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恐いくらい壮絶に美しい笑みを向け、不吉なことを告げる。
「お兄さまったら、焦らして。教えてあげればいいのに」
「......流香そんなことはどうでもいい。着替えを手伝ってやれ」
「そんなこと、ではないわ。黒鐘家はカゴメの為にいくらお金を使ったのか。教えてあげなきゃ」
どくん、どくんと脈打つ心臓。
忙しなく動くそれは、壊れそうなくらい激しい。可哀相とか潰すと言われたことが吹き飛ぶくらいの衝撃。それを上回る事実。
「ねぇ、いくらだと思う……?」
「な、にが……?」
たずねる声が震えた。
「もちろん、値段よ」
愉しそうに告げる流香さん。
黒鐘家が、わたしの為に費やした金額。
わたしに付けられた価値。
はっきりいって、見当なんてつかない。
黙ったままのわたしに痺れを切らしたのか、自ら答えを告げる。
「――十億よ」
「え……?」
「カゴメの為に黒鐘家が支払ったのは、十億だと言っているの」
「十、億……」
恐ろしいほどの大金。
それを、わたしの為に?
使った、って……?
可笑しい、でしょ。
どうして、そんなことを?
でも、すべてをひっくるめて、彼がしきりに口にする自分のもの宣言は、そこからくるのだろうと納得した。
「驚いた?驚いたわよね?だって、あんたに十億つぎ込んだということよ。ちゃんとわかってるのかしら?」
龍雅さんを、見つめる。
視線がぶつかり、交わる。
何も、言わない。
否定も、肯定もせず。
ただ、そこでわたしを見ていた。だが、それが何よりも雄弁に語る答えでもあった。
「返せ、なんてケチくさいこと言わないわ。黒鐘家にとっては、些細な出費ですもの」
彼女は、ゆっくりとゆっくりと赤い唇に弧を描き嗤った。
「でも、ね――」
昏い瞳が、目の前に迫る。
「あたしは、あんたという存在が心底憎いから……出て行かせるための手段として、返せ、とも言いたくなるのよ」
返せ、なんて言われても返せるわけない。
それを、表情から読み取ったのだろう。
「言ったでしょう。返せ、なんて言わないわ。出て行ってくれるなら更に十億差し出したっていいわ」
彼女は、どうしてそこまでわたしを追い出そうとしているのだろう?
強い強い、憎悪の瞳。憎くて憎くて仕方ないと雄弁に訴える目と態度。
はっきりいって、そこまで恨まれる覚えがない。流香さんに疎まれる理由が。
会ったのも今日が初めてだ。言葉を交わすのだって。
それなのに、十億差し出すから目の前から消えろと言う。
おかしい、と思う。
考えられるのは彼らが何度も口にするカゴメ。
それに、その単語に何かあると思う。恨まれ疎まれる理由が。
きっと。
「......さっきから言ってるカゴメって、一体、何……?」
とたずねた。
流香さんは口を開きかけたが、龍雅さんによって遮らる。
「流香」
名前を呼んだだけだ。
有無を言わせぬ気配。これ以上喋るなという牽制だった。
「お兄さま……っ。あたしは……」
「流香。カゴメを傍に置くのは一族の総意。そして、それを俺も……お前も一度は認めた。諦めろ」
流香さんは口を噤み、わたしを睨む。
「……わかっているわお兄さま。でも、割り切れないのよ、あたしは……許せないのよ……」
「俺たちは所詮、駒。黒鐘を繁栄させる駒だ。意志も想いも、切り捨てられる………………流香、時間だ。準備を手伝え」
龍雅さんの言葉を最後に、部屋から音は消えた。
人間が三人もいるのに、響くのは衣擦れの音だけ。
重苦しい空気の中、下着姿を見られているけれど、羞恥心など沈黙に飲み込まれる。
淡々と服を着る手伝いをこなす流香さん。
漆黒のドレスを着せられ、髪を梳かれる。あれだけの憎悪を胸に秘めながらも、嫌がらせはされない。龍雅さんがいるからかもしれない。
そうしている内に薄化粧を施される。化粧くらい自分でできると言ったが、鼻で笑われた。反論する間も与えず、ファンデーションを塗られ、マスカラを塗り、唇にリップを付けられて完成した。
「行くぞ。みちる……」
用事が終わると流香さんは部屋をあとにし、龍雅さんはわたしに手を差し出す。
出された手をつかむのを躊躇う。
本当の気持ちがわからないから。
龍雅さんから負の感情は感じないけれど、流香さんのようにあからさまに表現していないだけのような気もする。
掴めない龍雅さんの手をつかむのは、怖い。
疲れ切った心を、侵食し、蝕みそうで。
ああ、もう既に、侵されているのかも――。
手をつかみながら、わたしはそう思った。
躊躇いながらも、つかまれた手を、わたしは振り払わない。むしろ受け入れようと、しているのだから。
部屋を出る前に、龍雅さんは言った。
「最初で、最後になるだろう」
と。
部屋を出るのは、この機会が最初で、最後。
あまり、実感は湧かないけれど、龍雅さんがそう言うのだから、そうなんだろう。
わたしは莫大なお金が使われてここに置かれている。
聞く前なら、少しの抵抗と反抗はあったかもしれない。
でも、聞いてしまった後では。
龍雅さんに、龍雅さんと流香さんに逆らおうとは、思えなかった。
だから、今。
騒然とする場所にいても、ただ黙って――さながら、人形のように、大人しくしている。龍雅さんの傍らで。
龍雅さんもそれが正解だ、というように微笑んでいた。
だから、間違っていないんだろう。
わたしの、選択はーー。
現在、連れられて来たのは広大な面積を有する広間。天井から吊されるクリスタルガラスのシャンデリア。部屋は全体的に落ち着いた色合いで纏められている。
集まっている人間の年代は様々であるが、誰も彼もが龍雅さんにかしずく。
あたかも、王のように。いや、あながち間違っていないかもしれない。だって、すべてを支配する。思考も想いも。
「龍雅さま」
「御当主さま」
「カゴメを見つけになられたとか」
そう言ってはわたしを見る。
いや、値踏みするように眺めてくる、か。
彼らの言葉に適当に相槌を打ちながら、龍雅さんはわたしの手を取る。部屋が一斉に静まり返る。数多の視線が突き刺さる。
「彼女が今回の“カゴメ”だ。……これで黒鐘家の繁栄は約束された」
そんな風に語る真意がわからない。
今回のカゴメ?
これで黒鐘家の繁栄は約束された?
なに、それ?
どういうことなの?
口を開きたいのに、開けない。
訊きたいのに、雰囲気が、龍雅さんがそれを許さない。
だからわたしは曖昧に微笑むだけ。
そうすることしか、できない。
意味のわからないパーティーを終えて戻ってきた、あの部屋。
特に何もしていないが、どっと疲れが押し寄せる。
「疲れただろう、みちる。風呂に入って寝るぞ」
時計を眺めながら、そんな時間か、と思う。
何もすることはなく、時間だけが無駄に過ぎていたのだ。
時計の針が指すのは二十三時。
深夜に近い時刻を示している。
「じゃあ、入ってきます」
わたしは素直に頷き、お風呂へ向かった。
龍雅さんは、わたしの背中をじっと眺めていた。
お風呂はとても綺麗だ。大きさは普通。
ただし、バスタブは金の猫足。小物や鏡、シャワーもアンティークで統一されていて可愛い。
シャンプー、リンス、ボディソープの香りは全部ローズ。すごい良い香りだった。
身体や髪を洗い終えて、湯につかる。
お湯は淡く色づいている。湯船には小さな薔薇が浮かんでいて、湯が温かいのだから帰ってくる直前に用意したはず。用意した人は大変だっただろう、と考えるも、心地良さに思考が解ける。
「癒される......」
パシャンとお湯を弾きながら、これまでのことを思い返す。
激動の数日間だと思う。
それは借金にまみれた日から、一変して、再び優雅な生活をできることもそうだ。
この監禁ともいえる――まだ二日しか経っていないから、監禁といえるのかはわからないが――この生活はいつまで続くのだろう?
龍雅さんが飽きるまで?
流香さんに追い出されるまで?
それとも――わたしが死ぬまで、永遠に……?
そもそも、わたし、という存在は何なんだろうか。
恋人?
いや、違う。
婚約者?
もっと違う。
じゃあ、一体、なに?
わたしという存在は、龍雅さんにとって何なんだろう。
考えてもわからないが、訊くのも怖い。
訊いたほうが、いいのだろうか?
それとも、曖昧なまま、毎日を過ごすべきか。
知りたいような……知りたくないような。
「訊くべき、かな……」
薔薇を一つ、手に取る。ヴェルヴェットのような滑らかな感触を楽しみながら、思案する。
お風呂から上がり、身体を拭いて、下着を手に取る。
龍雅さん、が選んだわけではないだろう。
多分……。
いや、可愛いよ?
可愛いんだけど……誰が選んだの?ってくらいセンスがいい。
レースとリボンが盛りすぎず、違和感なくある。
妥当なのは流香さんか使用人の女の人。
もしも龍雅さんが選んだなら、女の人を誑かすのが上手いんじゃ……?それだけの関わりがあり、付き合いがあるということだから。
なーんて思う。
女遊びが激しかろうが、誑かしていようが、恋愛感情が無いわたしには関係のない話。
その有無なんて、どうでもいい。
まあ、裸でいるつもりはないからそれを身に付ける。サイズはピッタリ。
どこから情報を、と訊くのも億劫だ。
調べたら簡単なんだろう。
自分を曖昧に納得させて、お風呂に入っていた時の疑問を思い返す。
訊くか、訊かないか。
もちろん、答えはもう出ている。
答えは、訊かない、だ。