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5.彩星と黒ネズミ

「入りまーす。すぐ出て行くからねー」

 わざとらしく明るい声であいさつしてみせる私の目の前で、もやでできた引き戸が自分の意志を持っているかのようにすっと横に開いた。用心しながら中に入った私の目に入ったのは、白いもやのようなもので構成された玄関と廊下。外から見たよりも大きな空間が広がっていることには別に驚かない。こんなこと、いくらでもあるわけだし。

 それにしてもこの間取り、多分晶の自宅をモチーフに構成してあるんだろうなあ。こんな形でおじゃまするとは思わなかった。ともかく、失礼させてもらおう。

「……家一軒分とすると、妙にちんまい結界ねえ。ま、いいか。この方が楽しい」

 弱気に出ると向こうが付け上がりそうなので、私はまず玄関の三和土で仁王立ちになり、周囲をぐるりと見回した。それからわざと強めの口調で吐き出しながら、土足のままどかりと上がり込む。

 本来の家であれば玄関で靴を脱ぐのは当たり前。だけどここは本来の家じゃないし、敵に対して礼儀をわきまえるほど私は大人じゃない。それに、そんな小さなことより晶を捜すのが最優先だ。私のせいなんだから、ちゃんと助けないと。

 晶にいつも言われてることを、私は珍しく頑張ってやってみた。つまりは戦場の……この場合は晶の家を模した結界の間取りの確認。

 ええと、玄関を入ったところから右に、部屋があるであろう印の戸が一つ。真っ正面のやや右にずれたところには別の部屋──多分台所へと続く廊下が広がり、左には元は洗面所らしい小部屋が左のドアの隙間からちらっとだけ見えた。その横に階段があり、二階へと続いているみたい。階段が家の中央部分にあるのはごく普通なのかな? うちは敷地面積と古いのが取り柄の平屋だから、その辺良くわかんない。

「はー。なんでこう、生活感のある結界作ってんだか。ま、いいけどさ」

 きょろきょろと記憶ついでに内部を見回しつつ、慎重に足を進めていく。頭の中で、外からしか見たことのない晶の家の中を再構築しながら。ごめんね晶、晶の親御さん。これが終わったらもう近づかないから、今回だけ許してね。

 確か晶、自分の部屋は二階だって前に言っていたことがある。何の脈絡もないけれど、この結界でも晶はその部屋にいるような気がした。ちらりとかんちゃんに視線を向けると、彼もチチッと鳴いて頷いてくれてる。うん、かんちゃんのお嫁さんが一緒にいるはずの晶は二階だろう。これは間違いない、と思う。私よりかんちゃんの方が、きっと感覚は鋭いから。

 面倒はいやだし、この結界はどうにも居心地が悪い。他人の結界に入り込むのは平気だけど、元が晶の家だからだろうか。ともかくさっさと片付けよう、と階段に向かって数歩進んだところで、きしりと妙な感触が足元からした。途端、危険だと頭の奥から警報が響く。

「っと!」

 とっさに飛び退いた私とかんちゃんの、たった今踏んでいた部分が下から爆発するように弾けた。もやとなって消えていく床だったものの中から飛び出してきたのは黒い大きな犬。ぱっと見はシベリアンハスキーくらいの大きさだけど、もしかしたらオオカミなのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいか。

「この!」

 着地と同時に床を蹴り、反動を利用して犬の顔面に足の裏を叩き込んでみる。体重は軽いながらもクリーンヒット、と思ったんだけど次の瞬間、その犬はしゅるっと犬の姿をほどいた。ふわりと分解し、布状になったその身体が衝撃をやり過ごす。

「ありゃ?」

 そんなことされると、小柄でスピードだけが取り柄みたいなところのある私の身体は勢いがついたまま止まらない。びろんとカーペットみたいに広がった布のど真ん中に、私は狙ったように着地してしまった。

 慌てて布から脱出しようとした私の足首に、黒い布がしゅるりと巻き付いた。はがそうとする暇もなく、私はひょいと持ち上げられる。あっという間にちんちくりんな私は逆さづりの状態。うう、スカートの下にスパッツ履いておいて良かった。

『お前よく暴れるからさあ、そのくらい履いておけよな。見えるぞ』

 顔を真っ赤にした晶が忠告してくれなかったら、下着全開で恥ずかしいことになっていたなあ。昔は下にブルマとか履いていたらしいんだけど、それはそれで違う趣味の人を喜ばせるだけのような気がする。

「ってそうじゃなくって! ちょっとこら、何考えてるんだー!」

 それはともかく、この状態ではサンドバッグになること請け合い。何とか外してもらおうと、腕をぶんぶん振り回しながらぎゃあぎゃあわめいてはみるけれど、その程度で人ならぬ存在が怯むことはまあない。布は数本に枝分かれをしてみせ、その一本一本が両手両脚を確実に巻き取ってくれた。まあ、見事に拘束されたわけだ。妙に落ち着いているわけではない。パニック起こした頭が、状況の変化について行けないだけ。

 私は『扉を開く』ことしか能がない。学力も大して高くはないし、小柄なせいか筋力も低いので逃れられないのはしょうがないというか。実際、体力測定じゃあ万年平均以下だし。少しは鍛えてるつもりなんだけどなあ。

「こらぁ、卑怯だぞー! 私はいいけど、晶を放せー!」

 身動きできない状態にされても、パニック起こしていても、私の口は言葉による抵抗だけはやめない。こっちだってこんなことは多少なりとも想定内なんだから、それなりに作戦は練っている。大したことのない作戦だけど、敵さんが私狙いで私しか見えてないんなら有効なはずだ。大体本気で私を攻撃してこないのも、私にダメージが入ったら困るからだろう。いや、この状況だといずれダメージは来るんだけど。主に頭がくらくらする、という形で。

「やーい、卑怯者ー! 私が怖いから出て来られないんだろー!」

 あまりボキャブラリーが豊かじゃないのは自覚してるから、ともかくバリエーションの少ない悪態をつきまくる。そうやって時間稼ぎをしながら私は、以前にあった事件のことを思い出していた。逆さづりにされてるせいで頭に血が上ってくるのがしんどいけど、それは仕方のないことだ。


 中学校に上がった年の夏休み。私と晶は、街の図書館で宿題をやるのが日課になっていた。私は晶の母親から嫌がられていたし、晶を私の家族……というか同居人に会わせるのは私が嫌だったしで、そんなことになっていたのだ。晶は私と会うとは言わずに家を出ていたみたい。後でばれてそうだけど、怒られなかったかなあ。その辺、晶に聞いても教えてくれなかったから、私は知らない。

 もう一つ理由があった。何でも夏休みに入ってから、朝職員さんがやってくると本が散らばってるのだという。実はこっそり何とかして欲しい、って言われてたからできるだけ入り浸り。だけど、尻尾を出してくれなくて分からなかったのよねえ。

 一人じゃできないことも、二人なら何とかなる。その精神で宿題を頑張りまくったおかげで、月が変わる前には双方得意じゃない数学と英語が片付いてしまっていた。そうして仮想敵の様子を見るという名目の元、晶が得意だと胸を張っている国語の課題に取りかかった。私はちまちま晶に見せてもらっていたものの、それでもほとんどは自力で進めていっていた。

 四十日の長期休暇の代償として与えられた課題はなかなかの分量だったけれど、その一角を崩したということでそれなりにテンションを上げて取り組んでいたことを覚えている。当時は何でこんなのやらなくちゃいけないんだろう、先生はいいなあって思っていたけど、後で考えてみたら教師は、休み明け早々に最低でもその課題かける数十人分のチェックがあるんだよね。そっちの方が大変だ。そもそも夏休みだって教師がのんびり休めるわけでもないだろう。部活動やら生活指導やらあるんだから。

「お二人さん、そろそろ閉館だよ」

 その日も宿題を解くのに必死になっていて、職員の人が声を掛けてくれるまで私たちは時間の経過に気付かなかった。私が気付かなかった、職員の人も時間まで声を掛けてこなかったということは、つまり何も起きなかったということだ。

 呼ばれてはっと周囲を見回すと、既に図書館の中には人がいなくなってる。ただ無音の中に、私と晶とその職員さんだけがいる。

 声を掛けてくれた職員さんは、普段見ない顔だった。夏だから交代で夏休みでも取っているのかな? その辺、図書館の勤務形態とか私はよく知らないから分からないんだけど、ともかく初めて見る人だった。

「あ、すみません。ありがとうございます……彩星、帰るぞ」

「うん。おじさんありがとう、毎日来てごめんね」

 ばさばさと慌てて文房具をカバンに詰め込み、深く頭を下げた。顔を上げると、おじさんはにっこり笑って頭をなでてくれる。

 ……なんだろう。

 寒気がした。

「いやいや、気にすることはないんだよ。こちらとしても、錠前様が来てくださるのはありがたいことだからねえ」

 にやぁり。

 一瞬、おじさんの顔が歪む。反射的に私は椅子を蹴り、晶の肩を押しながら飛び離れた。晶も、私の反応に何かあるのだと気付いてくれたんだろう、すぐさま走り出してくれた。逃げるが勝ち、とばかりにカバンを手に持ったまま出口へと駆け出す私たちの背後から、ばさばさと音をたてて何かが追いかけてくる。ちらりと視線をそちらにやった晶が、素っ頓狂な声を上げた。

「って、何だこりゃ!?」

「何でも良いわよ! とにかく逃げるの!」

 私も視界の端で、音の正体を確認した。この場では妙に聞き慣れた音を背に、とにかく走る走る。何しろ追いかけてくるのは、図書館ならば当たり前のように存在するハードカバーの本たちだったからだ。子供向けの童話とかならいざ知らず、百科事典やら大判の図鑑まで飛び交っているあたりがかなり怖い。あんなのに体当たりでもされたら、痛いことこの上ない。特に角なんてぶつけられた日には、痛すぎて泣いてしまうだろう。もっとも、打ち所次第でそれどころじゃなくなる、ということは後で気がついた。

「あ、やべ! 開かねえ!」

 先に入口までたどり着いていた晶が、がちゃがちゃとドアノブを回している。閉鎖空間の出入り口に鍵を掛けて出られなくするなんて常套手段、使ってくれてありがとう。まったく、どうしてこう悪者ってのはワンパターンなんだろう。

 だけど、相手は忘れている。

 私が『鍵』だってこと。

 その私の能力を狙って来ているに違いないのに、お間抜けさんだ。

「晶、ごめん! ちょっと盾になってて!」

「あ、こら! ったく!」

 私が頼んだら、晶は理由も聞かずに聞き入れてくれた。扉に向かった私を守るために、顔の前でカバンを盾にしながら本たちの前に立ちはだかってくれる。何が理由かはともかく、暴れる本たちを何とか叩き落とさないと先に晶が、その後私が痛い目に遭いまくる。それにはまず、推定黒幕である知らない職員さんを抑えるのが先決だ。

 私は、私にしかできないことをする。

 幸いこの図書館の閉館時間は午後六時、夏至を一ヶ月以上過ぎているこの時期なら『日没前後一時間』にばっちり入っている。新聞見て日の出日の入りの時間を調べておくくらいは、晶に言われる前から私でもやっていることだ。そしてそのおかげで、今はありがたいことに私の時間だということも知っている。

「は、早めに頼む!」

 ばしばしと本が晶の身体にぶつかる音が、背後から聞こえてくる。「分かってる!」と答えながら、私は大きく深呼吸をした。そうして、両手をドアノブにかける。

 ドアノブからつながっている中身、つまるところのドアの鍵は、物理的に施錠されているわけじゃないようだ。つまり、職員さんに化けた何者かが、その力で開かないようにしているだけ。これなら何とかなる。

「接続」

 私が一言呟くと、がちゃりと音がした。私がこの扉を『別の世界』とつなげる時に、扉には晶が言うところの魔力が流れ込む。その力は強大で、扉がいわゆる魔力とか妖力とかで開かなくなってる場合ならその力を相殺できてしまう、んだそうだ。要するに、ちゃんと鍵が掛かってない扉なら魔力で閉じられていても私が開けられる、ってことなんだけど。普通に鍵が掛かっている時は無理なのが、この能力の限界。

「晶!」

「おうっ!」

 彼の名前を呼ぶと、晶は返事を飛ばしてくると同時に横っ飛びで扉の前から離れた。入口にある観葉植物の向こう側に潜り込んだのを確認して、私は勢いよく扉を開いてみせる。

「開門! おいでませ、アイビーアタック! 黒幕拘束!」

 その時だけ英語で呼んだのは、確かたまたま辞書で見て覚えた単語を使いたかっただけだったはず。なんだけど、どうだったか今では思い出せない。ともかく、扉の中から全開のシャワーみたいに『吹き出して』きた大量のツタが、一気に本たちをはたき落としかき分けていく。その向こうにいるのは、職員さんの姿をした今回の黒幕さん。

「な、なっ!?」

 驚いて動きを止めていた黒幕さんに向けて、ツタたちが我先に襲いかかる。一斉にその手足を絡め、天井近くまでつり上げられた黒幕さんは、自分の状況をゆっくりと確認してから少しだけ微笑んだ。その表情は何だか余裕ありまくりって感じで、精一杯頑張っているつもりのこっちは気分が悪い。

「ち。そのような特性があったとは。我ながらうっかりしておりましたぞ、錠前様」

「うん。私も教えてもらうまで知らなかった。で、あんた何?」

 晶にはそこから出てこないよう後ろ手で合図しながら、黒幕さんに声を掛けてみることにする。襲われた側としては、向こうの事情とか聞いておかないことには気分が悪くてしょうがない。仲間がいたりしたら、お礼参りがあるかもしれないし。

「何と言われましても……本、でございますが」

「本?」

 黒幕さんにあっさり名乗られて、ちょっと驚いた。確かにここは図書館だから、本がたくさんある。多分、奥の倉庫とかには古い古い本だってあるんだろう。前に付喪神とかいうのを聞いたことがあるけれど、そういう古い本が人格を持って妖怪になっちゃって、人間の姿をして出てきてもおかしくはない。この世界は、そういうところだ。人間の知らないところで、人間じゃない者たちが生きている。この世界でも、私の開けられる扉の向こうでも。

 だけど、その本さんがどうして私を襲ったんだろう? 考えてもよく分からなかったから、ご本人に尋ねてみることにした。

「どうして私を襲ったの? 教えて」

「それはもう、最近のお子様たちはあまり本を大事にしてくださらない故。この世界を脱出せねばならぬ、と思うた次第でございます」

「あー、最近多いって話聞いたな。落書きしたり、ページ破ったりするんだろ」

 黒幕の本さんの言葉の後を継いだのは、ひょっこり顔を出してきた晶の台詞だった。振り返ると、私がツタを呼び出した扉の横に大きくポスターが貼られている。

『図書館の本はみんなの物です。大事に扱いましょう』

 建物の入口そばの掲示板にも、同じポスターは貼られていた。それと、カウンターの奥の机にいくつか積み上げられているのは、破れたり壊れたりした本の山だ。これから修理するのか、それとも燃えるゴミなり廃品回収に出すなりして捨ててしまうのか。それは私には分からないけれど、でもその本たちは、古くて読めなくなったものじゃない。破れてなければまだまだ読めそうで綺麗なものばかりで、確かに当事者としてはこんな形で捨てられるのは腹が立つだろう。私だって腹が立つ。自分の家の方がよっぽど長持ちしているからなんだけど。

 だけど、それとこれとは別の話。

「だからって、何も実力行使はないよねえ?」

 こっちも迷惑被ってるんだから、とツタぐるぐる巻きの本さんを見上げる。確かに悪いのは人間だけど、だからといってこんなことをしなくてもいいじゃない。もっとも、これまでは夜の間に本が散らばってるだけで私たち以外の人には迷惑を掛けていないみたいだから、それが幸いかな。

「申し訳ございません。ですが、我らはもう我慢がならぬのでございます──御免」

 黒幕さんが悲しそうに目を閉じて、そう言った瞬間。私の背後から、何かが飛んできた。「彩星!」と私を呼ぶ晶の声に振り返ると、飛んできたのは入口のスタンドに入っているチラシたち。慌てて伏せた私の頭の上をしゅぴんしゅぴんと、手裏剣か何かみたいに飛んでいくチラシたちが目指してるのは、黒幕さんを拘束しているツタたち。

「彩星、こっち!」

 チラシの動きを目で追いかけていた私の首根っこを、身体をかがめた晶がぐいと引っ張った。私はそんなに重くないから、あっという間に引っ張られて晶の腕の中に転がり込んでしまう。うわ、びっくりした。晶、この頃から少しずつ私より身体大きくなり始めてたんだっけ。

「ごめん、ありがと」

「ったく、ヤバいと思ったらすぐ逃げろよなあ」

 まるで犬か猫をだっこしてるみたいに私の頭を撫でる晶。少し乱暴にくしゃくしゃとしてくるこの感触は嫌いじゃないので、振り払ったりはしない。後で髪を整えなくちゃならないくらいはサービスで負けてあげる。

 その私たちの目の前で、チラシが次々にツタを切り裂いていく。紙の端で指先をすぱっと切ったことがあったけれど、あんなやり方もあるんだなあ。

 あっという間にツタから解放された黒幕さんが、ふわりと着地して私たちを見下ろした。その表情は日焼けしてくたびれてくしゃくしゃになっちゃった、とても古い本の表紙そのものだ。このひと自体は、きっと大事に扱われてきたんだなあと思わせる、どこか気品の漂う顔。背後にチラシがひらひらと、風もないのに舞っているなんていう光景がなければ、どこかの執事さんかと思ってしまうかもしれない。

「そちらの少年にはご迷惑をおかけいたしますが、我らは人間にせめて一度、復讐をせねば気が済まないのです。彼にはその贄になっていただき、あなたには我らのために扉を開いてもらいましょうぞ。錠前様」

「やだ!」

 相手の仰々しい長台詞に、こっちも長台詞で返す必要なんてない。だから、私は身も蓋もない一言で返事に代える。とりあえず扉は開いたんだから、まずは逃げ出す算段を考えよう。図書室から建物の出口までには、扉はまだいくつかある。上手く使えばそれが、逆転のチャンスだ。


「……んー、紙を操るなんて私にはできないけどねー」

 昔のことを思い出しているうちに、いい加減頭がくらくらしてきた。いつまでもこの体勢だと、頭に血が上りすぎて耐えられない。ツタと犬だか何だか知らない獣が同じようにぶち切れるかどうか分からないけれど、ともかくやるしかない。私がこうやってる間に、晶が無茶してるかもしれないし。

「お願い!」

 合図の言葉はたった一言だけ。それで十分、あの子には通じるから。

 チチッ、と鋭い声が走った次の瞬間、がくんと身体が落ちた。あっと思う暇もなく、私は犬だったものをクッションに着地、というか落下。何とか頭は抱え込めたから、変な風に打ったってこともない。ちょっと肩が痛いけど。

 私の、そんなに重くない体重でも相手にはそれなりにダメージを与えられたらしい。黒い布がびくんと怯んだ隙に両手両足をフル活用してさっさと逃げ出した。その足元に素早く駆け寄ってきた小さな姿に、いっぱい感謝しなくちゃならないだろう。

「ありがとね、かんちゃん」

 チチチ。黒いネズミのかんちゃんが、楽しそうに声を上げて返事してくれる。その口元に、黒い布の切れ端が引っかかっていた。

 そう、私はかんちゃんに、私に気を取られている犬だか布だかを切り裂くようにお願いしたわけだ。まさかこんなに効くとは思わなかったけど。

 多分この犬みたいな布みたいなのは、あんまり自分が攻撃受けたことないんだろうな。自分の方から攻撃を仕掛けて、あっという間にしとめてしまうのが得意なんだと思う。そうでなければ、こんなに怯むことはないだろう。

 ともかく、逃げられるチャンスだ。落ちたところが良かったらしく、私のすぐ背後に二階への階段がある。ここは駆け上がるのみ!

「ゴー!」

 叫ぶと同時に床を蹴って、一段飛ばしで駆け上がっていく。布はしゅるりと起き上がり、犬の姿に戻って私を追いかけて来ようとするけれど、その鼻面にかんちゃんが思いきりかぶりついた。うわ、痛そう。犬さん、きゃいんきゃいんって悲鳴上げてる。普通に痛覚はあるんだな、あの子。

 悪いとは思ったけれど敵対してる相手のことを気にしている暇はないから、後ろも見ずにそのまま一気に二階まで駆け上るつもりで突っ走った。多分、足首に何か引っかからなければ行けたはずだ。

 足首に引っかかったのは、犬さんの変化した布の先端だった。そのままくるりんと巻き付いて、私を階段からずるずる引きずり落とす。私は階段にしがみつこうとしたけれど、それより犬さんが引っ張る力の方が強かった。引きずり落とされる途中、ばっちり顔を打ってしまったのがくやしい。女の子の顔は命なんだぞ……きっと。

「この、放せっ!」

 かといって、私もこのままやられているわけにはいかない。武器なんて持っているわけじゃないけれど、かんちゃんが攻撃できるんなら自分だって攻撃はできるはず。同じやり方で。

 そう、同じやり方で。

 私を包み込もうとしている布をむんずと捕まえる。晶と一緒に食べに行ったハンバーガーを思い出し、大きく口を開けた。

「ぐぉわおうっ!」

 思いっきりかぶりついてやったら、さすがに犬さんも驚いたらしい。ついでにこれもかんちゃんの真似をして、一部を頑張って食いちぎってやる。どうせ布だから、見た目にはグロくも何ともない。びりびりと音を立てて引き裂かれたのはやっぱり布で、何だかべとっとした手触りが少し気色悪かった。口元にも残っちゃったけれど、これはしょうがない。味もないから良いことにしよう。

「ぐぉ、ぐぉあっ!」

 よっぽど痛かったらしく、のたうち回る犬さん。その拍子に足から外れた布も、まるで海の中で揺らめく海草みたいにうねうねと暴れている。これで逃げられなかったら晶のところにはたどり着けないと思って、必死で床を蹴った。

「よっし!」

 あっさり階段にたどり着く。さすがにもう、犬さんは私の方を見ていないっぽい。私は今度こそ、階段を一足飛びに駆け上がった。かんちゃんを確認している暇なんてない……ごめんなさい。助けてくれたのにね。

 ともかく、後ろを振り返ることなく私は、階段を一歩上った。急いで晶のところに行かなくちゃ。晶、私のこと待っていてくれてるだろうか。それとも……あれから連絡まったくないから、怒っちゃってるかな。

「晶、今行くよ」

 自分に言い聞かせるように呟いて、そのまま私は階段を駆け上っていった。

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