獣たちは草に隠れ、巣穴で怯えた
~前回のあらすじ~
ドリーは囚われていた。
崖の下に飛び降りたコーマ様を見て、私も一緒に飛び込もうとしました。
ですが、タラにそれを止められました。
「コメット、某達がするべきことを今はするべきだ」
言われて、私は再度川の底を見たけれど、
「うん。エリエールさん、一度町に戻りましょう」
今日知り合ったばかりのエリエールさんにそう声をかけると、彼女は少し逡巡し、頷きました。
「そうですわね……コーマ様ならご無事でしょう」
「うむ、主ならあの程度の川、例え背中から落ちていても少し赤くなるだけだろう」
コーマ様なら無事のはずです。
私もそれを信じます。
来た道を引き返していきます。
本来なら迷うような道でも、私達コボルトの鼻なら迷うことはありません。
うっそうと茂る森の中を進んでいきます。ただし、元来た道ではありません。
できるだけ風下にいるように。
ベリアルは人間の時なら嗅覚は退化しますが、部下の獣がいたら匂いを残すことは避けたいです。
「あの来た道と違うようですけど、この道でよいのかしら?」
エリエールさんが、枝から垂れ下がっている蔦を払いながら尋ねてきた。
あまり私のことは信用していないかもしれない。私もあまり信用していませんし。
「はい、町に近付いて――」」
刹那、ぞくぞくっとした。
もしもグーのままだったら全身の毛が逆立つ恐怖。
匂いが……匂いがした。
(エリエールさん、止まってくださ――)
私が小声でそう囁こうとしたとき、すでにエリエールは身体を伏せていた。
彼女も感じ取ったようです。あの気配に。
タラもすでに警戒態勢に入っている。
(なんなんですの、あの気配は)
(……化け物……だと思います)
思う、は違う。
化け物だ。
最強の魔王、ベリアル。
その匂いがした。
ゆっくり歩いているようです。
大丈夫、こちらには気付いていない。
そのはずです。
(…………止まれ)
昔の記憶がよみがえり、私の身体が震えました。
グーの記憶。
コーマ様と出会う前の記憶。
ベリアルの配下だったころの記憶。
私が、まだベリアルの配下だった時の辛い記憶が蘇る。
止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ。
いくら念じても震える私の身体は止まりません。
止まって、お願い、止まって。
そう念じたら、私の背中に二人の手が添えられた。
え?
(大丈夫。勇者であるわたくしがついていますわ)
(安心しろ、某もついている)
二人とも脂汗を流しながら、それでも私を励ましてくれた。
暫くじっとしていると、ベリアルの気配が遠ざかっていく。
……よかった。
助かった……そう思った。
でも、それは間違いだった。
「あの方角は、コーマ様が飛び降りた方角ですわ」
そんな、まさか。
「足跡が残されたままだった。ベリアルはそれを辿っているのだろう」
「二人がかりで勝てると思う? タラ」
一応、護身用のナイフを二本、コーマ様から預かっている。
タラも常に自分の身の丈ほどの剣を背負っている。
「無理だろうな。あの時は、主より剣を預かっていた故助かった」
「……勝てないわよね」
「勝てませんわね。逃げるのが得策ですわ。あの気配の持ち主がコーマ様を狙っているとは限りませんもの」
エリエールさんがそう言って歩き去ろうとした。
だが――、
「どうなさいましたの?」
エリエールが訊ねた。
なぜなら、私達が動かないから。
「エリエールさん。ここを真っ直ぐ行ったら町に出ます。私達は――あの気配を追いかけます」
私はそう告げた。
倒せるわけがない。そのくらいわかってる。
「負ける戦いはするべきではない。そう思っていたこともあった」
「でも、時間を稼がないと……」
「主が戦うことがあったときのために指の一本くらい斬り取って見せよう」
「負けると分かっていても戦う」
「負ける戦いと、何もできない戦いではその意味が100%異なるから」
コーマ様は絶対に怒るだろう。
コーマ様は、ルシル様のためなら命を投げ出してもいいと思っている。それはグーの時から知っている。
でも、それなのに、誰かが自分のために犠牲になるのをひどく恐れる。
自分のせいで誰かが傷つくのをひどく怖がる。
私が死んだ時もそうだった。
それでも、私はコーマ様に生きてほしいから。
「タラ、行くよ」
身体を震わせていた時とは違う。
「うむ、行こう」
気持ちの違いだ。殺されないために隠れるのは辞めた。
だから、私はもう怯えない。
私達は駆け出していた。
そして――当然、その足音を、私達の気配を、奴は感じ取った。
道に出る。
奴は――ベリアルは笑っていた。
とても嬉しそうに。
これから起こるであろう戦いを楽しみにしているように。
「いいぜ! あの時逃がしてやったのは正解だったようだな」
ベリアルは言った。
「始めようぜ、第二ラウンドって奴をよぉぉ!」
ベリアルから放たれる闘気。
ただ、殺すためでも壊すためでもない、闘うためのオーラ。
遠くから感じただけでかつての私は巣穴で震えていた。
でも、そのオーラに怯えるかつての私は、もうここにはいなかった。




