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リセット  作者: 桐条京介
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 授業が始まる前の教室は、いつにも増して賑やかだった。

 ひとしきりの朝の遊びを終えた男児の面々が、教室へ戻ってくるなり、待ち合わせ場所にこなかった哲郎の姿を発見したからである。

 口々に「どうしてこなかったんだよ」と尋ねてくる友人たちに対して、哲郎――ではなく、巻原桜子が得意のニヤけ顔で説明していた。

 そのたびにからかいの言葉が教室中を飛び交い、まごうことなき今朝の話題のメインは哲郎と水町玲子だった。

「おい、聞いたか。哲郎と水町がアチチだぞー」

 この年代には相応しい言語を駆使して、とにかく執拗に哲郎と水町玲子の関係をからかってくる。

 別に虐めてるわけではなく、そうするのも、されるのも当たり前のこととしてクラスに根付いていた。

 だからこそ、おおっぴらに付き合ってるなどと口にする人間は、極端に少なかったのである。

 裏でこっそり付き合っており、中学も後半になってから、当時の驚きの事実が判明する。そんなのは何度もあった。

 とはいえ、あまりにも昔の記憶すぎて、その辺はよく覚えていない。大人になれば、どうでもよくなる程度の話題でしかなかった。

 けれど当時のクラスメートにすれば、一大事件だった。ゆえに、これほど騒いでいる。

 中には大胆に交際宣言をした哲郎と水町玲子を、羨ましそうに見ている同級生もいた。

 恐らくはそうした者たちが、ひっそりと交際してる連中なのだろう。もっとも、哲郎にわざわざ暴くような趣味はない。恋愛はあくまでも、個人の自由である。

「どうせならさ、席替えしちゃえばいいんじゃない?」

 巻原桜子が、いきなりとんでもない提案をしてくる。

 このクラスでは、男女隣同士で机をつけて座るのが基本になっていた。

 哲郎の隣は巻原桜子であり、水町玲子の隣は高橋和夫という男児だった。

 哲郎と仲の良い友人のひとりで、次第に疎遠となるものの、中学生時代の前半までは何かとよく一緒にいた人物である。

「まあ、俺は構わねえよ」

 少し悪ぶった口調で、和夫が哲郎との席替えを了承した。

 普通はそんな真似をすれば怒られるのだが、哲郎たちのクラスを担任してる中年の男性教師は、他の教員と比べてもおおらかな性格の持ち主だった。

 本人同士できちんと了承がとれていれば、ある程度までは生徒たちの自主性に任せてくれる。

 その代わり、虐めなんて行為が発覚しようものなら、何故か常日頃から持ち歩いている長定規で頭を痛打される。

 およそ五十年後の哲郎が本来いた時代では、そんな真似をすれば一発でPTAと名乗るおばさん連中が乗り込んでくる。

 挙句には保護者からも訴えられ、教員生活の継続も危うくなる。

 誰もが己の保身を大切に考えるため、次第に生徒たちを厳しく叱責する人間は少なくなっていた。

 怒られなければ、調子に乗るのが子供という存在である。そして、誰より親の背中を見て育つのも子供だった。

 問題が発生してもお金で解決。公共の場で騒ぐ子供を他人が注意すれば、ギロリと睨みつけて平然と文句を言ってくる。

 そのような事態が続けば、誰もが他人にものを言えなくなるのは、火を見るより明らかだった。

 特に心根の優しい人ほど、そうした状態に陥りやすい。注意する人間がいなくなれば、たちまち無法痴態の出来上がりである。

 作り上げたのは誰か考えようともせず、安易に都市砂漠化みたいな形容で、人同士の繋がりのなさを嘆いたりする。

 挙句には孤独死が問題になってると、本来哲郎がいるべき時代のマスメディアは声高に叫んでいた。

 まったく関係のないように見えて、ひとつの些細な事態が様々な現象へ発展する。

「どうしたの? いきなりぼーっとしちゃって。そんなに玲子と付き合えたのが、感動的だったの?」


 柄にもなく、深くまで考え事をしていたために、教室内の喧騒ですら哲郎の耳に入らなくなっていた。

 巻原桜子の声で我に返り、何がどうなってるのか、現状を把握しようとする。

 すると女子の中の誰かが「梶谷君って、いやらしいー」とふざけ気味の言葉を発した・

 どうやら何も喋っていなかったのが、多大な誤解を与えていたみたいだった。

「で、どうするんだ」

 哲郎が弁解するより早く、友人の高橋和夫が席を変えるのかどうか聞いてきた。

 本来の哲郎であれば、気恥ずかしさが優先して、間違いなく断っている。

 現在でもそうしたいくらいなのだが、せっかくのやりなおしの機会、とことん従来の自分と違う生き方を選んでも損はなかった。

「じゃあ、お願いしようかな」

 哲郎がそう言うと、教室内が一気にザワめいた。

 女子が興奮気味に哲郎を冷やかし、大半の男子もニヤついている。

 だが中には「友情より女かよ」と、不満を露にしてる者もいた。

 そして該当者のひとりである水町玲子は、面白いぐらいに顔面を真っ赤に染めていた。

 哲郎と高橋和夫は席を交換し、晴れて交際を始めた女性と隣同士の席になれた。

 自分らしくない選択をしたまではよかったが、精神が急に順応してくれるはずもない。心臓はドキドキしっぱなしで、水町玲子に聞こえてないか心配になる。

 何か言わなければという思いから、哲郎は「よろしくね」と、隣に座っている水町玲子へ挨拶した。

「うん……」

 恥ずかしがりながらも、嬉しそうな様子で少女が頷いてくれた。

 その仕草ひとつで、改めて胸が熱くなる。徐々に身体だけでなく、心も小学生時代へ戻りつつあった。

 巻原桜子などは、まだからかいたそうにしていたが、そのうちに始業になって担任教師がやってきた。

 ガラガラとドアが開き、かつて見慣れていた顔とベスト姿の中年男性が入室してくる。

 先生だ……。哲郎の頭へ、真っ先に浮かんできた言葉だ。本当ならすでに他界している人物に、こうして再び出会えるとは想像もしていなかった。

 ここまでは、過去に戻れて良いことばかりである。ますます例の老婆が、何故に便利なスイッチを手放したがったのか理解できなくなる。

「ん? 何だ。高橋と梶谷、席を交換したのか?」

 教壇に立ち、席に着いている生徒たちを見渡した瞬間に、担任教師は些細な変化に気づいていた。

「梶谷が、水町の隣がいいって言うから、交換してやりました」

「ほう……梶谷がな」

 わずかに目を細めた中年男性が、本当なら高橋和夫の席にいる哲郎を見てきた。

 小太りな外見にも性格のおおらかさが現れているが、外見どおりに弱そうなタイプかといえばそうではない。きちんと、教員たるべき威厳も備えていた。

 だからこそ、この時代では悪ガキと言われる高橋和夫も、一応は丁寧な言葉遣いをする。

 その担任教師が、視線で哲郎に「本当か」と尋ねてきていた。

 すでに事実は教室中へ知れ渡っている。下手に誤魔化せば、逆効果となる可能性もあった。

 そこで哲郎は腹をくくって、真正直に答えようと決めた。

「水町さんの隣がよかったので、高橋君に僕からお願いして、席を交換してもらいました」

 勢いよく席から立ち上がったあと、大きな声を室内へ響かせた。

 隣にいる水町玲子の顔がさらに赤くなり、担任が教室へいるのに生徒たちが大騒ぎする。

 まさかここまでの対応をされるとは思ってなかったのか、一瞬だけ唖然としたあとで担任教師が苦笑した。

「わかった、わかった。お互いに同意なら、いいだろう。ほら、皆も静かにしないか!」

 担任が声を張り上げると、すぐに収束の気配を見せ始める。この時代の教師は尊敬するべき存在であると同時に、小学生たちにとって恐怖の対象でもあった。

 静かにしろと言われても騒ぎ続ければ、鉄拳制裁の一発や二発は覚悟する必要があった。

 そうして何をすれば怒られるのか。叩かれればどれぐらい痛いのかを、身をもって理解するのである。

 なんとか個人的理由による席替えが了承されて、ふうと安堵の息をつきながら哲郎は再び腰を下ろした。

 するとそれを待っていたかのように、水町玲子が小さな声で「かっこよかったよ」と言ってくれたのだった。


 授業が始まっても、クラスメートの中には、チラチラと哲郎たちを見てくる者が何人かいた。

 そのたびに教師から注意を受けては、黒板の前で難問を解かせられた。

 本来の人生では味わえなかったひと幕を楽しんでるうちに、時間はあっという間に過ぎていった。

 お昼の給食になれば、近くの席の児童らとひと塊になって、何班か作ってそれぞれ食事をとる。

 席が隣同士の哲郎と水町玲子は席をつけ、正面から見合う形で給食の時間を送ることになる。

 最初は照れ臭かったが、こういうのもいいものだと、自分の考え方が少しずつ変わっているのがわかった。

 大人になってからではそうそう変えられないが、子供の頃だとまだ間に合う。そのことを哲郎は、今日十二分に実感する。

 ただ隣に座って授業を受けてるだけなのに、哲郎の中ではずいぶん水町玲子との親密さが増してるように思えた。

 給食後の授業に、それが形となって現れる。

 小さく「あ……」と呟いた水町玲子を見ると、持ってきた筆箱の中にある鉛筆の芯が全部折れてしまっていた。

 この時代ではまだシャープペンシルが主流になっていないため、生徒たちは全員が鉛筆を使用している。

 しっかり者の水町玲子には珍しく、所持していた鉛筆を全滅させてしまったみたいだった。

 これでは授業の内容をノートに書き写せないため、困った様子で泣きそうな目を筆箱に向けている。

「はい。これを使いなよ」

 隣にいるおかげで、何が起きたか瞬時に理解できた哲郎は、そう言って自分の筆箱の中にあった鉛筆を一本相手へ差し出した。

 まだ他にも芯が充分残っている鉛筆のストックがあるため、一本や二本貸したところで、何の影響もなかった。

 嬉しそうにしながらも「いいの?」と尋ねてくる水町玲子に、哲郎は「もちろん」と答える。

「ありがとう……」

 あとで誰かのノートを写させてもらうという手もあるが、この場に鉛筆があれば充分に事足りる。

 理解している水町玲子はお礼を言ってから、哲郎の鉛筆を受け取った。

 その際にふと手が触れ合い、あっと思った哲郎は、慌てて自分の手を引っ込める。

「ご、ごめん……」

「どうして謝るの? 私は気にしてないよ。それに……朝はずっと、手を握っててくれたじゃない」

 水町玲子に指摘されて、今朝の登校風景を鮮明に思い出す。確かに哲郎は、少女の手をこれでもかというぐらいしっかり握っていた。

 急速に恥ずかしくなってきて、顔を熱くさせた哲郎を見て、隣の席の可憐な少女がクスクス笑った。

 照れ隠しに哲郎も笑っていると、教壇から「そこ、私語をするな」と担任教師に叱責された。

 哲郎と顔を見合わせた水町玲子は、怒られちゃったねとばかりにぺろっと小さく舌を出した。

 その仕草にドキッとして、胸を高鳴らせてる間に、隣の席の少女は前を向いて黒板の字をノートへ書き込み始めていた。

 熱心に教員の話へ耳を傾けている横顔も、とても可愛くて、哲郎の目には何よりも輝いて見えた。

 とはいえ、いつまでも見惚れていると、また注意される。浮かれすぎる自分を懸命に抑えつつ、哲郎も授業へ集中する。

 懸命に平常心を取り戻そうとしたが、結局は授業が終わるまでの間、ずっと鉛筆を持つ手は興奮で震えたままだった。

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