閑話 不思議の国のアンちゃん(後編)
ここに送られてきた子供たちの再教育を行うのがゴブカリたちに課せられた使命だ。今でこそ十一階層の守護という役目を与えられているゴブリンたちだが、迷宮が一般冒険者に解放されるまではその仕事もなかった。
子供たちへの再教育という名の脅かし役はゴブリンにとって最も重要な仕事だったわけで、特に十一階層に行くことを主より許されていないゴブカリにとっては唯一の仕事なのだが、見た目が人間にかなり近い(よく見れば耳などの形は違うし、犬歯も発達しているのだが、それでも獣人より近い)ゴブカリを見つけた子供たちは、逆に安堵することが多い。
それがゴブカリにとってはこれまで不満であったが、今回ばかりはそれが幸いしたと言ってもいいだろう。
「なるほど、それで君はそのフリーマーケットの倉庫に入ったはずが、気付いたらここにいるわけだね」
「そうなの」
アンの説明を聞いて、ゴブカリは思った。
(どうやらこの子は間違えて送られてきたらしい……しかも魔王様とは親しき仲にあるようですね)
とゴブカリは事情を正確に理解し、どうしたものかと思う。
(この子をこのまま二百階層まで連れて行き、転移陣を使って地上まで送り届けたいけど――)
二百階層は魔王軍幹部たちのプライベートエリアだ。いくらコーマの知り合いであっても、よそ者を連れて入るのはどうかと思う。一度二百階層にある転移陣を使えば、転移石を使って再度訪れることができる。しかも、他の人間を連れてくることも可能だ。アンにこの迷宮をどうかしようという意識はないかもしれないが、彼女が成長して考え方が変われば――それ以前にここのことを誰かに話してしまい、その情報が外に漏れるのはよくない。それならば、いつものように怖がらせて気絶させた後、転移させるという方法がある。
気絶している状態で転移陣に入れば、転移石の転移ポイントに登録されない。逆に転移陣に入らなくてもその転移陣を認識していれば転移できる。
だが、その方法もゴブカリは気が引けた。何も悪い事をしていない少女を怖がらせたり気絶させる気にならない。
「ねぇ、アンは眠くないかい?」
「起きたところだから眠たくないの」
「……そっか」
ゴブカリはそう呟きながらも、
(というより、僕という話せる相手に出会ったとはいえ、彼女はまだ僕に完全に気を許していないんだ)
と思った。アンを眠らせるには、まずは安心できる環境を作る必要があり、それはゴブカリには無理だろうと思った。
だからといって、ニ十階層まで連れて行って、そこに設置している十一階層に通じる転移陣に入れる方法も現実的ではない。子供の足でニ十階層まで上がるのは困難を極める。
一方、アンはゴブカリの様子を眺めながらも、周囲への警戒は怠っていなかった。
だから、直ぐに気付いた。
「誰か来るの……」
とゴブカリの後ろに隠れる。
「……え?」
ゴブカリが前を見ると同時に、曲がり角から一匹のゴブリンが現れた。
「――――××××(そちらの子は?)」
ゴブリンが声をあげた。それにゴブカリは
「××××、××××、××××(大切な客人です、僕が案内しますから下がっていてください。みんなにも伝えてください)」
とゴブリンと同じ言葉で言う。すると、ゴブリンはそのまま元来た方向に去っていった。
「……お兄ちゃん、ゴブリンの言葉がわかるの?」
「え? あぁ、うん――」
「すごいの!」
ゴブリン将軍であるゴブカリにとってはゴブリンの言葉がわかるのは当然のことなのだが、失敗したかなと思う。
彼女は口ではゴブカリのことを褒めちぎっているが、ゴブカリへの警戒心はさらに強くなっていた。
ゴブリンの仲間の可能性があると思ったのだろう。そして、それは正しい。
だが、アンがゴブカリのことを誉めているのも本心だと思う。彼ゴブカリが味方か敵か関係なく、ただ本心のまま、ゴブカリがゴブリンの言葉を使えることを凄いと思ったようだ。
(本当に末恐ろしい子だ……魔王様のお知り合いなだけはある)
とゴブカリは思った。
「もしよかったらゴブリン語を覚えてみるかい?」
「うん、覚えてみるの」
「よし、じゃあ歩きながら勉強しようか」
とゴブカリは歩きながら、アンとふたり勉強するのだった。
勉強すれば眠くなると思って。
※※※
「××××(ゴブリン語って難しいの)」
「××××(もう話せてるよね……君、もしかして天才じゃないの?)」
「××××(アンは天才じゃないの――だって、アンはひとりだと何もできないの)」
とアンはお面の中にある薬草を見る。
アンはこの薬草からポーションを作ることができない。彼女の兄みたいに。
アンはこれらの草やキノコを売ってお金を稼ぐことができない。フリーマーケットのみんなみたいに。
アンは常にみんなに守られている。今もゴブカリに守られている。
目が見えなくなった時、アンを助けてくれたのは大人だった。最終的に薬を用意したのはコーマだったが、アンの薬を買うために神父が借金をして薬を買い、その結果孤児院が無くなるところだった。
その前に孤児院が無くなりそうになったときは、自らの身を犠牲にして孤児院を救ったのは孤児院の姉――コメットだった。
アンは何もできなかった。なにもしなかった。
「××××(アンは何もできないの)」
「そうかもしれないね」
ゴブカリは人間の言葉で言う。
「でも、僕もそうだったんだよ。僕のために魔お――ご主人様が命懸けで戦ってね。あの時、僕は何もできなかった。今も本当にご主人様の役に立っているか不安だよ。でも――だからこそ……って、アン、どうしたの?」
ゴブカリがアンを励まそうとしたが、いつの間にかアンが立ち止り、後ろを見て震えているのに気付いた。
そして、ゴブカリも気付いた。
(コメット様)
そこにいたのはコボルトの魔人――コメットだった。
「……コメ姉ちゃん?」
アンが呟く。そして――
「……コメ姉ちゃんっ!」
走っていき、そのままコメットに抱き着いた。
今まで理性的に動いていたアン。彼女がここでも理性的に動けたのならば、恐らくは死んだはずの人間が生きているのは恐怖だっただろう。
だが、アンはまだ六歳の女の子だった。
アンはコメットが生きていたことをただ喜ぶ。彼女にコボルトの耳が生えていることも猫髭のようなものが生えていることも気にせずに。
「アンちゃん……私のこと覚えていたの?」
アンとコメットが一緒にいた時間は、実はそれほど長くない。アンが孤児院に来て一カ月でコメットは奴隷になり、そしてふたりが再会したその次の日、コメットは死んでしまった。だが――
「忘れないの。コメ姉ちゃんのこと忘れるはずないの」
アンは涙を流してコメットに抱き着いた。
泣かないと誓ったことなど、彼女はもう覚えていない。ここが迷宮の中だということすら忘れている。
「そう……ありがとう。ありがとうね、アンちゃん――アンちゃん?」
「ずっと気が張っていたんですね……強い子です」
とゴブカリがアンの顔を覗き込む。目を閉じて眠る彼女の手から、拾った草やキノコが零れ落ちた。
※※※
その後、アンが目を覚ましたのは自分のベッドの上だった。
「……コメ姉ちゃんがいないの」
窓から外を見る。外はもう夕方になっていた。
アンが起きたことに気付いたのか、クルトが工房から戻ってきた。
「今日はどこで遊んでいたの? ダメだよ、勝手に遊びに行ったら。心配したんだよ。それで、今日はどこに行っていたの?」
「…………? わからないの」
「わからない?」
「……わからないの」
とアンは呟く。
さっきまで迷宮の中にいたとアンは思った。でも、それだとどうして自分が部屋で寝ているのかわからない。
「夢だったの?」
とアンはベッドの下を見て笑った。
ベッドの下にはキノコや草が入ったお面が置かれていた。
アンは起き上がると、
「宿題をするのっ!」
と紙とインクと羽ペンを用意する。
「そう、頑張ってね。僕はもうちょっと仕事をするから」
クルトはそう言って、工房に戻った。
後日、アンが提出した作文――それに書かれたゴブリン語の話が、ラビスシティー――いや、世界中の魔物学界に大きな波紋を呼ぶことになるのだが、それはまた別の話。




