4.晶と白ネズミ
「──んぁ?」
自分の第一声があまりにも間抜けな声だったので、俺は一瞬これが夢の中の光景だと錯覚した。そうでないと気付いたのは、意識を落とす前の光景が脳裏をよぎったから。そうでなければこんな光景が、現実のものだと信じられるわけもなかっただろう。
俺が目を覚ましたのは、白い殺風景な部屋の中だった。床も壁も天井も真っ白でありながら、どこか暗いその部屋の中央部に、何でだか大の字になって寝ていたらしい。
「……えーと、あれ……?」
がばっと起き上がる。特に身体のどこが痛いということもなく、拘束されているわけでもない。俺の身体を包み込んでいた元犬、その後布の姿をした何かは姿もなく、部屋に現れた奴もここにはいない。ぽつんと、俺一人が取り残されているだけだ。
いや。
もう一人……というよりはもう一匹。おそらく俺を拉致ってきた奴も気付かなかったんだろう、小動物が。
「……ん?」
ちょこんと、自分の膝の上に飛び乗った小さな白いものを見つめる。くりくりとした丸い、赤い目が俺を見つめ返している。
「ネズミ?」
それは、どこをどう見ても白いネズミだった。細く長い尾をゆったりと振り、人に飼われているわけでもないだろうに俺の膝から離れようとしない。その不自然な人なつこさに、俺はぴんと来るものがあった。
「もしかして……お前、彩星に呼び出されたか?」
そう尋ねてみると、ネズミはチチチと小さな声で鳴いた。どうやら肯定の返事らしい。それから素早く俺の身体を駆け上がり、左の肩に鎮座する。どうやらカンに間違いはなかったようだ。へー、こうやって見るとネズミって可愛いもんだな。何となくだが、こいつはメスだと思った。何でだろう。
基本的に、彩星が扉を開けて呼び出したモノは人間並み、もしくはそれ以上の知能を持つことが多い。彩星は目的に合った相手に願い、こちらの世界に出てきてもらうという能力を持っているわけだから、その願いを聞き入れる相手がそれなりに知能を持っているのは当然といえば当然なのだが。例えばこっちの世界では意思疎通できない昆虫やら両生類やら、本とかの無生物。そんな連中でも、扉の向こうからやってきた連中なら言葉は通じる。向こうから話しかけてくることはなくてもこちらの言葉は分かってくれるし、各自それなりの手段で自分たちの意思を伝えてくることもできる。で、その連中経由でならこっちの世界の連中との会話も実は可能、って結構便利だな。もっとも、そういう奴らと会話しなくちゃならない機会なんて滅多にないわけだけど。
それはともかく。
今は多分まだ夜中で、彩星は扉の向こうから何かを召喚することはできない時間だろう。それなのに、彩星が呼び出したという白ネズミが目の前にいる。ということは。
「彩星のやつ、あいつのこと知ってたかな。それか、少なくとも予想がついてた」
ネズミの白くつやのある毛並みは、見ていて心地良い。元の世界に飼い主でもいるんだろうか、綺麗に整えられているその毛並みを指先で撫でてやりながら、俺は考えを巡らせた。
彩星が、相手のことを知っていたかどうかは分からない。少なくとも俺はあの電話があるまで奴の存在を知らなかったし、彩星にもおかしいところはなかった。そこそこ長いつきあいだし、彩星が何か隠し事をしているなら俺も気付いただろう。ま、おしまい宣言はともかくとして、だ。
けれど彩星の立場上、直接相手のことを知らなくとも自分を狙う相手がいたことは分かっていただろう。そうして、恐らくは俺がこのような危機にさらされることには、彩星は気付いていたに違いない。
だから、彩星は自分を『切った』。
近しいものでなければ、彩星を脅す代償には至らないから。
彩星を狙う相手が、そのきっかけとして一番彩星に近しい人物である俺を狙うということはお約束として分かりきっていたから。
そんな風な展開のフィクションが多いことを、彩星は俺を通して知っていた。俺も人のことは言えないけれど、あいつはあまり世間を知らないだろうし。そんな展開を推測して俺と離れよう、と言ったとしてもおかしくはない。
もっとも、まさか俺自身、本気でこーんな漫画やゲームのような展開になるとは思っていなかったんだけどな。
「……さてと」
ぽんと膝を打ち、気合いを入れながら立ち上がる。どうやらあの黒服野郎に、彩星に対する人質にされていることは考えなくとも分かった。けれど、だからって大人しく彩星を待っていられるほど、俺は我慢強くはなかった。
肩に乗っている白ネズミをなで続けながら、自分のいる部屋をぐるりと見回す。何となく……本当に何となくだが、この部屋には見覚えがあるような気がした。家具などはまるで存在していないけれど、扉や窓は形だけだが存在しており、その配置は俺になじみがあるものだったのだ。
「……つーか、こりゃ俺の部屋がモチーフか?」
口に出したことでそうだと確信して、迷うことなく扉に手を掛ける。本来ならばノブのついたドアになっているはずのそれがここでは引き戸であることに気付き、ネズミと視線を合わせて苦笑する。
「彩星対策だけはしっかりしてやんの。なあ?」
チチ、とネズミが鳴く。それはまるで、ほんとうにそうだねえとこの空間の制作者を嘲笑うかのようだ。
戸を開けると、純白な空間はそこにも広がっている。やはり、この空間の作りはうちがモチーフっぽいな。目の前の廊下を渡って向かいに見えている戸は、本来ならば親父と母親の寝室につながっているものだ。そう言えば親父、今日も忙しいんだろうな。結局帰ってきてなかったようだし。
「まさか、この向こうまでそのまんまってこたあないよな?」
何か興味津々。そっと手を伸ばし、やはり本来の開き扉ではなく引き戸になっている、その戸を開けようとした。
「チチッ!」
瞬間、耳元で鋭い声がした。ネズミの声だ、と感付くより早く、反射的に戸を放して後ずさった。目前の戸は自動ドアのようにするりと開き、中から顔を出したのはあの、黒い犬だった。
「ぐわぁうう!」
「うわっ!」
慌てて廊下を駆け出す。一階につながっている階段を駆け下りようとしたその時、黒い犬がもう一匹出現した。階段の手前で四つ足を踏ん張り、俺を行かせまいと頑張っている。
「……あー、部屋近辺から動くな、ってことか」
家はこぢんまりとした一戸建てで、二階には両親の寝室と俺の私室の二部屋しかない。両親の部屋、そして階段に犬がいて入れないとなると、残るは自分の部屋に戻るしかないのだ。
「参ったな。彩星が来るまで待ってるっきゃねーか」
ぶつぶつ文句を言いながら自室の前まで戻る。と戸がひとりでに開き、すんなりと俺を迎え入れた。最初からそのつもりかよ、なら戸を開けさせるな。
「それとも、外に出るとこうなるぞって脅しを掛けたかったわけかな。あいつは」
女を引きずり出すために野郎を人質に取る奴の考えはよく分からない。仕切り直しということで白い空間の中央にどっかりとあぐらをかくと、俺の膝にネズミが登ってきた。チー、チーと何だか俺を気遣うように鳴くちびすけが可愛くて、「俺は大丈夫だよ」と笑ってみせる。
ぼうっとしているわけにもいかないから、腕を組んで考え始めた。これからどうするか。少なくとも彩星が来るまで、この事態の打開策を考えておきたい。
まず、ここから自力で脱出する、というのは却下。そもそもあいつは、俺をここに閉じこめておきたいんだよな。そうすると、向かいの部屋と階段の下に犬がいるように、一応形だけは存在している窓から出ようとして開けたら、やっぱりそこからも犬が顔を出すだろうという推測が成り立つ。正直確かめるつもりもないけどな。大体、窓の外がまともな世界という保証はない。
それと、時間制限がある。このネズミが彩星に呼び出されたモノならば。
「確か、開門の時間制限は二十四時間だったよな。その間に何とかしねえと」
前に、彩星からそう聞いたことがある。最大で二十四時間までしか、呼び出したモノをこちらの世界に止めてはおけないのだと彩星は言っていた。時間が切れたならば勝手に元の世界に戻るか。もしくは暴走を始めるかなのだとも聞かされている。
「どっちか分からないのが困りもんなんだよなあ。ともかく、早めに何とか……」
そこで言葉を切り、周囲を見渡す。ポケットを探ってみたけれど、考えてみりゃケータイを持ってるわけはないんだよな。多分、本来の俺の部屋に落っこちたままかあの野郎が持ってるか、どっちかのはずだから。
しかし参った、時間が分からなきゃ制限時間はともかく、彩星の能力が使える時間かどうかが分からない。ネズミたちを呼び出してから二十四時間後、明日の夕方まで決着がつかないなんてことはないだろうけれど、次の朝までだって結構待ち時間がある。
「……って、彩星いないし、しゃーねーな。あいつが来るまで待つしかないのかね」
結局出た結論はそれだった。お前はどう思う、とネズミに話を振ってみるけれど、さすがにネズミは少し困ったようにチイ、と一声鳴いた。すまん、俺が悪かった。俺を追っかけてきてくれただけでありがたいと思わなくちゃな。それに、こいつのおかげで何だか元気づけられた。ありがとうと背中を撫でてやろう。
「そーいやさあ、ここまででっかくはなかったけど一度、閉じこめられたことあったっけなあ……」
とりあえず動けないのは事実だから、思い出した以前の事件をネズミに話してやることにしよう。何だか恐怖はまるで感じないんだよな。
だって、きっと何とかなるって信じているから。
あれは中学二年の秋のことだった。その頃にはいくつか事件を経験して、俺は彩星の能力をかなり把握していた。彩星自身もある程度調べてはいたんだけど、第三者から見た方が分かりやすいこともあるしちゃんとデータも取れるしな。
例えば、一度使った扉は二度と使えない。どういった仕組みなのかは分からないが、一つの扉から他の世界につなぐことができるのは一度に限られる。同じ建物の違う扉ならば使うことができるけれど、開門の時間制限である二十四時間を経過してからでないと無理らしい。それを把握したとき、そりゃかなりめんどくさいなあと溜息をついたもんだ。
「例えば、学校の校門とかだとどういった扱いになるんだ?」
「んー、例が学校だから……校舎のドア扱いみたい。前そんなことがあった。講堂とかの扉なら使えると思うよ」
「なるほど。門扉は敷地内の主要な建物に含まれるのか」
俺の疑問に答える彩星は、俺のまとめた資料に目を通しつつに「あ、なるほどー」と感心してみせる。彼女としては感覚的に捉えていた自分の能力が、俺がちゃんとした資料に具体的にまとめられるということが嬉しくてならないらしい。
「だってさ、自分の能力の限界とか分かれば、それなりに作戦立てられるじゃん?」
「今まで立ててなかったのか?」
「わりとねー、行き当たりばったり。晶の前で初めて能力使ったときも、実はそうだったんだよー」
からからと笑う彩星。いやもう、ほんとにこいつを一人にしてはおけないなと思ったものである。自分の能力の制限や限界を知っておくのは彼女にとって有益だよ。だけど、本人が能力調査にいまいちやる気がなさそうで……それならば自分がやるしかないと思いこんでしまったのが俺の不幸といえば不幸だろう。
「……で、どうすんだよ。この状況」
呆れつつ腕を組んで尋ねると、彩星は指先を口に当てて「んー」と考え込む顔になった。しばらく考えていたが結論は出なかったようで、困った笑顔を俺に向けてくる。
「どうしよっか?」
「どうしよっか、じゃないだろ」
返事しながらそばの壁を叩いてみる。がつん、と音がした木の壁はかなり厚そうで、ちょっとやそっとでは破れないだろう。つーか拳が痛い。やるんじゃなかった。
何しろこのとき俺たち二人は、出口も入口もない木のうろの中に閉じこめられていたのだから。明かりがないのに周囲が見えるあたり、通常空間じゃないことは分かる。
「ごめんねー。やっぱり晶も巻き込んじゃったね」
さすがに済まなそうな表情で下から自分を見上げてくる彩星の顔を、俺はちょっと見てられなかった。いくら友人とは言っても、さすがに照れているみたいだな、俺。一応彩星は女の子だし、本人自覚がないっぽいけどそこそこ可愛いし。ポニーテールの先っぽにくっついてる小さなリボンもチャームポイントだな。馬の尻尾っていう髪型のくせに、どう見ても猫の尻尾みたいで。
「彩星が一人で引っかかるよりはまだ生還率も高いだろ。良かったことにしようぜ」
「うん。……でもここ、扉ないよねえ。困った」
男女二人きり、という状況を分かっていない風に平然と答える彩星。まあ変に意識されても困るだけだからいいけれど。内心溜息をつきながら俺は、さてどうしようかと作戦を練ることにした。
今俺たちがいる木のうろ。ここは、中学校の裏にある古い桜の木の『内部』に当たる。もちろん、本当に生えている桜の木の内部、というわけではないだろう。そこまで太い木はこの近辺ではほとんど見ることがないし、俺がこの目で見た桜の木の幹は、彩星の両腕が余裕で回って余りまくる程度の太さしかなかったからな。
『桜の木の下には死体が眠っている』とよく言われる。俺は確か、小説か何かで読んだことがあるように思った。彩星は知らないと言ってたので、そのうち探して読ませようと思ったけど。で、この桜の木の下には、死体が眠っていた。ただし人間ではなく、猫が。そりゃ人間だったら、これは死体遺棄事件になって新聞沙汰だろう。
話はこれよりもう少しさかのぼった頃。悪ガキどもに虐められ瀕死の状態だった猫が、桜の木の下で死んでいた。発見した女子生徒がおそるおそるそこに埋めてやったんだけど、どうも死んだ猫の怨念とでもいうべきものが桜に感染したらしい。その桜はそこから数年の間、一度も花を咲かせることはなかった。
その程度なら彩星の出る幕ではなかったんだけど、この手のものは仲間を引き寄せるらしくて……何年かの間に、次から次へと猫が木の根元で死ぬようになって、その怨念も蓄積されていった。
そうしてこの秋、ついに人が一人ぶら下がる結果となったのだった。命を落としたのは、大元の猫を虐めた悪ガキのボスだということだったので、ある意味自業自得だったんだが。数日後に二人目がぶら下がったらしく、残った連中が慌てて彩星に泣きついた、という次第である。『錠前様』ってのは、こういう霊的現象の後始末なんかも任されてるらしい。俺が彩星に助けられたあの時も、彩星は爺さんと女の子の遺族から頼まれていたんだそうだ。
で、まあこの話の場合。俺としては猫に同情したくもなるが、それとこれとは別の話だ。さすがにやりすぎなんだから、止めてやらないと猫の方も困るだろう、いろいろと。で、とりあえず説得してみた結果が、これだ。
「しかし、何で俺らは閉じこめられてるんだ? 虐めた連中と同じようにぶら下げりゃいいのによ」
「猫さんとしては、犯人に仕返しできればいいんじゃない? それまで私たちが邪魔しなきゃいい、って思ってるかも」
ぺたぺたと木を触りながら、彩星が俺の疑問に答える。時折こんこん、とノックしているのは、木の厚みを測っているのだろうか。もっとも俺も彩星も、木を内側から自力でぶち破るような能力は持ち合わせていないのだが。
「楽観的だよなあ、彩星は」
「元々の性格だからねー……んーと」
脱出口がないとみて、木の壁を背もたれに座る彩星。この頃購入したばかりの携帯電話を取り出し、時刻を確認してから小さく溜息をつく。ちゃんと授業を受けた後、放課後に二人でやってきたんだが、それからちょっと時間がかかったようだ。そろそろ、太陽が地平線と交差するくらいの時刻……彩星の能力を使うならば、あと一時間は猶予がある。
「まだ時間はおっけいなんだけどなあ。扉ないから、誰か呼び出したりはできないんだよね……どうしよう」
きょろきょろと周りを見回す彩星に、軽く肩をすくめてからポケットに手を突っ込む。こんなこともあろうかと、って口の中で呟きながら、俺はそこに入っているモノを取り出した。それから、掴みだしたその小さなモノを彩星の手のひらにぽんと乗せる。
「ものすげーちっこいけど、これでいけるか?」
「ほへ?」
きょとんとした彩星が見つめているのは、子供向けお菓子についているサイズの小さな金庫。扉はきっちりドアノブタイプになっていることを軽く指先で開けて確かめると、少女はにんまりと笑ってみせた。少々変則的だけど、この手は使えるみたいだな。
「んー、何とかなると思う。桜の木にはごめんなさい、だけど」
「そうか。そりゃよかった」
ほっと一安心。まさか、扉ならこういったモノでも良いとは思わなかったしな。そもそも、こんなものを持っていたのはたまたまコンビニで見つけたからであり、話の種にでも使おうと思ってポケットにしまい込んでいただけなのだ。家具の扉とかは使ったことがあったから、本当にもしかしたら……と思っただけなんだけど。こりゃいい物を見つけた。
「じゃ、危ないから下がっててね。接続、開門!」
手のひらの上にある小さな扉を、彩星がいつもの台詞と共に開く。そこからが、逆転劇の始まりだった。
「いやー、あん時はどうなるかと思ったよ。小さい扉だと小さいモノしか呼び出せないけど、やりようによっちゃ何とかなるもんだなって気がついたけどさ」
逆転劇の一部始終をネズミ相手におもしろおかしく……かどうかはともかく話し終わった。大人しく聞いていてくれたネズミの忍耐力に感謝するよ。
結局のところ、あの場からの脱出とその後の大逆転は彩星の能力任せとなり、俺はきっかけの玩具を出しただけで後は何もしていないも同じだった。それでまた、自分の力のなさを思い知らされたんだが。
「……本当なら、俺の方から離れなきゃいけなかったのかもしれないな。こうやって、彩星に迷惑掛けてるのは事実なんだから」
話も終わったことだし、気分を変えるために立ち上がる。中学の終わり頃から急に背が伸び始め、彩星と頭一つそこらも差ができてしまった。声も、声変わりというやつをしてだいぶ低くなってる。人間って、一応成長はするんだよなあ。内面まではどうか、といわれたら困るけど。
不意に、白いネズミはチチッと強く鳴いた。と同時に背後に盛り上がる何か……あの野郎が出てきた時のような気配を感じ、慌てて振り返る。
意識が落ちるほんの一瞬俺の目に映ったのは、ぶわっと広がる黒い布と、そして。
「少し眠っていてくれるかい? 彩星くんが来たから」
そう俺にわざわざ告げてくれた、あの野郎の酷薄な笑顔。