないね。相手を大切にするのがお前のいいところ。だけど自分の幸せを犠牲にしてないかい? 後からそれが仇となって苦しまなければいいけれど。私としては何やら嘆かわしい思いでいっぱいだね」


 母からすれば、先を考えない軽率な行動に映ったのだろう。私は反論する余地はあったが、しなかった。いや、できなかったというほうが正しいか。母の顔を目の当たりにし、親不孝を加速しそうだったからだ。


 父は黙して静観していたが、その後しばらくして体調を崩し、ふせっていたようだ。母とは違う反応だったが、それぞれにダメージを受けたのは紛れもなかった。


 夫を幸せへと見送りはしたが、代わりに両親を深い不幸の穴に(おとしい)れたようで胸が痛んだ。


 だが、これだけは確かだといえる。両親が懸念するほど私は不幸ではなかった。その理由の一つは、娘二人が離婚に賛成してくれたこと。すでに二人とも成人していたため、親権や面接交渉などの協議は不要だった。離婚後の相談所開設も応援してくれた。間近で私たち夫婦を見てくれていた娘たちの後押しは、どれほど心強かったことか。


 そしてもう一つは、5年経た現在が、離婚当初に描いていた未来予想図よりはるかに幸せと思えるからだ。離婚相談所の開設を決断したのも、この経験があってこそ。あのまま離婚しないでいたら、今ごろ私はどうしているだろうか。


 誰しも自分の価値観で他人を評価する。離婚それ自体が不幸だと断言する人もいれば、新しい人生の始まり、と背中を押す人もいるだろう。当事者にしても、有象無象(うぞうむぞう)に振り回される人がいるかと思えば、辛酸(しんさん)を踏み台にして大きな幸運をつかむ人だって実際にいる。だから、点それだけをもって幸か不幸かなんて決めつけられないのだ。


 相談を受けていて最も悩ましいのは、離婚を推すのか留めるのか、どちらがこの人にとって幸せなのだろうかという判断だ。相談者本人とその配偶者、双方の考えを一度に聴取できるのはまれである。本人と本人を取り巻く人物の思いを、相談者経由で可能な限り聴くしかできない。とはいえ、背景をきちっと把握した上で助言しても、最終的には相談者本人が決めること、私はナビゲーターという立場でしかない。


 私自身の離婚経験は決して美しいものではなかった。自分よりも夫の幸せを優先して決定した、その感情の部分のみを切り取れば美談と称されるかもしれない。しかし、自分の幸せを後回しにする、それ自体は非常に愚かで自らを不幸に陥れる根源だと感じるまでになった。


 離婚により幸せを得る目算だった夫は、私の願望とは裏腹に、あまり幸せになれなかったと風の便りに聞いた。離婚から1年経過したころだ。


 つまるところ、私の決断は誰をも幸せにしなかったのだ。それを知ったとき初めて、母の言葉がストンと胸に落ちた。母の言うとおり、次第に後悔という重荷につきまとわれるようになった。あの日閉じ込めた「行かないで」という心の叫びが、1年も経ってからむき出しになったのだ。相手の幸せを心から願ったにもかかわらず、このような思いもよらぬ結末を招くとは。母の嘆きが、月日を経てようやく理解できた。


 そこからは、地を()うような日々が待っていた。膨らんだ後悔の念が、日ごと夜ごと私を痛めつける。過去の言動を反芻(はんすう)し、咀嚼(そしゃく)し直すには、相当の時間が必要であった。


 けれども時が過ぎ、今はこう思える。あの苦しみのおかげで今日(こんにち)の私がいるのだと。今度こそ、この仕事を通じて相談に来られた方には幸せになってほしい。その願いに突き動かされ、どの相談にも我が事のように力がみなぎるのである。



 4 魅力

 

 初めてのカウンセリングを受けてから5日目の夜、俺は、友人たちとの飲み会に参加した。大学時代からのツレの潤と力也。潤は新婚、力也は独身である。


「テツ、お前、女がいたのかよ」


 こぞって、俺に非があると決めつけた。


 俺は、友人から「サトシ」ではなく「テツ」と呼ばれている。それは、学生時代から何ら変わりはない。


「そんなふうに見えるか?」


「確かにな」


「見えないな」


 3人の笑い声が、居酒屋の片隅に大きく響き渡る。


 心許す友人たちにはもっと早く明かしたかったが、迷惑をかけたくなくて遠慮していた。違う、それは建前だ。二度目という負い目が彼らとの距離を置かせたというのが本音だと思う。


「で、どうするんだよ。また離婚すんのか?」


「わかんない。さすがにニ度目ともなると慎重に事を進めないとな」


「だよな。それにしてもテツは、よくよく女に縁がないな」


 潤が茶化した。


「すまん、潤、新婚さんを交えた話題じゃないよな」


「ま、気にしなくていいさ。俺ら夫婦には愛があふれてるからな、なんてな」


(幸せのオーラが漂っている。俺にもこんな時期があった。もうずいぶん昔の出来事みたいだ)


「サンキュー。けど俺、今回はホントに自信喪失しちゃってさあ、第三者の冷静な判断がいるんじゃないかって思って、離婚相談所に通うことにしたんだ」


「離婚相談所? 何だよソレ」


「離婚問題に強いアドバイザーさんが、プロとして相談に乗ってくれる所」


「大丈夫か、それ、ぼったくりじゃないのか?」


「そうそう、相談に乗ってまーすって(てい)で適当に相槌打って、相談料を巻き上げるアレ」


 ジョッキを握ったまま、力也が片肘で俺をつついてくる。


「いや、それがさ、思っていた以上の有能なアドバイザーさんで、あ、大野さんっていう女性なんだけど、初回から大船に乗った気持ちになっちゃった」


「おーおー、一目惚れかー?」


「まさか! かなり年上だよ、多分20くらい」


「なんだ、かあちゃん世代かよ、残念!」


 力也はジョッキを置いて、人を斬る真似をした。


「でもさ、アドバイスは的確で、そればかりか人間的な魅力もあるんだよな」


「そうかそうか、じゃ、目一杯かあちゃんに甘えてきなさーい」


 力也が面白がって俺の頭を撫でるもんだから、向かいの潤も真似て手を伸ばしてきた。


「おい、リッキー! 潤も、よせってば!」


 俺がよけようとする姿を見て、二人は大笑いした。俺もつられて腹を抱えて笑った。


(何て気が置けないやつらなんだ。俺はこいつらと一生ツレでいたい。()さを晴らし合える数少ない仲間だからな)


「じゃあ、またな」


「おう」


「嫁の機嫌取って元サヤしろよ」


「わかった、わかった」


 俺らは居酒屋の前で別れた。


 ひとりになると、楽しかった飲み会の余韻が一気に冷めるほど離婚の重みが迫ってくる。退()けようとしても一向に退かない。


(それだけ真剣に向き合っているってことかな)


 それにしてもアルコールが入っていたとはいえ、俺の口から「魅力」なんてワードが出るとは。何とも滑稽だ。


 自宅に帰り着くと、すぐさまベッドに倒れ込んだ。その瞬間、不穏にちらつく大野さんの面影にまぶたを(もてあそ)ばれ、奇妙な感覚に(とら)われた。



 5 疑問

 

 2、3週に一度のペースで相談所に通い始めて3か月が経過した。依然として状況に変化はない。電話してもメッセージを送信しても、知里は相変わらずのシカトだ。いい加減、知里の実家に足を運ぶべきではないかと、大野さんからの助言があった。


 心の底で、ひょっとしたら戻って来るかもと淡い期待を抱いていた。しかし、それは3か月経っても実現しなかった。


 意を決し、知里の実家へ向かおうと支度はするのだが、いざ自宅を出る段になると二の足を踏んでしまう。知里との結婚生活はそれなりに幸せだった。だから、戻ってこないなんて想定外だったのだ。


 知里は平気なのだろうか。もう終わったと開き直っているのか。いくら心に忠実だといっても、黙って出て行くのはあまりにも身勝手ではなかろうか。お義父さんやお義母さんにはどんなふうに話しているのだろう。やたら疑問が湧いてくる。もしかして、俺がどんな態度に出るか見極めようとしているのか。


 満面の笑みを放っている新婚旅行の写真の二人が、グニャリと歪んで見え始めた。


「ほら、私の言ったとおりでしょ。愛情がない証拠よ」

 と嘲笑(ちょうしょう)されているのが予見された。


 もはやグズグズしてはいられない。


 知里の実家は、隣の政令指定都市にある一戸建ての住宅だ。1年前に知里の父が退職金で建てたばかり。大規模な住宅街の一区画で、ここからは車で1時間程度の距離だ。


 知里には4つ上の兄がいる。独身だが実家には住んでいない。実家から10キロほど離れたアパートで一人暮らしをしている。この件はきっと義兄の耳にも入っているだろう。前もって俺が行くと伝えたら、義兄も駆けつけて俺を(あお)り立てるはずだ。4対1はできれば避けたい。となるとやはり、アポなしで向かうのがいい。


(ここは、清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気が必要だな)


 逡巡(しゅんじゅん)の末、俺はようやく重い腰を上げた。


 時刻は夜の8時半。知里の実家に到着した。目の前の道路に車を横づけしたが、エンジン音とドアを閉める音で誰かが来たことはすぐにわかるはず。カーテン越しにこっそりのぞいて「来た来た」なんてささやいているに違いない。もうここまで来たら腹をくくるしかない。知里の本心を聞き出すまで帰らないという気概で臨むしかないだろう。


『早川』という表札を(にら)むように見つめ、襟を正した後、強くインターホンを押した。


「こんばんは、三田村です」


 はやる心を抑え門扉(もんぴ)を開けて中に入ると、知里のお母さんがエプロン掛けのまま玄関から出てきた。



 6 糸口

  

 相談日でない日にも、私は三田村さんの行動が気になっていた。知里さんの実家に足を運ぶようアドバイスをしたきりで、向かったのかどうかもわからないからだ。


 相談後の進捗や結果は、わざわざこちらから問わずとも、大抵は相談者側が報告をしてくれる。だから、こう何もないということは前に進んでいないのだろう。それはそれで待っていればいいのだが、三田村さんの性格からして、タイミングを逃して余計に傷口を広げていそうで、さらに不安が募るのだ。


 ケータイに電話してみる。


 出ない。


 10回鳴らして切った。


 何やってるんだろう。


 もう仕事は終わっている時間帯なのに。


 三田村さんが奥さんから本心を聴取できなければ、次の展開もなければアドバイスのしようもない。どうすればいいだろうか。動けないのはそれなりの理由があるからだろう。先に彼のメンタルをカウンセリングしたほうがいいのか。


 私は三田村さんのカウンセリングノートを取り出し、初回相談の日からの記録を読み始めた。全体を読み返したとき、何やらピンときた。


 これまでに彼が相談に訪れた回数は5回。相談中、会話を録音している訳ではないが、引き出した情報は限りなく正確に記録している。相談内容だけでなく、そのときに受けた心証や今後の方針も詳細に。


 4回目の相談あたりから、たまに会話に詰まるときがある。それまでは、緊張してはいても質問に対しては滞りなく返答してきた。が、このころから時々、返答までに間が生じることがあるのだ。そのとき決まって物憂げな表情をする。もしかしたら何か口に出せない重大な秘密があり、それが言い出せないでいるのではないだろうか。そしてそこにこそ、この離婚問題の解決の糸口があるのでは。


 彼は有責配偶者じゃないという私の印象は(くつがえ)りそうだ。そう思い始めると、居ても立っても居られなくなってきた。知里さんと会う前に問いただし、場合によっては彼を(いさ)めなければ。


 私は自身の立てた仮説に胸騒ぎを覚えていた。



 7 泡沫(うたかた)

 

「お義母さん、知里(ちさと)さんはいますか?」


「知里は……」


(さとし)さん!」


 義母の言葉を(さえぎ)って、知里が息せき切って二階から下りてきた。


「哲さん、今さら何なの?」


「知里、いったいどういう了見なんだ、勝手に出て行くなんて。俺は待ち続けてたんだぞ」


「待ち続けてた? アタシを?」


「何なんだよ、離婚届なんて」


 提げていたビジネスバッグの中からサッと離婚届を引っ張り出し、知里の前に広げて見せる。


「あら、まだ名前を書いていないのね」


「当たり前だろ! 何も話し合っていないじゃないか」


「いったい何を? 話し合うことなんて何もないじゃない」


「どうしてこうなったのか、話してもらわないとわからないじゃないか。元の(さや)に収まるようちゃんと話し合おう」


「無理よ」


「せめて理由を教えてほしい」


「は? まさかまだ気づいていないって?」


 何も返せず口籠(くちごも)っていたら、義母が口をはさんできた。


「ここではなんだから、哲さん、中へ入ってちょうだい」


「いいわよ母さん、ここで。話すことなんて何もないんだから」


「知里!」


 とうとう義父も玄関に顔を出した。


「いい加減にしなさい。きちんと理由を哲くんに伝えるべきじゃないのか」


「父さん……」


「言いづらいなら私が話す。知里、いいか?」


「うん」


「知里に聞いて耳を疑ったのだが、哲くん、君はとんだ嘘つきのようだな」


「嘘つき?」


「単刀直入に言うが、君には離婚歴があるよね? しかも戸籍を操作してそれを隠した」


「そ、操作だなんて……」


「私も知里に言われるまで気がつかなかった。最新の戸籍を見ただけじゃ知りようがないからな」


 義父の手には、戸籍謄本らしき束が握られている。


「ひとつ前の戸籍謄本、これを見て愕然としたよ。本籍を変えると、新しい戸籍謄本には前のデータが受け継がれないらしいじゃないか。君はそれを知っていたんだろ? だからあえて、婚姻のときに本籍地を変えたんだ。そうだろ?」


「それは……、それは、僕の本籍地が以前一人暮らししていた住所のままだったから、この機会にこちらに変えようかと知里さんに提案したら了解してくれたんで……」


「そしたら離婚歴が消えていたんで、ほくそ笑んだって訳か」


「いえ、そうじゃなくて」


「だったら、どういうことか説明してくれるかな?」


「……」


「ほーら、説明できないじゃない」


 知里が侮蔑したような物言いをした。


「いつかは話さなければと思っていたんです。でも機会を逸したというか」


「機会を逸した? そういう問題じゃないわ、あなたは詐欺師よ」


「そんなつもりは……」


「どうせ離婚するんだから、慰謝料いくら払えるか計算しといて。じゃあね」


 冷めた雑言(ぞうごん)を吐きながら小さくバイバイして、知里は階段を駆け上がっていった。


「ということだ、哲くん。知里の心は固まっているようだ。君も大層なことをしでかしてくれたもんだな。この期に及んでも、事の重大さに気づいていないって訳じゃないよな」


「はい……」


「今日のところは潔く帰ってくれるかな」


「はい……、失礼します」


 深々と頭を下げ、義父と義母に背中を向けた。玄関ドアがピシャリと閉まる。


 車に乗り込むまでのわずかの間に、後悔と贖罪(しょくざい)の念がいっぺんに津波のように襲ってきた。確かに俺の過ちだ。いつかはいつかはと思いつつ、カミングアウトできず今に至っている。チャンスはあった、そう、あったはずなんだ。隠していたのではないと言ったところで言い訳にしか聞こえないのはもっともだ。ああ、このまま泡沫のごとく消えてしまいたい。


 ぐるぐると巡る思いにかき乱され、おぼつかない運転操作に何度も後続車にクラクションを鳴らされては我に返った。



 8 虹

 

 息苦しさから吐き気を催し、路肩に車を停めた。バッグの中から離婚届を取り出そうとしたとき、ケータイのランプが点滅しているのに気づいた。手に取ると、大野さんからの着信だ。深呼吸して、かけ直す。


「もしもし、大野さ……」


「三田村さん! どこなの!?」


 彼女の耳をつんざくほどのボリュームに飛び上がった。


「あ……、知里の実家を出たばかりです」


「やっぱり。……で?」


「はい?」


「どんな話になったの?」


「大した話はできなかったです」


「どういうこと? 説明してちょうだい」


「それが……、今はとても話せそうにないです」


「そうなの、わかった。だったら次回の面談日までに整理してきてくださいね」


「はい……」


「じゃあ……」


「あ、大野さん、待ってください」


「はい?」


「あの……あの……」


「ん?」


「あの……」


「どうされ」


「あ、あの、男が泣くってみっともないですよね?」


「泣くって……三田村さん……。あ、まあ、泣きたくなるときだってあるでしょうよ」


「……」


「三田村さん?」


「……」


「大丈夫?」


「……」


「いいよ、思う存分泣いたら」


 彼女のこの一言でタガが外れ、我慢していた涙が一滴、離婚届の上にぽとりと落ちた。彼女は電話を切らず、黙って俺を待っていてくれる。


 ケータイを握りしめ、ハンドルにもたれかかる。


(俺は大野さんに甘えているし、彼女は彼女で俺のつたなさを許容してくれている。女性の前でこのような女々しい姿をかつて見せたことがあっただろうか)


 心を落ち着かせ涙を(ぬぐ)った俺は、気を取り直してケータイを耳に当てた。


「大野さん、すみませんでした」


「いいのよ、気が済んだ?」


「はい、元気出して帰ります」


 大野さんは、俺の幼稚な心などたやすく見抜いているだろう。けれどそこに羞恥心はなかった。受け止めてくれた、そのうれしさのほうが大きく、雨上がりの空に鮮やかな虹がかかったような、そんな充実感でそろそろと車を発進させた。



 9 道標みちしるべ

 

 翌朝、業務の準備をしているとケータイが鳴った。三田村さんだ。急いで出る。


「大野さん、昨夜は申し訳ありませんでした。取り乱してしまったようで、お恥ずかしい限りです」


「どう? 仕事大丈夫?」


「はい、営業マンですからね、こんなことで右往左往してる場合じゃないですよね」


「『こんなこと』じゃないですよ。言っときますが三田村さん、岐路に立ってるんですからね」


「そうですね。昨日の件は、次回お(うかが)いしたときにお話しします。大野さんにお知恵を拝借しないと。迷える子羊ですから」


「ふふっ、冗談言えるなら今のところは大丈夫ですね」


 想定しない出来事が起こると、人は困惑してしまうものだ。が、事前に「もしも」を熟考しておく余裕があれば、これを回避することは可能である。人生経験が少ない分、迷いが多いのは致し方ないが、案外と男性って傷つきやすくて弱い生き物なんだなと改めて思った。


 昨日の一件が三田村さん本人の口から語られたら、私は彼の心の道標とならなければならない。


 物事には道理というものがあり、そこから外れたらどんな理屈を説いても、説得力に欠けるものだ。会話の内容はわからないが、理性を失うほど感情的になっていた様子を(かんが)みると、何か大きな原因があって、それに関して知里さんか彼女の家族が、彼を傷つける言動を放ったとしか考えられない。そうでないなら、道理に背いた彼が自らの汚点に気づき、それに心をえぐられたかだ。


 離婚相談を受けていると、相談者の稚拙(ちせつ)さに遭遇することが多々ある。大人になり切れていない人が意外と多く存在するのだ。


 ただそれを看取しても、頭から説教するなんてことは無論しない。何気ない会話の中に正論を投げ込み、自分自身でその危なさや過ちを察知してもらえるよう仕向けている。これは、数々の人生経験から生み出された(わざ)である。

 

 現代の若者は、あまり叱責されていないように感じる。もちろん皆が皆そうではないが、少なくともここに来る相談者は、その確率が高い。そこで、肉親のごとく優しく導いてあげると、見違えるほど大人になって巣立っていく人もいる。


 もはや離婚相談なのか人生相談なのか、はたまた教育なのかわからなくなるときが、しばしばあるのだ。


 

 10 距離

 

 三田村さんの面談日がやってきた。知里さんの実家を訪ねた日から5日経っていた。


「さあ、語ってもらうわよ、何があったか」


「大野さんには、すでに目星がついているのでは?」


「何となく、ね。たとえば……三田村さんに隠し事があったとか……じゃないかしらね」


 さらっと鎌をかけてみる。彼は唖然とした顔をこちらに向けた。


「さすが大野さんですね。で、これから僕はどうすればいいのでしょうか」


「隠し事の内容次第ね」


「隠そうとした訳じゃないんです。切り出せなくてここまで来たというのが正直なところ」


「間違っていたらごめんなさいね、ひょっとしてその隠し事って、離婚歴?」


 彼はバツが悪そうにうつむき、不自然に唇を噛みしめた。


「やっぱりそうなのね」


「大野さんは何でもお見通しなんですね」


「けど、実直な三田村さんがなぜ? こんな大事なことを?」


「知里を心から愛していたんです。それが深くなるにつれ、ますます言い出せなくなってしまって」


「愛しているからこそ伝えておかなければならないこともありますよね」


「そうですよね。話すと知里が離れていきそうで怖かった。けど結果的に、知里の心は僕から離れてしまった。浅はかでしたね」


 私は次の言葉に迷い、黙り込んでしまった。彼もまた口を閉ざし天井を仰いでいたが、2、3分の沈黙を破り、こう言い放った。


「大野さん、大変申し上げづらいのですが、今日をもって相談を終了しても構わないでしょうか」


「えっ、どうして?」


「一人でちゃんと考えて結論を出したいと思ったんです」


「そうなの」


「はい、大野さんにはすごく親身になっていただき申し訳ないのですが、このままだと大野さんに結論を委ねてしまいそうで。それでもいいと最初は考えていたのですが、やはり決断は自分自身で下すもの。そう考えると、いつまでも大野さんに甘えていてはいけないと悟ったんです」


「わかったわ。けど助けがいるときは、遠慮なく連絡してちょうだいね。待ってるから」


「はい、ありがとうございます。今まで本当にありがとうございました」


 三田村さんは、自身が犯した間違いをしっかりと受け止めている。そして、自分なりの判断で行動を起こそうとしている。これ以上、私が手を貸す必要はない。彼の、距離を置きたい気持ちを尊重したい。私は有事の際に頼りにしてもらえたらそれでいい。そんな思いで彼を送り出した。 

 

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