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闘神ヤニカス戦記  作者: 店や喫茶
ロイヤル編 第一章
8/18

大地の亀裂

 闘神を追う、一人の男。


 その内心は、恥と、後悔、そして義憤(ぎふん)とにまみれていた。


 何もできなかったからである。

 かの男と相対し、私は、何もできなかった。(にら)まれ、その眼光に(おび)え、(すく)んでしまった。

 生命の危機。そんなものはどうでもよかったはずだ! 御所を守る。その代々受け継がれた使命があの瞬間立ちどころに消えてしまった。


 臆病者(おくびょうもの)


 それは、あの時あの男の行く手を(はば)まなかった。その(ため)に感じた屈辱(くつじょく)ではない。行く手を阻止(そし)しなかったのはそれが中枢(ちゅうすう)からの指令であったからだ。


「実力行使に出ることを禁ずる。部外者に対する注意(ちゅうい)喚起(かんき)。それで良し。普段通りに行え」


 これは、完璧に遂行(すいこう)された。しかし、その内心はどうだ! 私はなんと軟弱者(なんじゃくもの)だ! ただ、震える体を抑えることに必死で、生き()びた安堵(あんど)! それを感じてしまったのだ!




 風を切るように追いかける男のむき出しの歯はくちびるをえぐっていた。

 己を罰するが如く。

 彼のその精神が卑怯者が持つそれと全く同じであった、それが彼には許せなかった。




 ロイヤルが収められていた御所を守る、その最終ライン。その役割を担う一族の末裔(まつえい)が、その男であった。


 追跡者。


 最終ラインの役割、それは、常天の数々の防衛ラインが超えられた、その後の事態を想定したものである。


 その使命はロイヤルを守ることではない。

 奪われたロイヤル、それを奪った者を追跡することが、使命である。

 はるか昔から、一族がその次期長となる者に引き継ぐスキル。


 スキル「執念の追跡者」


 これは、スキル所持者の執念(しゅうねん)をよりどころに、その執念の方角が分かるというスキルであった。




 普通一般の追跡系統のスキル。それは、純粋に、追跡対象の方角、場所が分かるというものだが、そういった追跡スキルでは、何かしらのプロテクトスキルで弾かれてしまう可能性が、高い。


 例えば、高度な透明化のスキルや認識阻害スキルを持つ者は、追跡系のスキルから逃れやすい。


 また、追跡系スキルのターゲット、それを拒絶するスキルもままあるものだった。


 そういった数々の追跡妨害スキルがある中で、自己の内心で完結するスキルというのは、他者の影響を受けにくい。


 そして、実力の格差というものまで埋めることが可能だった。


 それが、最終ラインに一族のスキルが用いられる理由である。




 執念。


 その一族の執念は常にロイヤルである。


 今、男には、その執念がどの方角を向くか、それが分かっていた。


 例え、ロイヤルの、その高貴なる香りが消えようとも。







 一族、連雲の民のその一つなり。


 滅亡事態を招いたそのきっかけ、ロイヤルの回収を命じられた、英雄の反逆。


 その反逆の子孫がその一族である。




 かのスキル。


 それは、暴走した連雲の格に殺められた英雄が、死後、その情念、執着、力を持って、創造。そして、息子に与えた(いびつ)なスキルであった。


 幸いだったのは、常天連邦がコンロン大陸に誕生するその時までスキルを与えられた英雄の息子が生き延びたということである。




 スキルの効果それは、定めた執念(しゅうねん)何処(どこ)にあるか、その方向が分かる。


 次に、その場所まで、空間を渡ることができる。


 そして、その距離に限界はない。


 というものである。




 もちろんだが、制限もある。


 空間を渡ることができるのは、生涯で1度切りである。


 また、その執念がその場に一定時間とどまらず、移動している場合は空間を渡ることができない。


 そして、その執念との距離が一定以上離れた場合、スキル保持者は常にその時の全力で執念を追い続けなければならない。


 もし、それができない場合、空間を渡る能力は使用不可となる。




 空間を渡る。


 それは、国家で言うと超大国レベルでなければ保有することがかなわない能力である。


 ある距離とある距離のその間、その空間を歪めることで、ありえない距離を超えることができるのだ。




 当スキルに発生する制限、これはつまるところスキルの能力が強すぎるがために課せられた制約である。


 生涯に一度という制約の元、そして、もし、ある一定の範囲を超えて、その執念が逃げるようならば、それを全力で追わなければならない。


 つまり今、闘神を追いかけている男は、もし、闘神が休まず、(それはただ、歩いているだけでも)何時間も飛行し続けるとなれば、地獄を見るのだ。




 全力。


 それはその意味のままである。


 始まったばかりの、その瞬間はいいが、少しでもその状況が続けば、限界がたちまち訪れてしまうのが全力というものである。


 体力の限界というより、気力の限界である。


 ほんの少しでも力を抜けば、全力でないとスキルに判断されてしまう。


 それでも、倒れそうになろうとも、虫の息であろうとも、その時、その歩みが全力であるのならばいいのだ。


 しかし全力というのは、それ以上の余裕などないまさに一瞬、一瞬の戦いである。


 後どれほど体力が持つか、そんなことを考える余裕などはなかった。


 だが(おのれ)の気力に負ければ二度と、その生涯、その執念の元へは渡ることができない。


 そして、その事を思うとただただ悔しかった男であった。




 このスキル、それは代々受け継がれて来たのだが、当スキルに引き継ぎの能力は一切ない。それが出来たのは、ひとえに、この一族が国家の格に保護されていたが為である。故にそのスキルを代々受け継ぐことができたのだ。


 ちなみにだが、常天の長い歴史の中で、過去、数度ロイヤルが奪われたことがある。そのうちの一つは国家が非常事態の訓練として秘密裏に行ったものであるが、それを入れても、数度、ロイヤルが奪われたその事実は変わらない。


 そして、その全ての事態を収めたのが、この一族である。


 いかなる高度な阻害系スキルも怪盗系スキルも、格持ちも、この一族の前に下った。


 全ての事件は大事に至ることは(つい)ぞなく、故に、ロイヤルが奪われたその歴史を民が知ることもない。


 全てが軍事の特級情報として秘匿(ひとく)され、そして、当一族の能力もまた秘匿された情報の一つとなっている。




 しかし、一族の役目というのは、1万2000年前に、邪を阻む直方体の遺物が発見され、それがロイヤルの為の部屋と(あい)なるまでのものであった。


 以後、純白の建物がロイヤルを守り出してからはロイヤルが奪われた事実は一切ない。


 強き者も部外者ならば、その遺物が展開する不可視の領域を乗り越えることなどまずできないからだ。


 故に、常天連邦が成立して、3000年の間がロイヤルが危機にさらされる可能性のあった期間であったといえる。




 ロイヤルの誘惑に狂った英雄がその息子に与えた、その執着が為のスキル。


 当然、その時その息子もロイヤルの誘惑に狂っていた。


 しかし、空間を渡ることができるのは生涯でたった一度。


 もちろん、その息子はすぐにその能力を、すぐさま行使。しかし、わずか目の前で別の者にロイヤルを奪われ、以後、ただ、その執着の方向だけが分かる。そんな時間が続いた。


 そして、ロイヤルの誘惑が消失した時、彼も我に返るのだった。




 執着が今どの方角にあるか、それは分かっていたが、もはやそれを追う気力というのは当時、息子にはなかった。


 けれども、連雲の民がコンロンの民をまとめ、周辺諸国を下した時、ただ一念から、過去と未来がためにロイヤルを回収したのであった。


 その時、ロイヤルはある強欲な者がそれを己がものとするために、コンロンの秘境にそれを隠していたのだが、見事に発見。

 そして、それを献上(けんじょう)したのである。




 その時の光景、絵描きの格持ちにより見事に描かれたその一幕は、国家の権力機関たる議会の天井に大きく展示されている。


 集う民をかき分けて、颯爽(さっそう)と男が現れる。集う民は突如、あたりに香ったロイヤルのその香りに驚く。


 そして皆の前にて(ひざ)をつき、男が、連雲の民を率いた長にそれを献上するのだった。


 常天連邦はこの時、その始まりを迎えた。


 その絵を見る者にはこの時の一連の流れがドラマチックに伝わる。


 動いているようで動いていない絵。しかし、頭の中ではその絵は動いているのだ! そして、その当時の興奮が手に取るように分かる。


 それは、連雲公国の中枢が英雄たちに命じたロイヤルの回収。それが形を変えて成し遂げられた、その長い長い一幕の終わりであった。


「元首よ。今、ここに、かの(めい)を果たしたことを報告いたします」


 その一言、その瞬間、元連雲公国の元首は何を見たのだろうか。


 格の暴走を生き延び、いや、連雲のその格がお前の愚行の結末を見せつけるがために最後まで命を奪わなかった。


 故に生き延びた元首の悲痛。




 国家が成り立つその手段。


 それは多岐(たき)にわたる。


 常天連邦、その手段は犠牲であった。


 元連雲公国が元首。そして当時は連雲の民が長、その者がその命を対価に常天連邦、国家のその格を作り上げたのである。


 まさに人柱であった。


 何も、そうしなくとも国家の格は成立する。(それは複雑(ふくざつ)怪奇(かいき)にわたるが)


 しかし、そうするしかなかったのである。そして、その強烈な犠牲が国家の格の強さを作ったのもまた事実であった。




 連雲公国、その元首。その役割の名がまさに常天聖である。(常天星とは別の意味を持つ)


 そして、常天連邦。その国家の格の名は、


 常天の格。


 これは普通、国家の格としてありえないものである。


 国家の格の名に固有の名詞が当てはまることはまずない。その多くは一般名詞である。


 シンプルなところで言えば、大国の格、超大国の格、また、列強の格、覇権の格、属国の格、魔術の格、文明の格などがある。


 その国を体現するものが国家の格の名となる。


 しかし、常天連邦は常天という独自の格である。


 これは、この果てなき世界において、無二の格であろう。


 それは、国家成立の経緯とその精神の影響でもあるが、やはり、神秘の大陸コンロンを一つに統一したという偉業がためである。




 なぜ、コンロン大陸はその滅亡から即座に立ち直り、国家を形成することができたのか?それは、連雲公国にて、貴賤(きせん)を問わず散々なされた議論が(ため)である。


 理想の国家のために何が望まれるか。


 この下地が国家のシステムを作り上げる際の障害を(ことごと)()(はら)ったのだった。


 常に今ここが天。


 民の生活がこうであるべきという理想と意思が連雲の時に(はぐく)まれていた。もはや、連雲公国の国家の格が(のこ)したものはその神秘の雲も含め、何もなかったのだが、ただ、その精神だけが人の手により受け継がれたのである。


 しかし、あの時、常天連邦の滅亡事態の宣言が時、夜空に出現したあの雲は、まさにかの連雲の雲であったのだった。


 それは奇跡かそれとも、幻影か、どちらにしろ連雲の意思が形を変え、常天に未だあるその事実が重かった。




 ただ、これだけは注意して欲しいのだが、滅亡事態により消滅した国家の格というのはまさに字の如く消滅する。少しでもそのともし火が生き残るなどということはあり得ない。

 その国家の格が恩寵(おんちょう)として与えた全て、手を加えたその全てが根こそぎなくなるのだ。最後に残されるのは、着の身着のままの民の身体くらいである。


 それは、国家の格が滅亡事態に際し、国家の貯蓄のその全てを用いるためである。


 例えばあの時、常天連邦が滅亡事態を宣言していた場合、多くの英雄がその場で命尽きることとなっただろう。


 その寿命が国家の格から与えられていたものであるからだ。


 その一方で国家の格の元、先代から次代へ引き継がれたその力というのは、奪われることがない。

 国家の格が担う役割はただ引き継ぐという橋渡しでしかないからだ。


 滅亡事態にて奪われる力というのは、基本的には国家の格なしにその維持ができない力である。


 滅亡事態の一つ手前、破滅事態。この意義を少しだけ述べておこう。

 この事態に至ると、どんな弱小国家でも一つのある力を発揮する。それは引継ぎの力である。


 国家の格が死ぬが(ため)に寿命が尽きる者、または、もう既に生きる望みの薄い者、加えて、その力を(たく)したい者、こういった者たちの力を国家の格が次代へと引き継ぐ。


 そして、力を渡した者たちは、総じて死を迎える。


 これが()(おこな)われるのが破滅事態である。


 後戻りなどできないのだ。ただ、その事態の渦中(かちゅう)、奇跡の大逆転が起こり、滅亡事態を免れるという場合がある。

 しかし、残酷なことに、例えその奇跡が起こっても、国家の格は生き延びるが、一度力を引き継がせた者のその命は取り戻せない。




 常天連邦の場合、滅亡事態の宣言が民の発議により()(おこな)われる。それ故、民の解散という意味の破滅事態は必要なかった。


 破滅事態には敵への最後の威嚇(いかく)の意味もあるが、常天において、破滅事態を宣言するということは、最後の民の意思決定の障害にしかならない。


 宣言のいかんを決める民が、その前に解散しては意味が無いし、破滅事態はその性質が後戻り不可であるが為に滅亡事態の採決のその決断にいささか純でない感情が生じてしまう。


 まあ、この詳細はもっと複雑で、常天連邦も滅亡事態のその前に破滅事態を宣言することができ、その為の意味もあるにはあるのだが、ここではその詳細はいいだろう。


 重要なのは、常天連邦の力の引継ぎというのは、この滅亡事態の宣言直後に行われるということだ。


 これは常天の格のその規則として決定されているものである。


 そして、先の滅亡事態、その発議の一部中核をなしたのは、常天の滅亡と共に死ぬ定めにある英雄たちであった。


 死の定めにあった英雄達のその全てがその発議に名を連ねたと言ってもいいだろう。


 ちなみにではあるが、滅亡事態の宣言のその発議においてのみ、発議に名を連ねた者の氏名が公表される。


 国家の重大事項が(ため)、ここだけは匿名(とくめい)ではならなかった。


 そして、その発議が民により否決された時に負う一定のペナルティーというのもある。


 具体的には、次の滅亡事態のその発議における一票の重さが一定程度、減少すると言ったものであるのだが、これもこれでまた複雑なシステムがあるので、詳細の説明は省く。







 荒廃した大地。そこに立ち止まる。


 そこはコンロン大陸からかなり離れた場所であった。それでも常天連邦からその地を観測できないことはない。そして、常天連邦もその地の存在を認知していた。


 ただ、その近くに何かしらの文明が形成されるということはない。


 大地を()くかの如く、巨大な亀裂(きれつ)がその地に走っているからだ。


 その亀裂を目下に捉え、闘神は立ち止まったのである。




 大地の亀裂。


 この一帯に住む者からは、純粋にそう呼ばれる現象だった。


 大規模に裂かれた大地は、長い年月で見れば、その亀裂は広がったり、縮んだりを繰り返している。


 その底がどこまであるかは誰も知らない。


 幾度(いくど)もその観測が試み得られた歴史はあるが、成果は出なかった。


 もちろんであるが、常天連邦も、この亀裂の解明に尽力した過去があった。


 底なしである。


 そう結論づけられたその亀裂は、空を(ふた)する世界の天井と相対して、この果てなき大地の不思議の一つ、この大地に果たして底はあるのだろうか? という問いをもたらしていた。


 世界の中心は大地の底にあるのだ!


 という者も多く存在するが、誰もそれがどうなっているか分からない。


 いかなる高度な文明も、それを知れない。


 ガラスの天井を破壊できない、それと同じ不可能がそこにあった。


 つまり、この大地の地層も、数多(あまた)の不可知なる層で構成され、文明がどうにかできるものではなかったのである。




 考えようによっては、大地の地層のどこかには、我々の地上と全く同じような果てなき大地が広がっているとも思える。

 星読みはこれを否定するが、我々の今いるこの大地も、実は地層の中にある世界の一つなのかもしれない。




 また、この世界の地形の変化について少し述べておくが、それは、自然が穿(うが)つ、それだけではない。


 世界にある種々様々な不可知なる力が地形を変える。


 大自然が持つ不可知なる力により、大地が、海が、盛り上がり、陥没し、それが突如として現れることもあれば、穏やかに変化するところもある。


 地球で言うところの大陸プレートのその運動が如くであった。


 悠久の視点で眺めれば、その地域ごとに、また、世界全体で一定の運動の規則が見られる場合もあれば、


 突如、不規則にその運動が変わる。そんなこともあった。


 地形学。


 これら地形の不条理を観測し、抑え、書き換えるのもまた国家の格、もしくは地形学を担う能力者、格持ちの仕事である。




 当然、目下の亀裂もその対象である。


 いつからこの亀裂がこの大地にあるかは分からない。


 その動きは穏やかで、たちまちのうちに周囲を飲み込んでしまう。そんなことはないのだが、それでも付近に文明がないというのも無理のない話であった。


 ただ、観測からして、この亀裂は先々消滅することになるだろう。


 大小の動きはあれど、亀裂はゆっくりと着実に(せば)まっているのだ。しかし、それは何十億年後かの話であった。







 降りてみるか。


 先々のたばこのその手掛かりがつかめたことで、今はそこまで焦ることはなかった。


 寄り道も結構である。


 恐らく、今後、その旅は異常な距離を渡る旅となるのだから焦ってなどいられない。それに、今は落ちてみたい、そんな気分であった。




 闘神がその一念を抱いた時である。背後の空間が光った。


 息が切れきれの男が独り。その空間から出てきたのである。




 振り向く。




 ああ、あの男か。




 夜の光に照らされた汗だくの男の顔を闘神はしっかりと覚えていた。そして、彼が担うその役割も知っていた。




 完全言語理解。


 言語体系のある全ての言葉を理解できる。


 そして言語とは、その文明文化が成り立つところが色濃く反映されるその一つである。


 常天の民のその言語は、その言葉のアクセントがどことなく鼻につく。高貴と言えば高貴であるし、美しいと言えば美しい。逆に言えば、激しいアクセントがあまりない。

 演説するとなれば、それは断定的な言葉で語るよりも、含みを持たせた流暢(りゅうちょう)な歌のような言葉が合う。そんな言語である。

 それだからこそ、怒りを持って話すとき、それは必死のそれに聞こえるのだが。


 そして、こういった取っ掛かりから、相手を知ることが出来るのである。




 相手の感情。そこまで立ち入ることはできないが、言語の背後にある文明文化、その制度などが分かるというのが完全言語理解の能力が一つであった。


 これはそのスキルが幻たるゆえんでもある。普通の言語理解系スキルではこうはならない。

(再度述べるが、感情や心情。こういったものは、普通、一般の人がするそれしかできない。推し量るのが関の山である)




 完全言語理解がもたらす力、それは、あくまでドライな部分。


 いわば、辞書、または、その言語体系が根差す文明文化の百科事典が与えられる、そんなものだと言っていいだろう。


 それは、対象の言語に密に触れれば触れるほど、鮮明に浮かぶものである。




 闘神には、先の戦いで十分であった。


 戦闘時、星読みたちを通して語られた歴史、その情景が、常天の言語に触れるその役割を果たしていたのである。


 そしてそれは、この世界の常識を理解するのに過不足ないものでもあった。


 故に、この亀裂が何たるかも、すでに知っていた。


 亀裂という言葉を常天の言葉にて捉えると、この目下の亀裂の歴史が理解できるからである。







 男を(にら)む。


 けれども、今度は、男に一切の動揺は見られなかった。走り疲れていたのか、はたまた覚悟があったのか。




「飛び込むのか」




「ああ」




 夜の冷たい風が二人の間をかけ抜ける。




 男は、その一言に尽きてしまった。


 言うべきことや、思いのたけ、そんなものはいくらでもあった。しかし、かの者に追いついた、それで全てが終わってしまった。そんな心情であった。


 それを見て、闘神は目を細めるだけである。


 そして、(ひるがえ)り後ろを向く。


 亀裂へと向かい、歩いてゆく。


 その(ふち)まで達し、その最後、


 背中越しの無言の合図。


 じゃあなと片手、ひとふり()り上げて。




 大地の、亀裂に飛び込んだ。







 直後、雄たけびのような、叫び声が聞こえる。


「俺はいつまでも待つからな! お前が奪ったロイヤルが我らが元に戻るまで、お前をここで待ち続ける! いいかぁ! これが常天のその意地だぁ!!!」


 最後にかすれたその声は、亀裂の闇にこだましていった。










 ただ、真っすぐと頭から落ちてゆく。


 いつまでもその終わりは見えなかった。


 今は、ただ重力の加速に身を任せている状態であった。




 そして、気づくと、電車の車内で目が覚めた。







 至って普通の日常だった。




 車内の椅子に座っていた私は、何かの用事のその帰りだろうか、夕方になるその手前の時間帯、家に帰るなじみの車内でうとうとと眠ってしまっていたようだった。




 あれは、夢であったのだろうか。




 ただ、そう思う中に一つの違和感。


 電車の車内に掲示された広告のその文字が読めないのである。


 異常な文字。


 日本語であることは確かなのだが、何故かそれが読めない。


 そう思っていると、車内にアナウンスが流れる。


 その意味も分からず。


 その言葉も日本語なのだが、全く意味がつかめない。(とら)えられそうで捉えられない。ぬかるみに入ったかのような感覚があった。




 恐らく、次の駅、つまり、我が最寄り駅に到着するその知らせであるのだが、さっぱり言葉が分からなかった。




 完全言語理解が働いていない。と思うも、どちら世界が夢か現実か分からない。何かが、決定的な何かが掛け違ったような、それでもここに現実があるのだった。




 流れる車窓(しゃそう)のその景色は地元のそれをそのまま映していた。


 何ら変わったところはない。




 電車が停止する。駅に着いたのである。


 目的はない。目的はなかったが、降りないと仕方がない。ただ、何をすればいいのだろうか。今更家に帰っても、普段の日常が始まるのだろうが、何をやるわけでもないのだ。




 駅のホームに降り立つ。そのまま、エスカレーターをのぼり、改札へ。


 そして、ここであることを気づく。


 切符は、いや、スマホはどこにあるのだ。


 その一切がなかった。財布すらポケットには入っていない。




 仕方ない、何とか事情を話すしかないか。


 駅の窓口は、一人の利用者がこれまた改札を出れないのか、駅員と話していた。


 その後ろに並ぶ。




 やはりだ、何を話しているか、さっぱり分からない。


 そして、自分の番が回って来た。




 大丈夫なのだろうか、ただまあ、仕方ない。最後は身振り手振りでなんとかしよう。


 しかしであった。


 私が、一言、すみません。とそう話したその瞬間。駅員の顔つきが豹変(ひょうへん)した。


 驚き、そして、憎しみ。そんな表現が似合う。


 私の近くを通った者も、突如足を止め、こちを注視する。


 何がいけなかったのか。どうやら、私はいま、方々から(にら)まれ、そしてどうやらどこかに通報されているようであった。


 もっともわかりやすいのは、駅員がその受付口のデスクの下にあるのだと思われる何かしらの通報ボタン、それを押しているその手つきであった。




 ここは、私の地元なのだが、一体どういうわけなのだろうか。まるで銀行強盗のような扱いである。


 そして、あまり時を置かず、警官の群れが駆け足でやって来た。


 私を取り囲む。


 相変わらず、何を言っているのかわからない。不思議な何かに満たされて、捉えられないのだ。しかし、それは確実に日本語なのだが......




 事態は、警官の一人が、手錠を取り出した、そこで動き出す。




 ふざけるなとそれを弾いたその動作に闘神の力がみえた。




 ああ、戻っては来たが力を失ったわけではないのだな。


 であれば面白い。




 ただ驚く警官たちのその頭を飛び越えて、来いよ。と挑発。


 後ろ歩きでステップを踏むが如く、ぴょんぴょんと逃げてゆく。


 それを必死の形相で追いかける警官たち。




 そして、駅の改札口を抜け、階段を下る。


 駅前のロータリー。相も変わらず見晴らしのいい普通の景色なのだが、向こうの大通りからそれは来た。


 戦車の隊列である。


 陸上自衛隊が、動いたのである。




 なんだこれはと思わず笑ってしまった。


 戦車の主砲がこちらを向く。


 しかし、どうやら撃たないようだ。威嚇(いかく)なのだろう。こんなことで街中で主砲発射するなど馬鹿なのかと向こうも思っているのかもしれないが。




 自衛隊のお偉方だろうか、そのうちの一人が拡声器越しに、こちらへ向けて何かをしゃべっている。


 空にはいつの間にか、ヘリと戦闘機とが旋回(せんかい)していた。


 その空を見て、ふと、地球を思ってしまった。


 体を(ちゅう)に浮かせてみる。


 この力も相変わらず。消えてなどいなかった。




 そして、上空へ、ひとっ飛び。その速度を徐々に上げ、私は宇宙へと到達した。




 つまり、無重力が体を支配したのである。




 体を浮かすその力を切った状態なのにも関わらず、浮いている状態。




 あたりには空気はないはずだったが、力のおかげか、息がつまることもなかった。


 これまで加速するたびに感じていた瞬間的な重力の影響も今はなかった。




 今、私は、地球の遠心力の釣り合いのおかげで無重力状態にあるのだ。

 ISSにぶつかる。そんな高度なのだろう。




 その高度から見た地球はやはり美しかった。


 そして、暗黒の宇宙を(なが)める。




 あの先にどれほどの生命が輝いているのだろうか。




 ふと、地球を見てしまった。


 地球のその生命を一手に握ってしまえる。そんな感覚があった。


 思い一つで消し去ることもできるのだ。


 そう考えてしまった。


 すると途端に、この世界が小さく見えてしまったのだった。


 それは、果てなき大地のガラスの天井に閉じ込められたその閉塞感(へいそくかん)と真逆の思い。


 そんな思いから逃げるように、私は宇宙を飛び出した。




 向かった先は私の家である。


 そこに、損なわれたこの感情の答えがあるような気がしたのだ。




 先ほどの騒動はどこへ行ってしまったのだろうか。街は普通で、異常は()りを(ひそ)めていた。


 いつもの帰路。なじみの通りを抜けてゆく。


 全てはあの書斎(しょさい)から始まったのだ。そこに何かがあるはずだ。




 しかし、何もなかった。


 私の家がなかったのだ。




 何もなかったというのは少し語弊(ごへい)がある。

 その場所は、見知らぬ公園と化していた。


 けれどもその遊具たちは、知っていた。かつて故郷にあった公園のその遊具たちであった。


 ブランコが()れている。


 その向かいに立つ立派な大木も私が知る大木であった。


 落雷に撃たれて処理されたその大木は学童の頃、ブランコから飛ばした(くつ)が良く引っかかって、それが大層、邪魔だと思っていたものだった。しかし、その大木が役所に処理されて無くなった後、その切り株を見て、なんとも虚しい思いに満ちたのを覚えている。




 ふと、笑ってしまった。




 夢だなこれは。




 先ほど独りでに揺れるブランコを見て、それに気づいてしまったのだった。







 よくできたものだ。目が覚めながらそう思う。


 まだ、亀裂(きれつ)の暗闇は底に至っていなかった。




 どこまで落ち続けるのだろうか。もはや地上の光はこちらに届いていなかった。


 寂しさを埋めるようにジッポライターを取り出す。


 ホイールを回し、火をつける。


 そしたらば、待ってましたとばかりにジッポーちゃんがひょっこりと現れた。




 ライターのその火が擬人化した姿。タキシード君が血涙ながして悔しがっていたその姿は、実に愛らしいアニメ調のキャラクターであった。




 女の子である。


 いきなり飛び出し、じゃじゃんと登場!


 そんなポーズをとっていた。




 この擬人化、どうやら苦労して編み出したようで、この姿の時、彼女はしゃべれない。


 故に、豊かな表現で会話を試みて来るのだが、その彼女がどうしたの? と首をかしげていた。




 いや、どうもしないさ。




 元所持品ズとの会話は思念(しねん)で十分である。そして、思念が伝わると言っても、その心の内を全て読まれるという訳ではない。


 互いにとって話したいことや、隠したいこと、それを選んで話すことができた。


 いわば意識の強さの問題である。




 ジッポーちゃんを見つめる。


 ん? とまた首をかしげるジッポーちゃん。


 彼女は私のお気に入りである。この擬人化も時と場所を選んで行われるのだ。ストレスが無くて助かる。




 タキシード君は、何故か、ジッポーちゃんが出現した途端そのフォルムを変え、今はトレジャーハンターのコスチュームであった。


 首にかかった(ひも)を頼りに、その帽子(ぼうし)がパタパタはためいているが、これは不自然である。


 なぜならば、今の落下速度は異常の一言。


 その速度の風を帽子が受けるならば、(ひも)はぎちぎちに伸び、帽子は不格好に乱れ踊るはずだからだ。


 つまり、これはタキシード君の演出という訳だ。




 何でもありだな。


 ん? 何でもありだと.......




 突如脳裏に閃くある懸念。


 タキシード君がその気になれば、どんな服にも変化が可能なのだとすれば......


 最低な妄想が頭を駆け巡った。


 服讐(ふくしゅう)




 タキシード君は沈黙を貫いていた。




 それが怖い。




 今、脳裏を巡ったその焦りが、タキシード君に伝わっていなければ良いのだが。


 よし、もうこれは考えないようにしよう。ままよ。







 と、闘神が懸念したその一方で、タキシード君はというと......


 その手があったか! と(ひざ)()っていた。そして、ポケットでうとうとと惰眠(だみん)(むさぼ)るスマホ君をたたき起こす。


 何事かとロングバケーションを楽しもうとしていた最中に起こされたスマホ君は不満顔である。


 スマホ君は先の常天での戦いのその全てを録画し、疲れていたのであった。


 もちろん、それは誰にも気づかれていない。スマホ君の編み出した能力の一つ『透明化』が為である。


 超ハイスペック端末へと変化していたスマホ君であった。




 ちなみにだが、闘神の元所持品ズたちは徐々(じょじょ)に(おのれ)の能力を把握し、そして力をつけていくのだが、闘神はその事をあまり知らない。




 そんなスマホ君だが、タキシード君の情報に大歓喜! 二人であれやこれやと策謀(さくぼう)を張り巡らせる。


 スマホ君には圧倒的な情報網と、そして最大の奥の手、闘神のかつてのネット検索履歴があるからまた強い。




 二人のその策謀が日の目を見るのはいつのことになるだろうか.......ただ、これだけは言っておく、スマホ君は中立派である。しかし、興味関心事にはぐいぐいと首を突っ込む(たち)であった。


 常天の戦いが始まるその前も、勝手に闘神から離れてゆく街ゆく街を探訪(たんぼう)していたのだった。


 これにはある種の不安がともなうはずだが、元所持品。彼らは何故か自然と闘神の元へ、溶けるように戻れるので、危機に直面することもなければ離れて不安になることもなかった。


 ちなみに、スマホ君とタキシード君の、二人の会話であるが闘神もジッポーちゃんも知ることはない。

 その二人だけのチャンネルで会話が繰り広げられていたから、盗み聞きもされなかった。


 ただ、二人の間で(とも)(ちぎ)りが交わされたその時だけは、あいつら、なにかしてるの? と少しだけ勘づいたジッポーちゃんだったのだが......







 そんなジッポーちゃんだが、彼女はちょっぴりナイーブである。これが闘神のジッポーちゃんに対する評価であった。




 しかし、そのナイーブさがまた可愛いのだが。

 そして、どうやら当の本人も自身のナイーブさを私が気に入っている。そのことを分かってまんざらでもないようだった。

 その時はその時でアニメ調のキャラクター像をさっと変化させ、実に(みだ)らな色気放つ女と化すのだが。


 それを見てドキリとする、その心を見透かされ、もてあそばれる。


 そんな遊びもまた楽しかった。




 辛辣(しんらつ)な表現をしてしまえば、ジッポーちゃんはいわば、都合のいい女。二番目の座を死守する女の子である。


 そして、こういった場合、厄介なのは、1番目になりたいという密かな欲望はあれど、実際にそうなってみると、それを望まないということであった。


 2番目から1番目に昇格するというのは大抵の場合、こちらが弱った時である。


 ただ、こちらが少しでもその弱みを見せて、1番目に昇格させようとしたところで、その弱ったところが途端に(いや)らしく思えて冷めてしまう、そんなものだった。


 もし、1番目に昇格して喜ぶようなら、そもそも初めからその座を(したた)かに狙っていたか、彼女も彼女で弱っていたかのどちらかである。


 と思うのだが、これは実際の人間関係を少々文学的に、いや、猥雑(わいざつ)(あや)どっただけで、現実はそうもいかない。

 だが、弱さというのを(いろど)ることで世間を生きるのもまた生活の知恵、活力である。


 そもそも、その順位もそうだが、2番目の座を死守するという行為が現実の世界に物語を投影しながら生きるみたいなものなのだから。ロマンチスト、陶酔のそれである。


 だが、私はそれが好きだ。魅力的である。欲望に忠実な人間のその必死さが愛おしい。


 これに対し現実から目をそむけるなと非難する者も多いが、私はそれとは少し違う思いを持つ。意識というものは物語を作るそれと同じような構造を持つのだから、我々はそもそも虚構の住人であるのだ。




 そんなことをなんとなく考えていると、目の前のジッポーちゃんが怪しく光った。


 いつの間にか、色香ただよう姿へと変身していた。


 それをあてにたばこに火をともす。


 しかし、直面している現実で考えると、ジッポーちゃんはあくまでもジッポーライターである。


 それを考えると彼女に本気で熱を上げるというのはジッポーちゃんからしてもちょっと冷める部類の話だろう。







 深く深く落ちていく。


 終わりが見えない。


 本当に落ちているのだろうか? 速度の加速はとうに終わっていた。


 大気の抵抗と落下の加速度とが釣り合い、加速が止まる。いわゆる終端速度に達していた。




 ずいぶん前から変わらぬその速度に、何か一向に進まないだるさを感じる。




 飽きたな。




 そんな思いにとらわれる。けれども今更地上に引き返すのも(しゃく)だった。




 落ちるならどこまでも落ちてやろう。


 髪が紅に輝きだす。そして、一気にその周囲に(ほむら)が満ちる。




 神域解凍である。




 これから巻き起こる暴力的な力の濁流(だくりゅう)にこの一帯が崩壊しないとも限らない。そして、それは望むところではない。


 故にそれを展開した闘神であった。


 神域解凍、その行使は無制限であるのだが、あまり使う気にはならない。


 少しめんどくさい。


 例えるならば、税金の申告をしなければならないその時に、いかにその書類と向かい合うか、その向かい合うまでに感じる気だるさがある。


 しかし、()てしてそういうものは一度取り掛かると、集中力が満ちるものである。そして、それは神域解凍においても同じであった。


 また、慣れればいい。こういったものは、いつか慣れるものである。







 瞬く間に降下していった。


 その速度は、ガラスの天井のその上で出していた速度を優に超えていた。




 しかし、それでも一向にその底が見えない。




 いらだちと共に感嘆の念を覚える。




 ここまでの大地の質量。何が重力をもたらしているか、もはや知れない。


 果てなき大地のその厚みが薄っぺらいものだとまた困るところだったが。




 周囲は灼熱(しゃくねつ)に照らされて、先ほど、そこが暗闇であったなどとは思えなかった。




 この大地の底には、また反対の果てなき大地があるのかもしれない。そんな密かな神秘を感じながら、その速度をますます上げていった。


 今や時速は1000万kmを優に超えていた。




 そして、その紅が徐々(じょじょ)に別の色に変わり出していたのだが、集中力が、切れた。




 もっと、いけた。


 力が尽きたわけではない。それは無尽蔵であったが、ただ、落ちるのに飽きたのだ。




 そして、一眠りする闘神だった。




 今度は何の夢も見なかった。


 しかし、起きた時、その気力は回復し、活力がみなぎっていた。




 その一連の流れが幾度(いくど)も、幾度も、繰り返された。




 何度、急降下と、一眠りを繰り返したことだろうか。




 スマホ君のその表示を見ると10年が経過していた。




 あの男は今も地上で私を待っているのだろうか。




 もしそうならば、あっぱれだ。




 紅の次の色は(むらさき)であった。


 高貴なる色である。


 しかし、それは決して地上では放ってはいけない力だった。







 そして、また、それが繰り返される。


 そんなある時であった。




 眠りいっていた闘神の体が、ふと軽くなった。


 無重力である。




 ついに変化が訪れた! ここが底なのか!




 歓喜に満ちるが、すかさず、大地の壁に駆け寄る。




 無重力のその空間では上も下もわからない。故に、重力のある地上のその方向をしっかりと確認して、降りていかなければならない。


 でなければ全てがおじゃんだ。




 手元の明かりは。紅に光る髪のそれで十分だった。




 慎重に、岩を(つか)みながら、無重力のその空間を下ってゆく。


 その時であった。


 突如、強烈な重力が闘神を襲った。


 それは、地上方向へ向けた逆向きの重力。


 岩を(つか)みながらそれに(あらが)う。




 ここまで来たのだ、訳も分からず暗闇に放りこまれるわけにはいかない! そんな馬鹿なことがあるか!




 しかし、その波はすぐに終わった。




 この手元の岩が耐えていてくれてよかった。


 何もそれを(つか)まなくとも(こら)えることのできる力はあったが、一度、今の地点を見失うと怖い。


 放り出されたその位置が無重力の空間で、ついに方向感覚を見失う。

 そんな恐れがあった。




 神域を展開し、周囲を照らすのもいいが、ただ、もはや、この亀裂の底は果てしなく広い。目印などどこにもありはしないのだ。




 そして、慎重に岩を掴みながら降りてゆく。




 先ほどの突如訪れたその重力は、以後、何度も闘神を襲った。




 しかし、耐える。


 だが、いくど目かのそれは、何故か、下向きの強烈な重力だった。


 先ほどの地上へゆり戻すその重力とは異なる方向からの引力であった。




 それまでと異なる(つか)み方で岩を掴む。




 そして、地上へ、地下へと、揺り動かすかのような重力はその後、(いく)たびも続いた。




 その重力の程度は、どれも強烈であったが、一様にその程度が同じであったわけではない。


 まるで大地がその秘部に触れたことを抗議するかのような(うめ)きだった。




 また重力が戻る。


 けれども今度のそれは普通のそれであった。


 巨大でも何でもなく、一般的な地上で感じる重力のそれであった。




 亀裂を下り、無重力の空間を渡り、その先に待っていたのは上り道であった。




 果てなき大地のその反対側に来てしまったのだろうか。


 マントルを通り向け、地球の反対側にとびぬけたかのように。




 熱意が満ちる。


 地上がどうであるか、それが見たい。




 神域解凍。


 それは、紅ではない。紫に満ちた高貴なる色だった。


 はやく、地上に到達したい。その思いが、彼を焦らせたのであった。




 そして、一直線に地上を目指す。




 ただ、地上までのその距離は落ちたその距離と同じである。


 つまりは、登りきるには何年もの時を要す。


 しかし、この時、闘神はその長い時間を一切感じてなどいなかった。




 十何年が(わず)か一瞬。


 降下時と比べ、その飛行速度を格段に上げた訳でもなかったが、闘神は時間経過のそのストレスと、今は一切無縁であった。







 地上の光がみえてくる。その興奮はひとしおであった。


 紫から紅へそして、黒へと力を落としてゆく。




 タキシード君は、その装いを迷いに迷い、ジャケットモードに変化させていた。


 茶色のそのジャケットは、闘神が以前、使わないからと譲り受けた、知り合いの亡き旦那の一品であった。


 大層値が張ったジャケットだったそうな。


 クルーズ船の旅行が為にその旦那さんが記念に奮発して買ったジャケットだったという。


 実は、タキシード君のタキシードもその旦那さんの所有品であったのだが、それらは一度しか着られなかったらしい。


 タキシード君にはその時の(あわ)い記憶がわずかにあるだけなのだったが、ただ、譲り受けた闘神がその服を大切に扱ったその事実がタキシード君の美しい、大事な思い出となっていた。







 そして、地上へ到達。


 恐らくは全人未踏の踏破であろう。


 辺りを見渡す。


 それは、激しい衝撃であった。


 何故か。


 コンロン大陸がその視界に入ったからである。


 反転した世界でもない。


 ただ、あの時見たその景色が地形が全く同じく広がっていた。


 一つだけ、その光景に違いがあるというのならば、大地に広がるその亀裂の(ふち)に、小さな小屋が立っていたというくらいである。




 大地のその反対側へ突き抜けた自信のあった闘神は、いつの間にか、元の果てなき大地に戻って来ていたのであった。




 そして、それは事実であった。闘神は果てなき大地のその裏になど到達していない。




 果たしてそんなものがあるのだろうか。


 今はまだ分からない。ただ、これだけは言える。闘神が舞い戻った、この瞬間。それは、闘神が亀裂に飛び込んでから実に300年の時が経過したその大地であった。










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