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リセット  作者: 桐条京介
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 さしたる問題も起きないまま、新聞販売所へ流れ着いてから数年が経過していた。

 販売所の所長も相談事などがあれば、親身に相談に乗ってくれる優しい男性だった。

 水町玲子も笑顔をよく見せてくれるようになっており、哲郎の今回の人生は順調と表現しても差し支えなかった。

 母親の訃報も届かない離れた土地で、水町玲子と一緒に暮らす。後ろめたさがないわけではないが、それでも哲郎は今の生活に満足していた。

 哲郎も玲子も十八歳になっており、無事に結婚できるようにはなっている。相手女性にもそのつもりはあるみたいだったが、手続き等も考えて二十歳の成人を待って結婚しようという結論でまとまっている。

 当初見られた水町玲子の遠慮も、最近では見られなくなっている。貯金も二人でするようになっており、販売所を出ても当面の生活に困らないぐらいの額が手元にあった。

 時には喧嘩もするが、比較的仲が良い関係を構築している。互いが互いを必要としていて、現在の関係は哲郎にとって理想的とも言えた。

 あとはこのまま歳を重ねて、社会で一般的と呼ばれる夫婦生活を送っていくのだろう。そう考えていた矢先に、問題事が発生する。

 ここへきて、水町家の夜逃げを手伝った関係者に居場所がバレてしまったのである。

 その日、哲郎が夕刊の配達から戻ると、事務所で水町玲子が蒼白い顔をしていた。

「玲子、どうかしたのか」

 慌てふためいて尋ねても、自分を抱くように肩へ両手を回している玲子は唇を震わせるだけだった。

 とても普通に会話ができる状況ではなく、見かねた販売所の所長が見ていた一部始終を哲郎に教えてくれた。

 スーツ姿の男性がいきなりやってきて、話があるからと玲子を販売所の外まで連れ出したらしかった。

 どんな事情があれ、雇っている従業員を好き勝手に扱われては敵わないと、所長も急いで二人を追いかけた。

 すると入口を出たところで妙な展開になった。それまで嫌だと必死で抵抗していた水町玲子が、全身から力が抜け落ちたみたいにガクリとしてしまった。

 所長の話を聞けば聞くほどに、哲郎の中で不安と嫌な予感が大きくなる。

 三十代前半くらいの男性は、最後に水町玲子へ何かを耳打ちすると去って行ったらしかった。

 それからの玲子は生気が抜けたような目をしており、とても仕事どころではなさそうなので、事務所内で所長が休ませてくれていた。

 そこへ哲郎が帰ってきたのである。再び「大丈夫か」と問いかけるも、はっきりした言葉は返ってこない。

 それでも時折、こちらへ視線を向けたりするので、この場における哲郎の存在程度は認識できているみたいだった。

「玲子ちゃんから事情を聞けるのは、哲郎君くらいだからね。今日は仕事はもういいから、部屋でいたわってあげるといいよ」

「ありがとうございます。そうさせてもらいます」

 所長の好意に甘えて、哲郎は玲子ともども本日の業務を終了する。

 恋人の女性を抱えるように、販売所の二階にある自分たちの部屋へ向かう。水町玲子は全身を小刻みに震えさせており、かなりの恐怖を味わったのではないかと推測できる。

 敷いた布団の上に座らせたあとで、哲郎は部屋の扉を閉めた。二人きりになれば、玲子も何か話してくれるのではないかと期待したのである。

「何があったのか、俺に教えてくれないか」

 哲郎も玲子の正面へ座ると、相手の目を見ながら改めてそう尋ねた。

 するとようやく口を開いた水町玲子が、小さな声で何事かを呟いた。

 あまりに声のボリュームが小さすぎて、言葉を聞き取るのは難しかった。

 仕方なしにもう一度質問しようとした瞬間、突然に水町玲子が哲郎に抱きついてきた。

「ど、どうしよう、哲郎君。お父さんとお母さんが……!」


 よくよく話を聞いてみると、尋ねてきた男は水町家の夜逃げを手伝った人物らしかった。

 そこで玲子がいなくなってからの、両親の暮らしぶりを教えられたのだという。稼ぎ手となるべき娘が消えた以上、自分たちが働くしかない。そこで母親が店へ出ることになった。

 多少年齢を重ねていても器量良しの女性だったため、それなりに稼げていたみたいだったが、ここ最近になって指名客も減ってきたという。

 この時代なら水商売も発展しだしている頃なので、ある程度のお金を積めばそれなりに若くて美人な女性にお酌をしてもらえる。

 給料は完全歩合制のため、水町家の夫婦の収入は減る一方。けれど夜逃げ発覚を恐れて、父親は外へ稼ぎに出れない状態にある。

 このままでは、辿り着く先はひとつしかないと、販売所まで尋ねてきた男が玲子へ教えたみたいだった。

 蛇の道は蛇と言うべきか、苦心して逃げても結局こうして哲郎たちの居場所は突き止められた。

 冷静になって考えれば、水町玲子を両親の元へ連れ戻すため、大げさに話してる可能性も考えられる。

 けれど最近は吹っ切れてきつつあったとはいえ、玲子は当初から両親の安否をずいぶんと気にしていた。

 窮地の現状を伝えられれば、全身が脱力するぐらいのショックを受けるのも当然だった。

 生活が苦しいのであれば、哲郎たちの貯金を渡しても構わない。しかし、それだけで片がつくとは到底思えなかった。

 新たな借金を抱えていないとも言い切れず、水町玲子が姿を現した瞬間に、夜逃げ前にお金を貸していた人物もやってきかねない。

 夜逃げを手伝った男が、そいつらと繋がってないとは言い切れないのである。

 連鎖式に借金を増やさせ、一生逃れられないようにする。そして最後には、どこぞの金持ちと結婚させたり、愛人としてあてがったりする。

 前回の人生では見えなかったからくりが、今回の人生でやっと理解できた。

 選べる手段はひとつしかない。前回と同じ人生を水町玲子が繰り返すか、もしくは両親を見捨てるかだ。

 相手女性にとって、とてつもなく厳しい選択肢になるのは百も承知だった。それでも哲郎は、あえて恋人へ尋ねる必要があった。

「俺は……自分の両親が困っていても、戻るつもりは……ない。玲子は……どうしたい?」

「え? そ、それって……で、でも……」

 案の定と言うべきか、やはり玲子は哲郎の発言にうろたえている。

 無理もない話だった。哲郎は暗に、両親を見捨てるかどうか選べと告げたのだ。

 それがわからないほど、頭の回転が悪い女性ではないだけに、すぐに水町玲子はこちらの真意に気づいた。

 小さな声で「そんな……」と漏らしては、唇をかわいそうなぐらいに震わせている。

 できるならば、哲郎も水町玲子の両親を救って、自分たちの関係をより磐石なものにしたかった。

 しかし玲子を除く水町家の人々は、言わば弱味を握っている人間の支配下にあるも同然なのだ。

 娘へ頼らざるをえない状況まで両親を追い込み、戻ってきた水町玲子でもうひと稼ぎする。

 そうした仕事に身を置いてなくとも、ここまでくればその程度は推測できる。

「もしかして、ご両親は新たに借金を作っているのか」

 哲郎の質問に、水町玲子が細い両肩をビクリと震わせた。どうやら想像どおりのようである。

 借金が払えないのなら――。そのような脅しをかけられれば、親思いの玲子の心は揺らぐ。せっかく現状まで事態を好転させてきたのに、新たな問題が降り注いできた。

 そして哲郎は、自分と恋人の身を守れるだけの大きな傘を所持していない。

「とにかく今日はゆっくり休んで、また明日考えよう」

 そのぐらいしか、哲郎には思い悩む少女へかける言葉が見つからなかった。


 翌朝。目が覚めた瞬間に、哲郎は違和感に気づいた。

 やけに広々と感じる室内は、昨日までと決定的に違う点があった。

 隣に並べられているはずの布団がきちんと片づけられており、哲郎の以外の荷物もなくなっている。

 枕のすぐ隣にある一冊のノートが、何かを教えたげに佇んでいる。

 普通ならパニクって当然なのに、哲郎はわりと冷静な自分自身に驚いていた。

 昨日の時点で、こうなるような予感をどこかで覚えていた。けれど、一縷の望みにかけてみたのだ。

 結果は惨敗。水町玲子は、やはり哲郎よりも両親を選んだ。

 ため息をつく余裕もないまま、哲郎は手に取ったノートを開いた。

 これはこの販売所へ住み込みを始めてすぐに、近くの雑貨店で購入したものだった。

 日記帳代わりに少しずつ使っているらしく、哲郎が見たがっても、このノートだけは絶対に見せてくれなかった。

 ノートには日々の出来事や感想が簡潔にまとめられている。真面目な水町玲子らしく、小さな文字でビッシリと書かれていた。

 ペラペラとめくっていくと、最後のページに「哲郎君へ」という文字があった。

 ――いきなりいなくなってごめんなさい。やっぱり私には、お父さんとお母さんを見捨てられません。

 出だしはそのように始まり、途中から哲郎との日々に言及する。

 ――哲郎君との生活は夢みたいに幸せでした。本当にありがとう。この数年間があったから、私は今後、どのようなことがあっても生きていけます。

 強引な駆け落ち同然で始まった一緒の生活だったのに、本当に感謝してくれているのが、文面から十分すぎるほどに伝わってくる。

 それならば何故とも思えたが、最初から水町玲子に両親を切る選択などありえなかったのだ。半ばわかっていながらも、今回の計画を実行した哲郎に落ち度があった。

 ――私の貯金も、どうぞ哲郎君が使ってください。どうか……幸せになってください。

「……なれるかよっ!」

 ページの下部に書かれていた一文を見た瞬間、唸るように哲郎はそう発していた。

 水町玲子と一生を共にするのが、最高の幸せだと信じて何度も人生をやり直してきた。

 最後の瞬間まで豪遊できるような人生になったとしても、ひとりぼっちなら幸せにはならない。

 他の人間はどうかわからないが、哲郎にとっては水町玲子こそが幸せの象徴なのである。

 ――叶うなら、両親との生活を安定させてから、もう一度哲郎君と会いたい。でも、それは無理な願いと諦めます。

 一緒に過ごしてきた数年で、水町玲子も大人と呼べる年齢になり、社会の仕組みも大体わかるようになっていた。

 だからこそ、自分の身にこれから何が降りかかってくるのか、大体の予想はついているのだろう。わかっていてもなお、苦境の両親の元へ戻るのを選んだ。

 哲郎にどうこう言える資格はなく、本来なら相手の決断を尊重するべきなのかもしれない。けれど、わかりましたと素直に諦められないのが現状だった。

「まだだ……! 俺はまだ諦めないからな!」

 水町玲子は哲郎の側からいなくなったけれど、完璧に望みが絶たれたわけではない。勝手きわまりないが、そのように断定した。

 そうでなければ、繰り返しの不幸なラストシーンを迎えて終わりである。今回こそはの思いも強かった。

 こうなればのろのろしてはいられないと、哲郎は自分も荷物をまとめる。散々世話になった所長には申し訳ないが、今日の仕事を終えたら辞めるつもりだった。

 基本的に人の出入りの激しい職場だけに、代わりはすぐに見つかるし、このような辞め方をする人間も少なくなかった。

「玲子、俺は諦めないからな」

 パートナーのいなくなった部屋で、哲郎は力強く宣言した。

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