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彼方の大地で綴る  作者: しいたけ農場
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第二節 エイスナハル

 空には爛々と照り付ける太陽が浮かび、足元にある草花を揺らす風は汗ばんだ肌に心地よい。

 オルタリア中を繋いでいる幾つもの街道の中の、あまり人が通らない道を歩いてきたカナタは、その終着点の一つで背に追っていた荷物を下ろして大きく息を吐いた。

「つ、疲れた……。これ、女の子に持たせる荷物の量じゃないよ」

 魔獣の皮で作られたやたらと丈夫な背嚢、カナタにも判る言葉で言うところのリュックの中には、沢山の袋に小分けされた白い粉と茶色い粉が大量に入っていた。

「これ、傍から見たら怪しい薬を運んでる人みたい」

 当然その心配はなく、中に入っているのはどうやら肥料らしい。先日同じ仕事を違う場所でしてきたので、間違いないだろう。

 目の前には畑が広がり、実を付けた野菜も幾つか転がっている。

 畑の先には小さな家が立ち並び、子供達の声がここまで響いてくる。

「……異世界に来てもトマトはトマトなんだよね。変なの」

 視界に入った大きな瑞々しいトマトを見つめていると、離れたところからこちらに近付いてくる人影が見えた。

 やって来たのは中年の男性と、その母親と思しき年配の女性が一人ずつ。二人とも親しげな笑顔をカナタに向けていた。

「隣のアルマ村から行商に来た奴に話は聞いたよ。ヨハンさんのお使いだろ?」

 アルマ村とは昨日カナタが訪れた場所のことだ。どうやらカナタよりも早く、村の誰かがここに来てその話をしていたらしい。

「そうです」と返事を返すと、二人は顔を綻ばせる。

「いやー、よく来てくれた。荷物、重かっただろ? 後はおれが持つから」

 返事をするよりも早く、中年の男性は地面に降ろされた荷物を担いで村の方へと歩いていく。

 傍に寄ってきた老婦人も親しげな笑顔で、カナタの腰の辺りに手を当てて村の方へと軽く押していく。

「お茶の一杯ぐらいはご馳走させておくれよ。それから今朝は砂糖も入って来たからね、冷たい氷菓が出来上がる頃だよ。」

「あ、はい。そういうことなら」

 今の季節、決して暑いわけではないが、重い荷物を背負って長距離を歩いてきたとなれば話は別だ。 

 すっかり喉が渇いてしまったカナタは、お茶と氷菓の誘惑に耐えることはできなかった。

 

 ▽


「おうい! 肥料が来たぞ! 手が空いてる奴は撒くのを手伝ってくれ! 坊主達、出番だぞー!」

 少しばかり歩いて村の中に入ると、中年の男性が集合を掛けて、集まってきた村の住人達が次々と袋を渡していく。

 その中で幾つか見覚えのないものを見つけて、カナタへと質問する。

「こいつは何だい?」

「虫除けの肥料らしいです。でもあんまり撒き過ぎると作物の育ちに影響が出るかも知れないから、虫の被害が大きいときだけ使った方がいいって」

「そっか。なら今年はまだ必要ねえな。使うかどうかは話しあって決めた方がよさそうだ」

 中年男性はそれを避け、その他を引き続き配っていく。

「あんたらは西側から頼む。おれ達は東から撒いてくから。で、坊主は南の部分をやってくれ」

 まだ十歳にも満たない子供もそれを受け取り、仕事を頼まれたのが嬉しいのか笑顔で畑の方へと走って行く。

「凄いですね。まだ小さいのにしっかりと仕事してるなんて」

「こういう村ではみんなそうさ。子供は子供なりにしっかりと働いて食い扶持を稼ぐのが普通さ。そう言えば、あんたもエトランゼかい?」

 そう問われて、答えに詰まる。

 老婦人はカナタの反応に思うところがあったのか、安心させるようににっこりと笑った。

「心配しなくてもあたしらは差別なんかしないよ。そんなことしてる余裕はないのさ。見てごらん、この村にもエトランゼはいるんだよ」

 言われて見てみれば確かに、村人に交じって働く人の中にはカナタと同じ日本人の顔立ちをした人もちらほらと見える。

「エトランゼさん達はあたしらが知らない知識を沢山持ってるからねぇ。村にいてくれりゃそれはもう大助かりだよ。崩れた家を丈夫に補強する方法とか、商売のやり方も上手な人が多くて、村で採れた野菜が高く売れるんだ」

 老婦人の話を聞いていると、家の一件から彼女の孫娘と思しき小さな女の子が現れて、手に持ったよく冷えたお茶の入ったカップをカナタに手渡してくれる。

「ありがとう」とそれを受け取って一口含むと、清涼感のある香りと共によく冷えた液体が舌と喉を潤していく。

「ソーニャ。この子に地下の保冷庫から氷菓を出しておやり。お母さんには内緒でお前も一つ食べていいからね」

「はーい、おばあちゃん!」

 ソーニャと呼ばれた女の子はその言葉で勢いよく駆け出して行く。

「本来ならこんな田舎に保冷庫なんかとてもじゃないけど買えないんだけどねぇ。ヨハン坊やが安く譲ってくれたから助かってるよ」

「へぇ。あの人、ちゃんと仕事してたんだ」

 出会ってから半年。そのうちの三ヶ月は同じ家に住んでいたが、その収入源は謎に包まれている。

 時折客が訪れるのだが、半分は珈琲やお茶を飲みながら談笑して帰って行き、もう半分は買い物はするが、冒険に必要な便利アイテムや消耗品の補充だけで、大きな額ではない。

 以前一度だけヨハンが店の奥の工房で制作している武器や防具が売れたときは見たこともないほどの額のお金が置かれていったのだが。

「あたしも詳しくは知らないけどね。一応は魔道具の制作とか修理をしてるんだろう? こんな田舎じゃなくてソーズウェルとか王都に行けばもっと仕事も多そうだけどねぇ」

 カナタの世界に科学文明があったように、こちらの世界には魔法による文明が発達している。

 それは単純に漫画に出てくる、手から火を出すような魔法の他に、魔道具と呼ばれる魔法の力で動く物も含まれている。

 先程話に出た保冷庫などは要は魔法で動く冷蔵庫のようなものらしい。

 都会になれば当然のように魔道具が人々の生活に使われている。流石にカナタのいた世界ほどではないが、それでもエトランゼの大半が思っているよりは快適な暮らしがそこにはあった。勿論、ある程度裕福な者達に限られる話だが。

 喋っていると、三人分の氷菓が乗った皿を持ったソーニャが足早に戻ってくる。

「はい、おねーちゃん!」

「あ、ありがと……。いいんですか、ボクが食べちゃって……」

 カナタが元居た世界のように、砂糖などの調味料も幾らでも手に入るわけではない。それどころか季節や場所によってはとんでもない高い値がつくこともある。

 それを知っているからこそ、差し出された砂糖で味付けがされた氷においそれと手を伸ばすことは躊躇われた。

「いいさ、ヨハン坊やには世話になってるからね。そのお弟子さんのあんたにも恩があるってことさ」

 先日のアルマ村でヨハンとの関係を尋ねられた際に、思わず弟子と言ってしまったのがどうやらここにも伝わっているようだった。そんなに大きな間違いでもないので訂正もしないでおくことにする。

「この辺りも随分と平和になったもんさ。一年ぐらい前は盗賊や魔物の被害が凄くてねぇ。ほら、あそこにも名残が見えるだろう?」

 老婦人が指さしたのは、村の周りに掘られた堀と、そこを見下ろすように建てられた小さな砦だった。

 砦とはいっても木造で大きさも二階建ての家程度しかなく、効果のほどは疑わしい。

 既にぼろぼろになったその外観から、ここで何度か戦いがあったことが見て取れる。

「ねー。食べないの?」

「おうそうだねぇ。それじゃあ食べようか。ほら、あんたも遠慮せずにね」

 言われるままに、スプーンで氷を砕いて口に運ぶ。

 ひんやりとした口溶けと、砂糖の甘みが心地よく、ここまで歩いてきた疲れが癒されていく。

「ここで働いてるエトランゼさん達の中にも、盗賊をやってたもんもいるのさ」

 返事の代わりに、口の中の氷を飲み込む。

「食うに困ってってところだろうね。いきなり故郷を追いだされてここに流れ着いてきたんだろう? ずっと同じ場所で暮らしているあたしには判らない苦しみも多いだろうね。神様は残酷だよ、聞けばあんたらの大半は争いも飢えもない場所で暮らしてたらしいじゃないか」

 何の話をしているのか判らずに、不思議そうに見上げるソーニャの頭をぽんと撫でながら、老婦人は話を続ける。

「偉い人達は言うんだよ。エトランゼはギフトだっけ? 不思議な力を持ってて危険だって。でもあたしからしたら同じ人間さ。そして人間が最も怖くなる瞬間はエトランゼもオルタリアの国民も関係ない……。飢えて生きていけなくなったときさ」

 実感の籠ったその言葉に、カナタは次の言葉を紡ぐことができなくなる。

「ヨハン坊やは襲われてたあたしらの村を護ってくれて、そのうえで冒険者を派遣して連中の根城を片っ端から壊してくれたのさ」

 空になった氷菓の皿の持て余していると、ソーニャがそれを受け取って片付けに家に戻って行く。

 それを見送ってから、老婦人は話を締めくくる。

「年寄りのつまらない長話になっちまったね」

「いいえ、そんなことないです。むしろ、エトランゼを嫌ってる人ばかりじゃないって知れただけでも、よかったです」

「そうかいそうかい。ならよかった。とにかく、ヨハン坊やはこの辺りの盗賊を片付けてくれて、魔道具を安く譲ってくれて生活を便利に、豊かにしてくれているのさ。なんでそんなことをしているのかは知らないけどね」

「今度会ったときにでも聞いてみます」

「多分、素直に答えちゃくれないよ」

「ですね」

 そう言ってお互いに笑いあう。

 まさか人伝手に自分の武勇伝を聞かせたかったわけではないだろうが、それでもカナタにとってはこの村への訪問は有意義なものになった。


 ▽


 ソーズウェルの郊外。

 中央には様々な商店が立ち並び、常に活気に満ち溢れるソーズウェル。

その周囲を囲むようにそこに住む者達の家が立ち並び、外周は閑静な屋敷が立ち並んでいる。

 その中でも一際活気のないエリア。人が住んでいないわけではないのだが、街からは遠すぎて不便があるため人気のない場所で、カナタは箒を手に溜息をついた。

 カナタが今いるのはそこにある一件の屋敷であった。門の内側にある正面入り口で、箒を使って地面を掃いている。

「あからさまな溜息吐くなよ。こっちまで憂鬱になってくるだろ」

 手に持った釘と板で、壊れた建物の穴を塞ぎながら、黒髪の少年がそれを咎める。

「だってぇ」

 彼の名はトウヤ。何度か一緒に行動している冒険者仲間である。お互いに年が近いこともあってかそれなりに気心の知れた仲だった。

 今二人がいる郊外の屋敷は、ソーズウェルを治める五大貴族の一人、『モーリッツ・ベーデガー』の所有する屋敷で、彼の愛人を囲うためのものだったらしいが、故あって使われなくなったために長いこと放置されていたらしい。

「なんでそんな屋敷をまた急に治せなんて言いだしたんだろうな」

 釘を打ち付ける音に交じってトウヤの疑問の声が飛ぶ。

「さあ。でもおかげで仕事に就けたし、いいんじゃない?」

「仕事って……。誰もやりたがらないことを押し付けられただけじゃないか。いつものことだけどさ」

 冒険者と呼べば聞こえはいいし、エトランゼの大半はそう名乗るのだが、実情はそれほどよくはない。

 ロマンを求め、誰にも仕えずにギフトを頼りに生きる者。そんなアウトローなイメージで語られる冒険者だが、実際はそんなことは全くなかった。

「お姫様が来るからなんか仕事でも増えてないかなって思ったんだけどなぁ」

「そんなに上手い話はないって。いや、俺も同じこと考えてたけど。お姫様は関係ないけど一応は魔物の討伐隊の仕事はあったんだぜ?」

「行かなかったの?」

「行かなかった、じゃなくて行けなかったんだよ。隊長が嫌な奴でさ、前に報酬で喧嘩したことがあるんだよ」

 トウヤのギフトは炎使い《パイロマスター》。彼はこの世界に来たときに、炎や熱を操る能力を得ていた。

 非常に強力なギフトで、それ故に戦いでは頼りにされているが、本人が良くも悪くも真っ直ぐな性格のため、そうしたトラブルで損をすることが多々あるらしい。

 それでも大規模な戦場で宛てにされることも多いので、カナタとは比べ物にならないほどの収入を得ているはずなのだが。

「……たまに考えちゃうんだよな。魔物とか、そんな奴等を倒し続けて、そんな生活を続けて、本当に何か報われるのかって」

 日々の食い扶持を稼ぐために、冒険者は常に仕事をしていないといけない。だが、その賃金は決してよくはなく、自らの命を切り売りしたところで数日を過ごす程度の賃金しか得られないことも少なくはない。

 それでも、そうやって生きていくしかない。それができなければこうして日雇いの、冒険者の仕事とはとても呼べないアルバイトをして金を稼ぐしかない。

「安いもんね、報酬」

「冒険者は命を賭けて初めてある程度の額を渡せるって理屈ができてるらしいからな、この国では」

 吐き捨てるようにトウヤが言う。

「エイスナハル……だっけ? この国の神様が言うには、俺達エトランゼは人間じゃないらしいからな」

 エイスナハル教。

 この国で最も信仰されている宗教の教えに、主神エイス・イーリーネはこの大地で生まれた全ての命ある者の父であり、守護を与えるとの一文がある。

 それを過大解釈すれば、この大地で生まれた命ではないエトランゼには神の守護はなく、故に人ではないとの見方もできる。

 そんな極端な考え方を持つ者は決して多くはないが、それでも一部の有力な貴族達の中にはそれを信奉するものもいる。

 そのことにはギフトを持つエトランゼに対する怖れや、彼等に国を侵されまいとする利権も関わっているのだが、カナタにはそんなこと知る由もない。

「とんでもない神様だよ、まったく」

 トウヤの悪態を聞き流しながら、箒で集めた落ち葉やごみをちりとりで回収する。

 基本的には善人のトウヤだが、ギフトやエトランゼに対する差別の話になると愚痴っぽくなってしまうのが欠点だった。もっとも彼の年齢で突然異世界に飛ばされて、ろくな扱いをされなければそうなってしまうのも無理のない話だが。

「貴様、神を愚弄するような発言をしなかったか?」

 突然背後から聞こえてきた声に、二人が肩を竦ませてその方向を見ると、厳めしい表情の中年の男が立っていた。

 騎士の鎧に、エイスナハル教のシンボルである十字が描かれたサーコートと呼ばれる外衣を纏っており、それを見た瞬間にトウヤは自分の失言を悟った。

「エトランゼ風情が! 我等が偉大なる父神、エイス・イーリーネを地に貶めるような発言をしなかったかと聞いているのだ!?」

 口元に小さな髭を生やした神経質そうなその男は大股で二人に歩み寄り、半ば怒鳴るような勢いでそう尋ねる。

「い、いや……。俺達は、別に何も」

「いいや。私の耳は確かに、神に対する背信の言葉を聞いた。貴様等がこの大地に生きていけるのも、大いなる神の慈悲があってのことだと判らぬか!」

 大声を出されて、反射的にカナタは身を竦める。

 男も男で顔を真っ赤に染め、その手は既に腰にある鞘に掛かっていた。

「気に障ったなら謝ります。でも……」

「言い訳など聞けぬ! 貴様等の行い一つ、過ち一つで神は怒り、この地に御使いが降り立つのかも知れぬのだぞ!」

 エイスナハルの教典に登場する、神の使者『御使い』。

 人々が自らの領分を忘れ、神の領域に手を出したとき、異形の者達が地上を制するとき。

 あるときは人を害し、またあるときは人に害するものを滅ぼし世界を救う。

 神の代行者として世界を動かす、尊き者達。

 それが御使いと呼ばれる者達だった。

 もっとも、それを見たことがある者は恐らくこの国には誰もいない。あくまでも教典に書かれているだけの、いわばお伽噺の存在のようなものだ。

 そんな名前を出されて怒鳴られても、トウヤには目の前の男が頭のおかしい狂信者にしか思えなかった。

「だいたいにして、エトランゼが私の視界に入る場所で何かをしていることがおかしいのだ!」

「……こっちだって、仕事でやってるだけですよ」

「小僧。口答えをするのか?」

 男の手が伸びて、トウヤの胸倉を掴むみ、もう片方の手は腰にある鞘から剣を抜こうとしていた。

「あ、あの!」

 この場は穏やかに収まりようもない。そう判断して、カナタは駄目もとで声を張り上げた。

「なんだ、小娘。これから汚い家畜を処分するとこだ。貴様も同じ目にあいたくなければさっさと失せろ」

「こ、殺すのは……。やり過ぎだと、思うんです……けど」

 控えめに、できる限り機嫌を損ねないようにそう言うが、どうやらこの男はエトランゼが言葉を喋るだけで気に入らないらしい。

 トウヤを突き飛ばして尻餅を付けさせると、今度はカナタへと剣を向ける。

「ならば先に貴様を痛めつけるとしよう。なぁに、殺しはせん。腕の一本ほどで勘弁してやる」

「あんた、いい加減に……!」

 エトランゼを痛ぶることを楽しむような、加虐的な笑みを浮かべる男に、トウヤが声を荒げる。自分が痛めつけられるだけならば我慢できるが、カナタにまで害が及ぶのならば、静観するわけにはいかなかった。

「やめよ、カーステン!」

 一触即発。最早トウヤは丸腰でも立ち向かって行くだろう。そんな張りつめた空気を打破したのは、三人の間を切り裂くように放たれた、美しい声だった。

 屋敷の門の向こう。石畳の道の上に馬車が止まり、ゆっくりとその扉が開いていく。

 花の意匠があしらわれたふわりと広がる華やかなスカートの、白いドレスを纏ったその人物は、優雅な仕草で石畳へと降り立つ。

 背中まで伸びる長い黒髪が白いドレスによく映えて、カナタとトウヤは言葉を失う。

 一目見て、美しいと思える少女だった。やや釣り上がった目は厳しさを思わせながらも、ゆっくりと余裕のある典雅な仕草は気品を持ってそれを包み込む。

 固く結ばれた唇は、しかし小さな綻びがあり、慈愛の心を覗かせていた。

「エ、エレオノーラ様!」

 カーステンと呼ばれた中年の騎士が、先程までの横暴な態度は何処へやったのかと思うほどに、小さくなってその場に傅く。

 その口から飛び出した名前を聞いて、二人も同じように驚愕した。

「カーステン。妾は先に赴き様子を見よとは言ったが、決してエトランゼに対して粗相をせよとは命令していないぞ」

「ひ、姫様……しかし!」

「言い訳は聞かぬ。以前よりそなたの粗暴な面、特にエトランゼに対しての苛烈な在り方は直すべきと言っておいたはずだ」

 そう咎められ、カーステンは顔を伏せて身を小さくする。その表情がどんなものであるかは、彼以外の誰にも判らない。

「下がっていろ。妾はこの者達に謝罪をせねばならない」

「エレオノーラ様。お考え直しください。貴方様は王家の象徴。そんな高貴な方が、卑しきエトランゼ如きに……」

「下がれカーステン。これは命令だ」

 頑として譲らず、厳しい声色で命ずるエレオノーラ。

 それには逆らうことができないのか、カーステンは忌々しげに二人を睨むと、馬車の方へと大股で歩いていった。

「すまなかった。カーステンに悪気があるわけではないのだろうが。あやつは敬虔なエイスナハルの信徒である故に、その教えを曲解し、エトランゼに対してあのような振る舞いをしてしまうのだ」

 二人に向き直ると、エレオノーラはぺこりと頭を下げる。

 その態度が余りにも、浮世離れして見えた彼女のイメージとは異なっていて、何も答えることができなかった。

「エトランゼ達には肩身の狭い思いをさせるな。これも全ては妾の力不足故のこと。許せとは言わぬが……」

「は、はい。大丈夫、です」

 何と言っていいか判らずに、形だけの言葉でお茶を濁してしまう。

 トウヤも王族を前にして言ってやりたいことが幾らでもあったのだが、実際に本人を目の前して、更にそんな態度を取られてしまえば、恨み言も出てこない。

「そなた達はここで仕事か? まったく、妾がここに来るから清掃を済ませておけと言ったのだが、どうやら連絡が上手く行っていなかったようだな。二人を責めているわけではないぞ。この仕事を与えたものに対して呆れているだけだからな」

 そう注意を付け加えて、エレオノーラは目の前の屋敷を見上げる。

「しかしモーリッツめ。気持ちはありがたいが、このような大仰なものでなくともいいと言うのに。それにしてもこれほどの屋敷を今まで使わずに放置するとはなんと勿体ない」

 ぶつぶつと独り言を呟くエレオノーラは、目の前でどうしたらいいか判らなくなっている二人に気付く。

「ああ、すまぬ。仕事に戻ってくれ。妾も邪魔にならぬように大人しくしているから」

 改めてもう一度頭を下げてから、エレオノーラは静かに屋敷の中へと入っていく。

 内部は既に半分以上掃除が終わっており、来客の気配を察したカナタ達の雇い主がエレオノーラを案内するために飛び出してくる。

 二人が大きな両開きの扉を潜り中に入る瞬間、雇い主の男性はカナタ達に怒鳴るように植え込みの整備を命じて、エレオノーラと共に屋敷の中へと入っていった。


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世知辛い世の中ですね……。エレオノーラの存在が救いになるのか!?
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