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リセット  作者: 桐条京介
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 ――迷惑をかけて、ごめんなさい。母親の梶谷小百合が残していた書置きは、その一文から始まっていた。目を通していくほどに、母親が抱いていた悲しみが伝わってくる。

 内容は、哲郎が自分から離れていくのが怖いというものだった。息子離れできぬ母の気苦労が記されている。

 自然の流れなので当然だと理解しながらも、なかなか納得できない心苦しい想いを哲郎は初めて知らされた。

 息子に面と向かって言う内容でないのは、梶谷小百合自身が誰よりも理解していた。それでも哲郎に必要とされたい一心で、家事をすべて引き受けていた。

 しかし水町玲子の嫁入りによって、状況は変化する。台所を預かるのが自分だけでなくなり、戸惑うと同時に嫉妬を覚えた。

 やがて嫉妬は怒りに変化し、哲郎の嫁である玲子へ辛く当たるようになった。もちろん嫁として、しっかりしてほしい思いもあったはずだ。

 二人の女性はともに哲郎を想ってくれていたのに、気がつけばすれ違いばかりで、最悪な方向へ進んでいた。

「……だったら、言ってくれてもよかったじゃないか……!」

 思わず哲郎は、読み終えたばかりの書置きを握り締めた。手の中でくしゃくしゃになった紙切れが、まるで誰かの泣き顔みたいに見えた。

 哲郎の様子を眺めていた玲子が、心配そうに「大丈夫?」と声をかけてくる。まだ見てない書置きの内容を気にしてる様子だったので、頷くと同時に紙を手渡す。

 受け取った玲子は恐る恐る内容を確かめたあと、沈痛な面持ちで顔を俯かせた。

「私が……あなたを奪ってしまったと思われたのね……」

「そう……なのかな……。けど、同じ家に暮らしていたんだし、クソッ! 何がなんだかわからない!」

「あなた……」

 取り乱す哲郎に、愛妻が目を丸くしている。並外れた人生経験の多さゆえに、いつでも冷静さを保持していた面影など、微塵も見られないほどに声を荒げてるのだから当然だった。

 騒がしさに気づいた梶谷哲也もやってきて、書置きの存在を知る。一読したあとで、混乱気味の玲子へ「気にするな」と告げた。

「この家で一緒に暮らすと決まった時点で、わかりきっていたことだ。処理しきれない、こちら側に問題があった」

 慰めようとしてくれてるのは明らかだが、それでも玲子の気持ちを浮上させるにはいたらない。加えて哲郎も、もっと早く独立を決意していればと悔やんだ。

 こちらの考えが表情に出ていたのか、父親は哲郎に「深く考えるな」と言ってきた。

「お前と一緒に暮らしたがったのは、他ならぬ母さんだ。覚悟はしていたと思ったんだが……。それに、気づいてやれなかった俺にも責任がある」

 普段はあまり口数の多くない梶谷哲也が、ここまで喋っている時点で事態の深刻さがわかる。

「それよりも、まずは母さんを探そう。お前たちも協力をしてくれるか」

「はい。もちろんです」

 梶谷哲也の申し出に、すぐさま玲子が顔を頷かせる。自身の母親の問題だけに、哲郎も協力するのは当然だった。

 家庭問題で母親が家出しましたとは近所に言えないため、警察に届け出る前になんとか三人で梶谷小百合を見つけようと決める。

 方々に散らばり、どんな小さな手がかりでもいいから、見つけられないかと奮闘する。けれど期待どおりの成果は得られず、徐々に外は明るくなってきていた。

 心配と不安を抱えて走り回れば、疲労感も大きくなる。それでも哲郎は、懸命に足を動かし続けた。

 朝になっても母親は見つからず、会社どころではない哲郎は休むと連絡するために一旦自宅へ戻った。

「一体、母さんはどこに……」

 呟く哲郎の背後で、勢いよく玄関の扉が開いた。見れば父親の知人が、激しく息を切らせて立っている。

「て、哲郎君か。た、大変なことになった……!」

 ふくれあがる嫌な予感に圧迫された心臓が、声も出せない哲郎に変わって大きな悲鳴を上げた。


 待っていたのは、これ以上ないほど最悪な結末だった。

 二人きりになりたいと、父親ひとりが梶谷小百合との面会を継続している。

 妻の玲子は相当なショックを受けていたので、哲郎が実家へ帰らせた。もちろん、道中は送っていった。

 詳細な事情は説明しないまでも、水町家の両親にはしばらく玲子を置いてほしいとお願いした。

 泣いてばかりいる玲子と、憔悴しきった哲郎の顔を見れば、かなりの難題が発生してると容易に想像できる。

 いつまでも家を空けていられないので、哲郎はひとりで自宅への道を歩いていた。

 燦々と輝く太陽とは裏腹に、気持ちは深い夜の闇の中へ沈んでいる。どうしてこうなったのか。頭の中で繰り返される問いかけに、明確な答えを示せない。

 己の力のなさを痛感し、見通しの甘さを後悔する。これでは何のために人生を繰り返し、あるべき運命から母親を救ったのか。口端から血が漏れてくるほどに、哲郎は歯軋りを繰り返す。

「やっぱり俺は、母さんを救えないのか……」

 呟きながら到着した我が家。いつも出迎えてくれた声はない。無情な静けさに心が締めつけられ、危うく卒倒しそうになる。

 どうして母親は玲子の気持ちを理解してくれないのか。哲郎は毎日、そんな風に考えては憤っていた。

 けれどよくよく考えてみれば、哲郎は果たして梶谷小百合の気持ちを考えてあげていただろうか。こちらの都合を押しつけていただけではないのか。渦巻く疑念と後悔が、執拗に追い討ちをかけてくる。

 いっそノックアウトされてしまいたかった。以前に家出した玲子にしろ、母親の問題にしろ、哲郎がしっかりしていれば防げた可能性が高い。

 哲郎だけのせいではないかもしれないが、人生を何度もやり直してきてるだけに他者とは絶対的な経験値が違う。それだけに、こちらが気づいてあげなければならないのだ。

 しかし哲郎にはできなかった。不慮の事故からは救えたものの、慕っている母親に自らの意思で人生の終点へ旅立たせてしまった。

「クソッ! クソッ! クソォ!」

 自分の部屋で何度も床を蹴り、壁を殴る。やりきれない切なさをぶつけてみるが、心が晴れやかになったりしない。

 取り返しのつかない過ちに対する後悔が涙となって流れ、部屋の畳に染みを作る。

 勝手に動く手が向かったのは、哲郎の部屋にある引き出しだった。中には例のスイッチが入っている。

 他の人にはない特権を使用するのは、正直気が引ける。普通なら過ちを糧にして、これからの人生を悲しみとともに歩んでいかなければならないのだ。

 そして時間が心の傷を癒してくれるのを待ち、日々の暮らしに埋もれていく。肯定も否定もしない。それが世間一般で、当たり前と捉えられている人生なのだから。

 けれども哲郎には状況を一変させられる道具がある。過去へ戻れるスイッチだ。

 地球に住む全員が同じ条件で生きるべき。頭ではそう思っていても、肉体が勝手に動く。

 母親を失いたくないのは当然の心情であり、加えて哲郎の選択は愛する妻のためでもあった。

 今回の一件で、玲子が責任を感じてるのは確実だった。そんな妻がこれまでどおりに笑えるとは思えない。ゆえに哲郎は決断をした。

「今度こそ……絶対に幸せな未来を手に入れてみせる……!」

 もはや何度目かもわからない過去へのジャンプを行い、哲郎はまだ母親が存在している時代まで戻る。

 水町玲子と結婚してからではなく、その前からやり直すつもりだった。また長い時間を歩かなければならないが、これもすべて自分のためだと覚悟する。

 最愛の女性と交際している時から母親にも気を配り、なおかつ恋人に不安を与えないようにする。遂行すべき任務は厳しいが、自分ならきっとできる。

 何度も言い聞かせているうちに周囲の景色は変わり、気がつけば哲郎は高校生時代まで戻っていた。


 玄関でボーっと立っている哲郎を心配して、出迎えてくれていたであろう梶谷小百合が心配そうに「どうしたの」と声をかけてくる。

 目の前にいる母親が本物だとわかり、思わず哲郎は泣きそうになる。苦労のかけどおしで、すべての人生でろくに親孝行をしていない。

 今回の人生こそは、愛する女性とともに幸せにしてみせると気合を入れる。まずは梶谷小百合と頻繁にコミュニケーションをとるのが先決だった。

 外はすでに暗くなっており、玄関に立っているのだから、哲郎はアルバイトをしている水町家の工場から帰宅したばかりなのだろう。体もホカホカしているので、途中で銭湯へ寄ってきてるのもわかった。

 そういえば高校時代はこんな生活をしていたなと思い出す。水町家との関係を良好にすることばかり考え、家族との会話は極端に少なくなっていた。

 家族だから理解してくれるだろう。これは個人の勝手な甘えであり、やはり言葉にしなければわからない面も多々存在する。

「お風呂は入ってきたのね。それなら、ご飯はどうするの。用意なら、してあるわよ」

 前回の人生を振り返れば、高校時代の哲郎はほとんど自宅で食事をしていない。しかし帰宅すれば、常に夕食が用意されていた。

 水町家で食べてくるのを知っていながら、それでも哲郎のために用意してくれているのだ。頭を下げなければならないくらいありがたいのに、当時はなんとも思ってなかった。

 疲れたから眠りたい。明日になれば、また水町玲子に会える。順調な人生の中で、知らず知らずのうちに舞い上がり、自分のことしか考えられなくなっていた。

 リセットして己の愚かさに気づけた哲郎は、二度と前回の人生と同じ悲劇を繰り返さないためにも、積極的に母親との会話に応じる。

「ありがとう。小腹が空いているから、食べるよ」

 笑顔でお礼を言ってから食卓へ移動し、腰を下ろす。それだけで梶谷小百合は嬉しそうにする。

 息子である哲郎が無愛想になっていくたび、心のどこかで寂しさを覚えていたのだろう。問題が表面化するまで気づけないのだから、つくづく自分を鈍感だと思う。

 水町家で夕食はご馳走になってきてるので、お腹はある程度ふくれている。しかし食べようと思えば、夜食程度はどうにかなる。

 毎日、学業に加えてアルバイトへも励んでいるため、カロリーの消費量は常人以上。多少は食べ過ぎても、急激に太ったりはしない。

 用意されたお茶漬けを食べている哲郎の正面に座り、梶谷小百合はこちらの食べる姿を眺めている。

 何か用事があれば、すぐに動けるような状態を作っているのだ。ここまで世話してもらっておきながら、水町玲子をとことん優先にされれば、梶谷小百合でなくとも面白くないと考える。

 ならばどうするか。考えた末に、哲郎は「いつもありがとう」と母親へ改めて御礼を言った。

「どうしたの、急に。何かあったの?」

 いつもと違う態度に嬉しさ半分、不安半分といった感じで梶谷小百合が尋ねてくる。

「普段からよくしてもらってるのに、きちんとお礼も言ってないなと思ってさ」

「親子なんだから、当然でしょう。変な子ね。それとも、誰かに両親へ感謝しなさいとでも言われたの?」

 自分で気づいたんだよ――。そう言おうとした哲郎だったが、途中で口の動きを止めた。未来に降りかかってくる諸問題を解決させるためにも、ここで打つべき一手を思いついたからだ。

「そうだよ。実は、玲子に言われたんだ」

「水町さんのところの……お嬢さん?」

「ああ。毎日夕食をご馳走になっていたら、お母さんを大切にしてあげてるのか聞かれてね」

 哲郎の言葉に、母親は驚きの表情を浮かべている。今がチャンスだと、なおも台詞を続ける。

「返答に困っていたら、玲子が自分のことは後回しでもいいから、もっと親孝行してあげてと言われたよ。それで考えてみたら、最近はあまり会話もなかったなと思ってさ」

「そう……水町さんのお嬢さんがそんなことを……」

 これで万事解決とはいかないまでも、多少は水町玲子の心象が良くなったはずだ。

 実際にどことなく感動してるようにも見える。こうしてちょっとずつ哲郎が細工を加えていけば、悲惨な末路は回避できる。

 今度こそ本物の幸せを手に入れるために、哲郎は笑顔で梶谷小百合との会話を継続する。

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