ジョブチェンジは唐突に
「あっぢぃ・・・」
唸る様な暑さに包まれ汗をダランダラン垂らしながら、必死にうちわ代わりに薄い本を扇ぐ。
そもそもここ最近の暑さは異常なのだ。
温暖化現象?そんなもの犬にでも喰わせてしまえばいいと思う。
そして何よりこのくそ暑い中で、エアコンも扇風機も無い我が家はもっと異常だ。(扇風機は昨日壊れた)
だが多少設備に問題はあっても、部屋から出て2分も歩けばコンビニに着いてしまうし、そのコンビニと逆方向の裏手に回って少し歩けば都会の煩さの届かない静かな空間が広がり、そこにまたいかにもな田んぼや畑といった豊かな自然が広がっている。
都会と田舎、そのちょうど中間辺りに我が家は鎮座している。
程よく便利で、程よく静か。
とても住み心地が良い所だ。
ぼろいけど。
この立地の良さについつい居着いてしまい、専門学校を出て以来ずっとこの狭くてぼろい部屋に住み続け数えてみれば早10年が経とうとしている。所々に出来たイカの香りのするシミや万年床が呼び寄せたカビさん達の軌跡が無駄にリアルに味のある10年を物語っている。
高良珪29歳、独身。彼女無し。童貞。
昼間は駅前の某大型チェーン店である飲食店でアルバイトに勤しみ、夜には自称天才ハッカーの名を欲しいままに健全な青少年にはふさわしくないであろう黄色やピンクに縁取られた如何わしいページを踏み荒らす。
サンプル動画を漁り、その日限りの乾いた欲望を満足させるような稚拙な事をしていた時期もあったが、今では優雅にお気に入りフォルダの[X VI○EO]の文字をクリックするだけで万をも超える自家発電燃料を得ることが出来る俺は、もう何というかかなり終わっていた。
一度はファイル共有ソフトなども試みようとも思ったが、俺にはまだ早かったらしい。
適当に英語のページをクリック!クリック!よくわからんがYES!はい了承します!
なんということでしょう。おかげでレアでマニアックな俺の狭いニーズを満たしてくれていた天使達は先代ボロPCと共に天に召されてしまったのです。ウイルスこわい。
それに自慢じゃないが俺は早いのだ。韋駄天の名を欲しいままに本気を出せばジャスト10秒で片が付く。3分動画で十分だ。
そんなインターネットのプロである俺なのだが、如何せんこの蒸し暑い部屋の中でディスプレイの前でじっとしている事に耐え難くなり(賢者になった)気分転換に涼を取るということも兼ね、いつもの日課である散歩に出かける事にする。
画面の中で未だ艶めかしく尻を振る麗しのレィディ達に別れを告げ、アパートの表に広がる車の渋滞を背に、裏手の山の方に向かって歩き出す。
山というよりも小さな丘と言った方が正しいのだが、近くに流れている小さな沢の水の音が心地よく、ちょうど良い感じに木とかも生えていて俺のお気に入りの散歩道だ。俺は洗練されたシティーボーイだが自然も愛するナイスガイなのだ。
ナチュラリストとまでは行かないのだが、時たま参道の途中で木々に囲まれながら自慰に励む程度には森林浴を嗜んでみたりするのである。
道なりに進んで行くとちょうど山頂のあたりに開けた空間があり、自動販売機とペンチが置いてある。険しいとはお世辞にも言えないであろう山道だが、それを登り切っただけで達成感に浸ってしまう俺のような情弱にはありがたい簡易休憩所だ。
そしてそこから少し道を逸れた所にぽつんと小さな祠が鎮座している。
休憩所に辿り着いた俺はポケットから小銭を出し大好きなコーラを買う。
コーラは美味い。コーラは正義。例えこれ以上コーラを飲み続けたら死ぬと言われても迷わず飲んでしまう位大好きだ。実際に糖尿病という恐るべき疾患を患うか否かスレスレの所にいる俺が言うと説得力もあるというものであろう。
ベンチに腰掛け、山道を登りきって火照った身体に冷えたコーラを補填しながら、ぐでーっとする。この散歩の後のコーラタイムはまさに至福という言葉がぴったりだ。傍から見れば夜中におっさんがベンチに座りコーラを飲みながらニヤけている様子はかなり不気味な光景だろうが、幸いな事にここには滅多に来客は無い。思う存分にコーラをがぼがぼ流し込み、それが一段落すると、立ち上がって祠の方に向かい、そこに屈んで今日もいつものようにお祈りする。
「なんかいい事ありますように」
なんとも陳腐な願掛けだが別に本気で願ってる訳でもないから良いのだ。
祠を見つけたら手を合わせる。年配の方々は社を見つければ無差別にどこにでも手当たり次第に拝んでるように見えるが、その行動を範して試しにやっていたらいつの間にか俺も習慣になってしまったようだ。今ではこれをやらないで帰ると何だかモヤモヤする。
恒例となった南無南無を終えベンチに戻り、再びしばらくそこで休憩してから立ち上がる。
そろそろ賢者がまた狂戦士にジョブチェンジしそうな感覚と共に、帰ったら次は二次元にでも癒してもらおうなどと妄想して、気持ちわるい笑みを浮かべながら帰路につくのであった。
部屋へ戻ると暗い部屋の中でケータイが点滅している。
俺のケータイに反応がある事など非常に珍しい。だが、まずはケータイを覗く前に洗面台に向かう。
俺はこう見えて実は身体が弱いデリケートな子なので、家に帰ったらちゃんと手洗いうがいをするのだ。ハンドソープでしっかり指の間まで泡を通し、玩具のような可愛いプラスチックのコップに水を汲み、ゴロゴロとうがいをしながら部屋に入りケータイを開く。
……。母親からだった。
まぁいいだろう。彼女なんてもう諦めた。メールをくれるような女性は妄想以外で俺の周りにはいないしね。俺は二次元に生きるのだ。今月のトレンドだ。
そんな事を考えながら一応は届いたメールを開いてみる。
『お誕生おめでとう。珪ももう30歳ね。いい年なんだからアルバイトなんかじゃなくてちゃんとした仕事に就きなさい。それと実家にあったいかがわしい本は捨てて置きましたから。』
何がおめでとうなのだ。誕生日にプレゼントをもらうという事はあっても俺の大事な汗と涙と色んな汁が染み込んだ薄い本を勝手に捨てるなど非道にも程がある。
それに就職しろだと?この前実家に帰った際にも似たような事を言われたが、あの時の母の引きつった顔を思い出し憂鬱になりながら、洗面台に戻りぺっぺっと水を吐き出す。
就職かぁ…。難易度ハードなんてものじゃない。
レベル1でいきなり魔王城の前に放り出されるようなものだ。
なにせ俺はアルバイトしか経験が無い。
社会人というものは、例外無く会社に首輪を付けられ自由をなくし、日々こき使われるらしい。
自堕落な俺には無理ゲーすぎる。生活に必要最低限な金額だけバイトで稼ぎ、後はボロアパートに籠もりせっせと趣味に没頭するという生活を送ってきたおかげで、時間に縛られるという事は独房に入れられるに等しい。
でもさすがに俺ももうすぐ30歳だ。
さっき時計を見たらちょうどもうすぐ指針が12を指す手前辺りだったと思う。
日付が変われば遂に俺も三十路にメガ進化だ。シンデレラとは違い魔法など溶けずとも俺は通常運転で常に小汚いおっさんだ。それが更に30代という世間一般的に、もう若いとは言えない年齢にバージョンアップされてしまう。そんな更新はいらない。クソアプデもいい所だ。
うがいを終え、なんだかちょっぴり悲しい気分で部屋へ戻ろうとすると、…何故か部屋の電気が消えていた。
おいおい、勘弁してくれよ。電球っていくらするんだ?
なんて呑気な事を考えているとフッと背後の洗面台の照明も消えた。
おかしい。これはいかん。なんか怖いやつだ。
俺は強がりだけどチキンである。お化けは嫌いだ。
更に最悪な事に部屋の中から何やら悍ましい気配を感じる…。
…というか事実そこには何かいた。大きさこそ小さいが部屋の真ん中に何かいる。
『ガタッ…』
うずくまっていたであろう何かがゆらめき、起き上がろうとした拍子にとなりに置いてある本棚にぶつかってよろめく。おいおい、そこは神聖にして侵すべからずアウアウなロリ系のコーナーじゃないか。ぶつかるなら最近食傷気味のむっちり熟女系コーナーにでも…
『カタゴトガタゴト…』
慌てて踏ん張ったらしく何とか転ぶのを回避した何かが若干気まずそうにしていた気がするが、すぐに気を持ち直したのかゆっくりとこっちに向かってくる。
…が、こっちに近づいて来た為パニックになった俺の放った「ヒャぁおぅっ」と言う不気味な悲鳴に向こうが逆に驚いた様で、びくっとしてそのまま固まってしまった。
依然緊張の高まる空気の中、この異様な状況を打破する為に俺は勇気を出して固まってる何かに声をかけることにした。
「あ、あの…。」
ビクッ、何かが慌てたように後ろに下がる。
あれ?このお化けもしかして弱いのか?俺にびびってるのか?
「う、う、…うっわ、マジびびった。マジびびった。な…何です?ビビらせるんじゃねぇですよ。」
マジでびびっていたらしい。
それと同時に頭の中で?マークがいっぱいに広がる。
だがそんな事は関係ないとばかりにその何かはまくし立てるように喋り続ける。
「あー、とりあえず最近よく来てくれてたみたいですし。アレです、まぁあんなボロい祠だけどやっぱ参拝とかされると嬉しいですし。ただ…何かいいことって(笑)もうちょっとニューロンをシナプスに直結して考えてですね…」
その何かは意味の分からない頭の悪そうな事をまくしたてているが、とりあえず何なんだこいつは。泥棒ではなさそうだけど危ないやつには間違いが無いようだ。
「つーか、こんなとこに棚立てとくんじゃねーですよ。邪魔です。」
そう言い終わると、フッと真っ暗だった照明が再び明かりを灯し、その姿が光に照らされた。
そこには機嫌が悪いという風を全面に押し出している羽が生えた子供がいた。ジト目でこちらを睨みながら佇んでる。ん?羽だと?やっぱりお化けなのか?
「お化けなんかじゃねーです。失礼な。こんな可愛い妖精ちゃんにいきなり何言ってんるですかあなた。失礼にも程がありやがりますですよね!」
そう言ってまたお化けが呟くと、先ほど押し倒して散らかってしまった聖なるロリっ子空間が一瞬で片付き、その中の一冊がお化けの前に漂っていく。
「…ってだからお化けじゃないんですってば!妖精です!…って、うわぁ…これは…あぁ…。。」
俺のバイブルを手に心底軽蔑した目でこちらを見ながら、妖精と自己主張していたお化けが再び喋り出す。キンキン声でやかましい。状況が激しすぎて付いていけないのだが、一体今俺の部屋で何が起こっているんだ。
というか、目の前のこいつは何なんだろう。明るくなった部屋の中で改めて良く見ると、妖精と自称するそれは見た目は小学生位の子供なのだが、なんだかやたら色彩の強い昔のアニメみたいな格好をしている。
コスプレだろうか?正体不明のお化けみたいなのを想像してたらちんちくりんなガキが偉そうに立っているだけで、若干不気味だがおかげで幾分気分は落ち着いたぞ。
「…で、だ。妖精様がわざわざ小汚い俺の部屋まで来てくれるなんてどういう事だ?何かくれるのか?」
「全く図々しい人ですね。クレクレ厨ですか。まぁ用があって来たのは事実ですし私の祠によく祈祷を捧げてくれていたのは感謝しています。そのおかげで私もまたここまで動き回れるようになったんですし」
祈祷などと大それた事はしたつもりは無いが黙っていよう。
「それで一体何の用なんだ?まさか人ん家を荒らす為だけにわざわざここまで来たりはしないんだろう?」
「なんかすっごく嫌味な人ですねあなた。でもまぁいいです。用というのはこれまで祈りを捧げてくれていたあなたにお礼をする事だったのですが…。ん?あなた丁度今日で30歳になったんですね」
せっかく忘れかけてた現実を思い出させやがって。
プー太郎の童貞30歳。我ながらこれは切ない。童貞のまま30歳を迎えると魔法使いになれるとか言うけれど、いっそもう魔法使いにでもなってファンタジーの世界で生きていけたらどんなにいいだろうか。
「あ、それ可能ですよ?元々私のいる世界ってそういう世界でしたし」
何を言ってるんだこいつ。可能?そんな無茶苦茶出来るのか?
「んじゃ日頃の感謝も込めて特別に魔法使いにしてあげちゃいまーす。えいっ!」
お化けが指先をパチっと鳴らすと全身の力が抜けていく。
「このハナコちゃんにかかればそんなの簡単なのですよフフフ…」
フフフって…、もう訳が分からん。
自らの情報処理能力の限界に達した所で俺の意識は途絶えた。
ハナコってなんだよ。