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リセット  作者: 桐条京介
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 結婚はまだ先でも、哲郎と水町玲子はすでに同棲を開始している。いわば夫婦生活を始めているも同然だった。

 婚約の事実を友人や知人に発表したのもあり、哲郎と水町玲子の仲を引き裂こうと画策する人物も現れなくなる。

 もっとも仮に存在したとしても、今の哲郎は決して慌てない。幼少期とは違い、最愛の女性が自分以外の人間になびいたりしないと確信を持っていた。

 ほとんど口論にもなったりせず、お互いを尊重しあう生活が続けられる。大学もアルバイトも充実しており、近代化を遂げる日本の中で誰よりも満足していると実感できた。

 本来ならひとりぼっちで迎えていた時代の変革期に、愛する女性が隣にいてくれる。これがどれほど幸せなことなのか、最初の人生を歩んでいた頃には理解できていなかった。

 涙が出そうなくらい嬉しい日々を過ごしてるうちに、哲郎と水町玲子はひとつずつ年を重ねていく。

 気心知れた仲間たちと笑いあい、たまに帰省すればお互いの家族と談笑する。婚約解消の話は一度も出ることなく、大学卒業の日を迎える。

 この時ばかりは、仕事を休んで哲郎と玲子の両親たちも上京していた。学生としての過程を一応終了したことにより、それぞれが変動を続ける社会の中へ主役として飛び出す。

 すでに社会の荒波を経験している哲郎は十分な覚悟ができているものの、周りを見ればいまだ学生気分の者も数多くいた。

 それでもかなりの名門大学であるがゆえに、卒業後は各省庁にキャリアとして入省する人間も少なからず存在した。

 他にも一部上場企業の社員であったり、世間的に有名な企業から早々に内定を貰える者がほとんだった。

 数十年先のバブルが弾けた未来ではとても信じられないが、この時代ではまだまだ売り手市場で、大学の卒業生が入る会社先を好き勝手に選べていた。

 高学歴を持つ者は当然として、中卒や高卒者でもやり方次第では上にいける環境があった。

 もっとも人と争うのが従来得意ではない哲郎は、最初の人生の頃から出世レースに参加するつもりはなかった。

 今回も水町家の工場で働くと決めていたので、他の就職先には目もくれなかった。大学でも成績トップレベルの哲郎は、様々なところかスカウトされたので、周囲に勿体無いと言われたりもした。

 けれど人生においてお金は大切だが、それだけでは幸せになられないと知っている哲郎は、報酬に目が眩んで就職先を変えるような愚かな真似はしなかった。

 おかげで水町玲子が感動し、ますます哲郎への好意を強めてくれたのでおおいに満足していた。

 そして今日、目出度く大学卒業の日を迎えている。小学校、中学校、高校、さらには大学と数えれば四度目にもなる。

 そのたびにきちんと参加してくれているのだから、両親には心から感謝の念を述べたい。本来なら見せられなかった晴れ姿を、母親の梶谷小百合へ披露できるのも嬉しさのひとつだ。

 きちんと着物を着用し、綺麗な姿で大学を卒業する哲郎の姿を目に焼きつけている。隣にいる水町玲子の両親も同様だった。

 お世話になった教員の話を聞き終えたあとは、卒業生のスピーチになる。壇上に立つのは、他ならぬ哲郎だった。

 とても柄ではないのだが、水町玲子に説得されたのもあり、渋々ながらも最終的に引き受けた。

 長々としたスピーチは苦手なので、考えた末に哲郎は伝えたいことだけを発言する。

「人生は一度しかありません。だから社会に出たあと、勇気を持って行動してください。そうすれば良くも悪くも、人生が動きます」

 あまりにも短いスピーチに卒業生たちは揃って唖然としたが、直後に大きな拍手が起こった。

 その渦の中でひとり、哲郎は表情を曇らせた。自分だけが一度きりではない人生を送っているからだ。


 卒業式が終わってからの哲郎には、ゆっくり感傷に浸っている暇はなかった。

 友人たちと一緒に卒業の喜びを分かち合うのではなく、大学生活の大半を過ごしたアパートでささやかなお祝いをしていた。

 卒業式後には水町家と梶谷家で食事会を開き、久しぶりの再会を楽しんだ。それぞれの両親は予約したホテルへ戻り、哲郎と水町玲子の二人だけになる。

 ロマンチックなホテルで、ゴージャスに夜景を見ながらワインを味わう。そんなセレブな光景が似合うはずもないのを知っていたので、哲郎は提案を躊躇った。

 もしかしたら水町玲子は期待しているかもしれないので、意を決して誘ってみたが、こちらの性格を他者よりよく知っている婚約者は「無理をしなくていいわよ」と言ってくれた。

 結局、最後には四年間でずいぶんと住み慣れたアパートに落ち着いた。大学を卒業したからといって、すぐに帰省するわけではない。色々と挨拶に行かなければならない場所もある。

 アルバイトでお世話になった会社はもちろん、毎日のように通っている銭湯の関係者など、数えたらきりがない。二人だけで生活してるように思えて、それだけ多くの人たちに支えられてきた証拠だった。

「緑茶でいいかな」

 問いかけてきた水町玲子の言葉に頷き、淹れてもらった緑茶を受け取る。

 手にした湯のみを口に近づけ、軽くすするようにお茶を飲む。まだ夜は肌寒いので、温まるには最適な飲み物だった。

 もっともアパートの部屋に、これしかなかったというのもある。引き払う日から逆算して、冷蔵庫が空になるような食生活を送っていた。

 哲郎と水町玲子は基本的にお酒は呑まず、ジュース類もあまり口にしない。そのため緑茶が第一選択肢になる。

 こちらの好みに付き合わせてるのではないかと心配になり、常々、哲郎は婚約者に好きな飲み物を用意しておいていいと言っていた。

 けれど水町玲子は「私もお茶が好きだから」と、流行のジュース類に心を奪われたりはしなかった。無理してる雰囲気もなく、純粋に哲郎と同じなのだと安心したのを覚えている。

 二人でお茶をすすっていると、不意に水町玲子が「ついに大学を卒業したね」と言ってきた。

 そうだねと応じる哲郎に、こんなのがあったのを覚えてるかと思い出話をしてくる。

 過去を懐かしむのは決して嫌いではないので、話題に付き合って色々と語り合う。そのうちに、高校時代にまでさかのぼっていた。

 大変な時も当然あったけれど、それも今になれば良い思い出だった。どんなに辛くとも、いずれは時間が解決してくれるのかもしれない。もちろん例外も存在する。

 それを差し引いても、時間というのは何よりの薬なのではないかと思える。ただし代償として回復するまでの期間が犠牲になる場合もある。

 各人の受け止め方次第という考え方もあるだろうが、その点を考えれば、やはり辛い思いはしたくないと感じる人間が多いはずだ。哲郎もその中のひとりだからこそ、何度も人生をやり直してきた。

 冷蔵庫が三種の神器と呼ばれていた時代を走り抜け、現在では一般的に普及できる水準にまで達している。生まれた当時を考慮すれば、画期的という表現が相応しいくらいだ。

 時代の流れを逆行するのは、本当に正しいのか。考えるたびに不安がこみあげてくる。しかし例のスイッチがなければ、哲郎は決して水町玲子と結ばれることはなかった。

 現在の幸せを手放したくない哲郎は、これでよかったのだと自分に言い聞かせて思考を放棄する。とにかく今は、目の前にある人生を全力で歩こう。

 決意した先にどのような障害があったとしても、すべて突き破る勢いで進めば、きっとなんとかなる。

 便利なスイッチを手に入れたからと闇雲に頼るのではなく、どうしようもない時にだけ使う切り札と考えればいい。そうすれば少しは他者との不公平感も減るかもしれない。


 生まれ育った地元へ戻り、哲郎と水町玲子は晴れて結婚式を挙げる。

 家族だけで粛々と行うのが広がりつつある数十年先の未来と違い、この時代はきっちりと披露宴を行っていた。

 もちろん式を挙げずに終わる夫婦も数多くいた。その点から考えると、哲郎たちは幸せだと断言できる。

 西洋タイプの挙式も考えたが、昔からの風習が色濃く残る地方というのもあり、神道をメインとした方式に決定する。

 神前挙式の際には、水町玲子は白無垢を着用した。もともと色白なのもあってか、どこぞの姫君と見間違うくらいの美しさだった。

 素直に褒め称えたかったが、厳かな挙式の際に素っ頓狂な行動をするわけにもいかない。通じるか半信半疑ながら、目で綺麗だよと語りかけてみる。

 するとかすかに目が合った水町玲子は、嬉しそうにはにかんだ。それだけで哲郎には十分だった。

 事前に練習したとおりの順番でひとつずつこなしていき、三々九度も無事に終わらせる。

 その後も滞りなく神前結婚式は進み、全員が退場したあとに借りていたホテルでの披露宴に突入する。

 都会ほど大きくはないものの、哲郎たちが進学している間に、地元にホテルが建設されていたのである。

 道路も舗装されており、地方にも近代化の波がどんどんと押し寄せてきてるのがわかった。

 変わりゆく街並みと、変わらない景色。融合した新しい街に水町から梶谷に姓が変わる女性は目を細め、どことなく寂しそうな顔を見せたのを覚えている。

 変わらないものなど何ひとつなく、人の想いも同じだと証明されても、妻となる女性への愛情を際限なく深めていけばいいだけだと挙式の際に改めて誓った。

 広い部屋を借り切っての披露宴には多数の友人や知人が参加してくれており、中には大学時代に知り合った者もいる。

 地元というのもあり、かつての友人たちにも招待状を送ったが、連絡の取れない者も少なくなかった。

 その中のひとりが、小学校や中学校時代によく会話をしていた巻原桜子という女性だった。

 会えないのを悲しがっていたので、玲子のためにもなんとかしたかったのだが、哲郎というひとりの人間の力には限界がある。

 逆に、予想外にも参加してくれた人物もいた。それが高橋和夫だ。水町玲子に好意を抱いているのは、もちろん哲郎も知っている。

 それだけに水町玲子が人の――それも哲郎の妻になるのを快く思ってないはずだった。にもかかわらず、こうしてお祝いの席に駆けつけている。

 披露宴に入り、お色直しを経て色打掛姿になっていた水町玲子が「やっぱり、友達なんだね」と感想を漏らした。

 やや的外れな気がしなくもなかったが、この場で否定するのも空気を悪くすると判断し、哲郎は曖昧に頷く程度の反応で済ませた。

 以降は水町玲子も高橋和夫の存在をあまり気にしたりせず、昔からの友人たちにお祝いを言われて、嬉しそうに「ありがとう」と返していた。

 大抵が共通の知人となるので、玲子のあとは哲郎にも「おめでとう」の言葉が送られる。日頃から冗談を言うタイプではないので、受けを狙ったりせずに、至極真面目にリアクションをする。

 予定されていたイベントがひとつひとつ消化されていくうちに、本当に結婚するんだなという思いが哲郎の中で強くなる。

 ふと隣を見てみれば、薄っすらと目に涙を浮かべている花嫁がいた。綺麗だけど、どことなく儚げな横顔に見惚れていると、会場のどこからか野次が飛んできた。

 すぐに水町玲子がこちらを向いたので、哲郎はドギマギしながら「あまりに綺麗だったから、つい……」と言い訳をする。

 もちろん怒られるわけもなく、水町玲子は会場で巻き起こる爆笑を聞きながら、今日一番の微笑をプレゼントしてくれた。

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