不吉な女と罵られ婚約破棄された私は、物の声が聞こえるので帝都で修理屋を開業します。最初の依頼は破壊神の愛刀でした
「その刀、あと三日で折れます」
言ってしまってから、私は自分で自分の口を押さえた。
だがもう遅い。
鍛冶町でいちばん大きな座敷が、水を打ったように静まり返る。
上座の床の間には、白鞘の太刀が一振り飾られていた。
銘は八咫烏。黒威工房が一年がかりで仕立て上げ、二日後に帝室へ献上する宝刀だ。
今夜の宴はそのお披露目と、私、竜胆ヒナと黒威工房の若親方・黒威ソウスケとの結納を兼ねていた。去年亡くなった先代親方の一周忌が済み、黒威は嫁を迎えて家を継ぐ。嫁には亡き先代の遺言で私が選ばれた。私に拒否権はなかった。
「ヒナ。お前……今、なんと言った?」
黒威の顔から笑みが消えた。
「聞こえたんです。八咫烏から、声が」
声といっても、人の言葉じゃない。
細い、雨戸の軋みに似た音が、刃より奥の方、茎から聞こえてきたのだ。鋼の内側から濡れた木が裂ける手前のような、ひいという悲鳴にも似た声だった。
「刃と茎の境から声が聞こえます。あと三日しか保たない、そう訴えています」
私には物の声が聞こえる。
物が痛む場所、壊れそうな所から、ひどい時にはあとどれくらい保つかまで、その声で分かってしまう。
私が六つの時、村の吊り橋がきいきい鳴くのを聞いた。九つの時は隣の家の竈の呻き声が聞こえた。祖母トキだけは、「ヒナは言祝ぎの耳を持ってるんだよ」と信じてくれた。ほかの人たちは、気味悪がって私から目を逸らした。
職人の家の娘でもない私は、幼い頃から古道具の行商だった祖母に連れられ、町から町へ渡り歩いた。十五の春にその祖母が亡くなると、黒威工房の先代が私を拾ってくれた。祖母の古い知り合いだった。
「ヒナ、今の言葉を撤回しろ。今なら座興で済ませてやる」
黒威が私に向かって凄んだ。
ここで撤回すれば、私はこのまま黒威家に嫁ぐことになるだろう。嫁げば、職人の手仕事から解放され、生活も安定する。だが、三日後にあの刀は折れる。
「刃と茎の境を検めてください。今なら間に合います。あの子が、鳴いているんです」
「刀が鳴きなどするものか!」
黒威が膳を蹴った。銚子が倒れ、座敷の方々で小さな悲鳴が上がる。
「俺は昔から、お前のその耳が気に入らなかった。物の声が聞こえるだと? 鍛冶屋の女房がそんなことを口にして、誰が黒威の刀を買うというのだ? この、不吉な耳を持つ疫病女めっ!」
不吉な耳を持つ疫病女。
その言葉は、私の胸のど真ん中に突き刺さった。
先代に拾われてから三年。炭を運び、火を起こし、研ぎ場の水を替えてきた。
その先代も、もうこの世にいない。この耳を信じる人はどこにもいなくなってしまった。
「この縁談は無かったことにする。工房からも出ていけ。その耳ごと、お前を返品する」
黒威は上座の役人へ向き直り、それから工房の職人たちに命じた。
「今夜中に荷をまとめさせろ。工房の道具は一本も持たすな」
「若親方、せめて手当だけでも」
研ぎ場の若い職人が、思わず口を挟んだ。
「三年も飯を食わせた。十分だ」
誰も止めなかった。先代が亡くなってから、この工房の主人は若親方だ。
私は畳に手をついたまま、もう一度だけ床の間の八咫烏に耳を澄ませた。雨戸の軋みのような音はまだ鳴り続けていた。
「ごめんね。助けられない」
私はその日のうちに工房を後にした。
荷物は行李ひとつ。着替えと、祖母の形見の古い手斧だけだ。
寂しさを紛らわすには人が多い場所に向かいなさいと言う祖母の言葉を頼りに、私は帝都行きの汽車に飛び乗った。車窓には泣き腫らした私の顔が映っていた。不吉と言われた耳に視線が映る。この耳のせいで、私は住む場所も未来も失ってしまった。
泣いているのは婚約破棄されたからか、住み慣れ親しんだ工房を追い出されたからか、はたまた八咫烏をなおしてあげることができなかったからか、またはその全部か。わからないまま、いつの間にか私は列車の中で眠ってしまっていた。
◇ ◇ ◇
帝都・斎京は、音に溢れた町だった。
汽笛、市電の鈴、呼び売りの声。
駅舎を出た私は人波に酔い、しばらく壁ぎわから動けなくなった。
あてはひとつだけあった。
祖母が昔借りていた、路地裏の小さな店だ。
ダメ元で向かうと、大家のおばあさんは「あんた、トキさんのお孫かい?」と私のことを覚えてくれていた。私が行くあてもないと切り出すと、「来年には取り壊すから、それまでなら」と、この店の使用許可をくれた。狭い店先と、奥に三畳ほどのスペースしかない、長年積み重なった埃と黴の匂いが充満した店だったが、それでも雨風はしのげる。
一通り掃除を済ませたその晩、祖母の手斧を研ごうとしたら、砥石の上から声が聞こえた。
『おいおい、雑に研ぐなよ。おれは繊細なんだ』
「て、手斧がしゃべった」
空耳ではない。私が持つ手斧が、私に語りかけてきた。
『百年も使われてりゃ、手斧にだって魂の一つも宿るってもんよ』
「百年物なの? この手斧」
『なんだ、本当に聞こえるのか。トキの言った通りだな』
声は砥石の上の手斧から確かに聞こえていた。普段聞こえる物の声とは明らかに違う。人間と話しているような感覚だった。
『俺はチョウナだ。手斧だからチョウナ。トキがつけた。安直だろ? 俺は「エクスカリバー」がいいと言ったんだが』
「あなた、おばあちゃんのこと知ってるの?」
『ああ。五十年以上連れ添った。あいつにも俺の声は届いてたが、お前ほどじゃなかったな』
祖母の荷車で聞いた音を思い出した。荷物箱の中でがたごとと鳴る手斧を前に、祖母はよく独り言を言っていた。
『で、お前はどうするんだ? これから』
「働かないと食べて行けないから、まずは働くわ」
『お前みたいな小娘に何ができる? 女中でもやるつもりか?』
「愛想良く笑える自信はないわ。私にできることは、なおすこと」
『なおす?』
「物の声を聞いて、なおす」
私は耳に手をやる。あの人に不吉だと言われた耳に。
『その「技」を売るか。鍛冶町じゃそれで追い出されたんだろ?』
そうだ。この耳を疎まれずに、職人として生きていける場所がほしい。
なければ、自分で作ればいい。
「追い出されない方法が、一つだけあるわ」
翌日、私は大家から古い板を譲り受け、それを削って看板を作った。
【言祝屋竜胆 呪具・道具・なんでも修理いたします】
祈りや思い出が濃く染み込んだ道具は『呪具』と呼ばれている。私は物や呪具の声を聞き、壊れる前にそれを直す職人になることにした。
「言祝屋竜胆。壊れる前に、なおします」
軒先に看板を掛ける。私は自分の店の前で、深くお辞儀をひとつした。
◇ ◇ ◇
最初の五日間、客は来なかった。客が来なければもちろん収入はなく、みるみるうちに手持ちの金が底をついた。
店の業態を変えようかと真剣に考え始めた六日目の朝、大きな影が店先をふさいだ。飾りを外した軍服を着ていて、腰に立派な刀を差していた。熊みたいな巨躯で、顔の左側には額から頬へ走る大きな刀傷があった。胸元に階級章はない。
「言祝屋竜胆とは、ここのことか?」
狭い店中に響く重低音で、軍人が尋ねた。
「は、はいっ。修理のご用でしょうか」
「その前に、一つ確かめたい」
軍人は軒の看板の端に指先で触れた。
めきり。
掛けたばかりの看板がまっぷたつに割れ落ちた。
『はぁぁぁあ!?』
壁にかけていたチョウナが叫んだ。
「すまん」
軍人は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。軍服の釦がひとつ弾け、財布の留め金が落ちる。私が出した湯呑みは、彼が持っただけで薄いひびが入った。
「俺が触れるとこうなる。物が保たんのだ」
軍人は看板代だと言って紙幣の束を置こうとした。
「い、いえ、そんなにいりません」
札束を押し返そうとして気がついた。音がする。
軍人の腰の佩刀からだ。八咫烏の時よりも切羽詰まった、みしり、みしりという軋みのような悲鳴が聞こえる。
「それより、その腰の刀を拝見してもよろしいでしょうか」
軍人の眉が動いた。
「わかるのか?」
私が頷くと、軍人が刀を腰から鞘ごと外した。
「鍛冶町で、献上刀が三日で折れると言い当てた娘がいたそうだ。その娘は姿を消し、刀は宣告どおり折れた」
八咫烏のことだ。折れたんだ、やっぱり。
「俺は咲崖。しがない軍人だ。見ての通り、触れた物を壊してしまう。力の加減が利かんのだ」
軍人が両手で差し出した刀を、私も両手で受け取る。
「銘は穢楠薪勿。上官の形見だ。あちこちガタがきている。直せるか?」
直せるか?
そう聞かれても、私の答えはひとつしかない。もう鳴いているのだ、この子は。
『穢楠薪勿……イケメンな名前だな』
チョウナが羨ましそうにつぶやいた。
「拝見します」
作業台に穢楠薪勿を横たえ、耳を寄せる。軋みの出どころは刀身じゃない。目釘だ。
刀身を持ち手の中で留める、小さな竹の楔。
「目釘が三日以内に砕けます。……いや、それだけじゃない」
もっと奥、つばの裏に重なった薄い金具のあたりから、低い地鳴りみたいな音が聞こえる。
壊れると訴える声じゃない。これは……堪えている声だ。
『このイケメン、相当我慢してんな』
手斧からチョウナの声がした。
「穢楠薪勿さんは、持ち主の思いや力をため込んでしまいます。行き場のない力が、目釘に集まっているんです」
「俺はこいつに、我慢をさせていたのか」
軍人は自分の両手を見下ろした。
その声があまりに腹に響いたので、私は手元の膠を落としそうになった。
「八年前の大戦の撤退で、俺を逃がした上官が死んだ。形見はこの穢楠薪勿ひとつだ。せめてこれだけはと思い、今でも持ち続けている」
「目釘の打ち直しと、力の逃げ道を作ります。つばの裏に、溢れた力を逃がす細い筋を彫ります。大事な形見に傷をつけることになりますが」
「構わん。いつ仕上がる?」
「今夜中には」
軍人は上がり框に腰を下ろした。
「待つ」
『待つのかよ』
チョウナの呆れ声が聞こえてきた。
夜通しの作業になった。古い目釘を抜くと、竹は指で崩れた。
新しい竹で刀身を留め直し、鏨で髪の毛ほどの溝を彫る。最後に刃を研ぐと、低く濁っていた音が、少しずつ澄んでいった。
東の空が白む頃、ふ、と刀が発していた音が変わった。
みしりという軋みは完全に消え失せていた。研ぎ終えた刃は、凛とした鈴音のような響きを携えていた。完全に修復した柄や鞘が朝日を受け、うっすらと金色に光る。
『これが言祝ぎだ』
チョウナの声がした。
『壊れる前にその声を聞いて、祈りの通り道を作る。トキの仕事だ。金色の光は、祈りが宿った証だよ』
「終わりました。もう、鳴いていません」
軍人は刀を受け取り、ゆっくりと抜いた。
「軋まない。八年前、上官から受け取った時のような感覚だ」
軍人は恐る恐る、刀身に浮かんだ金色の筋をなぞった。
バチっと、静電気のような細い稲妻が指と筋の間で光った。軍人は瞬きすらしない。
その様子を見て、私の胸の奥が急に熱くなった。
軍人は修理代を置くと、さらに紙幣を足そうとした。
「あの、多いです」
「多くない」
軍人はにやりと笑った。
「意味は、じきに分かる」
軍人が帰ったあと、その後ろ姿と割れた看板を見た大家のおばあさんが、目を丸くした。
「あんた、今の、軍神様じゃないかい?」
「軍神様?」
「咲崖ホウセン中将だよ。先の大戦でこの国を救って、軍神様と呼ばれたお人さ。……今じゃ、破壊神って呼ぶ者もいるがね」
「破壊神……」
私は割れた看板を見下ろし、納得した。
◇ ◇ ◇
翌日の晩、上等な制服を着た宮内省の役人が訪れた。
「咲崖中将の刀を直した店というのは、ここでありますか?」
私が頷くと、役人はお付きの人に持たせた桐箱を作業台に置かせた。
「開けても、よろしいですか」
「そのために来た」
蓋を上げる。
八咫烏だった。
刃と茎の境で二つに折れた宝刀が、絹に包まれて横たわっていた。
「この刀が折れた要因を知りたい」
「要因?」
「宴の晩、そなたはこの刀が折れると言い当てた。刀の目利きを三人呼んだが、皆、折れ口だけでは断じきれぬと口を濁した。黒威工房の見落としとも扱いの不備とも、誰も言い切らなかった。誰の責か分からぬなら、あとは耳しかあるまい」
軍神のあの過分なお代は、このための代金だったのか。
断ろうと思った。もう関わりたくない。
だが作業台の上で静かに横たわる八咫烏を見ると、気持ちが揺らぐ。
私が打った刀ではない。だが、この一年、工房でその製造工程をずっと見てきた刀だ。あの晩、この子は最後まで直してほしいと鳴いていた。
「わかりました。お引き受けします」
役人が帰ったあと、折れた刀身に耳を寄せた。壊れる前の声はもうしない。
『耳の使い方を変えてみろ』
手斧からチョウナの声がした。
「耳の使い方?」
『今の音じゃなくて、残ってる音を聞くんだ。トキは「残響」って呼んでた』
「残響……中将の穢楠薪勿の奥で聞いた、あの古い音みたいな?」
『そうだ。今鳴ってる音じゃなくて、奥に残っている声を聞け』
私は集中する。だが、声は聞こえて来ない。
どれくらいそうしていただろう、夜半を過ぎて周囲が完全に静まり返った頃、ぱきん、と乾いた音が微かに聞こえた。
ぱきん。
八咫烏が最後に立てた悲鳴だ。胸の奥が締め付けられる。さらに耳を澄ませる。
悲鳴の奥に、もうひとつ。
ちり、ちり、ちり。
火箸をこするような、細い音が聞こえてくる。
「チョウナ。折れ口じゃない。茎のほうだ」
名が刻まれたすぐ下。灯りを斜めから当てると、髪の毛より細い筋が、鋼の目に沿って黒く残っていた。
鍛える途中で入った、古い割れだ。折れた時にできた傷ではない。
『あとから付いた傷じゃねえな。これは、こいつが生まれた時から中にあった傷だ』
◇ ◇ ◇
翌日の夕刻、黒威が店に来た。
上等な外套の肩を濡らして、私の店の敷居の前に立っていた。
その日は、中将が軍刀の点検で店の奥にいた。
今朝、宮内省の役人に八咫烏の茎に古い割れがあったと伝えてある。おそらく、その見立ては黒威工房にも届いている。
八咫烏が折れたのは帝室での扱いのせいではない。鍛える途中で入った古い割れを、黒威工房が見抜けなかったからだ。
だから黒威は、私の元に現れたのだ。
「迎えに来たぞ、ヒナ」
聞き慣れた懐かしい声なのに、遠くから届くように感じた。
「八咫烏の件は工房の恥だ。だが、お前の耳は本物だった。戻ってこい。婚約も元に戻す」
「お断りします」
黒威の眉が動いた。
「この店の看板は下ろせ。言祝屋竜胆などより、黒威の名で商うほうが客はつく。ガラクタの修繕より、武具の方が儲かるしな。お前は客前で余計なことを言わず、俺が命じた時だけ物の声を聞けばいい」
そこで彼は、少しだけ笑った。
「お前の耳は、俺が高く使ってやるから」
高く使ってやる?
平静を装っていたが、その一言で私の堪忍袋の緒が盛大にブチ切れた。
「あなたは私の耳を『返品』しました。あの晩、八咫烏の検分をお願いした私に、不吉だと言いました」
「だから、あれは工房を守るために……」
「工房を守るために、八咫烏の声を無視したのですか?」
「刀の不備を一本言い当てたくらいで俺より上だと思うなよ。黒威の目利きとお前の耳、どちらが正しいか、確かめてやってもいいんだぞ」
黒威は背後にいたお付きの職人に目を向けた。職人が細長い桐箱を抱えている。
「黒威工房で仕上げた脇差、六合だ。俺が今朝検めた。どこにも不具合はない。あると言うなら、人前で言ってみろ」
私は脇差に神経を集中させる。微かな声が聞こえた。
「この子、あと四日で壊れますよ」
「はぁ? 何をまた寝ぼけたことを。不吉な疫病女が」
黒威が大声を張り上げた。
その言葉で、中将が框からむくりと立ち上がった。立っただけで、鴨居がみしりと鳴る。
「言祝屋竜胆の腕は、この咲崖ホウセンが保証する」
中将は、静かに言った。
「お主の目利きに自信があるのであれば、衆人の立ち会いのもと、その脇差を再度検めればいい。宮内省の役人と職人組合の長老を呼べ。俺も立ち会おう」
「なんだあんたは。部外者は引っ込んでろ」
「部外者? 俺はこの店の客だ」
「は?」
「そして俺は、この職人の腕を買っている」
中将は腰に帯びた刀の鞘を握った。それだけで、黒威は一歩退いた。黒威の唇が固く結ばれる。
彼は一度だけ私を睨み、店を後にした。
中将はすぐ宮内省に文を出した。もし竜胆の検分が間違いなら、保証した咲崖ホウセンが責任を負う、という一文を添えて。それを見た少尉が、青い顔をした。
「中将閣下、虚偽保証となれば、軍籍にも傷がつきます」
「俺の責は俺が決める」
中将の言い方は固かった。もう覚悟を決めている顔だった。
◇ ◇ ◇
三日後、公開の検分が職人組合の広間で行われた。
宮内省の役人と目利き、それに職人組合の長老たち、加えて黒威工房の職人たちが一堂に集まった。隅には、噂を書き立てる読売の書き手もいる。
中央の白布の上に置かれていたのは、黒威が持ち込んだ脇差、六合だった。
黒威がどこにも不具合はないと言い切った刀だ。
「始めてくれ」
私は脇差に耳を寄せた。会場中の視線が背中に刺さる。
黒威は正面の席で、あの夜と同じ顔をしていた。
から、から。
乾いた竹筒の中で、砂が転がるような音がした。
「柄を外してください。刃ではありません。目釘です」
私は指で示しただけで触らなかった。お前が触ったから壊れたのだ、と言わせないためだ。
目利きが目釘を抜き、柄と鍔を外す。
部屋がしんとした。
抜かれた竹の目釘は、表だけ見ればきれいだった。
だが目利きの老人が指先で軽く押すと、芯からぱきりと割れた。
「中が……割れている」
会場がざわついた。
「このまま使えば、柄の中で刀身が緩みます。強く振れば、目釘は砕けるでしょう」
私の言葉に、黒威が椅子を鳴らして立ち上がる。
「そんなはずはない。俺が検めた」
目利きの老人が虫眼鏡を下ろした。
「隠した跡はない。だが、見落としてよい不具合でもない」
職人組合の長老が、黒威を見た。
「黒威、お前は刃しか見ていない。竜胆は壊れる箇所まで言い当てた。職人として、この娘のほうが上だ」
黒威工房の職人たちが、一人、また一人と黒威から目を逸らす。
宮内省の役人が低く尋ねた。
「宴の晩、なぜ竜胆の言葉を聞かず、八咫烏を検め直さなかった?」
黒威は答えなかった。
ただ、白布の上の六合を見下ろしている。
「献上を止めれば、黒威工房の名に傷がつく。そう思ったのですね」
私が言うと、黒威の頬がかすかに動いた。
「……お前が余計なことを言わなければ、俺のせいにならずに済んだ」
「私は、八咫烏の声を聞いただけです。私の言うとおりに検めていれば、こんなことにはならなかった」
私の声は震えていた。だが、もう黙らなかった。
「あなたはただ、面子と納期を優先した。宝刀を納める器じゃなかった。ただ、それだけです」
黒威は何か言いかけて、やめた。
処分は、その場で決まった。
宮内省は黒威工房からの献上を差し止め、職人組合の長老は親方である証の札を黒威の腰から外し、机の上に置いた。
「不具合を告げた職人を追い出し、折れた責を不吉な耳にかぶせようとした。献上刀を預かる親方にはおけん。黒威ソウスケ、本日をもってお主の親方資格は剥奪する」
隅の読売の書き手が、慌てて筆を走らせていた。
夕方、組合の男たちが黒威工房の大看板を門から外した。釘が抜けるたびに看板はぎし、ぎし、と乾いた音を立てた。
◇ ◇ ◇
ひと月が経った。
言祝屋竜胆には朝から行列ができ、宮内省からは年に二度、宮の宝物・呪具の点検を正式に任された。
夕方、行列が途切れた頃に、中将が現れた。
今日は珍しく、長い包みを提げていた。
「詫びの続きだ」
「看板代なら、もういただきました」
「あれは割った分だ。今度のは、俺が掛けたい」
包みを開けると、黒漆を塗った新しい看板が出てきた。
金の細い文字で、こう彫ってある。
言祝屋竜胆。
裏には中将の字で「不壊金剛」と書かれていた。
「掛けてもいいか」
「中将の手で?」
「……できるなら」
中将にしては頼りない返事だったが、それが少し嬉しかった。
私は看板に耳を寄せた。金の文字の奥から、穢楠薪勿と同じ細い鈴の音がする。だが、耳を澄ますと看板の奥底から何かが籠った音が少しだけ聞こえた。
「ちょっと待ってください」
私は小さな鏨を取り、裏の「不壊金剛」の一画から看板の縁へ、髪の毛ほどの細い溝を二本引いた。穢楠薪勿のつばに彫ったものと同じ、力の逃げ道だ。
その線に膠を薄くなじませるとこもっていた音が抜け、澄んだ鈴の音だけが残った。
「嫌な音はしません。大丈夫です」
中将は大きく深呼吸をすると手袋を外し、素手で看板を抱えた。大きな指が、ほんの少し震えている。その震えを見て、なぜか私の息まで浅くなった。
こん、と釘が鳴る。
看板は割れない。
もう一度、こん。
看板は夕暮れの光を受けて、静かに店の入り口上部に納まった。中将は手を離してから、しばらく自分の指先を見ていた。何も壊さなかった、自身の指を。
「これでよかったのか? 故郷にも、あの男にも、未練は……」
「ないです。だって私、今とっても忙しいんですよ。明日は火箸が二本に、守り槌が一つ。あさっては中将の軍刀の柄と鞘の点検でしょう」
「ああ」
「それに」
私は耳を澄ます。市電の鈴、呼び売りの声、路地を渡る夕風。その中に、壊れかけた物たちの小さな声がざわざわとうねりのように聞こえる。
「ここなら、私の耳でたくさんのものをなおせそうなので」
「それならば俺は、この店の常連でいよう。お主といれば、壊さずに物に触れることができる」
「はい。毎度ありがとうございます、軍神様」
閉店の暖簾をしまうとき、新しい看板を布でひと拭きした。
黒漆の看板は静かに輝いていた。
『おうい、そろそろ俺も研いでくれ』
店の中から、チョウナの声が聞こえた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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