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リセット  作者: 桐条京介
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 夜の小学校で思い出に浸りながら、当時の心情を蘇らせて、哲郎と玲子はすれ違い気味だったお互いの道筋を修正した。

 これで万事解決。これからはすべてがうまくいくと思っていたが、回避すればするほどに新たな災難がやってくる。

 自宅へ戻るなり、哲郎の母親である梶谷小百合が玄関までやってきた。深夜と呼べる時間帯なので、これには少し驚いた。

 すでに父親の梶谷哲郎は眠っているみたいだが、梶谷小百合は起きていたのだ。それだけ哲郎と玲子の身を案じていてくれたのかもしれない。

 普通に「ただいま」と告げる哲郎とは対照的に、妻の玲子はどことなく緊張しているみたいだった。

「ただいま、戻りました。ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」

 硬い表情のままで、深々と頭を下げる。あまりに丁寧な謝罪なので、心の底から申し訳なく思ってるのだろうと判断する。

 対する梶谷小百合は笑顔で頷き、玲子の行動をさして咎める様子もなかった。

 安心した哲郎は走り回ったのもあり、台所で体を拭いてから眠ろうと考えた。

 ひと足先に台所へ向かった哲郎だったが、ふと忘れ物したのを思い出し、居間へ戻ろうとした。

 だが途中で足が止まる。ちらりと覗けた居間では、先ほどまでと打って変わって険しい表情の梶谷小百合がいた。

 常に優しく、温厚な女性の印象しかない哲郎にとって、初めて見る母親の形相だった。

 凄まじいとまではいかないが、実子である哲郎が驚いて足を止めるくらいなのだから相当である。

 迂闊に居間へ入れないでいると、台所で体を拭いていると思われる哲郎を気遣っているのか、押し殺した声で梶谷小百合が話し始めた。

「ずいぶんと哲郎に迷惑をかけてくれたみたいですね」

 聞き覚えのない声のトーンで話す母親に、何故か隠れて様子を見守っている哲郎が戦慄を覚える。

 本当なら今すぐにでも乱入するべきなのだが、情けないことに体が自由に動いてくれなかった。

 梶谷小百合に責められている玲子は、何も言えずにただ俯いている。

 年下なのはもちろん、実家に入っている嫁という立場上、義母である梶谷小百合へ強く出られないのだ。

 改めて何事か考えなくとも、これは立派な嫁姑問題だった。以前に玲子は早めに家を建てられないのか、哲郎に相談してきたことがあった。

 根底にあったのは、義理の母親である梶谷小百合との関係がうまくいってなかったからなのだ。

 相談したくても、実家で唯一味方になってくれそうな哲郎は、仕事が忙しいからとなかなか帰ってきてくれない。

 義理の父親である梶谷哲也へ相談しても、自身の妻である梶谷小百合の味方になる可能性が高い。となれば、ひとりぼっちに等しい玲子は四面楚歌も同然だった。

 実家の両親へ迂闊に報告して、哲郎との関係が悪くなったら、会社の経営に影響がでる。そこらを考慮して、玲子はこれまでずっと我慢を重ねてきたのだ。

 あえて説明してもらわなくとも、梶谷小百合とのやりとりを見てれば、さすがに鈍感な哲郎にも理解できた。

 だからといって今すぐに、こんな実家は出て行ってやるとも言い辛い。哲郎にとっては、梶谷小百合もまた大事な存在に変わりないのだ。

 なんてことだと、哲郎はひとりで頭を抱える。これまで数々の会社の難題を解決してきたが、嫁姑問題だけは平穏無事に済ませられる自信がなかった。

 遭遇したのが初めてなだけに、うまくおさめられた実績もない。すべて手探り状態で始める必要がある。

 過去をやり直せるようになってからこれまで、ほぼ答えがわかってるようなルートを歩んできただけに、大きな混乱に哲郎は襲われる。

 どうにかして二人を仲良くさせたい。そのためには、やはり哲郎が仲介するしかなかった。

 まずはこの場を見なかったことにして、当初の予定どおりに台所で体を拭こうと考える。

 現在の哲郎の体は走り回った際の汗よりも、想定外の現場を目撃した影響による冷や汗でべとべとになっていた。


 体を拭き終えた哲郎が居間へ戻ると、ちゃぶ台の上にはお茶漬けが置かれていた。夜食用にと、梶谷小百合が用意してくれたのだろう。

 きちんと正座している梶谷小百合の横で、玲子もまたきちんと座って哲郎が来るのを待っている。亭主が食事を終えるまでは、黙って待っているのが基本だと教えているみたいだった。

 一見すれば二人仲良く並んで座ってるように見えるが、笑顔もなければ会話もない。この場にいるだけで、強烈な緊張感が伝わってくる。

 考えてみれば、以前から梶谷小百合が玲子へ話しかけるケースはあっても、逆はあまり見なくなっていた。

 嫁入り当初は仲良さげな雰囲気を醸しだしていたが、最近では主に妻の玲子から発せられる緊張感ばかりが目立っている。

 難しく考えなくともわかりそうなのに、今の今まで気づけなかった。改めて哲郎は自分自身の鈍感さに呆れ返る。

 モットは焼く事態の収拾に乗り出していれば、妻の玲子が家出じみた真似をすることもなかったはずだ。けれど何事も、頑張れば意外と取り戻せるというのを、哲郎は複数回の人生で学んできた。

 努力するのに遅すぎるということはない。まだまだ取り返せると、気合を入れて哲郎は母親の梶谷小百合を見た。

「哲郎のために、二人で用意したのよ。ねえ、玲子さん」

「……はい、お義母様」

 笑顔で同意を求める梶谷小百合に対して、少し怯えた様子で応じる玲子が実に印象的だった。

 返事の仕方が気に入らなかったのか、哲郎が目を離した隙に、梶谷小百合の玲子へ向ける視線の鋭さが変化した。

 柔らかくなったのではなく、より厳しくパワーアップしていた。その様子を見ているだけで、お腹一杯になりそうだった。

 意を決して義理とはいえ母娘関係を良好にしてほしいと願い出かけたが、目撃したやりとりひとつで哲郎の口にシャッターが下りていた。

 実の息子である哲郎でさえ居心地の悪さを感じているのだから、厳密には他人となる玲子はもっとだろう。孤立無援でこのような事態を何日も何ヶ月も続けて味わってれば、家出のひとつやふたつはしたくなって当然だった。

 急いでお茶漬けを食べた哲郎は「ご馳走様」と告げて、ひとりで先に自室へ戻った。本来はすぐに寝るのだが、今夜ばかりは後から来るであろう玲子を待つ。

 本当は居間で「話があるから」と、玲子を呼び出そうと思ったのだが、そんな真似をして梶谷小百合が不満を抱けば後々に影響が出てくる。

 かわいそうではあったが、この場はとりあえず我慢をしてもらって、部屋で二人きりになった時に対処法を話し合おうと思っていた。

 その間に哲郎は、自室の引き出しへしまいっぱなしにしてある例のスイッチを取り出し、机の上へ置いてみた。

 昔と変わらぬ形で、何をするわけでもなく、ちょこんと存在している。こちらが求めなければ、よほどのアクシデントがない限りは作動しない。ゆえにスイッチあるなしで、大きく人生を左右されたりはしなかった。

 哲郎が決断した方向へ問題なく進めるし、おかげで見たくも体験したくもない結末へも何度となく遭遇した。しかし他の人間にはない、アドバンテージがあるのは確かだ。

 大切なのはむやみやたらに使うのではなく、どう活かすか。そして場合によっては、再びお世話になるかもしれない。そこまで考えたところで、哲郎はスイッチを引き出しの中へ戻した。

 そんなふうに思っているから、すでに弱気になっているのだ。失敗したあとを考えるよりも、とにかく今に全力を尽くそう。

 哲郎が強く決意するのを待っていたかのように、程なくして妻の玲子が二人の部屋へとやってきた。


「まだ起きていたのね」

 驚きと安堵が入り混じった表情を見せたあと、妻は哲郎のすぐ側に腰を下ろした。

「今日は迎えに来させてごめんなさい。あなたに迷惑をかけてばかりですね」

 寂しそうに謝る姿からは、小学校の校庭で見せてくれたような優しげな雰囲気は消えている。

 やはり原因は梶谷小百合との嫁姑問題なのだろうか。黙っていても打ち明けてくれるとは思えないので、おもいきって哲郎は自分から問いかけてみる。

「もしかして、母と上手くいってないのか」

「え……どうして?」

 当人は平静を装っているつもりかもしれないが、話しかけた瞬間に明らかに表情が一変した。

 けれどそれも一瞬の話で、すぐに妻の態度は元どおりに戻っていた。

「心配しなくても大丈夫よ。上手くやれているわ」

 微笑みながら円満さを強調する姿に、どことなく不自然さを覚える。本来の哲郎であれば、ほぼ間違いなくここで「そうか」と応じていた。

 当人がそう話すのだから、もう少し様子を見てみよう。下手に自分が口を挟むと、余計に仲が悪化するかもしれない。そう判断して、後手を踏むのだ。

 慎重すぎるのも決して悪くはないが、時には大胆に攻め込むぐらいの気迫も必要だった。そうでなければ、後に大事なものを失ってから、己の対応の未熟さに気づかせられるはめになる。

 何度も人生をやり直せたがゆえに、哲郎は着実に他人よりも多くの成長の機会を貰えていた。その成果を発揮するときだと、気合を入れて口を開く。

「大丈夫かそうでないかは、二人で一緒に決めよう。俺たちは夫婦だ。苦しみも喜びもわかちあうんだろ」

「あなた……」

「……まあ、これまで仕事仕事で、家のことをほったらかしにしてた俺が言える義理はないかもしれないけどな」

 そう言って笑うと、今度は妻も穏やかな本来の笑顔を見せてくれた。

「でも、本当に何でもないの。気遣ってくれて、ありがとう」

「その言葉は、そっくりお返しするよ。下手に相談して、俺と母の仲が悪くなるのを心配してくれてるんだろ。玲子は昔から優しいものな」

 図星だったのか、哲郎の発言でとうとう妻は溢れそうな感情を堪えきれなくなり、目の前で涙を見せた。梶谷小百合に聞かれないように、声を押し殺して泣き続ける。

 黙って妻が泣き止むまで見守るという選択肢も存在したが、あえて哲郎は玲子の身体を優しく抱きしめて、ゆっくりと背中をさすってあげた。

 そうしてるうちに相手も落ち着き、やがて少しずつ話してくれた。最初は普通に接していたが、哲郎が帰ってこない日が増えると、玲子に対する風当たりがキツくなってきたという。

「私にも至らない点が多数あるだろうから、きちんとお話を聞いて、できる限りは要望に応えられるように頑張っていたわ」

 しかし玲子は専業主婦ではなく、結婚後も実家の工場で働いている。ゆえに家事などに費やせる時間は、他の家のお嫁さんに比べてずっと少なかった。

 女性は結婚して家に入るもの。そう考えているふしのある梶谷小百合は、玲子が働いているのも気に入らなかったのだろう。そこらに気づけずにいたのは、間違いなく哲郎の落ち度だった。

 玲子からすれば水町家の工場は実家になるのだから、両親のために少しでも手伝いたい思いは強いはずだ。とはいえ、梶谷家へ嫁入りした身でもあるのだから、家事も決して疎かにはできない。

 だからこそ両方に全力で取り組んできたが、良い結果は出ずに、哲郎も居間で見たような事態に至っている。ますます自分がなんとかしなければという思いを強くしながら、引き続き妻の話に耳を傾ける。

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