第八節 空と海と
ちょうど二人の決着がついたころ。
船室の扉が派手な音を立てて開いて、そこから飛び出した小さな人影があった。
両手を縛られた彼女はしっかりとバランスを取ることもできず、何度も転んで傷つきながら、未だ戦いの熱が籠る戦場を駆け抜けて、二人が対峙するその場所に辿り付いた。
「ベアトリスさん!」
「……カナタかい。なんて酷い顔してんだ、お前さん」
扉を無理矢理開けたから、額から血を流し、転んだせいで服はあちこちが破けている。
そんな状態でも、カナタは止まらない。二人に駆け寄ろうと必死で足を動かし続ける。
「……カナタ」
「ヨハンさん……。ゴメン、今は」
彼女の表情から、ヨハンは言いたいこと全てを察した。
再会を喜ぶ前に、お互いに言葉を交わす前に、やらなければならい事がある。彼女は、そう言う娘だ。
荒い息を吐いて、カナタがベアトリスの前に立つ。
「……負けちまったよ。いい男を見つけてんじゃないか。ほら、お前は自由だ。何処へなりとも行きな」
見れば、マーキス・フォルネウスの船員は皆倒されたか降伏したか。
何とも呆気ない幕切れだったが、それも悪くはない。
「一緒に、行こう」
力強く、彼女はそう言った。
後ろ手に縛られた手は伸ばせないから、ベアトリスの顔を真っ直ぐに見つめて。
「なに言ってんだい」
ここまで来て、呆れ果てたお人好しだ。
彼女がそれを好まないのなら、悪党である自分が一緒に行けるはずがない。
「ボク達が勝ったから、ベアトリスさんと海賊を貰うよ」
「勝ったのはお前じゃないだろ。お前は賞品じゃないか」
「いいの! ヨハンさんの勝ちはボクの勝ち……ってことでいいよね? 半分ぐらいは」
言ってから、恐る恐る後ろを向いてそう確認すると、ヨハンは「勝手にしろ」と、呆れた様子でそれを了承した。
これは、なるほどと、ベアトリスは合点が行った。
「く、ははっ」
負けたというのに笑いが零れる。
目の前で行われているやり取りの余りの身勝手さと、馬鹿馬鹿しさに。
あんなに子犬のようにおどおどしていた少女が、今この場にはいない。
図々しく身勝手に振る舞うその姿は、控えめに言ってベアトリスの中にある悪党そのものではないか。
なるほど確かに。
あの男がカナタを必要と言ったように、この少女にも必要なのだ、ヨハンが。
「……うん。そうだね、負けは負けだよ。お前の言う通りだ」
少しだけ、ベアトリスは考えてしまった。
この少女と一緒に戦う。なんの為かもろくに判らないが、きっとこれまでやってきた悪行とは程遠いことをやらされるのだろう。
だが、そんな余生も悪くはない。どうせ生きて後二、三十年だ。
――そんな未来が叶うことは、なかったのだが。
閃光が、嵐を引き裂いた。
遥か遠方に光が見えたときにはもう遅く、そこから放たれた輝きは、破壊の力を帯びて絡みあった二つの船を切り裂く。
「なっ……!」
驚きの声を発したのは誰か。
その後に続く、阿鼻叫喚の叫びに掻き消されてそれも判らない。
マーキス・フォルネウスの船体はその光によって削り取られ、バランスを崩して次第に海の底へと沈んでいく。
「なんだ今のは!?」「ふ、船が沈む、沈んじまうよ!」「馬鹿野郎! 死にたくない奴はこっちに乗り移れ!」
幸いにしてトルエノ・エスパーダの損傷は大きくはない。むしろ突き刺さっていた衝角が抜けて、船体は自由に動けるようになっていた。
「カナタ!」
ヨハンが叫ぶ。
マーキス・フォルネウスは、ちょうどヨハンとカナタの引き裂くように、その船体を切り裂かれた。
そして名を呼ばれたカナタは、憑りつかれたように、呆然と海上を見つめていた。
「なにをやってる! 早くこっちに……!」
そしてヨハンも見た。
海の上に浮かぶ人影を。
のっぺりとした、白く大きな魚の群れをその足元に従えて立つのは、白く、何処までも白い法衣を身に纏った一人の男。
その気配には覚えがある。その輝きはよく知っている。
「……御使い……!」
「おぉ。不敬な外界の民如きが、俺達のことを知っていたか。……まぁ、ウァラゼルが馬鹿をやった所為なんだろうから、喜んでばかりもいられないだろうけどな。
どっかの馬鹿があんなことをしやがって所為で、無理矢理起こされて災難だったが」
御使いは笑う。
美しき容貌で、その唇を残忍に歪めながら。
「まあいいさ。しばらく見逃してやってる間に随分と人は数が増えすぎた。どうせだから少し間引いてやるよ」
御使いが手を翳す。
彼の足元にいた魚達が動きだして、崩れそうなマーキス・フォルネウスに体当たりを仕掛けていく。
「や、やめろ! 俺達の船を……!」
動ける海賊達は必死で応戦するが、海上を縦横無尽に動き、人間よりも遥かに力の強い魚達に叶うはずもない。
銛を刺せば諸共に海に引きずり込まれ、銃弾を当てても痛みに震える様子もない。
船が沈むのはもう、時間の問題だった。
「ハハハハハッ! 人間が足掻く様を見るのは面白い。わざわざこんな玩具を用意してやった甲斐がある」
御使いは笑いながらそんなことを言って、やがて一点でその視線が止まった。
虫けらの中に、一際目立つ者を見つけたかのようにそれに近付いていく。
「面白い個体がいるじゃないか」
マーキス・フォルネウスの上に着地すると、御使いはカナタを見下ろす。
「なるほど。お前がウァラゼルを倒したのか。セレスティアルを使えるとはいえこんな子供に負けるなんてな。仕方ないか、あいつは相当に馬鹿だったから、その報いを受けたと思うとしよう」
「なんで……、どうしてこんなことを!」
「どうして? 八つ当たりだよ、八つ当たり。お前達が馬鹿なことをした所為で俺は無理矢理起こされて機嫌が悪い。だからせめて人間でも適当に狩り殺して、気分を晴れさせたいのさ」
御使いが手を掲げる。
そこに生み出されたのは、セレスティアルの塊。
それを人に向けて放てば命を奪うことなど容易い。いや、それだけではない。
その目標は、背後にあるトルエノ・エスパーダだった。
「やめ……!」
両腕を塞がれたまま、カナタがその前に立つ。
どうにか身体の前に広げたセレスティアルの壁で、辛うじてその光を逸らすことができた。
だがその反動は大きく、カナタの身体は揺らぎ、船の上に無様に尻餅をつく。
「カナタ!」
ヨハンが伸ばした腕は、当然届くはずもない。
「ふうん。俺達と同じ力を持っているのに、ああやって慣れあってるわけか。それは、気に入らないな。俺はウァラゼルのようなへまはしない。お前は消えろ」
光を手に込めて、カナタに叩きつけようと振りかぶる。
「お前が消えな」
その額に、突き付けられるものがあった。
フリントロック式の銃はぴったりと御使いの額に密着し、そのまま引き金が引かれる。
火薬が弾ける音と共に、御使いの身体が揺れて海へと落ちていった。
「ベアトリスさん!」
「カナタ、無事かい?」
「無事です!」
「そうかい。そりゃよかっ……!」
背後から光の剣が伸びる。
海に落ちたはずの御使いは、何事もなかったかのようにそこに立っていた。
手には、ベアトリスの身体を貫通する光の刃を握りながら。
「人間如きが、調子に乗ってんじゃねえぞ!」
「……ハッ。調子に乗ってんのはどっちだい!」
「なんっ……!」
ベアトリスの裏拳が、御使いの顔を打つ。
それに驚いて、セレスティアルを展開するよりも早く、もう片方の手がその形の良い顎を掴んで、押し退け、流れるように強烈な蹴りを見舞う。
「が、あぁ……!」
再び海の上に投げ出される御使い。
「ちっ……!」
カナタに縋るように、ベアトリスは腹を抑えて崩れ落ちる。突き刺された個所から流れた血が雨に交じり、川のように海へと流れ落ちていく。
「あんたらもぼーっとしてんじゃないよ! 海では一瞬の油断が命取りだよ! 自分がやるべきことは判ってんだろ!」
その叫びは、自らの仲間に向けられたものではない。
彼女の仲間はもうその大半がいない。生き残りも捕虜となり、トルエノ・エスパーダに乗せられている。
だからそれは、海を征く若い少女達に向けられたものだ。
「ラニーニャ!」
「は、はい!」
クラウディアの指示でラニーニャが水の鎖を作って、それをヨハンの腕に巻きつける。
そしてクラウディアは直ちに船の向きを変えながら、部下の船員達に全力で号令を飛ばす。
「エンジンの出力を最大にして! 一気にこの海域から離脱する!」
「アイ・マム!」
トルエノ・エスパーダが向きを変えていく。
それを見ながら、ベアトリスは最後の仕上げをするべくカナタの腰の辺りを抱きしめて、その小さな身体を持ち上げる。
「ベ、ベアト……」
「残念だけど、やっぱりお前さんとは行けそうにないね。でもま、楽しかったよ」
雨ではない、温かい雫が肌に落ちる。
それだけでカナタも察したのだろう。もうベアトリスが助からないことを。
「ヨハン!」
ベアトリスは真っ直ぐにその男を見据える。
海賊が最後に戦った相手を。
海賊から、最期の最期に欲しいものを奪って行った敵を。
「大事なものならね。もう手放すんじゃないよ!」
「――っ!」
カナタが声を上げるよりも早く、その身体が空中に放り投げられる。
両手を拘束されたままのカナタは一切の抵抗を許さず、真っ直ぐにヨハンのところへと飛んでいった。
「今です! よっちゃんさん、動かないでくださいね!」
カナタの身体を受け止めたヨハンは、素早く拘束を解いて、自分の身体にしがみつかせる。
そのままラニーニャのギフトに縛られて、二人はトルエノ・エスパーダに向けて引っ張られていった。
片腕しか使えないラニーニャが、船員達と協力してヨハンの身体を引っ張り、釣り上げる。
「やってくれたな! 死にぞこないの人間如きが!」
「やっぱりしぶといねぇ。お前みたいな白いゴキブリをどっかの島で見たことがあるよ」
「許さんぞ、この婆!」
「別に許されようなんて思っちゃいないさ。アタシは」
船は転回を終えて、一気に加速して海域を離脱していく。
次第に荒波は大きくなり、マーキス・フォルネウスはその船体の半分以上が海の中へと飲み込まれていた。
その中で、ぼろぼろになった船の上で大海賊は御使いと対峙する。
最早ろくに戦うこともできない身体でありながら、朦朧とした意識を繋ぎ止めるのは、海賊としての意地だろうか。
「俺を誰だと思っている! 俺は御使いだぞ。エイスナハルの教典に記された、神の使徒で……」
「知るかよ、そんなん。アタシは海の向こうの出身だよ」
全滅か。
生き残りはいるが、海賊はもうお終いだ。
だが、これでいい。部下に対して申し訳ないと思う気持ちもない。
本当は、つまらない女だった。特別何かが優れてたわけじゃない。敢えて言うなら少しばかり腕っぷしが強かったぐらいか。
そんな馬鹿共が、何処で死んでもいいと、死に場所を見つけるために旅に出たんだ。後悔はない。
「俺の邪魔をした罪は重いぞ。死を持って償え!」
「そりゃ、アタシは死ぬがね。償いにはならないよ」
もし、彼等がこの御使いとやらを倒すというのならば。
自分のやったことはなかなか面白いじゃないか。
神様の使いに唾を吐きかけるなんて、相当な悪党のやることだ。
海賊として、縛り首になるよりは何倍も誉れ高い終わりだ。
「大きくなりな。カナタ、嬢ちゃん達」
うん。
航海の終わりとしては、なかなか悪くない。
第四章前編 了




