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リセット  作者: 桐条京介
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「実は、今日さ……久しぶりに二人で遊ぼうと思って、朝に誘いに来たんだ」

「え? そ、そうなんだ……ごめんね。今日は、同じ中学校のお友達と、一緒に図書館で勉強していたの」

 水町玲子の言葉に、哲郎は何て返せばいいのかわからなかった。

 何故なら哲郎は知っている。相手の発言が、まったくの嘘偽りであることを。日中に見かけた男女は、間違いなく平谷康憲と水町玲子だった。

 穏やかな微笑を浮かべていても、心では何を考えているのだろうか。もしかしたら、どうやって哲郎との関係を終わらせようかと悩んでるのかもしれない。心配のしすぎだとは、どうしても思えなかった。

 人生で初めて彼女が出て、舞い上がっていた哲郎に訪れた最初の試練に心が砕けそうになる。

 まだ正式な回答を貰ってないのに、聞くのが怖かった。問い詰めたくて仕方ないのに、それをしてしまったらすべてが終わる気がした。

 皆、こうして恋愛の楽しさや厳しさを知ったのかもしれない。この時点で、哲郎の頭の中にはスイッチのスの字もなかった。

「どうかした?」

 急に黙り込んだ哲郎を心配するように、水町玲子が声をかけてくる。

 その優しさも偽りなのか。知らず知らずのうちに、涙が溢れそうになっていた。

 これが誰かに恋をするということだとしたら、あまりに辛すぎる。

「……どうして……嘘を……ついたのかな……」

 祈るような気持ちで、ポツリポツリと哲郎は言葉を搾り出した。

「嘘って……何のこと? 私……よく、わからないのだけど……」

 あくまで白を切ろうとする水町玲子に、日中に哲郎が見た光景を詳細に説明する。

 見る見るうちに相手の顔が蒼くなり、唇も小刻みに震えだした。

 単なる友達よと、哲郎の心配を笑い飛ばしてほしかったのに、少女の反応は予想しうる中で最悪なものだった。

 態度だけで深刻な問題だとアピールしてるみたいなもので、哲郎の不安を煽るには充分すぎるリアクションである。

「……ごめんなさい……」

 しばらく続いた気まずい沈黙のあと、とても小さな声で少女が呟いた。

「何故……謝るの……?」

 水町玲子だけでなく、哲郎も相手の目を見れなかった。

 互いに足元の地面を眺めながら、静かでスローな会話を展開する。

「哲郎君のことは……今でも……好きよ……」

「それなら、どうして……?」

「……ごめんなさい……」

 先ほどとまったく同じ謝罪のあと、再び水町玲子が口を閉ざした。

 中学生であろうとも、恋愛はできる。誰かを好きになって、愛するというのは大人の専売特許ではなかった。

 だからこそ、付随する喜びも悲しみも味わう。時には歓喜し、時には号泣して、ひとつずつ経験を増やしていく。以前の哲郎の人生では、考えられない出来事だった。

「……理由を……教えて、くれないかな……」

 声がかすれていた。額には汗がビッシリ浮かび、呼吸のたびに胸が苦しくなる。

 こんな思いをするのは、文字どおり生まれて初めてだった。

「皆で遊ぶのは楽しかった……でも、もう少し早く、哲郎君と二人で遊びたかったな……」

 少しだけ昔を振り返りながら、緊張で手のひらを汗でベトベトにしている哲郎へ、水町玲子が理由を語ってきた。

 哲郎も同意見ではあったものの、それだけでは納得できなかった。

 表情で哲郎の心情を察したのか、引き続いて少女が口を開いた。

「私は……もっと、哲郎君と手を繋いだり……仲良くしたかった。手を握りたがる女の子なんて、ふしだらだと言われると思うんだけど、私は……そうしたかったの」


 深い意味があるわけでなく、水町玲子は単純に哲郎と手を繋いだりして、小説の男女みたいな青春の一ページを過ごしたかったのだ。相手の態度や言動で、それが痛いほどにわかった。

 この程度の観察で理解できるのであれば、もっと早く恋人の気持ちの異変に気づけていたはずだった。

 だけれど、哲郎にはできなかった。小学生時、校庭で告白しそびれた際みたいに、気づけば友人たちと遊ぶのに比重を置いていた。

 自身の甘さ以外の何でもなく、気づいた頃には恋人の気持ちは離れていた。

 明確に言われていないものの、困り果てた水町玲子の表情を見てれば明らかだった。

「いつから……だったの?」

「……大体、一ヶ月くらい前かな……」

 尋ねた哲郎に、水町玲子が答える。どちらも淡々としており、呟くようなやりとになっていた。

「最初は……哲郎君が待ってるからと言われて、騙されたような形になって……帰ろうと思ったけど、康憲君との会話は想像してるより、ずっと面白かった……」

 その時を思い出してるかのように、遠い目をしながら水町玲子が話してくれた。

 それから哲郎たちの目を盗んで、よく二人だけで会うようになった。

 最初は裏切ってような気分がして、罪悪感を募らせていた水町玲子も、次第に平谷康憲へ惹かれ始めた。

 元々が哲郎より格好良く、頭脳も優秀だった。

 一度大学課程を修了している哲郎がいなければ、学年トップは常に平谷康憲のものになっていた。それぐらいの人材なのである。

 加えて話術も巧みで、クラスでも憧れている女子は少なくなかった。

 そんな人気者と友人になれ、自らもグループの中心にいる。哲郎はそうした現状に満足しきっており、さらなる高みを目指す心意気を失っていた。

 隙を突かれた形にはなったが、誰よりも油断していた哲郎に一番責任があった。

「私が髪型を変えても……新しい服を着てても、哲郎君は気づいてくれなかった。でもね、康憲君は違っていたの」

 すでに相手を下の名前で呼んでいるあたり、かなり仲良くなっている。

 もはや哲郎の入る余地などない。そう通告されてるみたいで、とてつもなく悲しかった。

「だから……ごめんなさい……」

 深々と頭を下げた、恋人だった少女は泣いていた。

 とても申し訳なさそうに、とても悲しそうに、両目から大粒の涙を流している。

 哲郎の目からも、透明な液体がこぼれていた。

 人前でこうして涙を流すのは、どれぐらいぶりだっただろうか。悲しみに暮れる哲郎を、第三者のように冷静に見つめる自分がいた。

 相手がただ普通に謝ったわけでないのは、恋愛経験に乏しい哲郎でも充分理解できている。

 水町玲子は哲郎よりも、平谷康憲を選んだのである。

 結論を知った以上、もうここにいる必要はなくなった。

 かすかな望みを抱いて水町玲子の家まで来てみたが、見るも無残な結果に終わった。

 その後、気づいたら哲郎は自分の家にいた。

 自室で椅子に座ったまま、ひたすらじっと勉強机を見つめている。

 机の上には教科書もノートも乗っていない。それに気づいたのは、哲郎がまだ起きてるのを察した母親に「早く寝なさい」と注意された時だった。

 どうやって帰ってきたのかも覚えていなかった。ただひとつはっきりしてるのは、なにもかもが空しいという現実だけだった。

「……寝るか」

 誰にとはなく呟いた哲郎は、夕食もとらないまま自分で敷いた布団の中へ潜りこむ。真っ暗な視界の中、泣きながら謝る少女の姿が思い出される。

「う、うう……」

 爆発的に悲しみがふくれあがり、哲郎に嗚咽を漏らさせた。

 昔ながらの家で壁が薄いので、少しでも大きな声を出せば、他の部屋で眠っている両親にも聞こえるはずだった。

 心配させたくないので泣くつもりはなかったが、静かな夜にひとりでいると、意思にかかわらず次から次に涙が溢れてくる。

 これもまた初めての経験で、哲郎はひと晩中、布団の中で声を殺して泣き続けた。


 翌朝になり、洗顔をしようと鏡を見れば、見事なくらいに目が腫れていた。

 母親の小百合は心配そうにしていたが、父親の哲也が無視を決め込んでいるので、どうしたのか哲郎に聞けないでいた。

 冷たいと思うかもしれないが、今の哲郎には見て見ぬふりをしてくれるのが一番ありがたかった。

 素っ気無い態度の奥底にある本心を、少しはわかっているだけに、これも父親の一種の優しさだと理解している。

 女性とはまったく縁がなかったけれど、そうした側面から見ても初めての人生はそれなりに有意義だったと実感できる。

 そして人生の歩みをリセットできる力を得たからこそ、こうして今まで知らなかった苦悶を味わっている。

 本来ならごめんこうむりたい状況ではあったが、これも哲郎が招いたようなものだった。

 あの時、水町玲子をクラスの友人たちに会わせなければ。昨夜から、そんなことばかり考えていた。

 どうやって朝食をとったかも覚えてなく、ふらつく足取りでなんとか学校へ到着する。

「あれ、どうしたの? 元気ないね」

 声をかけてきたのは、小学校からの付き合いになっている巻原桜子だった。

 事情を知らないだけに、いつもと同じ笑顔を哲郎へ向けてくる。

「悩み事があるなら、相談にのってあげるよ」

 本人は軽い気持ちで言ったのかもしれないが、哲郎には涙が出るほど嬉しかった。

 けれど疑心暗鬼な一面が、相手の申し出を拒絶した。

 純粋な行為だと思おうとしているのに、心のどこかで巻原桜子も平谷康憲と繋がってるのではないかと疑ってしまう。そのあとで哲郎は、最低だと自己嫌悪に陥る。

「何か深刻そうだな」

 巻原桜子に続いて、声をかけてきたのは元凶の平谷康憲だった。

「理由はわかってるよね」

 哲郎が発したひと言で、平谷康憲の表情に緊張が走る。

 携帯電話はおろか、この時代はまだ固定電話さえ一般家庭にあまり普及されてなかった。

 とはいえお金持ちのところには当たり前のようにあったので、学校から連絡ごとがあった際には、自然とそうした家へ集まるようになった。

 哲郎の家にも固定電話はなく、記憶が確かなら水町玲子の家にもなかったはずである。

 もっとも一年前の記憶なので、現在では固定電話が水町玲子宅に設置されてるかもしれない。だが平谷康憲の家になければ、結局は役に立たなかった。

 お互いに電話を所持していれば平谷康憲は、昨夜の哲郎とのやりとりを水町玲子から報告されてるはずだった。

 そうなると、色々な言い訳や対処法を考えて当然である。けれどそうした気配は一切なかった。

 平谷康憲も登校してきて、初めて哲郎に自分と水町玲子の関係がバレたのを知ったのだ。だからこそ、先ほどみたいな反応をしてしまった。

 哲郎が深刻になってる理由を、確かに自分は知ってますと曝露したようなものである。

「あれ、皆で集まって、何の話をしてるの?」

 沈黙してる場の中に、教室へ来たばかりで事情を知らない貝塚美智子も加わってくる。

 最初は巻原桜子と同様に笑顔を浮かべていたが、ただならぬ雰囲気を感じて真面目な顔つきになっている。

「……いつからだったのかな?」

「……本格的に交際を始めたのは、一ヶ月くらい前だ」

 状況を把握しきれていない女性陣が口をつぐみつづける中、平谷康憲が哲郎の質問に答えた。

 昨夜の水町玲子の回答と一致していることから、平谷康憲が哲郎から恋人を奪ったのが確定となった。

 この期に及んで、まだ万が一の可能性を想定していた自分自身に、哲郎は内心で苦笑する。

 そのあとで再び平谷康憲へ「いつからだったのかな」と問いかけた。

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