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リセット  作者: 桐条京介
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「大変って……それは……どういう……」

 尋ねる哲郎の言葉は途切れ途切れになり、渇いた喉がヒリつきだす。緊張の汗が頬を流れ、手のひらがべっとりと滲む。

 まったく予期していなかった展開を示唆する巻原桜子の発言に、いやが上にも哲郎の鼓動が加速する。

「玲子のお父さんって、工場を経営してたでしょ。でも、信頼していた社員に運営資金を持ち逃げされて、財政は火の車だって話よ」

 どこで習ってくるのか、中学生にして巻原桜子は大人顔負けの単語を駆使してくる。

 一度大人になった経験のある哲郎だからこそ、普通に話へついていけているが、同年代の学生なら、尊敬の眼差しで巻原桜子を見るのは間違いなかった。

 それにしても、今回の事態はまったくの初耳だった。本当なのかと問いかける哲郎へ、巻原桜子は真顔で「本当よ」と返してきた。

 夜に偶然、両親の会話を聞いてしまった。その内容こそ、水町家の話題だったというのだ。

 哲郎にしても「そんなバカな」と、相手の言葉を一蹴できなかった。

 遠い記憶を手繰り寄せれば、水町玲子の話題を聞かなくなったのは、丁度今頃だったように思えてくる。

 真偽のほどはまだ不明でも、本人へ確かめる必要があった。けれど、水町玲子が正直に答えてくれるとは思えなかった。

 どうするべきか悩み続ける哲郎に、もう巻原桜子の言葉は届かない。それを知った相手女性は、軽くため息をついたあとで、この場を後にする。

 ひとり残された哲郎は立ち尽くしたまま、己がどう動くべきかをひたすら考えていた。

 その日から、水町玲子は哲郎との待ち合わせ場所へ姿を現さなくなった。

 心配になった哲郎はある日の午後、おもいきって水町家を訪ねてみた。

 すると疲れきった顔の水町玲子の父親が、玄関へ姿を現した。

「玲子? いないっ!」

 怒鳴るように発したあと、おもいきりドアが閉められた。

 水町家が経営する工場も離れた場所から見学してみたが、ほとんど開店休業状態だった。

 以前見た時は大勢の従業員がいたのに、今はわずかな人数の中年男性が所在なさげに何かを囁きあっている。

 かつて銀行で働いていた経験があるだけに、工場の先が長くないのを、哲郎は直感的に判断できた。

 別々の中学に通っていたせいで、最初の人生では想い人の身に、このような災難が降り注いでいたとは夢にも思ってなかった。

 巻原桜子なら知っていたのだろうが、当時はそれほど仲が良くなかった。そんな人間に、わざわざ友人の危機的状況を教えてくれるわけがない。

 だが今回の人生では、哲郎は水町家に訪れた危機を良くも悪くも知った。

 なんとかしてあげたいのはやまやまだが、現在の哲郎は何の権力もない、ひとりの中学生にすぎないのだ。解決方法を知っていても、実行できなければ宝の持ち腐れである。

 銀行員時代であれば、権限を駆使して独自の融資もできる。だが、所詮はないものねだり。どうしようもできない無念さが、余計に心を苦しめる。

「……哲郎君」

 悶々とした感情を抱く哲郎の背中に、とてもよく聞きなれた声が注がれた。

 急いで振り向くと、そこにはすっかり憔悴しきっている水町玲子がいた。

「玄関でお父さんの声が聞こえて……窓から様子を見ていたら、哲郎君の姿が見えたから……」

 家にいる父親へどう説明したかは不明だが、恋人の少女はわざわざ哲郎を追ってきてくれた。

 女性と恋人付き合いをした経験が圧倒的に不足している哲郎には、嬉しすぎる対応だったが、現状ではとても素直に喜べない。相手に合わせるわけではないが、自然と沈んだ口調になる。

 きっと表情も同様だろうが、今はその点について悩んでる場合ではない。とにかく状況を把握するために、哲郎は水町玲子へどうなってるのか尋ねた。


「そう……桜子から、聞いたんだ……」

 最初はあれこれと理由をつけて煙に巻こうとしていたが、友人女性の名前が出た途端、水町玲子の声のトーンが急激に落ちた。

 誤魔化せないと悟ったのか、やがて小さな声ながらも、自身を取り巻いている状況について説明してくれた。

 父親が社長の工場の経営は順調そのものだったが、信頼している腹心が同業他社からの引き抜きにあった。

 その際、会社の製造工程の秘密だけでなく、資金までも持ち逃げしてしまったのだという。怒り狂った水町玲子の父親は、かつての部下の行方を必死に追った。

 けれど、どこかへ匿われているらしく、今日まで身柄を拘束できていない。手がかりがないわけでなく、恐らくはその同業他社にいるのはわかっていた。

 企業情報を盗んだに等しい該当会社が、引き抜いた張本人を矢面に出すはずもなく、どれだけ詰め寄っても白を切られて終わりらしかった。

「お父さんは怒っていたけれど、私には裏切られた理由が、なんとなくだけどわかるの」

 酷く寂しそうな声で、水町玲子が呟いた。

「ワンマンなところがある人だから……好みによって、えこひいきをしたりもするの。これまでも、何度となく従業員からの不満の声が届けられたわ」

 しかし水町玲子の父親は、そのたびに勇気を振り絞って意見してきた人間を不当に解雇したのだという。結果、社長に逆らってはいけないという風潮が社内に生まれた。

 部下を思いやれない上司に、人がついてくるはずもない。実力はあったにせよ、水町玲子の父親は大事な場面で手痛いしっぺ返しを食らった。

 持ち逃げされたせいで会社の資金は底をつき、水町家が運営する工場は重大な局面を迎えている。

 聞いた話と自らの推測を合わせ、丁寧に水町玲子は哲郎へ説明してくれた。

 状況は劣悪極まりないが、経営者の立場からすれば、まだ打つ手は残っている。

 高度成長期へ入りだしている昨今、間違いなく銀行は借り手市場になっている。

 安定的な経営をしてきたのであれば、取引先の銀行は新たな融資を申し出てくる。

 さりげなくその点について尋ねてみると、銀行の担当者らしき男性がつい最近、水町家を尋ねてきたと教えてくれた。

「それにしても、哲郎君って会社のこととかに詳しいんだね。頭がいいのはわかってたけど、尊敬しちゃうな」

「いや……そうでも……ないんだけどね」

 そんな風に言われたのは、生まれて初めての経験だった。

 思わず哲郎はしどろもどろになり、顔面を熱くする。

 真っ赤になってるのは想像に容易く、女性との交際経験の少なさが浮き彫りになる。

 数十年先の未来ではドン引きされるかもしれないが、この時代の中学生なら異性交遊がある方が珍しかった。

 そのおかげもあって、必要以上に気負うこともなく、ある程度無難に水町玲子と付き合ってこれた。

 これからもこうした日々が続くと思っていただけに、今回の試練はなかなかにショッキングだった。

 哲郎の一存だけでどうこうできる問題ではなく、なんとか水町玲子の父親に危機を回避してもらう必要があった。

「大丈夫……そうなのかな……」

「詳しくはわからないけれど、お父さんは何とかなるって言ってた。それを信じるしかないと思う……」

 友人に奪われるのを阻止したと思ったら、今度はこんな問題が降りかかってきた。

 まさに一難さってまた一難である。幸せは甘くない。誰かにそう言われてるような気さえしてくる。

 それでも水町玲子が言っていたとおり、信じるしかない。哲郎たちの前には、幸せな未来が待っている。

「ごめんね、哲郎君。あまり家を空けていても変に思われるから、私、そろそろ……」

「ああ……うん。わざわざ、ありがとう。俺も、自分の家へ帰るよ」

 事情がわかった以上、この場に留まっていても、哲郎にできることは何ひとつなかった。

 手を振って水町玲子の背中を見送ったあと、哲郎もまたこの場を後にするのだった。


 それからしばらく、水町玲子とは会えない日が続いた。

 学校へは通ってるみたいだったが、終わればすぐに帰宅して、自由に遊べる時間が作れないのだという。これは当人からの手紙で知った。

 手紙を届けてくれたのは、水町玲子とかつての親友だった巻原桜子だった。

 最近ではあまり遊んだりしなくなったらしいが、哲郎と同じ中学へ通ってるだけに、伝言などを頼むにはうってつけの相手となる。

 哲郎が水町家を訪ねても門前払いがおちで、とても恋人の少女と会うどころではなかった。

 何をどうするべきなのか。悩み続ける哲郎がある日、学校を終えて帰宅すると、母親の小百合が一通の手紙を渡してきた。

 哲郎に宛てられたもので、差出人は水町玲子になっている。

「水町さんのところ……大変だったみたいね」

 あまり哲郎と水町玲子の交際を喜んでないふうだった母親が、心から悲しそうな顔をしている。

 その態度が余計に嫌な予感を増大させ、未だかつてないぐらいの動悸を感じる。

 手紙を受け取った哲郎は、急いで自室へ戻ろうとしたが、何故だか足が動かなかった。

 視線を母親へ向けたままで「どういうこと?」と尋ねる。

「聞いた話なのだけど、どうやら夜逃げしたみたいなの……」

「ま、まさか……」

 言葉が失われ、喉の渇きが激しくなる。

 よろめく足を必死で動かし、哲郎はなんとか自分の部屋へ入る。

 勉強机へよりかかるようにして椅子へ座り、持っていた手紙の封を開ける。

 中には紙切れが一枚だけ入っており、見慣れた字で幾つも並べられていた。

 ――大好きな哲郎君へ。手紙の一番上には、そう書かれている。

 家の事情で夜逃げせざるをえなくなり、行き先も教えられないとあった。

 黙って消えるのを許してほしい。最後は謝罪で締められていた。

「……こんなことが……あるものなのか……」

 哲郎はひとり愕然とする。ここまでくると、何らかの大きな意思が、哲郎と水町玲子の交際を邪魔したがってるとしか思えなかった。

「そうだ……過去へ戻れば……」

 机の引き出しから例のスイッチを取り出すも、哲郎は押すのを途中で止めた。

 過去へ戻っても、哲郎の個人資産が増えるわけでもない。要するに、同じ結末が繰り返されるだけだ。

 諦めるしかないのか――。何の力もないただの中学生なのだから、他に選びようがない。だけど、哲郎にはどうしても納得できなかった。

 歯軋りを繰り返したところで、水町玲子との縁は切れてしまった。探偵の真似事をしたところで、素人の哲郎が相手の足取りを追いきれるはずもない。

「くそっ!」

 ドンと大きく机を叩く。やるせない思いと、無力感だけが心の中に広がる。

 自然に頬を伝ってくる涙が、どれだけ水町玲子を好きだったのか教えてくる。

 一度裏切られてもなお想いを捨てきれず、過去へ戻って選択をやり直し、今度こそはバラ色に満ちた中学生活を送れると思った。

 しかし現実は甘くなく、嘲笑うかのように哲郎と水町玲子の仲は強制的に引き裂かれた。

「俺は……どうすればいい……誰か、教えてくれ……」

 繰り返し求めても、哲郎へ助言を与えてくれる者は誰もいない。静けさの中に嗚咽を放り込み、ひたすら机へ突っ伏していた。

 夜になったのもわからず、夕食だと呼びに来た母親の存在にも気づかず、哲郎はただただ途方に暮れる。

 一生分の涙を流したのではないか。そう思えた頃、夜が明けて朝になっていた。

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