6.消えたもの、現れたもの
かたかた、かたん。
耳元で、こもった音がする。
階下から聞こえてくるらしいそれが、俺の意識を闇の底からゆっくりと押し戻してくれた。どうやら俺は、『自分の部屋』に放置されたままだったらしい。
「……あー、よく寝た、のかな?」
妙に頭の中がすっきりしているあたり、俺の身体は意識が途切れたついでとばかりに睡眠を補ったらしい。うん、何となく言葉がおかしいのは自覚しているんだが。
身体を起こして周囲を見渡すと、白ネズミがいないのに気がついた。入口の引き戸が小さく開いているから、どうやら偵察にでも行ってくれたらしい。このあたり、召喚者である彩星よりは頭が回るな、と本人に言ったらどつかれそうだからやめておこう。
俺自身の身体には、特に何もおかしいところはなさそうだ。別に彩星を敵だとか獲物だとか思いこんでいることもないし、今のところ俺の自由に身体を動かせる。何だあいつ、妙なところで詰めが甘いなあ。俺があいつの立場なら、意識のない俺に何か仕込んでおくぞ。俺をダシにして彩星をゲットするつもりなんなら、そんくらいやっとけ。
不意に外……さっき俺を起こした音が聞こえてきたのと同じ階下から、どたんばたんと何かが暴れているような音がした。いや、ようなじゃないな。あれは暴れている音だ。俺はあれからこの部屋にいるから、多分彩星だ。
と、小さく開けてある戸の隙間から白ネズミが慌てて飛び込んできた。チチッと鋭い声を上げながら、俺の方にまっすぐ走り寄ってくる。さすがにこの小さな身体であの大きな音は出せないだろうから、別口で誰か暴れているのは間違いないだろう。
「おう、お帰り。あの大騒ぎは彩星か?」
そうなると推測できるのは一つだけ。そう思って尋ねてみると、ネズミはこくこくと大きく何度も頷いて俺の肩に登ってきた。そうか、彩星の奴あのちんちくりんな身体でどたばた暴れてんだな。相手は……まあ、他の部下が見つからないことを思えばあの黒犬に間違いないだろう。こいつめ、もしかして至近距離で偵察してて巻き添え食いそうになったのかもな。ほんと、ご苦労さん。
「どうしようか……手助けした方がいいか?」
俺が首を捻りつつ考え込むと、ネズミが派手に首を、今度は横に振った。うん、そこまで強調しなくてもわかるよ。やめとけってことだろ。
まあ、相手があの犬だとしたら俺が顔を出すのはまずいよなあ。人質に取られて彩星が身動き取れなくなる、って可能性は十二分にあるし。いや、俺は既に彩星を呼び寄せるための人質なんだけど。
そうこうしているうちに、いつの間にか階下の音はやんでいた。決着でもついたんだろうか……と、思ったその時。
「ぐぉわおうっ! ぐぉ、ぐぉあっ!」
「へっ?」
びりびりびり、と白い壁や床を震わせるように響いてきたのは、吠え声とも悲鳴ともつかない雄叫び。その響きが消えていくのと被さるように、どたん、と何かが落ちる音。そうして、体重の軽い奴が階段を一気に駆け上がってくる足音がした。俺は思わず立ち上がり、慌てて扉に手を掛ける。
チーッ!
鋭いネズミの警告の声も気にせず、勢いよく戸を全開にする。そんな俺の前に、ちょうど階段を上り終えた彼女は立っていた。ナイスタイミング、だな。
「はー、はー……」
激しく息を切らしているのは、下であの犬あたりと派手にやらかしたからだろうか。大きく肩が上下していて、長い髪がぐしゃぐしゃになっちまっている。あの犬相手なら、布状になったあいつに巻き付かれたりして大変だったろうに。
ああ、暴れてきたんだなあ。俺のせいで。
ごめんよ。口に出して言うのは照れるから、心の中で謝る。
「彩星」
ともかく、下向いて必死で呼吸を整えている最中の彼女。どうやら目前にいる俺に気付いていないようなので、名前を呼んでみることにした。
「……へ?」
と、動きがぴたりと止まった。がばっと顔を上げた拍子に俺のあごへ頭突きされそうになって、慌てて一歩後ろに下がった。俺、いくら何でも近づきすぎだろう。しまったなあ。そりゃ、彩星の立ち位置も問題だったけど。
「しょ、晶っ!」
彩星の、俺の名前を呼ぶ声と同時にどすん、と胸元に衝撃が走った。
一歩下がったのに体当たりかましてくるって何なんだよ、お前。お前の体重は平均と比べても結構軽いから、俺にとっては大したダメージにならなかったけれど……と、ピントのずれた思考回路が変な言葉をたたき出したところで、やっとそれは違うと気がついた。
……ああ。体当たりじゃなくって、どうやら俺は彩星に抱きつかれたらしい。首根っこにぎむーと腕が巻き付いてきてる。俺には顔を見せないように、彩星の顔はしっかりと俺の胸に埋められていた。
妙に女の子っぽい仕草だなあと思いながら、少しどきどきしている自分がここにいる。普段はスカートを履いていても、水泳の時に着る水着が違っても、あまり彩星を女の子だと意識することはなかったのに。これはあれか、吊り橋効果というやつか。
でもまあ、悪くはないよな。拉致された人質と助けに来た特殊能力者、というわりかしベタなシチュエーションだけど。それに、今のところ人質である自分の無事が分かっているわけだし。助けに来た方が抱きついてるのって本来と逆のような気はするけれど、そこにはツッコミを入れないでおこう。ああ余計なことばかり考えてんじゃねーよ俺、自分がパニクってる自覚がやっと出てきたぞ。
そんなことを一人で考えていたら、彩星ががばっと顔を上げてきた。下から俺の顔を見上げて、次の瞬間お互いの距離が急接近する。俺の胸ぐらを掴んだ彩星が、思い切り引き寄せた結果だ。
「晶、大丈夫だった!? 何かされなかった!? 怪我してない!? 首とか絞められなかった!? ねぇっ!」
そこまで矢継ぎ早に繰り出してから、酸欠でぜーはー息を切らせる彩星。再び上げられた顔は目を大きく見開いていて、まるで旅行に行っていた飼い主と久しぶりに再会した犬みたいで可愛い。思わず俺は、目の前にある頭を撫でながら答えてやった。
たった今まで気絶していたから、その間に何をされたか分からないということは……言った方がいいのだろうか。
「ああ、大丈夫だって。何か扱いが丁寧だったから、ご覧の通り怪我もしてないし」
「ほんと? よかったあ……」
彩星の顔が本気で心配そうだったから、俺は思わずそのことを伏せてしまった。そうしてほら、と軽く腕を広げてみせると、彩星は本当に安心したかのようにほうっと大きく息をついた。にこっと笑った表情は、すっかりいつもの彩星に戻っている。アニメだったりしたら、多分彩星には犬の耳と尻尾が生えていたりするんだろう。って、やっぱり犬のイメージなのかよ。
「晶に何かあったら私、どうしようかと思ったよう。大丈夫なら、よかった」
ほっと一息ついた彩星が、なぜだか俺に甘えてきた。ああ、マジで犬にしか見えなくなってきたぞ。困ったもんだ、あの野郎がどこから見ているか分からないのに。というか、彩星は気付いていないと思うがお前の足元、白ネズミがじーっと見上げているぞ。最初から。
「ああ……そりゃいいけど、ちょっと離れろ。多分あいつが見てる」
「ほへ? あいつ?」
「そう。ぶっちゃけ今回の黒幕。多分見てるだろ、自分で作った結界なんだから」
「あ、そうだそうだ、忘れてた」
忘れてやるな。敵ながら可哀想だろうが。
で、お互いにまじまじと見つめ合って……しばらくしてからやっと、彩星は自分と俺がどういう体勢になっているかに気がついた。突っ込んできたのは向こうからだけど、勢い任せだったろうから分からなかったんだな。
「あわ、わわわわわ、晶ごめんっ」
ばたばたと両手を振りながら離れた、彩星の顔が赤い。いや、何を今更照れてるんだよ、お前。この際、自分の顔が熱っぽいことは棚の上に上げておく。この状況、あいつには見られてんだろうな。ま、いいか。
「……と、とりあえず、部屋入るか? 本物と違って椅子もテーブルもないけどさ」
ともかく、偽物ながら自分の部屋の入口で立ちっぱなしというのもあれなので、彩星を誘い入れることにした。何もない部屋だし恐らく誰かが見ているはずだっていうのは分かっているから、下心は全くもってないと断言する。白ネズミもいるしさ。
「うんっ、ぜひ!」
嬉しそうに頷いた彩星の顔を見て、少しだけ胸が痛んだ。こんな形で、彩星の鷹乃家訪問が実現することになるとは思わなかったなあ。友人同士なんだから、遊びに来させたっていいじゃないか。おかんのアホ。
本来なら小さいテーブルが置いてあるはずの、今は何もない部屋の中央。あぐらをかいて座った俺から少し離れ、彩星はちょこんと正座した。ぴんと背筋が伸びるのはさすがというか、彩星の家は古い日本家屋だから正座は慣れているらしい。
その僅かな距離を保ったまま、俺は彩星と別れてから自分の身に起きたことを手早く説明した。お前が来たからと気絶させられた、ということはさらっと流しておいたけれど、気付いたかな。
彩星の名を騙ってケータイに掛けてきた、彩星を狙うという馬鹿野郎。
自分の部屋に現れた、変な真っ黒野郎と影の犬。
推定黒ミイラにされた俺。
気がついたらいた、この場所。
「……なるほど。やっぱあっち組かあ」
一通り説明を聞き終えて、彩星は腕を組みつつうんうんと一人で頷いている。どうやら今の説明……の前から彼女には相手の正体が分かっていたようだ。最も、あまり彩星の一族の事情を知らない俺には何が何だかさっぱり分からない。俺が彩星の一族について知ってるのは『錠前様』の呼ばれ方と、鍵の能力についてくらいだ。
「こら、一人で納得してるんじゃない。被害者として説明を求める」
「うん、分かってる。ほんとはこんなことに巻き込みたくなかったんだけど、こうなっちゃったらしょうがないね」
俺の、少し強い口調の台詞にも彩星は平然と頷いてくれた。これはやっぱり犬みたいだなあと頭の中だけで呟いてみる。
しかし何でだろう、妙に彩星が可愛くて、可愛くてかいぐりたくて仕方がない。正直に言うと、俺には彩星を恋人にするという意識はないらしい。無意識にはあるのかといわれるとそれは疑問符がつく。しかし、まあいつも一緒にいると恋愛感情が鈍るのはこれまたお約束といったところだしな。この状況、お互いに対して良かったのだろうか、悪かったのだろうか。いや、今考えることじゃないな。どうも思考回路の混乱が続いているようで、困る。そんなこと考えるのは、目の前の問題をクリアーしてからだろ。
チチチ。
ネズミの鳴き声が、俺の意識を現実に引き戻した。膝の上の白いネズミが、俺を伺うように顔を下から覗き込んでいる。と、その横にするりともう一匹、こちらは黒いネズミが登ってきた。む、もしかしなくてもペアかお前ら。人の膝の上でいちゃつくんじゃない、微笑ましいなあもう。
「あ、ばくちゃん。連絡ありがとね、おかげでこっちに来られたよう」
彩星が嬉しそうに笑うと、白ネズミもチチチと答えながら長い尻尾を揺らした。彩星の呼び出しで来たことは分かっていたから、一応再確認してみる。何か今、名前呼んでたみたいだし。
「白と黒でペアか、こいつら」
「うん、ご夫婦。黒のかんちゃんが男の子で、白のばくちゃんが女の子だよ」
「ほー」
やっぱり、俺にくっついてきた方がメスか。彩星はネズミと会話すればオスメスは分かるだろうけれど、さすがに俺は外見で判断することはできないから確認のしようがなかった、というか。いや、ひっくり返せば分かるのかもしれないけれど、そこまで余裕がなかったこともある。というか彩星、『かんちゃんとばくちゃん』ってそのネーミングは何だ。双方、ちゃん付けで呼んでるのかよ。
それと、連絡って。
「ということは、白と黒でテレパシー通信でもやったってか? 夫婦だから心がつながってるとか、そういうネタじゃねえだろうなあ」
「えー、何で分かったの?」
「……マジ?」
かなり冗談のつもりで言ったことが、どうやら当たったっぽい。まあ、つがいならそのくらいやってのけてもおかしくないだろう、と根拠もなしに納得することにした。大体、彩星の能力だってこっちは根拠も証明もなしに納得してるんだからな。もう慣れっこだ。
「……ま、まあいいことにしよう。ともかく、お前らのおかげで彩星が来れたのは確かみたいだしな。ありがとよ」
ネズミたちの頭を撫でてやりつつ、強引にこの話は終わらせることにする。元々微妙に世界観がずれている俺と彩星では、どうしてもこの辺の見解が違ってしまうのは仕方のないことだ。というか、俺にはネズミの言葉は分からないしな。今の俺のありがとうで喜んでいるらしいのは見れば分かるんだけど。
しかし、彩星を狙ってきた奴の目的は何なんだろう……とわざわざ考えるまでもなく、彩星の能力だろうとは推測できる。だけど、その能力を手にしてどうしたいのか、俺はその辺が分からない。分からないことは、彩星に話を聞いて推測するしかないか。彩星自身、妙な単語を口にしていたこともあるし。
「そういや彩星、さっき『あっち組』とか言っていたよな。そりゃ一体、どういう意味だ?」
「うん、割とそのままの意味」
質問に対してはまず、一言すぱんと返すのが彩星の特長ってところだろうか。特に専門の事柄に関しては、こういう説明の仕方をすることが多い。もちろん、最初の一言の後にはちゃんとした説明が続くから、こっちが置いてきぼりってことはないんだけど。
ともかく、いつもの通りならこの後解説が続くのが分かっている。ので、俺は彩星の解説を聞くために思わず背筋をしゃんと伸ばした。ネズミ夫妻もつられたか、二匹並んでじっと彩星に視線を向けている。
「私が開けることのできる扉のあっち側……つまり、私たちの世界とは違う、別の世界の人ってこと。ま、私も扉の向こう側の世界なんて詳しく知らないから、そういう人いるかどうかなんて知らなかったけどねー」
で、続けてくれた彩星の説明で、俺は何となく納得がいった。
彩星の使える能力は、『扉を開けて、別の世界とこの世界をつなげる』能力。そもそも俺たちのいる世界以外に世界がなければ、そんな能力は最初から要らないわけだ。つなぐ先の世界が存在しないんだから。しかし、動植物でも自分の意思を持っている世界に、こっちと同じような人間がいるもんかね。
「あー、それなんだけどね。扉の向こうといっても、世界は一つだけじゃなくっていろいろあるみたいなの。時と場合に応じてそれぞれの世界から、最適なひとを呼び出してくるわけよ。ま、一度つながった世界には通路をつなげやすくなるから、前回と今回が同じ世界、ってことは割とあるっぽいけどね」
「はー、そんなもんか」
なるほど。これはある意味、俺の思いこみだったな。確かに扉を開けた先が、全部同じ世界と限らないよな。この世界が一つだけじゃない、ということは、つなぐ先の世界だって当然一つじゃないことは簡単に推測できるし。第一今日……というかもう昨日だろうが、呼び出した白い狐と、今目の前にいるネズミ夫妻が同じ世界の存在、っていうのは微妙におかしいような気がするし。夕方の狐はいまいち現実味がなかったけれど、ネズミは露骨に存在感があるからな。
「うん。で、まあそっちの世界からこっちの世界に攻めてきたいって奴もいるっぽいのよね」
「うわ、ベタな展開だな。しかし、そういうのがいたとして、どうやってこっちの世界に来たんだろ」
「どうやってでも来られるんじゃない? こっちの世界に私がいるんだから、別の世界に似たような能力持ってる人がいてもおかしくないしねー」
「そりゃそーだ」
よく分かった。彩星、これまた大変に分かりやすい説明ありがとう。
しかし、別の世界からこの世界への侵略者なんて本気でベタベタな話じゃないか。侵略者ネタ自体がベタと言えばベタなんだけど……それはさておこう。
つまり、彩星と似た能力を持っているあの野郎は、異世界からの侵略者の尖兵だということか。それとも──奴自身が侵略者か。
「そうなの? 晶の好きなゲームとか漫画とかって、そんな話多いんだ」
「まーな。割と面白いぞ、パターンはいくつかあるけどな」
彩星はあまりその手の本を読まないせいか、不思議そうな顔をしている。いや、実のところ俺の好きなジャンルが、元々そういう話ばかりなだけなんだけどな。彩星と知り合ってから、意図的にそんな話を選ぶようになったってのもあるんだが。
専門的な本はちょっとまだ難しいし、少々高くて手が出しにくい。それに引き替え、ライトノベルとかゲームの攻略本とかをチェックしたりすると、そこそこ詳しい参考資料にはなるんだよな。最近、この手の本とかゲームとか多いから……ありゃ、彩星の指摘通りだな。これはまあ、時代がそういう方向に向かっているってことにしておこう。俺の趣味だけじゃない、と思わせてくれ。
それはともかく、ちょっと疑問に思ったことがあったので尋ねてみることにしよう。もっとも、彩星自身あんまり知らなそうなことだけどな。
「ん……その手の連中が今まで出てこなかったってことは、向こうでもそんなにいないわけか? その、お前と同じ能力の奴」
「へっ?」
俺の質問に、彩星は元から大きめの目をさらに見開いた。考え込むときに視線が上を向くのは何でだろう、としょうもない疑問を差し挟む暇もなく、彼女は再び俺に視線を向けた。自信満々ではなさそうだから、返答は彩星の推測によるものだろう。
「まあ、少なくとも多いってことはないでしょ。それにさあ、私と同じ能力なら長続きしないよね。タイムリミット、二十四時間しかないし」
「それもそうか」
彩星の推測を含んだ返答に、それでも十分納得させられた。
扉を開けていられる時間は最大二十四時間。リミットが近づくと、その扉から召喚された存在の能力が落ちる。具体的に言うと気分が悪くなったり体調を崩したり、それまで使えた力を行使できなくなったりするのだ。で、彩星は具合が悪くなった相手はすぐ帰すので、リミットを越えた場合がどうなるかは分からないのだ。ま、俺としても、いきなり別の世界に引っ張り出しておいて具合が悪くなっても放置、というのは人間としてどうかと思うしな。
だから、限界を超えた向こうに何があるのかは、知らない。知りたくもない。
「強制送還されるか、何かの要因で暴走するか……どっちにしろ、侵略者にとっちゃ勘弁して欲しい事態だよな」
他の回答があるのかもしれないけれど、俺の頭で推測できる事態はせいぜいこの二つ。いずれにしろ、侵略者側としては大変に都合の悪いことこの上ない。そんな効率の悪いことは、向こうさんだってやりたくないだろう。
何か、こちらの知らない解決方法があれば別だけど。
「そういうことさ。だけど、ものには例外というものがあってね」
不意に背後から聞こえた声は一瞬、遠くから響いてくるように思えた。一瞬頭がくらりとしたのは、その声ががんがんと響いたせい……だと思いたい。
「!」
「あんたっ!」
とっさに振り返り、身構える。彩星が素早く、そして音もなく俺より前に踏み出しているのは、俺を庇うためだろう。白黒ネズミ夫妻も、その足元で小さな身体を精一杯大きく見せようと尻尾を立てている。
彩星の後頭部、ポニーテールを飾っているリボンを見ながら俺は考える。この手の敵を相手にするときは、俺はてんで役に立たない。俺にできるのはせいぜい彩星のサポート程度で、こんな時には逆に足を引っ張ることになる。それでも、彩星のそばにいたいと思うのは、俺のわがままなのだろうか。
そんな俺の思いをよそに、あの真っ黒野郎が俺たちの前に出てきた。真っ黒野郎、と俺が名付けたくなるような相変わらずの黒一色のスタイル。割とどこにでもいる外見の野郎のくせに、見た瞬間俺の背筋に寒気が走った。
「……」
「大丈夫、晶。私がついてる」
思わず一歩引いた俺とは対照的に、彩星は奴を見上げたままびくともしない。やはり、越えてきた修羅場の数が違うんだよなあ。そのことを、改めて思い知らされた。
そして、その修羅場を俺に出会うまでは一人で越えてきた、彩星の強さも。
「あはは。やあ、彩星くん。うちの影犬がお世話になったね。修復に少し時間が掛かりそうなくらい虐めてくれちゃってさ」
「そりゃお互い様じゃない。あんただって、晶のこと拉致しちゃったりしてさ」
軽薄そうな笑みを浮かべ、彩星とその背後にいる俺をじろじろと見比べる奴。
こっちからは見えないけれど、恐らくは苦々しく顔を歪めているだろう彩星。
彩星の足元で、いつでも相手に飛びかかれるように低く構えているネズミ夫妻。
彩星といいネズミといい、小さな身体の連中に守られている俺は、ただ立ちすくんでいるわけにはいかなかった。全身を凍えさせている、奴から流れ出してくる寒気に必死に対抗しながら、俺は奴をじっと見つめる。彩星が苦手な、敵の観察。あいつが何を考え、どう動くのかを、俺は見ながら、聞きながら考える。
彩星ができないことをやるのが、俺の役目だから。今までそうやって、そこそこ上手くやってきたんだから。とどめを刺すのが彩星の役割だとしたら、そこまで導くのが俺の役割だ。
「……で、せっかくだから聞いておくぞ、てめえ。例外って何だ?」
あくまでも低音で、落ち着いたそぶりを見せながら俺は問う。質問内容は、たった今奴が口にしていた言葉の意味だ。
恐らくは、彩星の能力に付随する二十四時間という時間制限の例外ということなんだろうが……そんなもの、俺は今まで聞いたことがない。恐らく彩星も知らないだろう。
「教えてあげるよ。簡単なことだからさ」
そして、奴はにいと口の端を歪めて楽しそうに笑い、一つ頷いてから答えを口にした。それはまるで生徒に勉強を教える教師のようで、見慣れてはいるけれどこの場にはそぐわない感覚だった。
「別の世界にいられる二十四時間の間に、その世界の物と融合すればいい。僕の場合はそう、君や彩星くんのようなこちらの世界の人間とか、だね」
「世界に、自分がその世界の存在だと誤認させるため……か?」
奴の説明をそう理解したことに、俺自身が驚いた。しかし、そう考えれば分かりやすいと思っただけなんだが。
時間制限の二十四時間というのは、言い換えれば『扉をくぐってきた者が、呼び出された別の世界に滞在できる制限時間』ってことだ。つまり、そいつにとって今いる世界が『別の世界』でなくなれば、時間制限は外れる。だから、制限を外したい者はその世界にあるものを自分の中に取り込んで、その世界に属する者となる。
「彩星くん、君のパートナーは大変に頭の回転が良いようだね。彼を選んだことを、自慢して良いと思うよ」
「あんたに言われるまでもないわよ。晶がそばにいてくれて、私はとっても助かったんだから」
男の揶揄するような言葉に、彩星は精一杯胸を張ってみせた。……自分の背後にいる俺がどんな顔をしたか、見られなくて良かったと少しだけ思う。多分俺は、ものすごく嬉しい顔をしていただろうから。大事な友人に頼られていたという事実が、どれだけ誇らしいものであるか今やっと分かったような気がする。
その大事な友人を、その身に危険が迫ってはならないからと彩星は突き放した。彩星も……きっと辛かったんだろう、と思ってしまうのは俺のうぬぼれだろうか。
「なら、てめえもとうに何かと融合してんだろ。さっきの台詞からすると、てめえはこの世界の人間じゃないらしいしな」
「うん。彩星くんが一度つないでくれたことのある、この世界の人からすると『向こう側』の人間さ。もちろん、こちらの世界のものとは何度か融合しているよ」
にたにたと笑いながら、言葉を続けるあの野郎。ほんの一歩奴が踏み出しただけで、俺たちは一斉に身構える。当然だ、この空間は奴が作り出したもの。奴の考え一つで何が起こるかも分からないのだから。
「だけど、融合にはお互いの相性やバランスってものがあってね。自分が両方の世界から異物でないと認識されるような相手を探し出すのは、けっこう大変だったんだよ」
奴の演説はまだ続いている。この手の悪役は、少し調子に乗せてやれば自分の言いたいこと、言わなくても良いようなこともどんどんしゃべってくれるから、そこら辺は助かる。わざわざ探りを入れる手間が省けるからな。
「虫とかチンケな存在じゃあ、世界は認めてくれないし。一応犬までは融合したんだけどねえ、やっぱり人間じゃないとだめみたいだ」
「犬と融合……ん?」
この男が融合したこちらの世界のもの、と聞いて真っ先に思い浮かんだのは……実のところ、あの黒い犬だった。
俺を襲い、拉致し、恐らくはついさっきまで彩星とやり合っていただろう影犬。
あいつがこの野郎の手足となって動いていたのはつまり、元々は普通の犬だったのがこいつに融合され、文字通りこいつの手足として動いていた、ということなのか。
そこまで考えて、ふと思い当たる節があった。
「もしかして……あの犬は」
虫、犬、影犬、この世界の存在、融合。
断片的な言葉が俺に、つい最近起きた事件を思い出させた。
あれは今年の初め、カレンダーが新しい年のものになって、少し過ぎた頃のことだった。ちょうど学校が始まったくらいだったかな。今年は暖冬で、あまり正月という雰囲気はなかったっけ。もっとも、中学三年の正月なんてものはあまり浮かれてられないもんなんだけどな。
そう、時期は中学生最後の学期。受験戦争まっただ中……いよいよ本番目前ということもあり、教室は少々殺伐とした雰囲気になっていた。ま、俺や彩星はそもそも他に友人ができなかったし自分のレベル相応のところを狙っていたから、あまり関係ないんだけど。それでも、ぴりぴりとした空気はあまり気持ちの良いものじゃない。頭の良いやつはそれなりに苦労してるのがありありと分かったし、頭の良くない奴は自分でも行けそうなレベルに狙いをつけてやっぱりぴりぴりしていた。
で、まあそんな空気の中、ご町内ではちょっとした事件が続発していた。そのせいで余計に、町内も含めて空気が殺伐としていたわけなんだが。
最初は、同じ中学の一年生の家だった。その家では前の年からカブトムシの幼虫を飼い始めていたんだけど、その幼虫を収めていた水槽が破壊された。庭に散らばっていたのは水槽を形作っていた強化プラスチックが粉々になった欠片と、その中に敷き詰められていた腐葉土だけ。幼虫はまったく跡形もなかったという。ガラスの水槽なら、石やら何ぞのボールが飛んできて割りました、なんて可能性もあるけれど、何しろ強化プラスチックだったせいもあり犯人は分からずじまいだった。その家には小学生の弟がいて、そいつが成虫になるのを楽しみに育てていたらしい。その後、一度その家の前を通りかかったときに、やっぱり暗い雰囲気だったのを覚えている。
その次は、今同じ高校に通っている先輩の家だった。金属製の普通によくあるタイプの鳥かごがひっくり返されていて、飼っていたインコが消えていたらしい。蛇に食べられたなら結構派手に暴れるから羽なんかが飛び散っているはずだけど、そういう痕跡もなかったとのこと。餌と水は飛び散っていたらしいけど、それも鳥かごがひっくり返っていたせいだろうしな。結局あれは、インコが自分で器用に出入り口を開けて逃げ出したのではないか、という話になっていたんだっけか。もっとも飼っていた先輩は、そのインコが勝手に外へ出て行くわけがないって主張して、何度も何度も探していた。
そんな感じで後輩の家のハムスター、町内在住だった体育教師の家のフェレット、同級生の家のアメショー、うちのすぐ近所で飼われていたポメラニアン……と次々にペットが消えていった。だんだんサイズが大きくなっているということで順番を覚えていたんだが、ポメラニアンの次が確かシベリアンハスキーだったはずだ。彩星の家のすぐそばにある、これも古い家で飼われていた奴だ。このときは確か、寝る前に家の人がその存在を確認していたんだけど、朝起きたら首輪を残して消えていた、という話だった。彩星も見たことのあるそいつは大人しい奴で、首輪抜けだの脱走癖だのはまるでないということだった。そのせいか、何で逃げたのか飼い主にも分からなかったらしい。
あの後しばらくの間、電柱に『うちのペットを探しています』とか『この犬を知りませんか』とか手作りのポスターが貼られていたっけな。今でも探せば、色あせた紙が貼り付いたままの電柱やガードレールがあったと思う。町内中どこを見ても、誰かのポスターが貼り付けてあったもんな。
状況が状況だったこともあり、俺と彩星はこっそり調査を進めていた。こういう事件は自分たちの範疇だと思い、依頼が来ることを予想しての予備調査だったんだけど。けれど、結局犯人の正体も目的も、そもそも消えたペットの行方も分からないまま事件がぷつりと止まったために、調査は中断ってことになってしまった。依頼が来なかったのは、恐らく人的被害がなかったからだろう。人が消えていれば、もしかしたら彩星に調査依頼が来ていたかもしれない。この街では、いまいち警察は頼りにならないものらしいからな。もっとも、彩星に託したところでやっかい払いみたいなもんだけど。
──けれど、それからずっと、気に掛かってはいたんだ。俺も動物は嫌いじゃないし、彩星は扉から呼び出す相手が動物の姿をしていることが多いこともあってだろうけれど、俺以上に動物好きだし。
ハスキーが消えたのは三月の始め。俺たちの中学卒業と同時に、その事件は唐突に終わってしまった。数匹のペットの存在を、飼い主の前から消し去ったままで。
「灰色がかった毛並みの、青い目の犬だよね。尻尾の先が少し折れていたっけか」
野郎は俺が口にしていない、消えたハスキーの特徴を口にしてくれた。彩星もそれに気がついたのか、一瞬だけ背後の俺をちらりと振り返る。
間違いない、ペットを消した犯人はこいつだ。こんな形で見つけられるとは思っていなかったぞ、こんちくしょう。
俺の顔を見て何か刺激されてしまったのか、奴は得意げな顔になってなおも言葉を続ける。これはあれか、こっちが何も言わないのに自分の野望をとうとうと語ってくれる、アニメや特撮の悪役という奴か。そりゃ助かる、勝手にしゃべってもらおう。この際、そういう状況の時は圧倒的に向こう側が有利なのだということは無視する。
「あはは、言われて思い出したよ。あれは、僕が実験的に融合した個体の一つだね。まあ、あれはあまりに程度が低くて融合と言うよりは従属させた形になっちゃったけど」
からからと明るく笑う奴の顔は、だけど本心から笑っているわけではなかった。俺と彩星を見比べ、慎重に値踏みをしているかのように思える。俺が感じているだけだから、実際にどうなのかは分からないのだけれど。もしかして俺を怒らせたいのかもしれないけれど。
「そのおかげで困ったことに、僕の存在は中途半端になってしまったのさ。もっとも、それまでのネズミやイタチみたいに、存在そのものが融けてなくなってしまうよりはましだけどね」
ネズミ、イタチ。ハスキーの前に消えたハムスターとフェレットか。やっぱり、お前がペット消失事件の犯人だったわけだな。
大体、程度が低くてとはどの口が言うか。お前には、消えた可愛い家族を案じて夜も寝られなかった飼い主さんの気持ちが分かるのか。いや、分からないからそんな台詞を吐けるんだろうな。俺にはとても理解できないけれど。
そもそも、こいつがペットを捕らえたのは恐らく、こちらの世界での時間制限を無くすためだったはずだ。あれだけ食っちまったのなら、もう十分じゃないのだろうか。少なくとも俺や彩星を手中にする意味が分からない。
「……一つ聞きたい。何でハスキーでやめたんだ? もう懲りたからか?」
分からないことは、直接相手に尋ねるのが一番。この手合いの輩は、割と聞けば教えてくれそうだから……と思ったのが最大の理由だけれど、さてどうだろう。
「まさか」
俺の問いに、奴はフンと鼻を鳴らした。そりゃそうだ、懲りてりゃこんな訳の分からないことはしないだろう。
俺を拉致って、彩星を呼び出す。つまり奴の目的は。
「中途半端でない、二つの世界にまたがる存在になるためにはどうしても人間との融合が必要なんだよ。──金舘彩星、僕の相手には君が相応しい」
彩星、そのもの。
俺は彩星を呼び出すためのダシでしかない。
「僕は、余計な存在と融合してしまったために、バランスの崩れたかなり中途半端な存在になっている。ケイタイデンワの中を動くことはできるけれど、こちらの世界にきちんとした実体を未だ持ってはいないのさ。この結界の中でなら、ちゃんと実体があるけどね。これは結界自身、バランスが悪いからなんだけど」
奴が一歩、二歩と歩み寄ってくる。彩星は動かず、じっと奴を睨み付けている……のだろう。彼女の小さな背中は殺気にあふれていて、俺でもうっかり近寄ったら攻撃対象になるんじゃないだろうかと思わせる。
「で、そのバランスを戻すためにも僕は彩星くん、君と融合する必要がある。この中途半端な、バランスの悪い結界の中でね。そうしないと、既に歪んでしまっている僕の存在自体が修正されることはない」
俺たちの反応には構わずにそこまで言ってのけた奴の顔は、くらい喜びにあふれていた。欲しいものをやっと手に入れられた、ある意味ストーカーの笑顔。
「じょ、冗談じゃない!」
ああ、彩星の声がひっくり返っている。こいつのパニックに陥った声を聞くなんて、どれくらいぶりだろう。中学に上がったくらいからは、ほとんど聞いていないような気がする。ということは三年くらいぶりか。結構落ち着いてるんだな、気付かなかった。
そりゃ、奴の提案を彩星が即座に拒否するのも無理はない。どこの誰だか知らない奴と、融合して一つになれだなんて。エロいネタじゃあないとは思うけど、俺が彩星でもそんなことお断りだ。大体、そいつが二つの世界を平気で出入りするためだけに、あちこちのペットを取り込んで、罪悪感の一つも持っていない奴なんかと。
「うん、君ならそう言うと思った」
向こうもそのくらいのことは予測がついたのか、にやにや笑いながら彩星に答える。分かっているなら、そういうセクハラ発言はするんじゃねえよ。まったく、何でこう悪役ってのは趣味の悪いことをするんだか。趣味の良い悪役ってのは果たして存在するんだろうか?
っと、そんなことを考えている場合じゃない。奴の企みを見抜くのは彩星じゃなくて、俺の担当だ。俺が彩星の手助けをするようになってから、これが二人の間じゃ暗黙の了解になっているんだから。
あいつが何を考えているか……目的たる彩星ではなく、最初に俺を手にした。まずはその意味が分かれば。
「僕が直接彩星くんに交渉せず、まず人質を取った意味が分かるかい?」
「っ!」
突然、背後から口を押さえられた。顔にくるりと巻き付いているのは、やっぱり犬が変化した黒い布だった。元々は灰色のシベリアンハスキーだったはずの。
拙い、これじゃしゃべることができない……いや、全身が動かない。口元を抑えられているだけなのに、何で……と思って、気がついた。
この野郎、やっぱりさっき俺を気絶させたときに何かやりやがったな。何をされたか、どういう原理なのかは分からないけれど、要するに俺の身体はあいつの支配下に置かれてしまった、ということだ。自分の意識がはっきりしているだけに、これはきつい。何かをしようとしている自分を傍観者として見ていなければならない様は、まるで夢の中にいるみたいでもどかしい。
また俺は、彩星の重荷になってしまった。ちくしょう、こんなだから彩星は、俺を自分から引き離そうとしたのに。
「晶っ!」
そんな俺に気付いた彩星が、こっちを振り返っている。馬鹿野郎、敵に背を向けるのは拙いだろ。いや、人に注意できる立場じゃないしできないんだけどな。というか、奴の狙いはずばりこれか。
俺の命と引き替えに、彩星に自分との融合を承諾させる。自分は世界のくびきから解放され、こっちの世界で好き放題をやらかす。
ああ、本気でこの野郎はゲスだ。そんな奴に、彩星を渡してたまるか。
この際、惚れたはれたは何の関係もない。大事な友人を、むざむざ変態野郎に渡してたまるか。
あんな辛そうな泣きそうな顔をしてる、俺のパートナーを渡してたまるか。
「あはは、分かったみたいだねえ。さあ君、彩星くんを押さえてくれるかい?」
奴の声が、耳の奥で響く。嫌だと拒否したのは俺の頭の中だけで、俺の身体は迷うことなく腕を伸ばして彩星を抱きすくめた。
「きゃっ!? しょ、晶っ!」
──逃げろ、彩星。
動かそうとした口は、しかし影犬に押さえ込まれていて言葉を放つことができない。彩星の小さな身体は俺の腕の中に軽々と抱え込まれて、そのまま奴の目の前まで運ばれていく。
「はい、よくできました。そこでそのまま、彩星くんを拘束しておいて」
奴の台詞と共に、俺の身体は硬直した。長時間正座をした後立ち上がると、脚がびりりと痺れて上手く動かせないことがあるけれど。今の俺は全身その状態だ。
腕の中で、彩星が嫌がるようにもがいているのが分かる。感覚は全てそのままで、ただ身体だけが動かせない状態っていうのは本気でもどかしい。
「晶、晶! 大丈夫、ごめんね!」
俺の腕の中にいる、小さな彩星。自分が捕らえられているのに、口から出てくるのは俺を心配する言葉ばかりで、俺は心底済まないと思った。思うだけで口から出せないのが辛い。俺の身体は俺の自由にならなくて、奴の命令通りに彩星を拘束したまま立ち尽くしている。奴が、彩星と融合するのを手助けするために。
「……ん、ぐっ!?」
いきなり、口の中に何かがねじ込まれた。いや、何かというのは見なくても分かる。口元にへばりついて俺の発言を妨害している、影犬の身体だ。ゆっくりと、だけど確実に俺の口の中に潜り込んでくるそれは、布のような外見とは違ってどろどろの、味のないヨーグルトみたいで気持ち悪い。
「晶? 何、どしたの?」
彩星の声が耳に響く。ああ、いけない。もっとおとなしくさせないと。
──何でだ?
「あはは、上手くいっているようだね。彼は今、僕の影犬と融合しつつあるんだよ」
奴の声が頭の奥に響く。そうだ、俺は今、影犬に体内に潜り込まれ始めているんだな。この野郎、俺まで手下として取り込む気か。
「……卑怯者。晶を解放しなさい」
「いやだね。ここは僕の世界、僕の領域。君に指図されたところで痛くもかゆくもないよ。あくまで君との融合は本人の同意が欲しかったけど……もういいや。手に入ったんだもの。あはははは」
俺を盾にとって高らかに笑うあの野郎と、対照的に地を這うような声で吐き出す彩星。俺は何もできずにただ、胸元にいる彩星をじっと見ているだけだった。
彩星は、彼女には似合わない憎悪をこめた瞳で奴を睨んでいる。時たまちらりと俺と目を合わせては、一瞬だけ済まなそうな表情に変わる。いや、お前が俺に謝る必要性は今のところ全くもってないからな。俺と友人づきあいを辞めたがる件に関しては、後で話し合う必要があるだろうけれど、それもこの場を無事に脱出してからだ。
脱出できれば、の話だけれど。
そんな、ちょっとした俺の願いもむなしく、俺は首を軽く絞められた。ぎり、と食い込んでくる恐らくは影犬の一部による痛みと息苦しさに、うめく声も出させてもらえない。口の中に潜り込んだヨーグルトみたいな感覚は、どろどろと喉の奥の方へ移動を開始している。このまま飲み込んでしまったら、恐らく俺は、戻れない。
「そうだねえ。彩星くんの前に邪魔っ気な彼と融合させてもらおうかな。良くて僕の使い魔……下手すれば理性も自我も失くして、ただの泥になってしまうかもね?」
奴から聞こえた台詞に、すっと意識が醒めた。というか、頭が真っ白になって一瞬考えることを忘れた、って方が正しいだろう。
俺を拘束している、この黒い犬だったもの。
元は灰色のシベリアンハスキーだったもの。
俺もこんな風に、あいつに操られて誰かに襲いかかるようになるのか。
全身真っ黒になって、下手すると身体の一部や、全部がこんな風に布みたいになって、誰かをぐるぐる巻きにするようになるのか。
想像しただけで、効き過ぎのエアコンよりも全身が冷える。冗談じゃない、そんなものにされてたまるか。
──って、さっきからたまるかたまるかばかりだな、俺。けれど、正直そう言いたいことばかりだったから仕方がない。そして、自分ではどうしようもないことばかりなのも。あー、情けねえな。
頭が、ぼんやりしてきた。同化が始まったのだろうか、。そうでなければ、こんなに、頭がおもく、ならないだろ……。
チチッ!
チチチッ!
足元から、小さな声が二つ。ぼんやりしていた俺の意識は、その声だけでぐいと引き戻された。小動物の声って結構響くから、目覚ましにはちょうど良い。助かる。
見なくても、俺の恩人たちが誰かは分かる。白黒のネズミ夫妻が、足元からあの野郎を見上げて威嚇してるんだ。
ほんと良いやつだよなあ、俺を盾にして彩星を脅してるこの野郎と違って。二十四時間しかつき合いがないのが残念だ、ほんと。
「かんちゃん! ばくちゃん!」
彩星が、二匹を止めようとして声を張り上げてる。多分彩星は、ネズミ夫妻が囮になるつもりで鳴いているんだと思っている。いや、本当にそうなのかもしれないけれど、こればかりは当事者に聞いてみないと分からないなあ。
彼女の制止にも関わらず、ネズミの声はやまない。ちくしょう、あんな小さな奴らだって頑張ってるのに、俺には何もできないのか。何とかネズミの声で意識を保っている、この俺には。
「ふん。ネズミごときが僕にかなうと思っているのかな?」
その頑張っている奴らをああやって嘲笑う野郎に、どうにかして一矢報いたい。あのにやけているであろう顔に、鉄拳の一撃でもくれてやりたい。何とかしなくては。
せめて、一撃。
「彩星くん、このネズミを黙らせてもらおうか。うるさくてしょうがない」
奴はネズミ夫妻の鳴き声が耳障りでならないのだろう。彩星にそんなことを命じてきた。お前、さっきの見ていないのか? 彩星は止めようとしただろうが。ネズミたちが勝手に鳴き続けているだけで。
「私だって止めたいよ。でも鳴きやまないんだから、しょうがないじゃんか」
彩星もふて腐れているような、困っているような状態だろう。正直助かっているのは、その鳴き声のせいで自分を保っていられる俺くらいのものだけど。
……ということはこいつら、まさか俺が俺でなくならないようにするために鳴いてくれているのか? まさか、な。
「ああそう、そんなことを言うんだ。いいのかなあ、彼殺しちゃうよ?」
「……っ」
そして悪役はワンパターンにも、俺の生命を盾にとって彩星を脅しに掛かる。あまりにベタなパターンで、俺は影犬に侵入されていなかったら思わず吹き出していたところだ。代わりについ噛みしめてしまって、口の中から後退させてしまったけれど。
「ゲス。あほんだら、変態。人殺し」
悪態発動。こうなると彩星は、あまり頭が働かなくなる。外見からはいまいち分かりにくいけれど、頭の中が沸騰してしまうせいだ。こういうこともあって、考える担当は俺が請け負っているわけなのだけど、今の状況では考えたところで意見を彩星に伝えるすべも持たない。ただ、操られるままの腕が今までよりずっと力強く、彩星を抱きしめるだけだ。
「あはは、錠前様は人を罵倒するしか能がないんだねえ。いいよいいよ、僕と融合すればそんなこと、大した問題じゃなくなるんだからね」
「冗談じゃない! あんたみたいな変態と一つになるなんて、気色悪くて嫌!」
そんな俺をよそに、彩星と野郎のやりとりは続く。足元のネズミたちの声はなおも続いていて、時折奴の台詞を遮るほどに鋭い。しかし彩星、お前のボキャブラリーが専門外において貧困なのは認めるが、その感情にまかせた悪口はどうかと思うぞ? それに、多分この野郎は彩星を逆上させようとしてる。どうしてだろうと思ったけれど、まあこの手の理由は彩星の判断力を低下させるため、だろう。
「いいのかい? そんなことを言って」
ぎり、とまた少し首が絞められた。ここまで来ると、かなり呼吸がしにくくなる。しかめた顔を振り向いた彩星にちょうど見られてしまって、それが悔しい。こんな顔を見せてしまったら、彩星はあいつの言葉を受け入れるかもしれないから。
それにしても、この手の野郎はとんでもなく腹が立つ。自分が有利だからと、相手を見下していたぶって好き放題するような野郎は、俺の嫌いなタイプだ。
「……分かったわ。あんたがあくまでも晶を解放しないっていうんなら、こっちにも考えがあるんだから」
低い声が、俺の思考を遮った。はっと視線を戻すと、顔を伏せた彩星がじっと立ちつくしている。ネズミの声はいつの間にか聞こえない。多分、足元にはまだいるのだろうけれど、何かを待っているのだろうか。
──う、やばい。また意識が遠くなってきた。ネズミ夫妻の声と奴への怒りで何とか意識を保たせていたけれど、口の中にある影犬の欠片が活動を再開したようだ。もぞもぞと、ゆっくりと、俺の喉へと向かっているのが舌に触れる感覚で分かる。
ここで落ちたらおしまいだ、と俺は必死で意識を保つ。腕の中で怒りに震えている彩星と、その彩星を楽しそうに眺めているあの野郎をしっかりと視界に焼き付けて、それを自分への叱咤に変換する。
「へえ。君の考えか。それは是非伺いたいものだね……僕の手のひらの中で、君が一体何をできるのか」
「……っ!」
奴の嘲笑に、俺の腕に捕らえられたままの彩星がもがく。俺だって放してやりたいけれど、相変わらずこの身体は俺の思うままには動かなくて、だから俺は奴の目の前で、がっちり背後から彩星を抱きしめているというよく考えたら照れくさくなるようなシチュエーションになっていた。うわ、意識したらマジ恥ずかしい。
「……晶、大丈夫だからね。私と一緒に帰ろう」
そういうしょうもないことを考えている俺に対し、彩星が下から見上げてにっこり微笑んでくれた。彼女の右手の中に、何かを握り込んでいるのが見える。あれは……食玩のおまけについている、小さな家だろうか。
俺が昔、彩星に教えたやり方だ。日本家屋や結界なんかで、周囲に彩星が使えるような扉がない状況に陥ることが予測できる。そういったときのために、ああいった『つまみを回してふたや扉を開く』タイプ箱なり玩具なりを一つ二つは持っておく、というやり方。事前に誰ぞを召喚しておく、ってパターンは以前からやっていたようだけど、それ以外にも手を考えておくのも悪くないと思ったからだ。今回の白黒ネズミ夫妻は、たまたまとはいえ事前召喚パターンになったわけだし。
しかし、もうそんな時間なのか? 時計もケータイもないから、今何時か分かったもんじゃない。もう夜明け一時間前を通り抜けたのだろうか。……そうでなければ、彩星が扉を準備するはずはないか。
「おや。そんな物を持ち込んでいたんだねえ、彩星くん」
奴も気付いたのか、楽しそうに笑う。その笑いに反応したのか、俺の右手が伸びて彩星の手首を掴んだ。手の中から無理矢理玩具をもぎ取ったが、彩星は一瞬顔をしかめただけで、何も言わない。
まずい、な。
周囲には扉がない。多分、今この状況で開けられる扉はこの玩具だけだろう。
その前に、あっちのペースに戻されてしまう。このままだと、彩星はあいつに取り込まれる。それだけは何とかして止めたい。止めたいのに、俺の身体はあいつの思うがままに使われている。ちくしょう。
「このくらいで、私が負けたと思ってる? ばーか」
だから、彩星の強がりとも思えない台詞を聞いたとき、俺はぽかんとしてしまった。だってこの状況で、逆転の可能性なんて、どこにも──あ。
チチッ!
チィッ!
耳元でバリ、ビリと布を引き裂くような音がした。次の瞬間、口の中から慌てたように影犬の破片が飛び出してくる。口元を覆っていた黒い布と合体し、するすると俺から離れてあの野郎の元に滑り寄っていく。それと同時に、俺の全身にまとわりついていたしびれがすっと消え失せた。指先を軽く動かしてみると、ちゃんと自分の思うように動かせる。それで、合点がいった。
「そうか、あの影犬のせいで操られていたんだな」
多分、気絶させられた後俺は身体のどこかに影犬の破片を貼り付けられていたんだろう。あの野郎に融合され、その一部と化した影犬をアンテナにして、あいつは俺の身体を操っていたわけだ。口から潜り込もうとしていたってことは、体内侵入はなかったわけだ。いや、体内じゃなくてよかったよ、ほんと。
「彩星、ほら」
さっき彩星から奪った玩具を、そのまま彩星の手に戻す。彼女は俺を見上げ、にっこりと本当に嬉しそうに笑った。うーむ、そんな顔で見られると罪悪感があるなあ。一時期でも操られて、お前を裏切ったってことで。
「ありがと、晶。もう大丈夫だからねっ」
「すまん、手間掛けた。ネズミたちもありがとな」
俺の両肩にそれぞれ乗っている白と黒のネズミが、チチッと鋭い声で返事をくれる。影犬の欠片を自分の中に取り込んで、奴が僅かに俺たちから距離を離すのを視線の端でチェックしつつ俺は身構えた。今度は背後にも気を配る……前面は彩星に任せておけばいい、俺は彩星のサポートが自分の任務だと分かっているから。
「へへ、この手は晶が教えてくれたんだよ。自分に不利な状況に持ち込まれる可能性は十二分にあるから、こういうものをちゃんと準備しておけってね」
手の中の小さな扉を奴に見せつけるように掲げる彩星。彼女の細い指先が、小さいながらも精巧に作られたドアノブをつまんだのが、俺の目からもはっきり確認できた。そして、恐らくは既にその扉からつなげるべき別の世界を、彩星が選び出しているであろうことも。。
「ふうん、僕が優しくしてやっているからといって付け上がるなんて。いい加減にして欲しいね、錠前様」
と。
不意に、奴の声色が変化した。さっきまでの彩星みたいに、その声は地を這うように低く、何かを押さえ込んでいるように。それはまるで、自分のわがままを受け入れてもらえずにふて腐れる誰かのようで。
「仕方がないね。二人まとめて、生きたまま食らってあげるよ。言っただろう、この結界は僕が作り出したものだと」
さっと奴が手を振ると、足元からにゅうと黒い布が伸び上がってきた。影犬の奴、もう復活したのか。ま、布をびりびり引き裂いたくらいじゃあ簡単に修復できるんだろうな。実際の布と違って、わざわざ縫い合わせたりする必要はないだろうし。
「はん、甘いこと言ってんじゃないわよ。扉は開く。あんたの負けよ」
彩星は俺を庇うように、堂々と立っている。ちっぽけな扉を構え、そのドアノブをいつでも開けられるように指先でつまんで。
俺は彩星の背中を守るために、せめて彼女には負けないように堂々と、胸を張って立つ。彼女の横にいても良いのだと、胸の中で自分に言い聞かせた。
そうして、やっとこさ気がついた。
……ああ、そうか。
俺、彩星のこと好きなんだな。もしかしなくても。
だって、嫌いな奴をこんな風にいたぶられたって、ここまでむかむかすることなんてないだろう。そりゃ、気分は悪いかもしれないけれど、だから何だって思うだろうな。
少なくとも、大事な友人であることには間違いない。この際、恋愛感情はあっちに置いておこう。吊り橋効果、とか言うのを聞いたことがあるからな。後で冷静になってから判断すべし。
「第一、彩星くん。君はそんな小さな扉で、この状況をどうするつもりだい?」
奴はふんと鼻を鳴らし、それからいやらしい笑みを浮かべた。確かに、影犬相手にそのちっぽけな玩具で何をしようというのか、分からないだろう。俺には何となく、当たりがついたけれど。
以前、桜の木の中に閉じこめられた時に彩星が呼び出したのと、似たようなやり方であることには間違いない。あれが一番手っ取り早くて……
「あんたを倒すにはコレで十分だよ。いや、これでも大きいくらいかな」
……小さな扉で、十分役に立つ。
「へえ、それはそれは。どうやって僕たちを倒せるのか見せてほしいね! 影犬、錠前様を捕らえろ! 男は殺していいぞ!」
奴は、呼び出す相手を推測することはできなかったようだ。自分が有利であると思いこんだまま、手先である影犬に命じる。そうか、やはり俺は邪魔みたいだな。だけど、彩星が目当てなら余計に渡すわけにはいかない。
「ぐぉわおぅ!」
黒い犬の姿を取った奴が、素早く飛びかかってくる。彩星を狙ってくるだろうことは何となく分かったから、俺は素早く彩星の前に回り込んだ。あいにく、好きだと気がついた相手を他人に取られるわけにはいかないからな。
「く……え、晶っ!?」
「彩星、扉開けろ!」
長い鼻面を左手で何とか受け止め、右手で犬の前足を掴む。その態勢のまま背後に回した彩星に叫んで、俺は犬を思い切り蹴飛ばした。きゃいんと悲鳴を上げながらも、影犬は空中で一回転して上手く着地を決める。お前は猫か。
「あ、うん! 接続!」
一瞬ためらった彩星の声が、聞き慣れた単語を弾き出したのを耳で確認。視線は再び、今度は俺目がけて飛びかかる影犬を捉えたままだ。
俺は格闘技とかやってるわけじゃないから、ちゃんと迎撃できるとは思ってない。いざとなったら片腕潰すしかないかな、と思い、左腕を顔の前に出して盾代わりに構えた。と、その腕の上にちょこちょこと駆け上ってくる、白と黒の小さな姿があった。
「がおおおおおん!」
チチッ!
チイッ!
俺を守るように鋭く鳴きながら、ネズミが飛びかかってきた黒犬の鼻に噛みついた。勢いよく首を振ると、その部分を形成していた黒い布がびりっと破れて解ける。
「きゃあんっ!」
いくらあんな姿になってしまっても、よっぽど痛かったらしい。黒い犬が布になってしゅるるっとほどけ、ざあっと奴の足元に引き戻される。これで助けられたのは何度目だ? ありがとうな、ネズミ夫妻。
「何をしている! 早く、彩星くんを……」
「開門、一軍様ご案内!」
自分では何もしないまま焦りの声を上げる奴の台詞をかき消すように、凛とした声が響いた。振り向いた俺の視界の中で、彩星の指先が小さな小さなドアノブを回し、ほんの数センチしかない扉を開く。
「あいつと影犬だけを平らげろ、サムライアリ!」
叫ぶと同時に、俺の肩越しに彩星が放り投げた小さな扉。その中からぶわっとあふれ出したのは、黒い煙にも似た無数の、小さなアリたちだった。
サムライアリ。
俺たちの世界にいる奴は確か、ジャングルの中とかにいて、みんなで旅を続けている肉食性のアリ。獲物を見つけたら一斉に群がって、あっという間に骨にしてしまう。
──例え、人間でも。
彩星の呼び出した世界のサムライアリも同じようなものだろう。あまり、特性は変わらないものだ。
桜から脱出するために、木を食いまくるシロアリを呼び出した時のように。
「晶、下がって。危ないから」
「え、あ、そっか」
彩星に促され、慌てて距離を取った。彩星は扉を開くときに平らげる相手を限定したけれど、万が一ということもあるからな。危ない危ない。
「な、何……?」
呆然としている奴の目の前で、次から次へと、扉の中から盛り上がるようにわき出てくるアリたち。獲物を求めていた無数の虫たちは、まずネズミたちに咬みちぎられたせいでびびっているらしい影犬に集り始めた。黒の身体に黒のアリがたかっているせいか、こちらからはよく見えないけれど。
「──!!」
うわ、途端に影犬の奴、暴れ始めた。どうやらあのアリたち、犬の身体を頑張ってむしっては食べむしっては持ち帰りしてるらしい。あっという間に黒い身体が縮んでいき、見えなくなる。
犬を食らい尽くしたアリたちの次の目標は……そのすぐそばにいた、あの野郎。元々彩星がその一人と一体を目標とするように呼び出したんだけどな。
「な、ななな……」
目の前で、アリに食われて消え去った犬を見つめて呆然としていたあの野郎が、それに気付いて慌てて逃げだそうとした。けれど既に時遅く、無数のごま粒にも見えるアリたちがその身体をせっせとよじ登っている。
「うわ、やめろ、お前ら、たかがアリ、ありだろっ!」
黒い服を着ているからあまりはっきりとは確認できないけれど、その黒い服を必死にはたいてアリを落とそうとしている奴の狼狽えぶりはこの目で見て取れる。サムライアリのあごはしっかりしてるぞ、軽くはたいたくらいじゃとても落ちやしない。
「晶、帰るよ」
呆然と、暴れまくる奴の様子を見ていたら、彩星が俺の手を取ってくれた。見上げると、いつもの見慣れた笑顔が俺の目に入る。うん、やはりこれを無くすのはもったいない。絶縁はなかったことにしてしまおう、彩星がなんと言おうともと思いつつ、ゆっくりと立ち上がった。ふう、とりあえず大した怪我はないみたいだ。良かった。
「ぎ、彩星、くんっ、これ、これを、止め……ひいっ!」
奴の悲鳴が響く。涙声になってしまっている奴の様子を探ろうと視線を向けかけて、彩星に「駄目」と軽く頭をはたかれた。彩星、その顔は幼児を叱っている母親の顔に似ているぞ。俺は幼児じゃない、お前さんの同級生だ。
「見ない方がいいよっ。多分夢に出ると思うから」
「そんなにえぐい……んだろうなあ、きっと」
「ぎゃあ! や、やめろ、僕が、こんなあっ!」
反論しようとして、俺は口を閉じた。影犬を綺麗さっぱり平らげたところから見ると、恐らく奴も綺麗さっぱり食べられてしまうんだろう。影犬は全身……体内に至るまで真っ黒になってしまっていたみたいだから良かったけれど、うん、その先は口に出すのもおぞましいからやめておく。
背後の悲鳴はまだ続いているけれど、あえて耳を塞ぐことにした。悪いな、こっちも自分の生命がかかってたわけだから。それと、自分の精神衛生上、お前の存在は良くない。ごめんな、成仏しろよ。
「ほら、行こう」
「あ、ああ」
くい、と彩星に手を引かれて、俺は走り出す。一緒に走ることは時々あったけれど、こうやって手に手を取ってってのは俺の記憶を探った限りじゃあ……うわあ、つきあい長いのに本気で初めてのことだった。マジかよ。
「ま、待てっ! あや、せ、ぐ……ぐぉあ、ああああああああっ!!」
断末魔、というやつだろうか。そんな悲鳴を背に、一度も振り返らずに俺たちは白い我が家の階段を駆け下りる。玄関までやってくるとそこに、白と黒の小さな個体が待っていた。お前ら、いつの間にかいなくなっていたと思ったら、こんなところにいたのか。
「かんちゃん、ばくちゃん、ありがとね。おかげで晶、助かったよ」
「そうだな。助けてくれてありがとう」
彩星と俺がそう言葉を掛けると、仲の良い夫妻は嬉しそうにチチッとハモってみせた。それから、家でいうと玄関の扉部分に当たる引き戸を差して俺たちを見上げてくる。結界への出入り口は玄関だったんだな。へえ、変なところで現物と同じ機能なんだ。玄関は家の中と外とを繋ぐ扉、だものな。
「さあ、急ごう。結界を作っていた術師が消えたら、結界もなくなっちゃうよ」
奴がいなくなったのに、周囲を異様に警戒しながら彩星が口走った。そりゃまた、かなりベタな展開ではあるな。だけど、結界というものが作った者の精神力だか魔力だかで維持されていて、そいつがいなくなったら消えてしまうなんていうのは割にベタな展開だろう。当然そのくらいの予測はできたし、それにここは玄関だったから、あまり焦ることもない。
「ああ、行くか」
だから彼女の足を進めるように彩星の背中を叩いて、俺は戸を開けた。意外なほど、するすると軽く開く戸を。