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お風呂場から出て行くと、龍雅さんも入ってきたのか、髪が濡れていた。
「みちる」
手を、差し出してくる。
わたしは、躊躇いがちに、その手を、取る。
「……髪が濡れてるな」
腰辺りまでのびる髪をさらりと梳き、呟く。
「それは、龍雅さんも……」
「俺はいい。それより、みちる、お前だ。このままだと風邪を引くかもしれない、乾かすぞ」
わたしをベッドに座らせ、彼はドレッサーに向かう。
沢山ある引き出しを、悩むことなく引き、ドライヤーを探し出す。
巻き付けられているコードを取りながら、再びわたしのそばへ来る。
コンセントに繋げ、電源を入れる。
熱い方か、冷たい方か、どちらがいいのかとたずねられ、わたしはお風呂に入って火照った体を冷まそうと思い、冷たい方で、と答えた。
乾くのは時間がかかるかもしれないが、そうした。
意見をきいた――のに、龍雅さんは湯冷めするとか何とか色んな理由を付けて、結局、熱い方で乾かすことになった。
きいた意味はあった?
とは思ったけれど、何も言うまい。
されるがまま、髪を乾かしてもらう。
髪が長い為、乾くのにけっこうかかる。
一点に集中しないように、満遍なく、丁寧に熱を当てくれた。
「こんなもんか?」
サラリと肩から落ちる髪を弄びながら、呟く。
「ありがとうございます」
髪から手を離した龍雅さんは、返事の代わりに頷き、ドライヤーを片付けに行った。
戻ってきた龍雅さんはベッドに腰掛ける。
わたしは龍雅さんから目を離さず、何か話すのかな?と思い、話が切り出されるのを待つ。
「みちる――部屋から出れない理由とか、カゴメについて、訊きたいか?」
と、たずねてきた。わたしが気になることを教えてやる、といった雰囲気を醸し出している。
喉が、つまる。答えを、訊きたいのに。臆病な体は、拒む。
「訊きたいなら――」
龍雅さんは、続けてこう言った。
「抱かせろ」
――と。
さらに、息ができなくなる。
なんと言った……?
抱かせろ、だって?
そら耳、よね……?
「ほら、どうする?」
甘い声に甘い表情。
「――……っ」
どうする?
黙って、抱かれるべき、なのだろうか。
こういう風に条件付きで話を持ち出したということは、この先も同じ条件でしか教えてもらえない――ということなんだろう。
なら、今抱かれなくても、結果的に知りたいなら抱かれることになる、ということ。
それなら、別にいいんじゃないか。
そう考える自分と、そんなことの引き換えに純潔を奪われていいのか、と考える自分がいた。
別に高い理想とか、結婚相手にだけ捧げるとか、大層なことは思っていない。令嬢だった頃ならまだしも、いまはただの白枦みちるという人間でしかないのだから。
ただ、会ってすぐの人間にそういう行為をされる、という事実が嫌だ。
でも、訊いてみたい。
でも、知りたくない。
ああ、わたしはどうしたいの?
自分で自分の気持ちがわからない。
今だって龍雅さんは黙ってわたしの答えを待っている。
けれど、いつ気が変わるのかわからない。
もしかしたら、これを逃すと、一生教えてもらえないかも。
人生の――一瞬先の未来さえ、確かなものなんてない。
不安定で、不確か。
わたしの生活が瞬時に変わってしまったように、龍雅さんの態度や接し方だって、変わるかもしれない。
ずっとこのままなどありえないのだから。
なら――。
知れるときに聞いとかなければ、知れなくなる。
「本当に、…………その、龍雅さんに抱かれたら、教えて、もらえるんですか……」
わたしは、震える声しか出せなかった。
けれどそれを悟られないよう、精一杯我慢する。もしかしたらバレバレなのかもしれない。でも、できるだけ弱味を見せたくなかったのだ。
震えは何からくるんだろう。
不安?
恐怖?
いや、両方――だ。
震えて怯えるわたしとは反対に、堂々としている龍雅さん。
わたしを一瞥し、返事の変わりとでもいうように、妖艶に笑う。
狙った獲物を定めた獣のように、舌で唇をペロリと舐めた。舌なめずりする姿がひどく官能的で、それだけで頬が熱くなる。
今から始まる行為にそれなりの知識はある。知識だけならば。ただ実践がないだけ。
大丈夫、すぐ、終わるもの――。
そう納得させ、目を瞑る。
それは、情事を始めていいという合図。
暗い闇の中、空気が動いた。
近付いてくる、人の気配。
ああ、わたしは今から龍雅さんと――。
唇と唇が触れ合った。
初めてのキスだ。ファーストキスは色んな味がするって例えられるけど、何の味もしなかった。
ただ、初めて触れ合う感触にたじろいだ。
気持ち悪いとも思わなかったけれど、気持ちいいとも思えなくて。
困惑と殺伐とした感情が生まれた。
大きな掌が、わたしの腕を押さえ、組み敷く。
そんなに強く掴まれているわけではないが、見下ろしてくる瞳が物憂げで、何か妙な力があって、逃げられない。
重なった唇は次第に荒さを増して、舌が口内を征服するように、執拗に蹂躙する。
「んっ」
息が苦しい、と訴えても。
重なりは、深まるばかりで離れようとしない。
「りゅ、う……が、さんっ……」
息も絶え絶えに、名前を呼ぶ。
呼吸の合間に呼び掛けて、やっと動きを止め、体を起こした。
何だ、と問うように視線を寄越す。
「苦しい、です……」
慣れていない、と暴露するようなものだ。明らかに慣れていて、大人で、余裕のある龍雅さんに言うのは羞恥心を刺激する。それでも伝えなければ窒息死させられそうな勢いだった。
龍雅さんはわたしの言葉を聞くなり、目を瞬かせた。
その後、壮絶な色気が滲み出す微笑みを浮かべる。
弧を描く潤った唇が赤い。動く度に艶が増して、眺めているだけでドキドキする。
「キスぐらいで、ギブアップか?」
なんて、更にドキリとするような発言をする。
キスでギブアップ。
確かに、ここで白旗をあげてしまえば、龍雅さんは止めてくれそう。
だけど、何も得られない。
苦しみ損になる。そんなの嫌だし、息継ぎが出来なくてギブアップっていうのも、納得いかない。
キスでギブアップすれば次のステップなんか耐えられないだろう。
負けてられない……。
キスなんて気合いよ、気合い!
自らを奮い立たせ、龍雅さんを睨むように見つめる。
息ができなくてもついていくしかない、という心境だった。
「いい瞳だ」
龍雅さんはフッと笑い、再び顔を近付けてきた。
静かに重なり合った唇。
最初は軽く、優しく啄む。
可愛らしい効果音付き。
いわばウォーミングアップだろう。
何回かそれを繰り返した後、濃厚で官能的なキスが始まった。
「んん……ふぅ……」
絡み合う舌。混ざる唾液。互いの熱が、重なり合った場所から移動する。
執拗に絡まる舌が解放され、キスが終わるのかと思えば。終わらなかった。更に動き回る。
舌の裏側を舐めたり、歯列をなぞったり。ざらざらとした感触が触れる度に、ゾクリとする。変な感じだけれど、気持ちよかった。
「ん゛んっ!?」
身体から力を抜いて与えられる快感に身を任せていると、舌がいきなり絡まり、喉の奥に押し付けてられる。
思わずくぐもった声が出た。
何度か絡まり合って、キスから解放された。
流れてくる唾液をゴクンと飲み、息を整える。
鼻で息をしていたから、今回は早めに息が整う。
しかし安心している暇など与えられない。
龍雅さんの唇は首筋へ。
軽く吸われた。
「んっ」
声が上がる。
わたしは口に手を当てて、声を抑えようと試みる。
恥ずかしい、あんな声……あれは、わたし、なの……?
初めてだす自分自身の女の声に戸惑う。
「いい声だ。もっと聞かせろ」
そう言って、手をのかせる。
な、何を!?
わたしはすごく恥ずかしいんですけどっ!?
有無を言わせない龍雅さんは取った手をやんわりと握る。
振りほどけない程度の力で拘束された手。口を押さえたくても、できない。
「無理ですっ!こんな声、わたしじゃない……わたしじゃ、ないみたいで……怖いっ」
身体の自由を抑えられ、ままならぬ状況に不安を吐き出す。
「みちる」
龍雅さんが名を呼ぶ。
名前を呼ばれると、不思議と安心する自分がいる。今は安心している場合じゃないのに。
「そうやって出す声も、紛れもなくお前だ。俺に翻弄され、快感を感じて出す声……」
頬を片方の手で撫でられる。心地良さにうっとりしてしまう。
「お前らしくなくても、いいじゃないか。お前は情報の為に抱かれるんだから。今だけ――今だけ、夢のように、嫌なことも辛いことも忘れて、ただ俺に抱かれればいい。感じるまま、声を出せばいい」
そんな風に言われると、それでいいのかもしれない、なんて考えを導き出すわたし。
龍雅さん、嫌なことも辛いことも、忘れさせてくれますか……?
貴方が、忘れさせて、くれるんですか……。
縋るように見つめれば、頷く。
そして、動き出す。
衣類はあっという間にはぎ取られた。
露わになる身体につたう唇。
くすぐったい……!!
与えられる温もりと感触に翻弄されて、最初ははっきりとしていた意識も朦朧としている。
甘い雰囲気と曖昧な思考回路に、すべてを委ね、意識を失おうとした瞬間――。
扉を叩く音がした。
静かな――人間の息遣いだけが響く空間では、驚くほど大きく響いた。
わたしはびくりと身体を竦ませる。
龍雅さんはゆったりとした動作で、扉に目を向けた。
向こうもこちからの様子を窺っているのか、動きをみせない。
「誰だ」
苛立ちを隠さない、不機嫌そうな声で龍雅さんは問う。
「そんなにイライラしないでくれるかな、龍雅」
扉越しでも、彼の怒りは通じたらしい。
呆れの混じる声が答えた。もし姿が見えたなら、きっと、肩を竦めているにちがいない。声からして、扉の前にいるのは若い男性だろうと思った。