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リセット  作者: 桐条京介
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「おや、知り合いだったんですか。それなら、ゆっくりと楽しんでください」

 哲郎と水町玲子が知り合いと見るや、接待しに連れてきてくれた社長が気を遣ってくれる。

 テーブルの隅で二人きりになるようにしてくれて、じっくり会話できる環境ができあがる。

 願ったり叶ったりだったので、哲郎は社長の好意に甘えることにした。

「どうぞ」

 完成した水割りを、水町玲子が差し出してくれる。

 それを飲みながら、早速本題へ入る。

「約束どおり……迎えにきたよ」

「約束って……そんなの……した覚え、ないわ」

 周囲に動揺を悟られないよう、平静を装いながら小声で水町玲子が応じる。

「あの時の俺は、まだ子供だったかもしれない。でも、今は違う」

 信用金庫の営業主任として、こうして接待を受けられる身にもなった。

 収入も安定しており、一般的な職種と比較してもずっと多い。社会人二年目にして、すでに貯金も結構な額がある。

 まだ大学生だった数年前とは違い、人ひとり養うぐらいはなんともなくなっている。

「玲子が昔と変わったのは知っている。けれど、俺の思いは変わってない。今でも、好きなんだ」

 小学校の頃、学校の校庭で告白した日を思い出す。あの時も、今と同じようにドキドキしていた。

 心の中で応じてくれと祈りながら、相手の言葉を待つ。悲しげに顔を伏せた水町玲子は、何かを考えるように目を閉じる。

 交際していた頃よりも、お互いに等しく年齢を重ねている。社会をある程度知り、世間一般でいう大人になっている。

「正直……嬉しい。でも……ごめんなさい。無理なの」

 水町玲子の瞳から、涙がひとしずく滴り落ちる。

 思い出に別れを告げるような切なさを秘めているようで、見た瞬間に哲郎は呼吸ができなくなった。

 どんどんと鼓動が胸を叩き、痛いくらいだった。これを胸騒ぎというのでなければ、一体何が該当するのかわからない。それくらいの状態になっている。

 嬉しいのであれば、どうして応じられないのか。理由を尋ねようとした矢先、店のボーイが水町玲子を呼びにやってきた。

「玲子さん。三番テーブルにお願いします」

 哲郎の接待で店へやってきているだけに、連れてきてくれた社長が「早すぎるんじゃないか」とクレームをつけた。

「申し訳ありません。では、玲子さん」

 有無を言わせぬ口調で、強制的にボーイが水町玲子を連れ出した。

 これを見ていた社長が、自分を担当している女の子を押しのけて哲郎の側へやってきた。

「梶谷さんの狙ってる女の子かもしれませんが、止めといた方がいいですよ」

 ひそひそと耳打ちしてきたので、すぐに哲郎は「どうしてですか」と質問する。

「結構な額のチップを渡したにもかかわらず、遠慮なしに連れて行かれましたからね。かなり贔屓にしてるお客さんがいると見て、間違いないですよ」

 哲郎以外の人間が見ても、美人だと称するぐらいに水町玲子の目鼻立ちは整っている。

 通いつめて連日指名する客がいても、決して驚かない。むしろ社長の説明を、なるほどなと聞いていた。

 だが頭では理解していても、心は違う。誰が水町玲子を指名したのか気になり、胸がザワザワする。

「トイレへ行ってきます」

「わかりました。あまり気落ちしないでください。この世の中、綺麗な女の子ならたくさんいますからね」

 席を立つ哲郎を、社長が励ましてくれる。

 相手の心遣いをありがたく頂戴しつつも、哲郎はトイレへ行くふりをしながら、意中の女性の姿を探した。

 入るまではわからなかったが、店内は結構広く、軽く見渡しただけではどこに誰がいるかわからない。しかも店はかなり繁盛している。

 そこかしこに女性従業員と戯れている客の姿があり、遠目からでは顔を確認するだけでもひと苦労だった。

 しかし執念というべきか、哲郎の両目はとうとう長年想い続けて来た水町玲子の姿を捉えた。


「今日も、玲子に会いに来てやったぞ」

 中年の脂ぎった小太り男性が、馴れ馴れしく水町玲子の肩に手をまわしている。

 表面上は笑顔で来店のお礼を言っているが、心の中では相手を嫌悪している。

 他の人間にはわからないだろうが、幼少期を一緒に過ごしてきた哲郎には一見しただけでわかった。

 にもかかわらず、本名の玲子とだけ名乗っている女性は、小太りの中年男性へ媚を売るような瞳を向けている。

 頬に唇を押しつけられると、負けずに自分もまた同様の行為をする。

 何だ。一体何が起きているんだ。バクバクしている心臓が、哲郎を内側から爆発させそうだった。

 怒りや嫉妬などがごちゃ混ぜになり、全身がカーっと熱くなる。

 哲郎の席から簡単に離れたくせに、醜いとしか思えない中年男性の隣で上半身を預けている。

 親密さをアピールするように膝へ手を置き、くだらないダジャレにも満面の笑みで応じる。

 気づけば握られていた哲郎の拳が、小刻みに震えていた。

「お、あれは大手製薬会社の社長ですな」

 いつの間にか、哲郎の背後に接待相手の社長がやってきていた。

 哲郎を接待してくれているのは、あくまでも地域に根を下ろす中小企業の社長である。

「同じ社長でも、私とは大違いの人物ですよ。なるほど、あの方が指名したら、玲子ちゃんも向こうへ行くでしょうね」

 トイレへ行っていない哲郎を不審がるわけでもなく、社長は的確に状況を説明してくる。

 言葉の節々には、悪いことは言わないから諦めろという忠告が込められていた。

 大手製薬会社の社長となれば、それこそ有名どころの銀行とも付き合いがある。加えて財界どころか、政界にも顔が広いはずだった。

 懸命に努力して社会的地位を獲得したつもりが、そんなものは何の役にも立たなかったのである。

「……あの中年男性を知っているのですか?」

「ええ。父親が財界の大物ですからね。グループの業務を拡大するため、政界とのパイプを使って製薬会社を結構前に設立させたんですわ」

 もともと莫大な資本金を持ってるのにプラスして、銀行も協力を惜しまなかった。

 官僚などとの癒着を必要資金と言いきり、裏で相当な額のやりとりを違法にしているというもっぱらの噂みたいだった。

 どうしてそんな噂が出たかといえば、現在哲郎の視界に映っている中年男性が社長を務める会社が、急速に売り上げを拡大させたからである。

「真偽は不明でも、黒い噂を持つ人間とは、あまり付き合わん方が身のためですわ。特に私らみたいな中小の経営者にとってはね」

 社長はそう言って、慰めるように哲郎の肩へ手を置いた。

 住む世界が違いすぎる――無言ながらも、社長の目は明らかにそう告げている。

「店を出ましょうか。ここだと、梶谷さんも落ち着いて楽しめないでしょう」

 有無を言わせぬ口調が、逆に哲郎を気遣ってくれているのだとわかる。

 これ以上、心の傷を拡大させるまえに撤退を促している。そうするべきなのは、哲郎も充分すぎるほど承知していた。

 けれど、だからといって簡単に諦められない。十年を越える月日を、想い続けてきた女性なのだ。

 哲郎の視線に気づいた水町玲子が、見られたくないとばかりに慌てて目を逸らした。

「どうした。照れてるのか? 今さら、そんな間柄じゃないだろう」

 水町玲子が恥ずかしがっていると判断した製薬会社の社長は、ただでさえ醜い顔をよりブサイクに歪める。

 お触りはNGな店のはずなのに、その小太り中年が何をしても、ボーイは一切注意しようとしない。それどころか、ニヤニヤしながら見物する者もいた。

 怒りがこみ上げてきて、本来は温厚なはずの哲郎の頭に激しく血が上る。

 だが動こうとした瞬間に、誰かに肩をガッシリ押さえつけられていた。同行していた中小企業の社長だった。

「梶谷さんとあの女性がどんな関係かは知りませんけど、止めておいた方がいい。下手をすると、冗談ではすまない事態になりますよ」

 社長の目は本気で、哲郎は明るいはずの社会に存在する暗い闇をかいま見た気がした。

 勤務先に迷惑をかけてもいけない。この場はグッと怒りを飲み込んで、哲郎は接待役の中小企業の社長とともに店をあとにするのだった。


 翌日の夕方。仕事を早めに切り上げた哲郎は、昨夜に訪れた店へ再びやってきていた。

 愛する水町玲子が、ここで働いている。意を決して迎えに来た昨日、思わぬ展開に頭を抱えた。

 その時は同行していた取引先の中小企業の社長に、半ば強引に退店させられた。

 余計な問題を抱えて、哲郎が勤めている信用金庫に影響が出たらマズいと考えたのだろう。加えて、懇意にしている担当者を失う結果にもなりかねなかった。

 そうするしかなかった相手の事情を理解できたので、昨夜だけは素直に従った。けれど今日は違う。

 誰にも同行を求めず、ただひとりで哲郎は入店しようとしていた。それなりの貯金もあるので、こういう店で派手に遊んだとしても、ひと晩ぐらいなら何の問題もなかった。

「あ、いらっしゃいませ。昨日はすみませんでしたね」

 店の前で掃除をしていたボーイは、哲郎と一緒に来ていた社長からチップを受け取って便宜を図ってくれた男性だった。

 もっとも、その後わずかな時間で、水町玲子を他の席へ連れて行った。先ほどの謝罪は、そのことについてだろう。

「あの社長さんは、ずいぶん前から玲子さんに熱心でね。お客さんも、タイミングが悪かったですね」

 ボーイの話によれば、一年以上も前から水町玲子を目当てにずっと通い続けているらしかった。

「何度も愛人になるよう誘っていたみたいですけどね。昨日までは、丁重に断っていたんですよ」

 ――昨日までは。相手の発したひと言に、哲郎の心臓がドクンと跳ねた。

 緊張と不安で全身が重苦しくなり、まるで底なし沼にでも沈んでいってるような気分だった。

「それが昨夜、心変わりしたみたいで、ついに社長の申し出を了承して、愛人になったんですよ。昨日はお楽しみだったんでしょうね。いや、羨ましい」

 愛人? お楽しみ? この男は一体何を言ってるのだろうか。哲郎の頭は混乱するばかりで、ここがどこかも判別できなくなっていた。

「店長もずっと、玲子さんに愛人になってほしがってましたからね。いいパイプができたって喜んでましたよ」

 そう言ったあとで、ボーイは掃除をしていた手を止めて、意味ありげな笑みを哲郎へ向けてきた。

「ま、そんなわけですから、玲子さんはもう店を辞めちゃいました。すみませんけど、諦めてくださいね」

「な――っ! や、辞めたって……それじゃ、どこに……」

「俺が知るはずないでしょう。あ、下手に追いかけたりしない方がいいですよ。これは忠告です。玲子ちゃんは駄目でも、他にも可愛い子はいますから。さ、今夜もウチで遊んでいってくださいよ」

 どこかで聞いたような台詞を言いながら、ボーイが哲郎の背中に手を置いた。その瞬間に、ぐつぐつと身体の奥底で煮え滾っていた怒りが、マグマのごとく一気に噴出した。

「ふざけるなっ! 俺は……俺はっ!」

「うわ、何だ!? テメェ! あんまり、調子に乗るんじゃねえぞ」

 ボーイのパンチが腹部に入ると、喧嘩の経験などないに等しい哲郎は、即座にグロッキー状態になってその場に膝をついた。

「変な気を起こさないように、徹底的に痛めつけといてやるか」

 店の外で発した怒声を聞きつけ、用心棒らしき風体の男たちがぞろぞろと出てきた。

 店の裏側の路地へ連れ込まれた哲郎は、そこで文字どおり徹底的にボコボコされる。

 苦しいという言葉さえも発せられず、やがて意識が闇の中に沈んでいく。最後に聞こえたのは「おい、こいつ、やばいんじゃないか」という誰かの声だった。

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