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リセット  作者: 桐条京介
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「いってきます」

 アパートの部屋から大学へ出発する際に、いつも決まって同じ言葉を無人の空間へ投げかけていた。もちろん返してくれる相手は誰もいない。

 しかしそれは少し前までの話。今では台所から声がするようになっている。大抵は「いってらっしゃい」が多いものの、そうでない日もある。

「待って、哲郎君。今日は私も一緒に大学へ向かうわ」

 そう言って玄関に現れたのは、恋人の女性である水町玲子だった。両手で髪の毛を梳かしながら、出発の準備を整えている。

 哲郎の負担を少しでも軽くするためにと同棲を始めて以来、家事のほとんどを水町玲子が担ってくれていた。

 今朝の食事の準備はもちろん、食後の後片付けも献身的に行ってくれた。おかげで哲郎は、ゆっくりと自分の準備をできた。

「わかった。それなら、今日は一緒に行こう」

 同じ大学に所属しているのだから、一緒に向かうのに不便さはない。毎日同時刻に出発しないのは、それぞれ受ける講義が異なっているためだ。

 今日みたいに同じ場合があれば、時間を合わせて一緒に大学へ行ったりもする。もっとも今回は、事前に違う時間だと聞いていたので、哲郎がひとりで出発しようとしていた。

 恐らくは直前に変更を決定したのだろうが、別々の部屋に住んでいれば意思確認はなかなか難しい。実際に同棲をしていなければ、哲郎は恋人へ何も言わずに大学へ向かっていた。

 事前情報から時間が違うとわかっているし、ゆっくりしているであろう朝に恋人を起こしたくないからである。そうした面も含めて、同棲はメリットが多かった。

 お互いの両親に許可を貰い、同棲を始めて数日。最初はぎこちなく、どこかよそよそしかったが、ずいぶんと慣れてきた。

 同じ部屋で毎日暮らしているのだから、これまでとは違う相手の面を嫌でも見ることになる。だからといって哲郎の水町玲子への想いが冷めるなど、ありえなかった。

 だがそれはすでに多くの人生経験を積んでいる者だから言える言葉であり、今を一生懸命に生きている水町玲子にも当てはまるかはわからない。ゆえに不安に思ったりする日もある。

 そのたびに哲郎は自分がしっかりしていれば大丈夫と、言い聞かせるように念じて不安を抑え込んできた。

「ごめんね、待たせてしまって。さあ、早く大学へ行きましょう」

 準備を終えた水町玲子の言葉に頷き、哲郎は先にアパートの部屋を出る。

 外に出ると眩しいほどに輝いている太陽が、哲郎を出迎えてくれた。さすがに朝の挨拶をするわけにはいかないので、失礼ながらも無言で顔を背ける。

 すぐあとに水町玲子もやってきて、アパートの部屋のドアに鍵をかけながら「今日も良い天気ね」と呟いた。

「ポカポカしてるし、歩くのも気持ち良さそうだ。少し遠回りして歩いてみようか」

 幸いにして、目当ての講義が始まるまではまだ余裕がある。些細な寄り道程度なら、問題なさそうだった。

 水町玲子も同意してくれたので、二人並んで舗装されたアスファルトの上を歩く。地元とは違い、土の道路は段々と見ないようになってきていた。

 どちらが良いのかは一様に言えないが、哲郎の個人的な感想は土の道路に軍配が上がる。だからといって、アスファルトが徹底的に嫌いなわけでもない。

 どのようなものであっても、きっと良いところはある。あとは個人がどのように感じるかなのだろう。

「風も爽やかだし、気持ち良いね」

 歩きながら微笑む水町玲子が、不意に哲郎の腕に手を回してきた。同棲で二人の距離がさらに縮まったおかげなのか、このところ積極的な行動がところどころに見られた。

 とはいえ、まだ自分からグイグイ引っ張っていくほどではなく、完全な受身態勢から脱却しつつあるという表現がピッタリ当てはまる。

 それでも輝かしい進歩だと考え、嬉しい気持ちとともに、哲郎は恋人の体温を腕で感じていた。


 通っている大学でも、哲郎と水町玲子の仲は有名になっていた。

 成長するたびに水町玲子は見目麗しくなっており、普通に街を歩いているだけでも視線を奪われる。

 たちまち大学内で美人な新入生がいると噂になり、学年を問わずに数々の男子大学生が心を奪おうと果敢にチャレンジした。

 結果はすべて惨敗。大好きな彼氏がいますのでときっぱり断り、かすかな希望すら告白相手に与えなかった。

 その後に哲郎に会うと、恋人の少女は誰にどこで告白されたのかを教えてくれた。そのような場合は嫉妬する反応を見せて、水町玲子を喜ばせる。

 嫉妬という行為自体が、水町玲子にとっては哲郎の愛情を確かめるひとつの目安になっていた。ゆえにあえて付き合ってあげるのだ。

 とはいえ演技だとバレたら元も子もない。徹底的に気を遣い、相手に接した。簡単に恋人の女性が他の男になびかないのも、現在までにおける哲郎の努力の賜物だといえる。

 次から次に告白されていても、恋人を信頼しているので哲郎に余計な不安はない。感情をそのまま説明しても、素直に安心してもらえるとは限らないのが人付き合いの難しい点だった。

 繰り返しの人生で着実に勉強を重ねながら、哲郎もきちんと成長していた。もっとも駆け引き自体が苦手なので、そこまで高度な恋愛技術は習得していない。

 必要ともしていないので、これから学ぼうとも考えていなかった。そんな真似をしなくとも、ある程度は素のままでもうまく交際していけると思っていた。

 水町玲子に特攻して玉砕した数々の男たちが、彼氏は誰だと探し始めた。同じ地元の学生もいたらしく、すぐに哲郎の名前が浮上した。

 人に誇れる容姿をしているわけではないので、最初のうちはどうしてあんなのが、などと陰口を叩かれたりした。

 けれど高校時代から全国でトップクラスの学力を誇り、大学でも常に上位の成績を維持してるのがわかると見方も変わってくる。

 苦手科目はひとつもなく、英会話もすらすらと行える。入学してすぐの時点で教員に一目置かれる存在になり、水町玲子とは違う意味で哲郎の名前も大学内に知れ渡った。

 そのおかげで哲郎も異性に人気が出て、好意を持たれる回数が増えていた。そのたびに水町玲子が不満そうな態度を示したが、恋人の存在を公にしてはっきり断ると機嫌はすぐに直った。

 これにより哲郎と水町玲子はお似合いのカップルとして認識されるようになり、現在では誰かに告白されるというケースは極端に減っていた。

 仲良く二人で同じ講義を受け、お昼になれば大学内の中庭で仲良くご飯を食べる。お店で購入する日もあるが、同棲してからは水町玲子がお弁当を作ってくれるようになっていた。

 以前の人生で水町玲子の手料理を食べた経験があるので、今回の人生で初めて食べた日は懐かしさで涙を流しそうになった。

 泣くくらい美味しかったのと問いかけてくる恋人の女性に、哲郎は無言で頷くことしかできなかった。

 そんな日々を超えて、今日に至っている。大好きな恋人が、たっぷりの愛情を込めてくれた手作り弁当を食べながら談笑する。

 普段はこのまま昼食は終了するが、今回は少し違った。頬を赤らめた水町玲子が、何かをしたがっているのがわかった。

 一体何だろうと考える哲郎の頭の中で、いつか映画館で見た恋愛映画のワンシーンが再生される。男性が、恋人の女性に「あーん」とご飯を食べさせてもらっている場面だ。

 まさかと思ったが、違ってたら恥をかく覚悟で哲郎はおもむろに「あーん」と口を開けてみた。

 すると照れた感じになりながらも、どこか嬉しそうに水町玲子は「哲郎君は甘えん坊さんだね」と微笑んだ。

「そうなんだ。実は玲子に対してだけ、甘えてしまうんだよ」

 哲郎もまた顔を赤くしてるのは、熱を持ってる感じでわかった。赤面する二人の男女によるお弁当の食べさせあい、傍目にはどう映ってるか気にしつつも、幸せだからいいかと開き直る。

 温厚な太陽が見守る下での出来事を、哲郎は一生どころか、何度人生をやり直すことになってもきっと忘れない。現在の何気ない日々が、求めていた幸せの象徴だと気付いているからこそ、自然と大事にできるのだ。


「おかえりなさい」

 大学が終わったあと、哲郎よりも先に帰宅していた水町玲子が出迎えてくれる。

 同じアルバイト先で働いているのだが、事務の水町玲子よりも哲郎が重宝されるようになっていた。

 休日ともなれば、地元へ戻る予定がない限りは正社員並みの勤務時間を設定される。とにもかくにも人手が足りないので、使える人間なら多く働いてほしいのだ。

 地元の水町家の工場でも同様の状況みたいで、新たに正社員を雇ったみたいだった。だがさらなる拡張だけは哲郎の反対もあり、実施されていない。

 中には哲郎は会社の繁栄を妨害しているスパイだなどと言って貶めようとした者もいたみたいだが、社長である水町玲子の父親は頑なに首を縦に振らなかった。

 加えて社長を信頼している古株の社員たちも、揃って哲郎を擁護してくれたらしかった。結果的に今回の決断が吉と出るのは先のことだが、現時点でも信頼してもらえたのが嬉しかった。

 そのことを水町玲子に報告すると、何故か彼女の方が自慢げに「当たり前だわ」と胸を張った。

「哲郎君の貢献度は素晴らしいもの。会社を大きくしたい人の気持ちもわかるけれど、お父さんは最後まで味方してくれるはずよ」

 そう言ってくれたあとで「それに哲郎君のことだから、理由があるんでしょう」と、詳細な説明をしなくとも納得してくれる。

 改めて恋人の存在に感謝すると同時に、彼女を好きになった自分自身を哲郎は誇りに思った。

「さあ、仕事の話ばかりするより、まずは晩御飯を食べましょう。精がつくように、今日はお肉にしたのよ」

 元から料理は上手だったが、ここ最近で水町玲子はさらに腕を上げたみたいだった。昼のお弁当も含めて、哲郎は恋人の手料理を食べるのが楽しみになっていた。

 水町玲子が作ってくれたのは、肉をふんだんに使った野菜炒めだった。どちらかといえば、肉炒めといった方がしっくりくる。

 アルバイトしてるおかげもあり、きちんと毎食に白いご飯を食べられるのはありがたい限りだった。

 数十年先の未来では当たり前になっているが、この時代ではまだまだ食に困っている人間もたくさんいた。

「今日も美味しいね。本当に玲子の手料理は最高だよ」

「もう、哲郎君たら……。でも、嬉しいな。ありがとう」

 毎日食事をするたびに同じ感想を言っているが、飽きたりせずに何度でも顔を赤らめてくれる恋人が可愛らしかった。

 野菜炒めと一緒に出された、わかめと豆腐の味噌汁も飲み干し、ひと心地つく。水町玲子も食べ終わるのを待って、1時間ほど食休みをとる。

 そのあとは二人して近くの銭湯に出かけて、一日の疲れをとる。ほとんど日常となっているだけに、常連客として認知されている。

 石鹸などを持って部屋を出て、銭湯へ向かう。到着すると、水町玲子が番台に二人分の料金を置く。

「仲の良い若夫婦が来たね。毎回、奥さんが支払っているけど、これはいいことだよ。家計の財布は妻が握った方がうまくいくからね」

 何度説明しても理解してくれず、番台に座っている老齢の女性は哲郎たちを若夫婦と呼ぶ。最初は戸惑ってばかりだったが、最近では水町玲子も慣れたものだった。

「私もそう思っていました。これからも色々と教えてくださいね」

 笑顔で番台の老婆と会話をしたりしている。いつもと変わらないようでいながら、声のトーンが少しだけ上がっている。

 そこになんとも嬉しそうな響きを含んでいるのを察知し、哲郎もまた微笑ましい気分で銭湯に入ることができるのだった。

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