うわさ話
澄み渡る曇天の空。
空から降る霧雨は都会のライトに照らされ、まるで雪のようだった。
この天気のように自分の心が陰り後悔の気持ちと自責の念が渦巻き始めたのはあの日から。
あの日、あの時、あの場所を通らなければこの未来が変わっていたかもしれないのに。
こんなに過去をやり直したいと思ったのは最初で最後かもしれない。
事の発端は2週間前の昼下がり。
「好きです、君の事が。」
彼女からの告白で僕たちが付き合うようになって早一か月が過ぎた。
ちょうど桜が木の幹を華やかに彩るように咲き始め、スーツがまだ似合わない輝かしい新入生たちが入ってくる季節が段々近づいてきた。
新たな学年で始まる授業はまだ数日の猶予がある僕たちは、今話題になっている映画を見ようと劇場に向かっていた。
映画館の中は平日であるのにも関わらず想像していたよりも映画館は人でごった返していて、見ようとしていた上映時間の回は既に売り切れという赤い文字が空しくも堂々と画面越しに表示されていた。
次の上映時間まで微妙に時間は開いてしまうが、これが見たい!という彼女の希望から予定のものより1本後に上映される回のものを見ることに決め、映画が始まるまでの暇つぶしに毎日がお祭りのように賑やかで見どころが多く、雑多な都会の人の波の中を僕らは歩いていた。
太陽の日差しは温かく降り注ぎ、心地よい水色の空には雲がまばらに広がってなんとも和やかな雰囲気を醸し出している。
人の装いも少し前に比べると少し軽装になり、ショーウィンドウのマネキンも淡いワンピースを纏い始め、大型スクリーンには日焼け止めのCMが流れている。
それと同時にマスクをしている人も多くなり、花粉の季節も同時にやってきていることを物語っている。
「そういえばもう少ししたら満開の桜が見られる頃だよね。」
小さなくしゃみをしてから彼女は思い出したかのように呟いた。この時期なるとくしゃみの回数が増えてくるので、そこで春が来たのだなと判別材料になっていたりする。
「そうだね、もうそんな季節になったんだっけ。」
このくらいの時期に彼女に出会ったことを思い出しながらも、僕は同じように呟くと何かひらめいたような顔をして君はこちらを見た。
「桜で思い出した!学校近くの神社あるじゃない?あそこ、ちょっと変わった噂があるんだ!
…知っている?」
「噂?ううん、知らないな。教えてくれないか?」
僕がそう聞くと彼女は悪戯っぽく笑いながら僕の耳元で「実はね。」と言い始めた。彼女の言葉が聞けるよう少しだけ身をかがめたが、人ゴミが生み出している音がザワザワしているせいか少し声が聞き取りづらかった。
「学校の近くに桜の木が沢山ある神社があるでしょ?
噂ではね、その神社に続く道の桜の中に一本だけ不思議な桜があるんだって。その桜はその人が逢いたいと思っている人に逢わせてくれるらしいよ。」
「逢いたい人?」
「そう!でも逢うためには何かしら条件があるらしいけど…。残念ながらそこまでは何も聞いてないだよね。話としては若干胡散臭いけどね。」
彼女は少し悔しそうに言う。(どこから仕入れているか分からないが)情報収集に長けている彼女がその手の話を掴めてないのは珍しい。しかし噂は本当なのだろうかちょっと信じられないというか胡散臭い気がしてならない。
逢いたい人ねぇ…。
僕は頭の中で思い浮かべてみたが誰も浮かばなかった。
「私は逢いたい人には会っているから今のところ大丈夫かな。」
僕の方を見ながらそう言って彼女は可愛らしく微笑んだ。よく笑う彼女がさらっと口に出していう言葉には破壊力があるっていう事を本人は全く自覚していない。それが彼女の長所でもあるが自分ばかり意識するのもどこか悔しい感じがする。なんて言えるはずもなく、僕は腕時計を彼女の前に出しながらも自分の照れを隠すため
「…そろそろ映画館の方に行こうか。」と提案した。
すると彼女はそんな時間になっちゃったんだと驚いたようで小声で呟くと、「早く行こう!」と言って僕の袖を引っ張り、人の波に逆らって来た道を戻ることにした。その時僕は人の多さがさっきよりもマシになっていて良かった程度しか思っていなかったが、
「もし桜が咲いていたらその桜が本当にあるか今度見に行こうよ。」
聞こえるか聞こえないか分からないくらいの声で僕は彼女に伝えてみた。すると彼女は何も言わず僕のほうを見ると袖口から手を放してから黙って僕の手を握って頷くとどんどん歩いていく。僕はその自分の手よりも小さな手を握り返し、そのまま一緒に映画館に行こうとした。そのまま映画館に行こうとしていた。すると突然後方で女性の声質の違う黄色い悲鳴が聞こえてきた。僕たちは驚いて振り返ると、ちょっと先の方でさっきまで大勢いた人々が道を避けているようにしているように感じた。
理由は分からない。
けれども直感で何かまずいものがやってくるのだけは分かった。
「早くここから離れよう。」
僕は彼女の手を引き、この場をさっさと離れようとした。
「待って!」
何かを見つけたらしい彼女は僕の手を止め少し立ち止まった。
「あそこに女の子が倒れている。ちょっとだけ待ってて。」
そう言うと同時に彼女は手を離して女の子のもとへ駆けて行った。「大丈夫?」と優しく声をかけて、大粒涙を零しながら泣いている女の子の手をとってイタイノイタイノトンデイケと言いながら絆創膏を貼っていた。どうやら女の子の左膝を擦りむいたらしい。彼女の優しさには感服するがそれよりも早く彼女とここから離れたいという思いが頭の中を駆け巡ってそれどころじゃなかった。ふと視線をずらして人が手薄になっている場所に目をやると2人の後ろからやってきた嫌な正体が僕の目にはっきりと映った。返り血でアンバランスに染まった服を着た男が徐々にこちらへ向かってくる。手には赤い滴がついたナイフを握り、目をギラギラと光らせながらも何処か遠くを見ていて口角の片端のみが上がっているその顔は今まであった人の中で最も恐ろしくぞっとする。というか同じ人間とは思えない。爛々と輝いている男の目線は彼女と女の子の方へ向けられた。まずい、このままでは本当に彼女たちが危ない。
「早くそこから離れろ!!!!!!」
僕は彼女に向かって思いっきり叫ぶと彼女は不思議そうな顔をして後ろを向いた。若干遠くにいるというものの一瞬で状況を理解したようだった。彼女は女の子の手を握ってこちらに来ようとしたが、女の子は膝が痛いのかうまく歩くことが難しいらしいようで2人の歩幅の歩調が合わない。彼女はここままだと追いつかれてしまうと思ったのか女の子を抱きかかえながらも懸命に駆けてきた。残念ながら走り出してきた男の方が早いのは見て取れた。
彼女たちを助けないと。
頭ではわかっている。頭ではわかっているはずなのにまるで鉛になったみたいに足が動かない。体が固まって動けない。そう感じている内にもう彼女たちと男は目と鼻の先だった。
「この子をお願い!」
身の危険を感じて懸命に僕に女の子を託したその言葉は僕が聞いた彼女の最期の言葉になってしまった。
恐ろしく叫ばずにはいられない状況でも彼女は女の子の無事を優先し、つないでいた手を僕に託した。そんな彼女に容赦なく男がナイフを突き刺したのは僕が女の子を受け取ったとほぼ同時に、僕の目の前で、だった。男は下品な笑い声を響かせながら、彼女の腰に刺したナイフを抜き、今度は後ろ太ももに何の躊躇いも躊躇もなく突き立てた。刺された腰からは血がどんどんと先程まで歩いていた道も彼女の服もペンキをぶちまけたように赤くさせ、男の手や顔・赤と白に変色したまだら模様のシャツに彼女の赤い血が新しく上塗りしていくように見えた。何年か前に自分が調理実習とかで使っていた包丁の類はあんなにも簡単に人に刺さってしまうものだっただろうか。残酷なまでに淡々と広がる現実に意識が飛んでしまいそうになりながらもなんとか女の子にはこの光景を目の前で見せないように抱くくらいしかこの時の僕にはできなかった。彼女の驚いた顔が少しずつ悲痛の表情に変わっていく。
「ああああああああああああああ!!!!!!!」
僕は今までに出したことのないような声を出した。
なんで僕はこの場から動けない!
なんで僕はこれを見るしかできていない!
男は声を上げた僕の方を向くと彼女からナイフを抜くと遊び飽きたおもちゃのように彼女を道に叩きつけたかと思うと今度はキラキラと輝かせながらこちらに走ってきた。もう男の下品な笑い声以外耳に入らず、世界がスローモーションのように動いて見えた。男に背をむけて女の子の視界に入れないようにしてから「生きたいなら走れ!」と短く伝えると女の子は僕の腕の中から飛び出して振り返らなかった。先ほどまで止まっていた子とは思えないほど懸命に力強い走りだった。良かった、ちゃんと走れているじゃないかと安堵して前を向くと、真正面には歪んだ男の顔があり、僕に向かって「はぁい。」と笑いかけると彼女と同じように赤く光るナイフで腹を刺されてしまった。腹を中心に今までに味わったことのないような激痛が体中に走る。意識が遠のきそうな傍ら、耳元に男の顔が近づき「ざまあみろ」というとまた笑い始めた。こんなにも痛いものをさっき彼女は何度も何度も受けたのかと思いながら、どこか遠くの方から微かにサイレンの音が聞こえてきた。この都会で人通りが多い場所に起きた事件は夕方のニュースに早くも取り上げられ、視聴者や電子ニュースを見ていた人々に衝撃を与えた。僕の視界が急に視界が暗くなり、意識を取り戻しながらも目を開けたのはこの出来事が起きてから2週間後の事だった。