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リセット  作者: 桐条京介
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「くあ……ぐっ……」

 華やかなお店が建ち並ぶ裏側、路地の隅で哲郎はゴミ袋の山をベッドに横たわっていた。

 好きでこうしてるわけでなく、そうせざるをえない状況にされたのだ。

 店の女に手を出すな。屈強な男たちによって連れ込まれた路地裏で、徹底的に痛めつけられた。

 唇の端が切れ、口の中には血の味が広がっている。

 喧嘩とは無縁の人生を歩んできた哲郎にとって、このような事態に陥るのは初めてだった。

 傷は男の勲章とよく言われるが、この痛みを味わう必要があるのなら、そんなものはいらないと心の底から思う。

「く……うう……」

 誰もいなくなった薄暗い路地の片隅で、呻き声を上げながら身体をよじる。

 全身がみしみしと悲鳴を上げ、動くのにも相当な勇気を要する。

 どうしてこんなことになったのか。どれだけ考えても、納得する答えを見つけられなかった。

 地面に両手をつき、零れ落ちそうになる涙をなんとか堪えながら、哲郎はゆっくりその場に立ち上がる。

「はあ……ぐ……はっ、はぁ……」

 脇腹がズキズキ痛む。顔では、頬や目の周りが腫れてるのがわかる。

 ジンジンと存在を強調してきているが、触れるのが怖かった。

 軽く触っただけで、とてつもない苦痛がやってくるのは明らかだったからだ。

 闇に包まれている路地に、誰かの足音が響いてくる。

 哲郎を痛めつけた男たちが戻ってきたのかと、一瞬だけ恐怖で身体を震わせる。

 けれどすぐに違うと気づく。足音に男性特有の力強さが感じられない。勝手な推測が間違ってなければ、歩いてくるのは女性だった。

「私なんかに会いにくるから、そんな目にあってしまうのよ」

 いきなり話しかけられると、途端に膝がカクカクして、立っていられなくなった。

 今度はゴミ袋を椅子代わりにして、哲郎は再び好ましくない臭いの中心へ舞い戻る。

 哲郎の前へ姿を現したのは、美しい女性へと成長した水町玲子だった。

 暗闇の中でもわかる愁いを帯びた表情で、ゴミ袋へしりもちをついている哲郎を見下ろしている。

「もう……哲郎君と私は、住んでいる世界が違うの。わかったなら……黙って、帰ってください」

 しゃがみこんだ水町玲子が、コトンと哲郎の足元に何かを置いた。

 消毒液などを含んだ薬用品で、自分で傷の手当てができるようになっている。

「ま、待って……」

 かすれた声で呼びかけてみたものの、水町玲子には届かない。いや、もしかしたら届いてるのかもしれないが、耳を傾けてくれなかった。

 哲郎の制止を振り切るように立ち上がると、未練は何ひとつないとばかりに背中を向ける。

 成熟した色香を放つ背中が、少しずつ哲郎の前から遠ざかる。

 必死に手を伸ばすも、最愛の女性のもとへは届かない。頬を流れる涙が、地面へ一滴垂れ落ちる。

 それが合図だったかのごとく、路地裏から想い続けてきた女性の姿が消えた。

 悔やんでも悔やんでも状況は変わらない。ゴミ袋の海に浮かんだまま空を見上げれば、嫌味なぐらいに満天の星々が輝いている。

「俺は……何をやっているんだろう」

 そう呟かずにはいられないほど、自分自身の迂闊さが情けなかった。

 成長するまで待っててくれると思っていた女性は、一刻も早く哲郎の助けを欲していた。

 何があったのか聞くのもはばかられ、知ったのは水町玲子の闇の一部分だけだった。

「く、ううう……」

 勝手に涙が溢れてきて、どうにも止められなくなる。

 唯一の救いなのは、ここが路地裏で哲郎の他には誰もいない点だった。

 気が済むまで泣いて、再び空を見ると、すでに星は消えていた。

 夜の闇が朝の光に掻き消された頃、ようやく哲郎は立ち上がる力を取り戻せた。


 どうやって自宅まで帰ってきたのか、哲郎はあまり覚えてなかった。

 ひとり暮らしをしているおかげで、家へ戻れば誰とも会わずに住むのは不幸中の幸いだった。

 路地裏で傷の手当てをしてから、屈強な男たちに見つからないようビクビクしながら移動した。

 太陽の下へ出ても、まるで自分が日陰者になったような気がして、前を向いて歩けなかった。

 降り注ぐ光がやけに残酷に感じられ、一刻も早くこの街をあとにしたかった。

 電車に乗ってる間も背筋を丸めて、誰にも声をかけられないように気をつけた。

 地元の駅に着いたら上着を引っ張って、顔を隠して歩く。これではまるで犯罪者だった。

 けれど殴られて腫れた惨めな敗北者の顔を、間違っても知り合いには見られたくなかった。

「くそっ! どうして……どうして! こんなことになるんだよっ!」

 哲郎には珍しいぐらい、乱暴な口調で叫んだあと、自分の机をドンと叩いた。

 昔からどうしようもなくなった際には、怒りを放出する矛先として机が第一選択になっていた。

 ミシミシと軋む机の音が、空しく部屋へ響く。哲郎はあまりにも無力だった。

 信用金庫へ務めたら横領でもして、水町玲子が勤務している店ごと買い取ればいいのか。だがそんな真似をしても、結局は徒労に終わるのがわかっていた。

 哲郎のもとへ水町玲子が戻ってきても、忌まわしい過去の思い出に縛られている限り、どう足掻いても幸せにできそうもなかった。

 水町玲子本人が過去を乗り切れれば話も変わるが、それには何年かかるのか見当もつかない。そこで思いつくのは、引き出しの中にある例のスイッチだった。

 困っていた老婆を救ったお礼に貰った過去へ戻れる装置。どんなからくりかは知らないが、効果が本物なのはこの身で体験している。

 スイッチを押せば、過去へ戻れる。そうすれば、また人生をやり直せる。

 わかってはいたが、途中で哲郎は思い直した。確かに他人にはない特殊な能力を手に入れたも同然だが、この装置にばかり頼るのは何かが違うような気がした。

 悩みや苦しみ、そして悲しみや喜び。それらがすべて合わさって、ひとつの人生になる。

 ならば苦境に変わりなくとも、現在を精一杯生きてみよう。逃げるのではなく、立ち向かうのだ。哲郎は決意を新たにする。

 以前の人生と変わらない高校生活や大学生活を経てまで、哲郎は水町玲子との縁にこだわった。

 一度決めたのであれば、徹底して突き進むの悪くない。まだ諦める必要はないのである。

 泣いてる暇があるなら、次の戦略を考えるべきだった。

 まだ仕送りを受けている大学生の哲郎には、水町玲子が働いているお店へ通いつめるだけの金銭的余裕はない。現段階で毎日会いに行くのは、現実的な対応策ではなかった。

 それならばどうするか。やはり社会的に力をつける必要がある。

 これから本格的にバブル期を迎える日本社会において、銀行は人気絶頂の時代を迎える。

 融資を求める会社に接待されることもあれば、勤め先のお金を接待費として使用するのも可能だった。

 もっとも哲郎はそういうのが肌に合わなかったため、淡々と自分の業務だけをこなしていた。

 将来的にはその点が評価されたわけだが、当時を心ゆくまで楽しんだ挙句、どこかの会社の顧問になってるOBもいる。

 当時は羨ましくも思わなかったが、現在の状況下で考えれば、かなり使えるシチュエーションだった。

 大学を無事に卒業し、信用金庫内での立場を上げてから、水町玲子が勤務している店へ行く。そうすれば例の屈強な男たちも、下手に哲郎へ手出しできなくなる。

 信用金庫における業務での実績の作り方は、充分すぎるほどに承知している。

「俺は諦めない……必ず、玲子をこの手に取り戻してみせる」

 この瞬間の哲郎は、黒い闇に囚われている恋人を救出しようとしているヒーローだった。


 残り一年の大学生活を、哲郎は歯を食いしばって過ごした。

 就職が決まってるのだから、もっと遊べばいい。たくさんの人間、学生だけでなく講師にもそう言われた。

 けれど哲郎に立ち止まってる暇はなく、遊んでる時間があるのなら、アルバイトでもしてる方が現実的だった。

 勤務予定の信用金庫で、話がわかる先輩に相談して、アルバイトを紹介してもらう。一度務めた職場だけに、誰がどんな性格をしてるのか、充分すぎるほど知っていた。

 信用金庫内でアルバイトに一年も励めば、いやが上でも上司などの評価は上昇する。

 その間もきちんと成績を落とさなかったので、大学史上でもあまり類を見ない優秀な学生だと卒業式に表彰もされた。

 とはいえ、最初の人生でも同様だったので、さほど驚きはしなかった。

 大学を卒業したあとは、勤務先の近くにアパートを借りて生活をする。

 毎朝決まった時間に出勤し、まずは営業などの業務に励む。この頃は高度経済成長期に突入してるので、融資先に困ることはなかった。

 そして今回の人生のではない経験をもってすれば、どの会社が優良な貸付先になるかは的確にわかる。

 入社するなり哲郎の業績はうなぎのぼりで、上司の覚えもよくなる一方だった。

 ガンガン働いて評価を上げ、わずか一年後には営業主任に抜擢されていた。

 この頃には得意先の中小企業の社長たちから、融資をしてもらうための接待を受ける機会も増えていた。

 そこで哲郎は満を持して、水町玲子が未だ勤務しているお店を接待の際に指定した。

 およそ二年ぶりの再会となる。哲郎は立派な社会人となり、それなりの地位と名声もある。

 接待をしてくれる中小企業の社長に連れられて店に入ると、外とはまるで違う煌びやかな世界が存在していた。

 ボーイに席へ案内されつつ、周囲を見渡す。忙しく動く哲郎の目が、恋焦がれている女性の姿を捉えた。

 美しく年齢を重ねている水町玲子が、胸元の大きく開いたドレスを着用して接客をしている。

 誰か指名したい女の子がいるか聞かれた哲郎は、迷わずに水町玲子を指差した。

「玲子さんですね。お目が高い。彼女は、うちでもトップクラスの人気を誇っているんですよ」

 ニヤけ顔のボーイに社長がチップを渡し、すぐに哲郎たちの席へ寄越すように要求する。

 チップの効果は抜群で、数分後には水町玲子が哲郎のところへやってきた。

「ご指名ありがとうございます。玲子……です」

 最初は笑顔を振りまいていた水町玲子が、哲郎の姿を見るなり、表情を一瞬だけ曇らせた。どうやら、まだ忘れられてはいないみたいだった。

 こういったお店では源氏名を使うのが通常なのだが、水町玲子はそうしていなかった。

「玲子ちゃんか。こちらは得意先の銀行の主任さんでな。しっかり接待してくれよ」

 正確には信用金庫であり、銀行とは違うのだが、この社長にとってはどちらも同じようなものなのだろう。わざわざ訂正する必要もないと判断して、間違いについては放置する。

 哲郎への接待を命じられた水町玲子が、すぐ隣に座る。

 毛先に軽くウェーブがかかっている髪がふわりとして、柑橘系のシャンプーの香りを哲郎の鼻先まで届ける。

 同じく柑橘系の香水もつけているみたいで、隣に座っているだけでも心地よい気分になる。

「水割りでいいですか」

「ええ……」

 グラスに氷を入れて、ウイスキーを注ぐ。長年ここで働いているのが、ひと目でわかるぐらいの慣れた手つきだった。

 その動作を眺めながら、相手へ顔を寄せた哲郎は、小声で水町玲子へ「久しぶりだね」と声をかけた。

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