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2.錠前様と相棒と

「……いきなり何だよ、あいつ」

 俺にとってみれば、それは彩星から叩きつけられた唐突な別れのあいさつだった。おかげで、思考がうまくまとまらない。


『もうやめよう。あんたと私はこれっきり。油揚げの代金もちゃんと払ったから、これでおしまい』


 いきなりそんな風に告げ、まるで手切れ金のように数枚の硬貨を握らせて消えた彩星。彼女の後を追うことも忘れ、俺はその場にぽかんと突っ立っている。軽く握り直した拍子に硬貨が固い音を鳴らし、それに気付いてはっと見下ろした。

「俺はいいっつってんのにさあ……ったく」

 硬貨を尻ポケットに無造作に突っ込みながら呟く。背負ったままのスポーツバッグを下ろし、改めて左の肩にかけ直してからもう一度はあと溜息をついた。ついてしまってから、何が悪いのか考えてみることにする。

 俺にとって彩星は、性別とは関係無しに会話できる友人だった。男女間に友情は成立しないとどこかで聞いたことがあるけれど、俺はそんなことはないと考えている。もちろん理由は俺と彩星がそうだから、なのだけど。もっとも、お互いの性別をさほど意識しない頃からの友人だから、という説明は付けられるか。

 小学校の途中……十歳になるかならないかで転校し、その新しい環境で俺が最初に友人としたのが彩星だ。あてがわれた席の隣に座っていた彼女の、突拍子もない自己紹介が印象的だったからだろう。

「私って、トクベツな力持ってるのよね。あんまり近づかない方が身のためだよ?」

 初めて顔を合わせたとき、彼女は隣席に腰を下ろした俺に対してそう言ってのけたのだ。その時俺は気付かなかったのだけど、後から考えてみるとクラスメートたちが妙にひそひそ話をしていたような気がする。恐らくは、変人の横に座ることになってしまった哀れな転入生の話をしていたのだろう。そうして、俺が彼女に対してどんな態度を取るのか、それを観察していたんだろうな。俺と彩星以外の……教師も含めた全員が。

「へー。確かにビョーキだな、俺だってやだぞ」

 その集中する視線の中、隣席の相手から妙ちきりんな自己紹介をされた俺は、そっけなく答えただけで前を向いた。このとき俺は彩星のことを、ゲームのやり過ぎか何かによる夢と現実をごちゃ混ぜにする連中のたぐいだと思い込んで本気にしなかったのだ。大体、『トクベツな力』なんてものは漫画やアニメの中の話だと、そう俺は思っていたから。自身、その手のモノは好きで読んだり見たりしていたけれど、それなりに現実との区別はついているつもりだったし。

 ほんの数時間後に彩星が本当のことを言っているのだと分かって、俺は彩星に興味を持った。異性に対する興味ではない、と断言できる。どちらかといえば動物、それも珍獣観察に近いものだろうということは自分でも分かっていた。それでも、友人のいない小柄な女の子を一人で走り回らせるのは、幼いながら俺の良心がとがめたのだろう。事実、それなりにピンチもかいくぐってきたわけだし。

「まいったな……後で、メール入れておくか」

 彼女の忠告を聞かなかったせいですっかり周囲から一歩置かれてしまったこの俺・鷹乃晶は、胸元に入れた黒の携帯電話をぽんとポケットの上から叩いた。ぶら下げているストラップは革製のシンプルなモノで、少し前の依頼中にペアで買った彩星とお揃いのものである。こんなことをしているから余計に周囲から引かれるんだなあ、と苦笑してしまう。いいじゃないか、このくらいはさ。いろんなマスコットやらぬいぐるみやらを、元の携帯が隠れそうなくらいじゃらじゃらぶら下げるのは俺の趣味じゃないんだよ。

 その途端、携帯電話がぶるるるると震え始めた。化け物なんかを追いかけるときとかにいきなり鳴られても困るからマナーモードにしてある。というか、お気に入りの着メロがあまりないからなのだけど。変な選曲すると周囲からくすくす笑われるしなあ。

「……誰だ?」

 取り出した携帯電話の液晶に表示されている名前は、俺が携帯電話というものを手にしたときに初めて登録した『あやせ』。言うまでもなく、金舘彩星のことだ。そもそも、俺の携帯電話に掛けてくる相手なんて家族か彩星くらいしかいないのだけど。

 ともかく、向こうから掛かってきたのならば出なければなるまい。ふうと小さく溜息をつき、受信ボタンを押して耳に当てた。これで仲が元に戻れば、それに越したことはない。俺にとって彩星は、大事な友人なんだから。

「はいはい。もう前言撤回か?」

『もしもし。君が「錠前様」の相棒かい?』

「!?」

 思わず電話から耳を離す。『錠前様』という奇妙な呼び名は、俺以外の人間──学校教師も含めて──が普段彩星を呼ぶときに使う名称。当然、そんな言葉を彩星自身が口にするわけはない。ほんの数秒ほど電話をじっと見つめてから、おそるおそるそれを耳元に戻してみる。すると、それを待っていたかのように電話の向こうの、若い男性に聞こえる少し低めの声は言葉を流し出した。

『やっぱりそうなんだね。ふーん、あの子も大きくなったもんだ』

「あんた、誰だ? 何で彩星のケータイから電話してる?」

 公園にも、その周囲にも人がいないことは分かっている。にもかかわらず、俺は周囲を伺いながら声をひそめた。電話の向こうの誰かは、くすくすと楽しそうな話し方で言葉を続ける。

『あはは。発信者偽装っていうんだっけ? それは謝るよ』

 口先だけの謝罪。ああむかつく、こういう奴、俺は嫌いだ。

『僕はね、君よりずーっと錠前様に近しい者さ。君が現れたときはちょっとびっくりしたけどね、僕の錠前様を取られるんじゃないかって』

「僕の? 何だ、あんた彩星の彼氏か?」

 自分で言った『彼氏』の単語に、思わず自分自身の頬が引きつるのを感じた。

 いや、俺は彩星から恋人の話を聞いたことは一度もないぞ。大体、友人のいない彩星に片想いの相手がいたとしても、恋人がいるなんて思ったこともなかった。ましてや俺自身が彩星の恋愛対象、なんつーしょうもない考えに至っては不意に頭に浮かんだ瞬間に抹消してしまってる。俺の方が彩星を恋愛対象として考えたことなど一度もなかったからなのだが。だけど、顔が引きつったってことは少しはそんな感情があったってことなんだろうか。自覚、ないんだけどなあ。

『彼氏……ではまだ、ないかな。というか、錠前様は僕のことなんて知らないからね。多分』

 含みを持たせる相手の口調に、何だかいらだつ。俺はあまり気の長いたちではないけれど、さすがにここでいい加減にしろと怒鳴っても仕方がないので口を閉ざした。一度唾液を飲み込み、呼吸を整え、そして声量を落としたまま口を開く。

「知らない? どういうこった、そりゃ」

『君が聞いた通りの意味だよ。それに、僕が君に説明してあげる道理はどこにもないからね。それじゃあ』

 ぷつん。

 妙に大きな音と共に、唐突に回線は遮断された。いや、音が大きいというのは俺の思いこみかもしれないが。

「あ、こら!」

 うっかり周囲への注意を忘れて怒鳴りつけたけれど、それで接続が回復するわけでもない。一瞬彩星の携帯にかけ直そうか、とボタンに触れかけたが、指がボタンを押し込むことはなかった。落ち着け、落ち着け自分。相手は発信者偽装と言っていただろう、かけ直したところで奴が出てくる可能性は多分ない。この状態で彩星につながっても、お互いに気まずい思いをするだけだ。

 で、どうにか落ち着いたところで気がついた。電話の相手、彩星は自分のことを知らないって言っていたよな。

「……つーか何だ。つまるところ、ストーカーってやつか?」

 彩星の能力を悪用したい奴、なんて漫画の設定でもあるまいし。だけど、放っておくわけにはいかないよな、と思って俺はメールを打ち始めた。さっき考えたように、直接電話は気まずいだろうし、そもそも取ってくれないような気がしたから。

「ストーカーがいるみたいだから気をつけろ……っと」

 ほんの僅かな文章を打ち終わり、送信する。終わったところで携帯をたたみ、胸ポケットに元通り放り込んだ。できれば実際に顔を合わせて忠告したいところではあるが、今しがた別れを告げられた相手を追いかけるのはどうもはばかられる。

 まるで自分こそが、別れた配偶者に復縁を迫るストーカーのようで。

 第一、彩星自身と仲良くするのは良いけれど金舘の家にはあまり近づきたくない。何となくだけど、屋敷全体から寒気がするからだ。

「とりあえず帰るか。そろそろ晩飯だし」

 一息ついてから周囲を見渡すと、夕方から夜になりかけの薄暗い光景が広がっていた。ぽつりぽつりと点り始めている街灯が、時刻の経過を俺に教えている。はは、いつの間にか日が暮れてやがる。また母親に怒られるなあ。

 俺は空を見上げ、大きく息をついてから公園を後にした。だから、小さな影が俺を追いかけて走ってくるのには全く気付かなかった。


「また錠前様のお使い? いい加減にしなさいよ、もう高校生なんだから」

「っせーな。いいだろ、ちゃんと勉強はするからよ」

 帰宅した息子にお帰りなさいを言う前に苦言を呈する母親。この辺の出身だという母親とは、正直あまりうまくいっていなかった。これでも昔は仲良し親子だったのだけど。

 仲が良くなくなったのは、親父の転勤でこの地に来てからだった。もっと言えば、金舘彩星と仲良くなってから。

「それに、今日でおしまいって言われちまったし」

「あら、ほんと?」

 『錠前様』と呼ばれている彩星のことを、この母親は必要以上に毛嫌いしている。だから、今日あったことを告げると彼女は一瞬目を見開いてからほっとした表情になった。それは、事件に巻き込まれた我が子が無傷で助かった時の安堵の顔。うん、悪かったとは思っているけどさ。俺だって、好きであんたと険悪な仲になってるわけじゃないんだから。

「そう、ならいいのよ。これからはちゃんと普通に勉強して、普通に友達をたくさん作ってほしいわね」

「努力するよ。で、晩飯まだ?」

「すぐできるわよ」

「おっけ」

 彩星のこと絡みを除けば、それなりに良い母親だと俺は思っている。他の親と違って受験もがみがみ言ってこなかったし、塾に強制的に行かせるようなこともなかった。ただ、彩星を『錠前様』と呼び、毛嫌いしている点だけが俺にはどうしても納得がいかなかった。地元民なら分かる話なのだろうけれど、あいにく俺はそうじゃないし。

 とにもかくにもそれなりに和やかな雰囲気の中で夕食を終えて風呂も済ませ、俺は自室に戻るとベッドに寝転がった。携帯をチェックしてもメールも電話も入っておらず、かといってこちらから再度連絡するのも気がとがめる。閉じた携帯を無造作に枕元に放り投げ、天井をぼんやりと眺めてみた。

「いきなり何だよ、あいつはよう……ま、いつもだけど」

 頭の中でだけ考えていると堂々巡りに陥りそうなので、わざと口に出してみる。彩星から手渡された硬貨が入ったままの制服のポケットに目をやり、これもわざとらしく大きな溜息をついた。

「やっぱり、俺は足手まといなのかねえ」

 母親にはああ言ったものの何だか宿題をする気にもなれず、そのままゆっくりと目を閉じた。闇になった俺の視界の中に浮かぶのは、にっこり笑う彩星の顔。

「って、これじゃまるで俺があいつに惚れてるみたいじゃねーかっ!?」

 がばっと跳ね起きてから、これじゃまるでマンガだと自分に呆れ果てる。短い黒髪をがりがり掻き回しつつ、それでもやっぱり俺は何をする気にもなれなくて再びベッドの中に倒れ込んだ。昼間干してくれていたのか、太陽の匂いが気持ちいい。

 そもそも。

 始まりからして向こうの都合に巻き込まれただけなのだから、終わりもまた向こうの都合。

 それはごく当たり前のことだろうと、俺は無理矢理自分に言い聞かせた。


 目を閉じて、始まりの事件を思い出す。

 数年前、新しい小学校に転入した、その日。

 今までとは違った環境に飛び込んでいくことになり、期待と不安が半々……などという陳腐な表現はさておき、俺は母親に手を引かれて学校の門をくぐった。

 担任教師との顔合わせ、クラスメートへの自己紹介、少々手荒な歓迎会及び交流という名の事情聴取。転校生としてはごくごく当たり前の行事を滞りなく終えた、その日の夕方のことだった。

 隣席のおかしなクラスメートのことが頭の端に残ってはいたけれど、俺はせいぜい「へんなやつー」としか考えずにコンビニに出かけた。その時コンビニには店員しかいなくて、買い物はスムーズに終了した。まあお子様のことだから、せいぜいがお菓子をいくつかと小さな缶のコーヒーくらいだったのだが。小遣いをもらった直後ということもあり、普段は飲まないコーヒーを買うことにしたのだ。新しい環境になって、少しでも背伸びをしてみたいと思ったのだろうか。

「……えーと、きっぶりまんチョコとポテトチップスに、テレビ見ながらコーヒー♪ 牛乳いっぱい入った奴だから、お母さんも怒らないよな、きっと」

 がさがさと袋の中を確認しながらのんびり道を歩いていると、道ばたにある小さな石に視線が止まった。『道祖神』と刻まれているそれが何を意味するのか、その時ちゃんと文字を読んでいなくて俺は知らなかった。だけど、新しい学校に行く道すがら、老人が手を合わせたり供え物をしていたりという光景を見かけた。だから、地域では大事にされているものらしいことだけは何となく気がついていた。現にその石の前にも、花とお団子が供えてあったしな。

「……んー。缶コーヒーでよけりゃ飲む?」

 だから、俺の思いつきはごく当たり前に出てきたものだった。昔から大事にまつられてきた石に、思い立って供え物をするという、ただそれだけの話なのだから。

 小さな缶を取り出し、タブを起こしてから石の前に置く。目を閉じて手を合わせ、俺は自分が新しい学校に入ったことを頭の中で報告した。良かったらお守りください、お願いします、と心の中で呟く。それは例えば初詣で願いを託したり、御利益のある寺社に合格祈願に参ったりするのと同じような意味合いでしかなかった。

 もっとも、供えてもらった方にすれば、ちょっぴり嬉しかったのかもしれないけれど。


 石から少し離れた道の端に、枯れかけた花が空き缶に立てられているのが見える。何だろうなあ、と首を捻りながら俺はそこにも缶コーヒーを置き、手を合わせた。これで俺の買った缶コーヒーはなくなってしまったのだが、その時はそのことに気付いていなかった。後で気がついて頭を抱えたってのはちょっとした笑い話……にもならないか。

 実のところ、その場所ではその当時から一年ほど前に交通事故が起き、子供が亡くなっていた。集団登校していた小学生の列に乗用車が突っ込んだのだ。運転手は脇見運転だったという。しばらくの間、マスコミが賑やかにひしめいていたであろう路上も、既にその頃にはかつての静けさを取り戻していた。

 それ以来、その道を通るとランドセルだけが歩いているとか、夜中に子供のはしゃぐ声が聞こえるとか、かなりベタな噂がご近所中を席巻した。もっともコンビニからさほど離れていない場所なので、声に関しては夜中にうろつく学生連中だろうと結論づけられているのだが。こういった話も、俺は後日彩星から聞かされて知ったのだった。

 そんな噂話を知らないまま、俺は家に帰るべく身体を向け直そうとして、失敗した。

「……あれ?」

 身体が、動かない。

 自分が枯れた花と缶コーヒーを見下ろしたまま突っ立っていて、したはずの方向転換をしていないことは、俺自身が一番良く分かっている。

「ちょ、待てこら」

 足を持ち上げようとしても、靴の裏がアスファルトに貼り付いているようで上がらない。それどころか、指の一本すら自分の自由にならない。首から上だけはそうでもないらしく、きょろきょろと周囲を見回すことはできる。

 と、不意に耳に届いたのは車のエンジン音だった。遠くで聞こえた音だけど、間違いなくこの道を走ってくる。

「これ、もしかしてヤバくね?」

 思わずそう口にして、ぞっとした。この道は一本道で、幅も対向車が何とかすれ違えるほどだ。軽自動車なら割と余裕はあるけれど、普通車だと本当にギリギリの幅。

 もし、誰かが自分を道の真ん中に突き飛ばしたら。

 自動車の運転手が脇見をしていたりしたら。

 まあ、結果は目に見えている。

「ってこら、冗談じゃない!」

 慌てて叫びつつ身体を動かそうとするけれど、まったく効果はない。俺の身体は相変わらず硬直したまま、どうやら軽らしい自動車の姿が視界の端に映る。妙にはっきりと見える車内では、運転している若い女性が携帯電話を手にしていた。警察に見つかったらやばいだろうとか、そういうことはまるで考えていないらしい。意識はすっかり会話に向いているようで、俺には気付かない。

 俺の背筋が凍る。運転手は自分に気付いていない。自分は動けない。車が曲がる気配も全くない。まっすぐ走る車の端っこが、ほぼ確実に俺を引っかけるはずだ。

「お、おい! 勘弁してくれっ!」

 絶体絶命のピンチになると、見ている光景がスローモーションになるというのは本当らしい。刻一刻と接近してくる車のフロントを、俺は絶望的な気持ちで見つめた。


「開門。塞の神様、ご案内っ!」

 いきなりの、場にはそぐわない明るい少女の声。

 それと同時に俺の肩に衝撃が走る。何だ、と思う暇もなく身体は弾き出された。車の前ではなく、その車から逃れるように道の端に……厳密には目の前に立っている誰かの家の塀に、顔面から突っ込む形で。ぶっちゃけると、人んちの塀に顔を思いっきりぶつけたわけだ。

 自分の背後を何の問題もなく通り過ぎていく自動車の音を、塀に顔をぶつけたまま聞いていた。音が聞こえなくなってから俺は、ゆっくりと立ち直って先ほどの声が聞こえた方向に視線を向ける。先ほどまでの金縛りが嘘のように、ごく当たり前に身体は動いた。遅れて、顔面の痛みが押し寄せてくる。おーいて、鼻の頭すりむいたかもなあ。

「大丈夫だった? ごめーん、まさか人がいるとは思ってなかった」

「大丈夫じゃねえ! おーいてて……ってあれ」

 さほど低くはないと自負してる鼻をさすりつつ向き直った俺の視線の先……道路を挟んだ向かい側の家の前に、少女が立っていた。どこかで見た顔だ。具体的には今日の午前中、これから俺が通うことになった小学校の教室で。何しろ、自分の隣の席に座っているのだから。さらには名前が少し呼びにくくて、だからこそかえって印象に残っている。

「えーと確か……かなだて、あやせ?」

 後ろ手に門扉を閉じた彼女──金舘彩星の肩には、ロングセラーの着せ替え人形と同じくらいのサイズの小さな人形がちょこんと座っている。あのロングセラーは女の子だけど、俺が見ているのは大昔の日本人が着ていたような貫頭衣をまとい、黒髪を頭の横で結わえている男性の人形だ。そう言えばあのシリーズ、男性キャラもあったっけか。

「そうだよー。間に合って良かったねっ、塞の神様?」

 からからと明るく笑いながら、彩星が肩に乗っている人形に語りかけた。と、人形がこくりと小さく頷く。その瞬間を、俺ははっきり目撃してしまった。

 誰かが操ってるでもなく、機械を内蔵して動いているでもなく、粘土アニメみたいに一こま一こま動かしながら録画しているでもなく、まるで生きているように。

 人外の存在ってものを、俺が初めて見た瞬間だった。

「……は?」

「缶コーヒー、ありがとうだって。でも、できれば次からはお茶が欲しいみたいだよ、塞の神様。だから、ほんとならもうちょっとお手柔らかにするはずだったんだけど、つい蹴り飛ばしちゃったんだってさ。ごめんね」

「コーヒー……って、ええ?」

 サイズからして間違いなく人形だ、と最初は当然ながら俺が思いこんでいたその小さな人は、軽く飛び跳ねるようにして彩星の肩の上に立ち上がった。そうしてぺこんと頭を下げると、一瞬にして姿を消してしまう。それを追うように、自分に歩み寄ってくる彩星の口から「閉門」という単語が漏れたのを、俺の耳は微かに感じ取っていた。

 ぽかんとしている俺に、彩星はにこにこ笑いながら「ほら、あれ」とある方向に手をさしのべた。その方向にあるのは、先ほど自分が手を合わせた、道祖神。

「さっき、塞の神様……ええと、一般的な言い方だと道祖神様って言うんだっけ。君、さっき缶コーヒーお供えしたでしょ? だからありがとう、って」

「どうそじん? 石にお供えなら確かにしたけど……ええっ!?」

 俺の頭の中に、彩星の言葉が作り出したバラバラの断片が飛び散っている。まだ俺は幼くて、それらを組み合わせるのにかなりの時間を要した。

 小さな人と、石にお供えした缶コーヒー。

 缶コーヒーありがとう。

 何故ありがとう? それは、お供えをしたから。

 お供えをしたのは誰? それは俺。

 小さな人は、つい蹴り飛ばしたと言っていた、らしい。

 蹴り飛ばした。誰を? 恐らくは、車にひかれそうになった俺を。

 俺は車にひかれることなく、塀にぶつかって助かった。

 何故ぶつかった? それは、誰かに押されたから。

 ──断片をつなぎ合わせて、ピースの数さえ分からないジグソーパズルを脳内で組み立てる。

 それはつまり、あの小さいのはさっき俺が缶コーヒーのお供えをした石に入っていた何か、だということになる。

 そして、やっとのことで俺は、自分なりに納得のいく結論を弾き出した。

「あー。要するに、だ。今のちっこいのに、俺は助けられたってことか?」

 かなり間抜けだ、と自分でも思う質問を彩星にぶつける。後で考えてみればそれより何より『その小さいのは何だ』と問い詰めるところか、今のは幻覚だと自分を無理矢理納得させるところなのだろうが、この時の俺にはその疑問しか浮かばなかったのだ。

「うん、そゆこと。後でお礼言っておくんだよ、でないと失礼になるからねー」

 彩星の返してきたナチュラルな答えに、俺はぼんやりしつつ「ああ」と頷いた。頷いてしまってからあれ、と首を捻ってみたものの、続けて彩星が口にした台詞の方に意識が取られる。

「それより……えーと、名前何だっけ?」

「へ? あ、鷹乃。鷹乃晶」

 俺は覚えていたのにお前は忘れてたのかよ、と突っ込もうとして俺は、ぴたりと口を閉ざした。それまでどこか抜けているのではないかと危惧したくなるほど脳天気な笑顔だった彩星の表情が、鋭く張り詰めていたから。

「そか、鷹乃くんだっけか。んじゃ鷹乃くん、ちょっと下がってて」

 すっと伸ばされた彩星の手は、まるで俺を背後に庇うかのよう。自分よりずっと小さくて細身の少女の気迫に圧されてしまって、俺は一歩二歩後ずさりする。背中に触れたのは、先ほど俺が顔からぶつかった同じ塀だった。

 俺を下がらせておいてに数歩前に踏み出した彩星が、先ほど門扉を閉めた家の隣にある家の前に立った。門の、レバー型のノブに手をかけた少女の目は、枯れかけた花に向けられている。

「接続、開門。守護霊様、ご案内」

 幼いながらも凛とした声が響く。と同時にレバーががちゃりと音を立てて四分の一回転し、引き戸タイプの門扉ががらりと開かれた。

 その瞬間、俺は今度こそ自分の目を疑った。何度か目をしばたたかせ、ごしごしと顔を擦ってみる。

「……は?」

 そうやっても、俺の目に映るものは変わらなかった。

 小柄な彩星の、身長とさほど変わらない高さの門扉。その向こう……本来ならばその中に建てられている家があるはずの空間が、丸ごとぼんやりとしたもやで覆われていた。両隣の家はまるで変化もなく、そこだけがぽっかり穴が空いたように見える。夕方で周囲が少しずつ薄暗くなっていることも、その感覚に拍車をかけているのだろうが。

 さらに、そのもやの中からうっすらと人のような影が見えるのに気付いた。程なく、その姿が鮮明に映し出される。

 地味な配色のセーターに薄いブラウンの綿パン。サンダル履き、そして杖をつきながらも、しっかりとした足取りで歩み出してくる。白い髪は薄くなっていて、顔には積み重ねた年月がしわとなって現れていた。

 もやの中から登場したのは、どこにでもいるような、優しい笑みを浮かべた老人だった。うちのじいちゃんも、遠くで暮らしているけれどこんな感じだったよなあ。

「お爺ちゃん、お願いね」

 彩星がぺこりと頭を下げるのに、老人もゆったりと礼を返した。そして、まっすぐで花が供えてある一角に歩み寄っていく。

 俺が金縛りにあった、その地点。

 そこには、いつの間にか小さな……当時の俺や彩星より少し下であろう女の子が一人、立っていた。真新しいランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶり、破れた服の下や頭から血を流している。俺は知らなかった、事故で死んだ女の子。

 女の子はじーっと、自分に近づいてくる老人を見つめている。そんな二人の顔は、どことなく似通うものがあった。もしかして、と思って彩星に尋ねてみる。

「……もしかしてあの二人、祖父さんと孫か?」

「うん。お爺ちゃんね、老人ホームで暮らしてたんだけど、あの子が事故に遭うちょっと前に死んじゃってたんだって」

「事故? ああ、ここ事故現場だったんだ」

 じっとお互いを見つめ合う二人を見比べながら彩星は軽く頷いて、何でもないことのように言葉を口にした。その台詞に俺も納得し、視線を二人の幽霊に向け直す。

 俺たちの目の前で、老人は何のためらいもなく女の子に手を差し出す。女の子は一瞬躊躇したようだったが、やがておずおずとその手を取った。ぎゅっと祖父の手を握りしめ、その表情はぱあと明るい笑顔に変わる。

「よかったね。おじいちゃんと一緒なら迷わないよ、行ってらっしゃい」

 彩星は満足げに微笑み、自分が開いた扉に向かって手をさしのべた。老人と女の子はこくりと同時に頷いて、扉の中のもやへと足を進めていく。老人が最後にちらりとこちらを振り返り、深々と頭を下げた。

「……あー、二人とも元気でな」

 何だか間抜けだな、と自分でも思う台詞だけど、俺にはそれしか言うことが思い浮かばなかった。軽く手を振ってやると女の子もにこにこ笑いながら大きく手を振り、それから楽しそうにもやの中へ消えていく。もやの中……ずーっと向こうの方に、一つぽつんと光が点っているのが見えた。きっと、あの二人はあの光を目指して歩いて行くんだなあ、と俺は何の証拠も無しにそう思った。

「閉門」

 二人の姿が見えなくなったところで、彩星はゆっくりと扉を閉めた。と同時にどういう仕組みによるものか、もやがすうっと薄れて消える。その後には、何もなかったように元の家が佇んでいた。何でもない普通の、日没間近の風景がそこには広がっている。

 今見たことは、夢なのだとでも言うかのように。

「……さてと。鷹乃くんだったよねー、説明いる?」

 お前ぼんやりしてんじゃねえ、今あったことは夢じゃねーよ現実だよ、と俺に教えたのは、彩星の脳天気な言葉だった。ううむ、少しは空気読めよなあお前、とは今でも時々思うことだ。彩星、友人づきあい少ないからその辺の気遣い分からないんだよな。

 おれはともかく、唐突に自分の姓を呼ばれて、慌てて意識を現実に戻す。これは彩星の癖だと後々気付いたのだけど、要点だけを少ない言葉で告げられて、自分が何を問われているのか把握するのに少々時間が掛かったのだ。

 ……結局、俺が頷いたのはたっぷり三十秒ほど間を開けた後だった。いやもう、いろいろことが起こりすぎると頭回らなくなるもんだな。

「ああ、うん、欲しい、何がなんだかさっぱりわかんなくてさ」

「だろうねー。多分頭のどっかが現実逃避しちゃってるんだと思うよ。何か冷静過ぎるもん、鷹乃くん」

 あはは、と明るく笑いながら自分の肩をぽんぽん叩く彩星の顔を見ながら、俺は彼女に分からないように小さく溜息をついた。いっそそのまま現実から逃げていればよかったかな、と心の中で呟きながら。


 人があまり寄りつかない公園のブランコに、並んで腰を掛ける。鼻の頭にぺたりと貼り付けられた絆創膏は、気分直しに戻ったコンビニで買ったものだ。店員の好奇の視線を受けながら彩星がおごるよ、と言って買ってくれたペットボトルのお茶を飲みながら、彩星はまず自分の能力を一言でずばりと説明した。

 曰く、『鍵』の能力。

「鍵?」

「うん、そう。扉を開ける鍵。私の場合、この世界とよその世界との通路をつなげるための扉を開ける、ってこと」

 ドアノブをひねって扉を開ける真似をしてみせながら、そう答える彩星。ほー、と感心しながら俺は彼女の話を聞いていた。普通ならお前さんの思いこみだろうとか、それとも大人ならば漫画の読み過ぎだろうとか反論するところ。しかし、何しろ俺は実際にその現場を見ているわけだからな、まったく反論のしようがない。

「それで、開けたらいきなりもやが出てきたり、ちっこい人形や爺さんの幽霊が出てきたりするわけか?」

「時と場合によるけどね……お爺ちゃんが出てきたのなら、あれは冥界への入口だよ。女の子が成仏できてないっぽいから、身内の人にあっち連れてってもらおうと思ってさ。そうでないとあの子、生きてる人に悪いことする可能性あったし。というか、寂しくて鷹乃くん連れていこうとしたでしょ」

「あっちって、死後の世界ってやつかよ? もしかして」

「そうそうそれー。鷹乃くん、理解早くて助かるよー」

 彩星の説明についていった俺に、彼女はとても嬉しそうに微笑む。そりゃまあ、それなりに知識はあったからな。

 とは言っても、いわゆるオカルト方面についての俺の知識は、当時は大概が漫画やアニメやゲームで手に入れたものだった。現在はそれにライトノベルが加わってるんだが、その程度の知識でも彩星との会話には十分役に立つらしい。つまるところ、彩星自身もその手の知識をきちんと持ってはいないのだろう。ただ、彼女にとっては『そうである』ことが当たり前なだけだから。

 ついでに言うと、俺はとてもじゃないが笑えなかった。そうか、あの金縛り、あの女の子のせいだったか。まだ小さかったから何が起きたか分からなくて、それで寂しいから俺に遊んでもらおうとして、ああいうことになっちまったんだな。

「……まあ、あんなもん見せられちゃ信じないわけにもいかないしな。けどさ、ああいうのって普通夜中とかにやらねえか?」

 夕方じゃあ人目につくだろうし第一人んちの門はやばいだろ、と付け足した俺の言葉に、彩星もうんうんと大きく頷いた。彼女も年頃の女の子、周囲の目は気になるらしい。

「私もその方が良かったんだけどねー。眠たいけど、夜中なら何呼び出しても目立たないし。でも、朝か夕方じゃないと扉開かないんだ」

「ありゃま。時間制限ありかよ」

「そ。正確に言うと日の出日の入りの、前後それぞれ一時間くらい、かな。それ過ぎちゃうと駄目ねー、開かない」

 はー参った、と少々大げさな身振りを交える彩星。その様子と言葉から、どうやら彼女が自分の能力を把握するために何度か試したのであろうと気がついた。そして俺は、自分の乏しい知識の中から、その意味を考える。ほら、ゲームとかでもあるだろ? 魔法の発動条件とか、儀式の行われる時刻の決定とか。

「あーつまり、朝と夕方って夜の世界と昼の世界が混じり合う時間だから扉が開く、とかそういうのか?」

「え、そうなの?」

「いや、何かのゲームで見たんだけどな。そういう考え方もできるかなって」

「そうなんだ。私、ゲームとかあんまり知らないし」

 けらけら笑いながら答える彩星には、さすがにちょっとくらいは調べろよと突っ込みを入れたくなった俺だった。実際に右手が突っ込む準備をしているのに気付いて、慌ててポケットにねじ込む。相手に気付かれなかったか、と視線を向けると、彩星はそれまでと同じ明るい笑顔のままだった。大丈夫だと思おう、うん。

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彩星はオーバー気味な身振り手振りを続ける。外国人が呆れたときのように両手の平を上にして肩をすくめ、その表情もおどけ気味だ。あまり人付き合いがないんだろうなあ、何だか俺と話してるのがめちゃくちゃ楽しそうだと、彩星の背景を知らなかった俺にもその点は良く分かった。

 それに、俺も、ちょっと楽しいかもしれない。

「他にもいろいろ決まりあるんだよー。結構めんどくさくてさ」

「そら大変だな。ま、お手軽便利弱点無しなんてそうそうないか」

「そんな便利な能力、あったら欲しいよー。私、生まれつきこういう能力持ってただけで、別に特訓とかもしたわけじゃないしさ」

 明るく笑う彩星の表情に、俺の顔も多分ゆるんでると思う。確かにこいつは変人だが、そう悪い人間ではないというか良いやつじゃん。まあ、この手のお約束だけど、と胸の中で呟いたことは俺以外、誰も気付かない。気付かれてたまるか。

 そうそう、お約束といえば、特殊能力には制限がつきものだな。今彩星が言った時間制限以外にも、まだあるんじゃないだろうか。そう思った俺は彩星のことも考えずに、興味津々の表情で身を乗り出した。

「……なあ、めんどくさい決まりって例えばどんなんだ?」

「え?」

 唐突だったかな。俺の質問に、彩星はきょとんと俺を見つめ返してきた。まあ、いきなり特殊能力がありますよーと聞かされて、じゃあどんな決まりがあるんだなんて尋ねてくる奴はいないだろう。そんなん、俺くらいのもんだ。

 それでも、少しだけ考えて彩星は答えをくれた。

「あ、うん。例えば、さっき使った門あるでしょ。あれ、二度と使えないんだ」

「あ、使い捨て……っちゃ変だけど、そういうことか?」

「そそ。あと、呼び出せるもののサイズは扉の大きさに合わせたものまでとかさー、ドアノブ握らないと術が使えないからふすまや障子は駄目とか、いろいろ」

「ふすまや障子が駄目? つーこた、日本古来のもんじゃないんだな」

「みたいねー。ま、詳しいことは知らないけど」

 ……はー、かなり多いな。しかも、どうやらまだまだ制限はあるらしい。そこまで縛りが多いと、便利な能力とはいえ確かに大変だろう。というか、要するに召喚能力なんだよな。サイズ制限もあるし、いまいち便利とも言い切れないか。

 ここで、俺がもし漫画や小説の登場人物だったらどうするか。そう考えて結論を出すより先に、俺の口が勝手に動いた。

「──ほんとに大変なんだな。何なら手伝うか?」

「ほへ?」

 彩星が、大きな目をぽかんと見開いている。うむ、突然の発言が多いことは謝ろう。大体俺自身、自分が何を言ったのかその時になってやっと気がついたんだからな。……だからといって、撤回する気は毛頭なかったりするのだが。

「いや、そんだけ決まり多いと一人じゃ大変だろ。人気のないところまでおびき出すとか、そのくらいなら俺でもできるぞ。多分」

 だから、改めてそう申し出た。まさか小説や漫画やゲームであるような、世界をひっくり返す大ピンチなどという状況は起こらないだろう、なんてたかをくくっていたのは事実だけど。

「えー、あー! そ、そんなの、だめだよぅ! 私のせいで、鷹乃くんに迷惑掛けちゃうじゃんかあ!」

「いや、そんな大したこっちゃねーだろ。夕方なら何とかなるし、朝だったら……んまあ、頑張って目覚まし掛けりゃいいし」

 このとき、俺は本気でそう思っていた。子供っぽい正義感と、初めて話をした新しいクラスメートへの幼い好意とで。

 実にお子様の考えである。だけど、この考えが間違っているとは、今でも思っていない。そうでなければ、この後数年にわたってこの関係を続けられたはずはないから。

「……んもー。ちょっとだけだよ? それと、このことはあんまり他の子に言っちゃ駄目。私、『じょうまえさま』って言われてここら辺じゃ腫れ物扱いされてるから」

 そんな俺に対し、彩星は困った顔をしながらも最終的には頷いてくれた。彼女にしてみれば俺は物珍しがって近づいてきた転校生だから、そのうち実態を知れば離れていくのだろう、と考えていたらしい。このことも、後で彩星自身が口にしたのを直接聞いている。その時俺は、俺がそんな薄情な奴だと思ったのかーと怒ったんだよな。

「じょうまえさま? なんだそりゃ、変なの」

 もっとも、その通り名の実態だけは彩星から教わることはなかったのだが。すぐ後に自宅で、母親からこってりと聞かされることになったから。


「あー、くだんね。実質村八分ってやつじゃねーか、『錠前様』なんてよ」

 俺の通学用のカバンにぶら下げてある、キーホルダー代わりの南京錠もその一つである錠前。本来は扉などを閉じて開かないようにするための道具の名で呼ばれる彩星は、つまりよその世界とこの世界をつなげる通路の監視者の役を引き継いだのだろう。彩星のことを初めて母親に告げたとき、彼女は『錠前様』の話を息子である俺に教えた。そして、彩星にはなるべく近づかないよう俺に言い含めたのだ。そんなこと、俺が守るとでも思ったんだろうか。

 曰く、錠前様とつき合うとよその世界に連れて行かれる。数代前に実際にあった話、って百年単位とか言ってたな。

 曰く、錠前様は他人を見下している。他人を生け贄にして、自身の役目を果たしている。おかんは彩星と直接話をしたことがあるのか、全然そんなことないぞ。

 曰く、錠前様はお祓いや呪いの依頼で金をもらって生きている。もしかしたら祓った霊を食べているのかも。いや、食べるものは同じだぞ少なくとも。

 曰く、錠前様に魅入られると生命を吸い取られ早死にする。何代も前から錠前様の配偶者は早くに亡くなっている。さすがにそんなこと知るか。

 ……などなど。まだまだあるが、少なくとも俺は聞いていて気分が悪いことこの上ない内容なので、思い出さないことにしている。第一、母親の言いつけを聞かずに彩星の手伝いをするようになったこの俺が、特に体調不良もなく元気に成長しているのだから。学校でやってる健康診断でも、要再検査なんてことこれまでに一度もないしな。

 けれど、そんな俺をそばで見ている彩星の気持ちはどうだったか。いつか俺が死ぬんじゃないか、扉の中に引きずり込まれるんじゃないか、そうでなくても命が削れるんじゃないか……なんて、考えていたのかもしれない。

「だからって、俺から離れることもないだろうよ」

 がつん。

 ベッドの上で大の字になると、成長期でぐんと伸びた俺の手足は壁に軽くぶつかる。今日もうっかり右手を壁に打ち付けてしまった。おーいて、ふーふーと息を吹きかけつつ思考を再開する。

 つまるところ、彩星は俺のためを思って離れたのだ。周囲の噂が事実であるにしろないにしろ、そこに巻き込まれる友人を気遣う彩星の気持ちは悪い気がしない。だけど、それと俺自身の気持ちとは別の問題である。第一、つきあいの長い友人をひとりぼっちにして平気でいられるほど、俺は冷たい人間じゃないぞ。多分。

「……もいっぺん、メール打つか」

 うじうじ考えていても仕方がない。ともかく、行動すべくがばりと身体を起こした。枕元に放り出した携帯を拾い上げ、メールの文面を打ち込む。特に考えることもなく、彼女に言いたいことをそのまま文字に起こしていく。

「勝手に話を進めるな。少しは頼りにしやがれ、馬鹿……っと」

 いつものように悪態をついた文面を打ち終え、送信する。小さな液晶画面の中で手紙が飛んでいくアニメーションが始まり……不意に、その光が消えた。

「へ? 充電切れたか?」

 真っ暗になった画面にちょっとパニクって、思わず携帯電話をぶんぶんと振り回す。程なく回復してほっと胸をなで下ろしたのもつかの間……液晶画面は先ほどの送信画面、つまり手紙が飛んでいく動画をそのまま続けて映し出していた。ただし、その手紙は真ん中から破かれた画像に変わっていたけれど。

「なんだ、こりゃ?」

「はは、本当にこのケイタイデンワってのは便利だなあ。つながることで、それが簡易的な『門』となる」

「!」

 あくまでメールを送信していただけで、誰かと電話をしていたわけでもない携帯からいきなり声が流れ出してくる。第一、俺、着メロは少ないながらも入れてるけど、着声は入れていないぞ!?

 思わず、俺は携帯を放り投げた。フローリングの床に敷いてあるラグの上に落ちた小さな機器の液晶から、次の瞬間ぬうと何かの影が現れる。黒い粘土が、目に見えない手に掴まれてにゅうと伸びるように。

「……っ!?」

「やあ、彩星くんの相棒さん。先ほどは突然のお電話、失礼したね」

 人の形を取り、ふらりと立ち上がった影はぱっと見、俺よりも少し背の高い男だった。年齢も俺より少し上……二十を少し過ぎたくらいだろう。影、に思えたのは、黒髪で黒のセーターに黒のジーパン、と全身黒ずくめの服装をしているからだ。普通に街中を歩いていても違和感がないはずのその姿に、何故俺の背筋に寒気が走る。思わず後ずさりしそうになる身体を、やっとの事で押さえつけた。

 そうして、その声と今の台詞で、気がついた。

「あんた、彩星のケータイからだっつーてかけてきた……!」

「うん。その節は発信者偽装で大変失礼したね」

 あはは、と脳天気に笑う野郎を、膝立ちになりながら睨み付ける。特に武道をやっているわけでもない俺の部屋には、露骨に武器になりそうなものは何もない。ものを手当たり次第に投げれば攻撃にはなるんだろうが、その後の片付けが面倒くさいよな。いや、何しょうもないこと考えているんだ俺、そんな状況じゃないだろう。

「つーか、何の用だよ。ケータイの中から出て来たんなら、俺が彩星にどういうメールを送ったかくらい分かってんだろ」

 青年の足下に転がったままの携帯電話にちらちらと視線をやりながら身構え、そう問う。彩星とのつきあいの中でいわゆる怪奇現象には慣れてしまったけれど、俺自身にそれらと対抗するすべはない。そんなことは分かってる。

 いつでも俺のそばには、彩星がいたから。

「メール……ああ、手紙か。うん、見せてもらった。君、振られたんだね」

 あ、やべえ。いつの間にか、携帯電話は奴の手の中だ。だけど、中から出てきた割に操作はできないのか、ただくるくると回しながら外見を眺めているだけだな。というか、誰が振られたんだ誰が!

「振られた言うな! コレでもあいつとは色恋沙汰関係ない間柄だっ!」

 叫んでしまってから別の部屋にいる母親のことを思い出し、はっと周囲を見回した。あれ、おかしいな。かなり大声を上げたはずなのにいつもなら「静かにしなさい!」って飛んでくる声が聞こえない。何だか嫌な予感がする。

 一方、奴は携帯電話に飽きたらしく、ぽいとベッドの上に放ってよこした。笑顔なんだけど俺を見つめる視線は冷たく、まるでモノを見ているかのようだ。この国ではごく当たり前の黒い目がその色彩以上に黒く深く、何だか吸い込まれてしまいそうで、怖い。

 ──そうか。この寒気の元は、あの目か。

 それに気付いて、ほんの僅か視線を下にずらした。相手の目を見ると緊張するというときの対処法の一つに『目ではなく鼻を見る』というものがあるって聞いたことがあるから実行してみる。なるほど、自分の視界に相手の目を入れないだけでも、寒気は少し和らぐもんだな。

「ああ、安心しなよ。うっかり人を呼ばれたら面倒なことになるからさ、ちょちょっと小細工させてもらったし」

 冷たい笑顔をたたえたまま、奴は視線を窓の外に移す。釣られて窓の外を見ると、何も見えない。ただの闇が、そこには広がっている。時間も、空間も、何もない闇。

 本来なら窓の外には、街灯や近所の明かりがよく見える時間帯にもかかわらず。

 この時間なら恒例の、お向かいさんちのクソガキがゲームを取り合いしてぎゃーぎゃー騒ぐ声が、全く聞こえてこない。

「んな……マジか?」

 背筋より冷えた頭を、とにかく何とか動かしてみる。つまり、俺はこいつの作り出した空間に閉じこめられたってことだろう。

 これも、考えてみればお約束の事態だった。要はこの野郎、俺とタイマンで話をしたいがために空間を閉鎖したわけか。まさか現実に出くわすとは思っていなかったけれど、さすがにうろたえたところで仕方がないってくらいには俺の肝は据わっているらしい。今までさほど大物に出くわしたことはなかったが、それでも方向感覚が狂ったり時間が極端に早く過ぎたり……なんてことはあったのだから。

 目の前にいる野郎が、顔をしかめているようだ。自分の目の前にいる何の力も持たないただのクソガキが、空間閉鎖にさほど取り乱さなかったということが意外だったらしい。それでも奴は悠然とした態度を崩さず、くっくっと喉の奥で低く笑った。向こうの方が有利だって状況は変わってないからな。そもそもこっちは、特殊能力なんて持ち合わせていないただの高校生なんだから。

「へえ、驚かないんだ? さっすが彩星くんのオトモダチ」

「そこそこつきあいは長いからな。で、邪魔が入らないから何だってんだ」

 言葉を交わしつつ、警戒態勢を崩さないように気を遣う。何しろ、自分が相手の懐にいるということは、嫌でも理解できたから。そうして向こうが、少なくとも普通の人間が持たないような能力の持ち主だ、ということも。

 青年から視線を外さないようにしながら、相手の隙を伺う。右手でベッドの上を探り、枕の端を握りしめた。いつでも放り投げられるようにしっかりと保持する。ソバ殻だから、結構重みもあるし、一瞬の隙を突くくらいなら何とかなるだろう。

「開門。来い、影犬」

 だから、青年のその一言に即座に反応することができた。アンダースローで投げつけたクッションは奴に当たる軌道をたどり……その足下からぬうと伸びた影によって、苦もなく叩き落とされた。

「っ!?」

「ああ、君にはこんなこともできないんだったよね。当然だね、君は鍵の一族じゃないんだから」

 穏やかな、それでいて勝ち誇った笑みを浮かべる奴に寄り添うように、漆黒の毛並みを持った犬が出現していた。シベリアンハスキーのような大きさと体型のその犬は、白い目で俺を睨み付けている。おい、その手の獣って普通は目が赤くないか? 白目はちょっと怖いぞ。いかん、膝が笑い始めた。自分ががくがくと震えているのが分かる。多分、人外の存在に対する恐怖で、だろう。

「な……なんだそりゃ。それに、開門って……」

 強がろうと口を開いたは良かったけれど、俺は自分が言った言葉にはっと気付いて口を閉ざした。

 『開門』……彩星が使う言葉だ。扉を別の世界とつなげ、何かを招き入れるときに使うキーワードのようなもの。だけど、今目の前にいる奴は、この室内にある扉に全く触れた様子はない。第一、黒い犬は奴の影が伸び上がる形で出現したのだから、彩星とは違う。その前に、彩星が世界をつなげるときに使う『接続』の言葉を、奴は使っていない。どこか、彩星とは違う。

 違うけれど同じ、としか俺には思えない能力を使う相手。この時点で正直、俺には勝てる見込みがないことは分かってしまった。

 元からそんなものないけれど、それでもこれはかなりヤバい。

「ふん。何の能力もないくせに、彩星くんに取り入るなんてなあ。このオロカモノが」

 しゅるり。

 奴の含み笑いと同時に布同士がこすれるような音を立て、黒い犬が弾けた。うあ、この手があったか!

「っあ!」

 俺がバックステップするよりも早く、弾けてそれこそ黒い布状のものになった犬が周りを取り囲む。そのままくるくると巻き付かれた俺は、あっという間に推定黒いミイラ男と化してしまう。どういう原理か息苦しかったり身体が痛かったりとかはないけれど、びっしり巻き付かれてるせいで全く身動きできなくなってしまっている。影だから呼吸は平気なんだろうか、ならどうして身体が動かないのか、などと実情には沿っているんだけど今考えている場合じゃないことが、俺の頭の中をぐるぐると駆け回った。

「ちょ、こらてめえ、放せ!」

 無駄だとは分かっているが、そう叫ばずにはいられない。どうにかもがいて脱出を試みるが、俺を包んでいる犬だったものはがっちりと身体を拘束したまま離してはくれなかった。ったく、俺は縛られる趣味も縛る趣味も持ってねえっつーの。

 そんな俺を、奴が楽しそうに笑いながら見ているのが分かる。変だな、こっちの視界は真っ暗で奴の顔を確認することはできなくなっているはずなんだけど。何故か俺には野郎が心底嬉しそうに、だけど冷たい笑みを浮かべているのが分かった。

「あはは。ま、能力なんてない方がいいけどね。君は彩星くんを呼び出すには絶好の餌なんだし」

 何しろ、聞こえてくる声が俺の想像している表情をそのまま言葉にしたようなものだったから。

 くくく、と喉の奥から流れ出してくる笑い声は、とても冷たいものだったから。

 ──やべ。こいつ、マジでイッてる。

 そう思ってぞっとしたけれど、せめて少しでも情報ゲットしようと叫んだ。相手を知ることは、相手を倒す第一歩だってどこで見たんだったかな。

「てめー、やっぱ彩星のストーカーかっ!」

「うわ、そんな言い方は僕に失礼だよ?」

 俺の叫びを明らかに嘲笑の口調で返したと同時に、俺はずるずると引きずられていった。急に自分の身体が横倒しになったのにくらっとしてしまう……どうやら俺は、あっさり奴の小脇に抱えられてしまったらしい。んだよ、これでもそこそこ体重はあるんだぞ。何でそう軽々と持ち上げることができるんだ。

「うん、よしよし。しばらくそのままおとなしくしててくれよ、後でちゃんと放してあげるから」

 頭の上から振ってくる言葉に、俺は自分がどこかへ連れて行かれることを確信した。ほんの少し間があって、ぐにゃりと空間が歪むような、妙な感覚が俺を襲う。

「……え、あ……って、信用できるかー!」

 叫ぶ俺の声が奴に届いたのか、どうか。三半規管が混乱する中、俺の意識は視界と同じように、闇に落ちていった。

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