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リセット  作者: 桐条京介
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 その日の夜。アルバイトを終えた哲朗は、いつものように水町家で夕食をご馳走になっていた。

 工場の所長でもある水町玲子の父親も同席し、これまたいつもどおりの和やかな雰囲気で晩餐が進む。

 恋人の母親手作りの料理を美味しくいただき、肉体の疲労を回復させている最中の哲朗に突如、水町玲子の父親が話しかけてきた。

「哲朗君は、高校でずいぶんと女性に人気があるそうだね」

 タイミングが良いのか悪いのか、味噌汁を飲んでいた哲朗は、和やかな夕食の場であわや大惨事を引き起こしそうになった。

 原因は恋人の父親にあるとはいえ、堂々と「貴方のせいですよ」なんて叱責はできない。相手男性は大切な人の家族であると同時に、哲朗の雇用主でもある。

 相手男性は日中の学校での出来事を言いたいのだろうが、哲朗から該当の情報を報告した覚えはなかった。

 となれば、水町玲子が父親へ教えたことになる。これはまさに誤算だった。

 年頃の娘は大体父親を嫌う傾向にあると聞いていたのだが、こと水町玲子にいたっては違うみたいだった。

 恋人の父親が経営している工場で働き、夜はこうして一緒に食卓を囲んでいる。まだ交際している学生の段階とはいえ、立場は婿養子も同然だ。

 強くものが言える立場でないのは、哲朗自身が重々承知している。どうするべきかと味噌汁の入ったお椀を食卓へ置き、チラリと恋人の父親の顔色を窺う。

 普段と変わらない笑顔を浮かべてはいるものの、どことなく目つきが鋭く思えるのは、きっと哲朗の気のせいではないだろう。もしかすると、思いがけない形で窮地に陥ってるのかもしれない。

「人気なんてありませんよ。どこから、そんな話を聞いたんですか」

 とりあえずはとぼけながら、相手の出方を窺う。何もやましい出来事はなかったので恐れる必要はないのだが、どうにも緊張を覚える。

「仕事中に玲子が話していてね。同級生で成績優秀な女性と、哲朗君が休み時間に親しげに会話をしていたと」

 情報の出所を聞いても別に驚かず、哲朗の頭の中では案の定という言葉がグルグル廻っていた。

 ばつが悪いのか、情報源の少女は哲朗と目を合わせようとせずに、顔を逸らしながら食事をしている。

 器用だな、なんて場違いな感想を抱きつつも、現状をどうするべきか哲朗は自身の頭脳をフルスピードで回転させる。

「親しげに見えただけですよ。その女性とは初対面も同然でしたから。向こうから話しかけてきた時には、少しばかり驚きました」

 言い訳のために嘘をつく必要はないので、当たり前の話題として恋人の父親との会話を継続する。

 哲朗が愛情を注いでいるのは水町玲子ただひとりであり、他の女性への興味はないに等しかった。

「それで、目標にしたいと言われたので、どうぞと返しただけです。僕なんかを尊敬しても、意味がないとは言ったんですけどね」

「なるほど。しかし、哲朗君を目標にするとは、その女の子もなかなか見所があるな。母さんもそう思わないか」

 突然に話題を振られた水町玲子の母親は、実に優雅な動作で頷きつつ「そうですね」と応じた。

 年齢を重ねて成熟した美しさは見事のひと言で、不届きな男性社員が横恋慕を抱きたくなる気持ちが、哲朗にも多少は理解できた。

「強敵の出現に、玲子は大慌てしていたわけだな。聞くところによると、素敵なお嬢さんらしいじゃないか」

「あ、そ、それは……! お、お父さんたら……」

 顔面を真っ赤にしている水町玲子の心情が、今ならば哲朗にも容易に想像できた。

 ――余計なことを言わないでください。きっと心の中で水町玲子は、自身の父親へ向けて叫んでいるはずだ。

「どうでしょう。僕自身は、あまり意識して見てませんでしたからね」

「ははは。哲朗君は、玲子と違って余裕だな。さすがだよ」

 笑う父親を、何か言いたげに横目で見ている水町玲子が、夕食の席で一番哲朗の印象に残った。


 水町家での楽しい夕食も終わり、哲朗は常連になっている銭湯へと立ち寄っていた。

 もちろん男湯と女湯に分かれており、混浴スペースなるものも存在しない。風呂道具は脱衣所の片隅にあるスペースへ置かせてもらっている。なのでこうして手ぶらでやってきても、何も問題はなかった。

 番台のお婆さんが優しい人で、高校生だからおまけしてあげると、子供料金で入浴させてもらっていた。銭湯も毎日通っていれば結構な額になるため、ありがたく相手の好意に甘えている。

 いつものように番台で入浴料金を支払い、脱衣所で服を脱いで洗い場へ行こうとした時、見慣れた顔のお客さんが銭湯へやってきた。

「あれ、所長……? どうしたんですか」

 風呂道具を持って現れたのは、水町玲子の父親だった。普段はアルバイトとして雇われているのもあり、哲朗は相手を所長と呼んでいる。

「やあ、哲朗君。俺もたまには銭湯へきて、足を伸ばして湯船へ浸かろうと思ってね」

 そう言って笑いながら、番台で料金を支払っている。裸で立って待っていると、所長は哲朗が気を遣っているとすぐに理解したみたいだった。

「寒いだろうから、入っているといいよ。俺を待ってる必要はないから」

「わかりました。それでは、失礼します」

 もう営業時間も終わりにさしかかっているので、客足は相当に少ない。現に洗い場にいるのは、哲朗ひとりだけだ。

 普段でも、多い場合で三人程度で、混雑している光景を見た覚えがない。もっとも、午後六時などに来れば、話も変わってくる。

 ガラガラと入口の開く音とともに、恋人の少女の父親が洗い場へやってくる。文字どおり、裸の付き合いとなる。

 当たり前のように、哲朗の隣へやってきた恋人の父親は「たまにはいいものだな」とひとり言のように呟いた。

「そうですね。大きなお風呂は、やっぱりゆっくりできるので、銭湯通いが癖になってしまいました」

「ハハハ。そうか。いや、俺も癖になるかもしれないな」

 哲朗の言葉で豪快に笑う所長へ年下の礼儀として「背中を流しましょうか」と申し出る。

「そう言ってくれるのなら、すまないけどお願いしようかな」

 石鹸とタオルを使って、大きくて広い背中をゴシゴシと擦る。まるで、自分の父親にしているかのような錯覚を覚えた。

 あとで自宅の風呂で、父親の背中も流してあげよう。そんなふうに自然と思えてくる。

「なあ、哲朗君」

 背中を流している哲朗に、水町玲子の父親が唐突に話しかけてきた。

「玲子や……我々に義理立てする必要はないからね」

 何を言われているのか理解できず、哲朗は「はぁ」と曖昧な返事しかできなかった。

「銭湯に来たのは俺ひとりだ。腹を割って話してくれればいい」

 この台詞を聞いて、ようやく哲朗は相手の真意を理解した。

 所長は自身の娘である玲子に、哲朗が何か不満を抱いており、恋人関係を解消したいのではないかと思っているのだ。

 そう考えるに至った原因は、恐らく日中の哲朗と斗賀野真子のやりとりを聞いたからに違いなかった。

 完璧なまでの誤解であり、哲朗が所長の発言に同意する理由はなにひとつ存在しない。

「俺は君に感謝している。哲朗君がいなければ、きっと家族全員で路頭に迷っていた。加えて優秀なのも事実だ」

 過分な褒め言葉も入っているせいで、なにやらくすぐったかったが、相手の台詞を邪魔するのも失礼だ。哲朗は所長の背中を洗いながら、無言で聞き続ける。

「だからこそ、将来のことを考えて、君にうちの工場でのアルバイトを勧めたりもした」


 ただの恋人以上の扱いを受けているのは、傍から見ても明らかだった。それだけ哲朗は、水町家に大事にされている。

 もちろん自覚もある。ゆえに少しでも役に立ちたいと、アルバイトにしても全力で取り組んでいた。

「それがよくなかったのかもしれない。結果として、哲朗君をうちに縛りつけてしまっているのだからな」

 水町玲子の父親は娘と同様に、哲朗についても案じてくれているのだ。心配りが嬉しくて、不覚にも涙をこぼしそうになる。

 とはいえ、それが水町玲子との関係を終わらせたがっているということには繋がらない。少しキツめに言えば、小さな親切余計なお世話である。

「哲朗君は優しくていい子だ。もしかしたら、我々に気遣って自分の気持ちを偽ってるのではないかと思えてね」

「今日の学校での出来事を玲子に聞いて、ですか」

「……そうだ。高校それに大学。さらには社会人になれば、もっと色々な出会いがある。君が玲子より素敵だと感じる女性が現れても、何も不思議はないんだ」

「僕にとっては玲子がすべてなので、他の女性はどうでもいいです」

 恋人の父親の前で、哲朗はきっぱりと断言した。直球ど真ん中の回答が即座にやってきた事実に、さすがの所長も驚きを隠せないでいた。

 顔だけわずかに哲朗へ向け、視線で「本当にそれでいいのか」と語りかけてくる。

「玲子が好きだからこそ、今の環境にも満足しています。ただひとつ約束できないのは、僕も珍しい一人っ子なので、水町家へ婿入りできるかはわからない点だけです」

 心の底からそう思っているだけに、哲朗の口から今の感情が素直に出てきた。

 哲朗としては当たり前の気持ちを告げただけなのだが、水町玲子の父親は思いのほか喜んでくれた。

 背中を石鹸の泡まみれにしながら破顔一笑し、何度もひとりで「そうか、そうか」と頷いている。

「さすがは哲朗君と言うべきかな。その歳で、そこまで将来を考えているとは思わなかったよ。しかも、大人ぶってるようにも聞こえない」

 他の高校生とは大きく違い、哲朗はすでに一度人生の大半を経験している。累積にすると、下手をしたら百年以上生きているかもしれない。外見は若くとも、言葉に重みが伴っているのはある意味で当然だった。

「婿入りしようとかは考えなくていい。うちは本家ではないからな。玲子が嫁にいっても問題はないよ」

 所長が哲朗を工場に入れたのは、婿にしたい気持ちの表れと思っていただけに意外だった。本心を語ってないだけの可能性も残るが、絶対ではないのがわかっただけでも良かった。

 哲朗としてはどちらでも構わないのだが、両親がこだわった場合、結婚の障害になるかもしれないと危惧していた。それが晴れただけでも、十分に有意義な時間になった。

「それより、哲朗君こそいいのか。玲子の話では、日中に親しげにしていた女性はかなりの美人だったそうじゃないか」

 台詞内容こそ先ほどと変わらないものの、口調からは真剣みが抜けており、半ばからかうような感じになっていた。

 真面目な話し合いはひと段落したと察した哲朗は、ここでささやかな反撃を恋人の父親に対して繰り出してみる。

「所長こそいいんですか。あまりそういうことばかり言ってると、あとで玲子に密告しますよ」

「参ったな。それを言われたら、こちらが降参するしかなくなる」

 笑い合ったあと、哲朗は風呂桶にためたお湯で恋人の父親の背中を流した。

「どれ、今度はこちらの番だな」

「駄目ですよ。所長にそんな真似はさせられません」

「銭湯で所長もアルバイトもないだろう。それに、今日はとても良いことがあってね。凄く嬉しくて、是非にでも哲朗君の背中を流してあげたい気分なんだよ」

 いつになくにこやかな水町玲子の父親を見てれば、それ以上断るのが躊躇われる。

「それじゃあ、お願いします」

 結局この日は、銭湯が閉められるギリギリまで、恋人の父親と男同士の会話をしていた。

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