表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闘神ヤニカス戦記  作者: 店や喫茶
ロイヤル編 第一章
2/18

果てなき大地

 遠くの方に山脈が望める。


 あたりいったいは草原であった。


 風がそよぎ、(しずく)がきらめいていた。


 視力が格段に上がっている。




 朝方だろうか、それにしても、体調がいい。


 心地がいいのだ。生まれ変わった。そう感じられた。




 これは、夢ではないようだ。


 


 先ほどまでは、どこか夢心地であったのだが、しかし、私は今、生きている。


 


「闘神か」




 ふと、彼は、(にぎ)りこぶしを作ってみた。


 そして、力をこめてみる。


 どこまでも力がこもっていった。




 限界はあるのだろうか?


 次第にあたりの空気が熱を()び、ゆらぎだした。


 汗は一切かかなかった。


 熱い。


 とんでもない暑さの中にいるということは理解できた。


 しかし、その暑さも、熱の痛みも全く問題がなかった。


 かといって、痛みや感度を失っているといったわけではない。


 感覚に意識を強く向ける。その度合いが強まれば強まる程、痛みは増していった。痛みは既に味わうものと化していた。


 だが、汗はいつまでもかくことはなかった。







 もう一方の手元を見る。


 そこには、既に半分ほど燃え尽きている、たばこがあった。


 一緒にやってきたのだ。


 それをくちびるで、はむ。


 吸い方に迷った。


 どう吸うかにより、たばこの味は変わる。

 そして、精神状態にも左右される。


 しかし、迷ったのは一瞬だった。




 (けむり)(はい)に、ただ純粋に満ちていった。




 最期かもしれないのだから、これでいいか。


 煙を、口元でためもせず、鼻へ通すこともなく、また、ふかすこともなく、一息にのむ。


 そして、ゆっくりと鼻腔(びこう)を通して煙を吐き出した。




 うまい。


 なんてことだ。




 ベストな吸い方をしたときにしか出会えないうまさが、広がった。


 ラムの香り、甘みが満ちていた。


 そして、ふた吸い。み吸いと至高の一服が続いていった。




 だが、あっという間に終わってしまった。




 しかし、最後まで、落胆(らくたん)させられるという瞬間は訪れなかった。


 たばこの味を感じられなかった時は残念な気持ちになるものである。だが、此度(こたび)はそんなことはなく、(ひと)()いごとに変化があり、実に多くの表情を味わうことができた。そう言える。

 おそらく、今の体が優れているがためだろう。

 一流のソムリエの感覚を、意識するだけで手に入れられる。そんな具合だった。

 だが、たばこの味が変わった訳ではない。それだけはわかる。

 私の感覚器官が繊細(せんさい)(とぎ)()まされたのだ。

 味わいたいという意識。それ一つで。

 さらに集中すれば、空気中に(ただよ)うわずかな煙も楽しむことだってできる。




 無防備な時間がただ過ぎていった。


 だが、それも終わった。


 吸い殻だけが、手元に残る。




 さらば


 と捨てようとしたのだが、何か()しくなった彼は、服のポケットにでもしまおうかと、考えた。


 しかし、()(がら)というのはひどい匂いなのだ。


 どうしたものか。

 キャップ付きの缶コーヒーでもあればよかったのだが。

 ああ、コーヒーが足りない。




 と、そんな考えに(ふけ)りながらも、まあ、いいかと、吸い殻を直接、服にしまおうとする。


 しかし、なぜか服のポケットというポケットは(かたく)なに口を開かなかった。




 ちょっと待て。




 薄々は感じていた。しかし・・・なぜ俺はこの服を着ているのだ。




 それはブランド物のタキシードであった。


 正装である。


 堅苦(かたぐる)しく感じられるそれは、実はよく着ていたお気に入りであった。


 ただし、いつもは着崩しており、シャツは黒でネクタイはなし。


 袖元(そでもと)にはカフスをつけていた。


 これでたまにあるパーティーなどに出席していた。




 すると不思議なことに、彼がそれを考えた瞬間。まったくその通りに洋服が変化したのであった。


「どうなってんだこれ」


 試しに彼は、彼が持っていた他の服を思い浮かべてみたが、何の変化もなかった。


 それを着たいと念じてみてもダメであった。




 特殊な服かなんかなのか。これはいったいどう(あつか)っていいものか。

 いつまでもタキシードを着るわけにいかないし。外に出ない日はジャージで()ませたい。

 しかし、これが貴重な物ならば、適当に脱ぎ捨てるわけにもいかないだろう。




 そう思いつつ上着を脱いでみる。


 手から離すとそれは地面に落ちず、溶けるように空気に消えていった。


 あっと驚いてしまった。


 どこにいったんだ・・・


 あたりを見渡すも、なんの意味もなかった。


 失ったのか?


 そう考えてもしょうがなかった。


 ただ一人ポツンと突っ立ち一人思案していた。


 そしていつの間にだろうか、彼は脱いだ上着を着ていたのだった。




 いや! いつ着たんだ!? おかしいだろ! 俺は脱いだぞ! いつの間にっ、そんな訳あるか!!


 


 おかしい。


 絶対におかしいのだが。共感する者がこの場に居ようか。


 だから、彼は検証の為に、再び上着を脱いだ。


 そして手を離す。


 故に上着は地面に落ちる。そのはずが、先ほどと同じく、落ちる前にそれは空気に溶けて消えた。




 まだ上着は着ていない。


 シャツしか、私は着ていない。


 よし。




 と彼が思ったときには、彼は()いだはずの上着を着ていたのだった。




 再び上着を脱ぐ。


 宙に放り投げる。


 空中で、それはやはり溶けて消えた。


 まだ、上着は着ていない。


 と思ったそばから、既に彼は上着に着られていた。


 再び、次は急いで、上着を脱ぐ。


 今度は地面に叩きつける。


 叩きつけたはずなのだが、それは浮いた。


 そして再び、次はゆっくりと、空気に溶けていった。


 消えた上着は、いつの間にか彼に装着されていた。




 再び上着を脱ぐ。


 と、あ、あれ? ぬ、脱げない・・・




 上着はぴちりと体に張り付いていた。


 脱ぎ捨てすぎたか?

 いや、さっき地面に叩きつけようとしたのがマズかったのか?


 と考えた時、どことない違和感が、彼を襲った。




 まて、


 いや、


 こいつはいかん。


 いかんぞ!


 この服、


 どうやら、こいつは意思をもってしまったようだ!




 その瞬間。キュッ! はっきりと体が服に()め付けられた。




 危機。


 それに対し、彼の思考が加速する。


 それは、突如(とつじょ)、訪れたイレギュラーに対し、彼、つまり、闘神が、無意識で、臨戦(りんせん)態勢(たいせい)へと、突入した形だった。


 これは、この世界が初めて直面した神の異常である。


 


 (あやま)ち。


 一つの(あやま)ちが闘神の脳裏(のうり)によぎる。


 その(あやま)ちは、一見すると、くだらない。


 しかし、それはこちらが、くだらないと思えば思う程、相手方は(にく)しみを(つの)らせるものであった。




 ほーん? それで? その(あやま)ち、認めるの? 認めないの?




 タキシードからの無言の圧力が、(せま)る。




 それでも闘神は幾度(いくど)も否定を試みた。


 だが、無理だった。




 俺はあの石板でポイントを取捨選択する際、10Pのスーツセット(黒)を捨てたのだ。

 捨ててしまったのだ・・・




 スーツセット?




 いやいや、こいつはタキシードだろ。

 いや、しかし、今は、そんな違いなど、どうでもいい。

 つまるところ、こいつがあのスーツセットだったとでもいうのか? ということはだ。




 ぞわりと、背筋が凍る。復讐(ふくしゅう)の二文字が頭に浮かんだ。




「俺がたばこを優先して、お前を捨てたこと、その事を覚えているというのか」




 その言葉は、口には出さなかった。


 しかし、その思考はタキシードへと伝わる。そして、ギュギュギュっ! と()()けが増した。

 つまり、それが正解だった。




 マズい! いや、そんな馬鹿な事はないはずだ! そんな(うら)みはあっちゃならない! 


 ボギュッ!


 タキシードの締め付けは、体を(ひね)りつぶさんという勢いであった。


 しかし、それだからか、そのやりすぎなタキシードの行為に対し、少し冷静になってしまう闘神だった。故に、


 ありゃ~こりゃあ、常人の体じゃあ、骨はボッキボキだぁ~


 と、ちょぴり不真面目な考えを(めぐ)らせてしまったのであった。




 それがいけなかった。


 ギュルルルル!


 まるでわずかに湿(しめ)った雑巾(ぞうきん)を念入りに(しぼ)るような苛烈(かれつ)(しゅう)(ちゃく)をタキシードがみせる。




 にもかかわらず、


 不遜(ふそん)な態度を見せたら、これか・・・


 と、また、そんないらぬ事を考えてしまった闘神だったものだから、タキシードは、いまや、万力のごとき力を発揮し、暴れ散らかす始末だった。


 闘神の体は、暴風にさらされた稲穂(いなほ)のように、しっちゃかめっちゃか、前後左右。()じられ、()(まわ)されるものだった。


 そこには手加減などない。


 捨てられた(うら)みつらみは、もう手の(ほどこ)しようのないところまで来てしまっていたのだった。

 だが幸いなことに闘神の体は(やわ)ではなかった。


 そして、無理やり動こうと思えば動けもした。


 いや、嘘である。


 実は、自由に動けた。


 しかし、そうしてはならないものである。


 決して、逆らってはならないものである。特に、事ここに至っては。


 故に、闘神はタキシードにやられるがまま、懇願(こんがん)するしかなかった。


「まってくれ、捨てたわけじゃないんだ。君が、その、そう! タキシード君だ。タキシード君だと分かっていたのならば、捨てはしなかった! いや、いやっいや! あ、痛っ!  ま、まってくれ! 分かった、わかったから! 正直に言おう!!! 君がタキシード君でも僕は、たばこのために君を切り捨ててたさ!! ああぁっ!!! りっ、理解してくれ! と、ところでだ! 話を変えようじゃないか。いったい君に何が起こっているんだい。どうしてその、そう、あれだ、建設的(けんせつてき)な話をしようではないか!」


 すん。とタキシード君が静かになった。


「タキシード君」とは、ついさっき、とっさに考えた名前であるが、それがお気に()したのか、タキシード君の反応は落ち着いた。




 いや、それは違った。




 タキシード君はどこにもいなかった。


 いま闘神は全裸(ぜんら)だった。


 衣類という衣類が、


 つまり、上着、シャツ、ズボンに下着、靴下(くつした)(くつ)といったものまでも、全てが、今、どこにもなかったのだった。




 ああ、やりやがった。あいつは、やりやがった。




 しかし、己の体を見つめた時、その感情は、もうどうでも良くなってしまった闘神だった。


 丸裸(まるはだか)の自身の肉体が、それはもう美しいバランスを(たも)っていたからである。


 感動したのだ。




 身長は10cm程伸()びているように感じられた。


 もしそうなら、今の身長は194cmである。


 デカい。


 そして、体は筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)、均整(きんせい)がとれ、


 加えて、ムダ毛というムダ毛、つまりは、首から下には毛という毛が一切生えていなかった。




 恥ずかしいのやら、美しのやら。ただ、まあ、自慢(じまん)はできる。ずいぶんと立派な肉体に成り代わったものだ。

 これは、逃げたタキシード君には悪いが、勝負はこちらの勝ちだ。堂々としていればいいのだ。何の問題があろうか。美にかなう価値なし。




 と、そう思う闘神だったが、ただ、これは彼の危険な思い上がりであった。


 (のち)に、闘神は思い(いた)るのだが、その気になれば、タキシード君はどんな服にでも変化できるのだった。


 つまり、決定的な場面で全裸以上の復讐(ふくしゅう)に走ることもできるのである。


 だがしかし、今は何も知らない闘神である。


 そしてそれは知らない方が幸せであった。




 ふう・・・ひどい目に()った。こりゃ、選択しなかった、スマホとジッポライターも(ひど)いことになっているかもしれない・・・




 ふと、足元が、キラりと(かがや)いた。


 その輝きを拾ってみると、それは銀のジッポライターであった。




 見たことはないが、どこか、(なつ)かしいジッポライターだった。




 いや・・・こりゃ俺がいつも愛用していたジッポライターじゃないか!




 それはピースブランドのジッポライターであった。


 ピースのたばこを愛煙(あいえん)していたので、おのずと、そのブランドのライターも手に入れて、使用していた闘神である。


 その本来の色は、深い青色。


 ジッポライターの(おもて)には「鳥が枝を(くわ)えた絵」が金色で(えが)かれ、その下には金文字で「Peace」と刻印(こくいん)されていた、はずだった。


 だがしかし、どういう訳か手元のライターは銀一色に()()わっていた。


 銀以外の色は一切、混じっていない。


 着色(ちゃくしょく)()げたのだろうか?


 それにしては、その表面は、ずいぶんと(みが)き上げられた表情で、まさに鏡のような仕上がりだった。


 その小さな鏡に映った(おのれ)の顔をのぞきこんでみる。


 どこも変わっていない。いつも通りの顔だった。


 いや? (はだ)綺麗(きれい)になったか?


 くすみや、(あお)(ひげ)などと言った顔の影はきれいに消え去っているように見えた。


 そして、それは事実であった。

 闘神の(はだ)という肌は、まるで生まれ変わったかの(ごと)くみずみずしくハリ、そして、一切の汚れ、くすみ、(けが)れ、たるみ、ムダ毛といったものと無縁(むえん)であった。


 そこには満足気な顔が映りこんでいた。


 元来気に入っていた自分の顔つきが、より洗練(せんれん)されたのだから、文句はない闘神だった。


 髪型(かみがた)もベストな状態。お気に入りのそれであったから、彼の気分は上々だった。


 寝起きの(かみ)を水で濡らし、タオルでガシガシと拭く。


 その状態から、適当な時間、放置していると髪が(かわ)く頃に、(ゆる)めな天然パーマが仕事をし、ちょうどいい具合に今の状態に決まるのである。


 長すぎず、短すぎず。(ひたい)(かみ)(おお)(かぶ)さりすぎることもなく、ボリュームがでる格好であった。


 例え、風が吹こうとも、(かみ)をかき上げようとも、ちゃちゃっと直せば今の形に自然と戻る。お手軽無敵天然セットと彼はそう名付けていた。




 銀のジッポライターで顔を観察している闘神であったが、それとは別に、このライターのある不可解(ふかかい)な点が気になっていた。


 それはジッポライターの表面に(きざ)まれた、わずかなへこみ。


 それは、「金の鳥」と「金の枝」、そして「Peace」のロゴの刻印(こくいん)(あと)である。


 つまり、ジッポライターの表面に出来た、そのへこみが、「Peace」という文字や、「金の枝」の型を作っているのである。


 けれども、いったいどうして、「金の鳥」の刻印(こくいん)(あと)だけが、綺麗(きれい)さっぱりと、そこになかった。




 鳥はどこへいったのだ。


 タキシード君の前例があるだけに、ろくなことにならないような気がするのだが、まあ今はいい。

 問題は、果たして、このライターの火がつくかどうかである。




 それは、ちょうど一昨日。彼のジッポライターは、オイルを切らした。


 そして、そのオイルを交換しようと思っていた矢先、いつの間にか、このライターを家のどこかで無くしてしまった彼だった。


 まあ、家で無くしたのだから、直ぐに見つかるだろうと気楽に考え、100円ライターを彼は使ったので、当時、問題はなかったが、ただ、それならば、このライターのオイルは空なはずであった。




 すちゃっ。とジッポライターのケースの上部を開ける。


 右の親指をホイールに引っ掛け、素早く点火。


 じりっ。とフリントが発火する音と共に、見事な火花が()った。


 ジッポーの火花は美しい。


 ただ、今起こったその火花は、これまでのそれとは比較にならなかった。


 思わず息をのむ。


 直後。


 ボボッ!!! ジッポライターが火を()いた。


 火柱が顔面を(おそ)う。


「あっっつ!!!」


 くはなかったが、思わず声が出てしまった。




 こいつもどうやら俺に怒り心頭(しんとう)というわけだ。

 しかし、どうだろう。もっと遠慮(えんりょ)なく(まる)()げにされると思ったのだが、一度、火を()いた後は、次第に落ち着きを取り戻し、元の1cm程度の火に戻っていった。

 今は、ゆらゆらと揺れている。

 性格があるのだろうか?

 意識を持っているのであれば、当然性格もあるのだろうが。なんといっていいものか、この子は、(ひか)えめな性格なのかもしれない。

 嫉妬(しっと)深さも感じられなくはないが、おそらく、タキシード君よりは、いい子であるはずだ。

 ほら、()められてちょっと嬉しかったのか、気恥(きは)ずかしそうに身の炎をよじっている。


 かわいい。




 だが、お前はだめだタキシード。




 いつの間にか、(よそお)いが元に戻っていた。


 何やら危機を感じたのか、(あわ)てて姿を現したタキシード君。




 だがもう遅い。

 ジッポライターちゃんが俺の一番だ。




 そんな闘神に対し、タキシード君が抗議。


 が、しかし、


「ふぅん? なに? なるほど。それはちょっと待ってくださいと。はぁ~あのね~君、あんなことしといて、よくそんなことが言えるね~」


 と、あからさまな溜息(ためいき)を、これみよがしにつきながら語り出す闘神に対し、何の手も打てないタキシード君だった。




「まあまあ、いいでしょう。タキシード君。ん~~。でも、そうだね~。君は努力というものが必要だ。手始めにだね、この格好はいささか肩肘(かたひじ)がはる。だから、いつも出かける時に来てた、あの、刺繍(ししゅう)の入ったパーカーのセットにホルムチェンジで。いける? ん? いけ、ない・・・ほお? あ、なに。いけるかもしれません? ん~~~それは結局どっちなのかな。いけるの? いけないの? どうなの? はい、返事は?」


 ぐぬぬぬぬ。


 とタキシード君の(うな)り声が聞こえたような気がしたが、その数秒後には見事に、服装が変化していた。


 スニーカーに、スラっとした黒のズボン。そして、派手だが、彼に似合う、パーカーが装着されていた。




 満足であった。


 やればできるじゃないか。


 闘神の一つの懸念(けねん)が解消された瞬間であった。







 ただ、一方のタキシード君だが、そのタキシード君はというと、正直、そこまで闘神と敵対しようなどとは思ってはいなかった。


 少し()らしめてやればいいや。


 でもやっぱむかつく。


 といった具合。


 つまり、いかにして、そのストレスの(こぶし)を振り下ろせば、スッキリするものか、それがタキシード君には分からなかったというだけで、闘神に対して、怒り心頭だったという訳でもなかったのである。


 だから、スッキリさえすれば、服装のフォルムチェンジも、闘神の要望があれば受け入れるつもりであった。


 しかし、事ここに(いた)り、強制されるような形で、自己の正装というアイデンティティーが(おとし)められた。


 それは、タキシード君にとって、許しがたいことだった。




 これが闘神と縁を切れるものなら、何の苦悩もなかったことだろう。


 しかし、何故か、タキシード君には、そしてそれは、ジッポライターちゃんにもだが、彼らには共通して、闘神への親しみというか、敬愛(けいあい)というか、忠誠心、いや興味のようなものが存在したのだった。


 そしてこれが、各々の感情を(ゆが)ませていくのだが、今はその予兆がくすぶるだけである。




 闘神に対する興味。


 それは、遠くの(くさ)(かげ)からこちらを(うかが)い、そして、撮影しているスマホ君にも存在した。




 闘神の元所持品たち。


 彼らは、闘神に捨てられると同時にその意識を獲得したものたちである。


 そして共にこちらの世界へ来てしまったのだった。


 鮮やかな感覚、未知の感情、怒涛(どとう)の情報。

 といったものを楽しむ彼らであったが、これは、闘神がそれら元所持品に思い入れがあったからこそ生まれたものである。


 悲しくも、あっさり切り捨てられた彼らは、捨てた本人との想念(そうねん)を元に、意識を創発(そうはつ)させていたのだった。







 その内のひとりのスマホ君であるが、彼はいつ闘神の前に出てやろうかと、先ほどから、ずっとタイミングを(うかが)っていた。のだったが、もう今や、それはどうでもよくなりつつあった。


 立て続けに起こる事件のすべてが、スマホ君のツボに、見事にはまっていたからである。


 そして今はタキシード君がパーカーに変化した際に仕掛(しか)けた闘神への悪戯(いたずら)が、実にくだらなすぎて、また笑い転げている最中であった。







 そんなこんなはつゆ知らず、楽な服装に着替えられて満足していた闘神は自身に対する検証を再開するのであった。


 次に行ったのは、息をどれくらい止めていられるかであった。




 呼吸を奪われては生きてゆけない。そんな体では、魔法があると想定されるこの世界では致命的だ。

 しかし、どうだ、そもそも人体の構造は地球と同じなのか?

 己の腹を切り()いてみる気などはないが、まあ、いい。それは、いずれわかることだ。

 とりあえず、今、私は息をしている。




 肺がしっかりと動いているのを自覚できた。


 息を止める。


 しばらく時間が経つ。


 そして、また時間が過ぎてゆく。


 一向に苦痛は訪れなかった。


 もはや、皮膚(ひふ)で呼吸しているのではないかと疑う程であったが、水に()かることもできなかったので、検証はできなかった。


 そもそも、この世界の空気の成分が地球と同じかどうかも分からない。




 結局のところ、その検証は闘神が飽きたところで終わった。


 限界など見えなかった。


 そのはずであった。


 神の体は呼吸など必要としないのだから。




 ふぅ。


 空気がうまい。

 もう面倒くさいな。

 どうでもいいか。




 そう思ってしまった闘神だった。




 闘神を選んで、それが実は弱点がありました。なんてなったら、興ざめだ。

 だったら、その時、死んじまおう。

 無敵だから楽しいのであって、弱みがある生をわざわざ生きながらえる義理(ぎり)はない。

 みじめで嫌になる。

 毒を食らわば皿までだ、臆病風(おくびょうかぜ)に吹かれてたまるか。







 飛び上がりたい。


 そんな気分だった。


 どこまでジャンプできるものだろうか。


 空を見上げる。


 いい天気だった。


 しかし、太陽は見当たらなかった。


 青い空が広がっていた。


 太陽は向こうに(かげ)る雲にでも隠れているのだろうか?




 大地を()りつける。


 そこまで強く力みはしなかったが、ざっと、50mほど飛び上がってしまった。


 下方の地面がえぐれている。


 そのさなか、ふと、このまま(ちゅう)に浮くことは(かな)うのだろうかという気にさせられた。


 そして、見事に(ちゅう)にぷかぷかと浮いたのであった。


 そして浮いたまま上下左右、思うままに移動できると分かると心の底から、喜びがあふれた。




「なんて自由なんだ・・・」




 その全てが素晴らかった。


 雲の上で、眠ることも夢ではない。




 おお!


 その感嘆(かんたん)は、(ちゅう)に浮いたまま、かなりの速度を上げた飛行が、(かな)ったから訪れたものだった。


 思い一つで、ものすごいスピードが出たのだ。


 戦闘機にだってなれる。


 これには、彼は、ますます満足だった。


 気づけば、童心(どうしん)に帰って遊んでいた。




 いつの間にか、パッヘルベルの「カノン」のオルゴールが、あたりに流れていた。




 そのドラマチックな曲調とオルゴールの音色(ねいろ)とが、この世界の輝かしさと同調し、闘神の胸を満たしていった。




 救われたような、そんな気がした。


 しかし、その想いが頂点に差し()かるその前に、急に、孤独(こどく)が彼を(おそ)った。




 何をやってるんだ......ドラマチックな陶酔(とうすい)によくここまで(ひた)れたものだ。


 ちくしょう。しらけちまった。







 いつの間にか、音楽も止まっていた。




 だが、なんでカノンなんだ?


 ふと、闘神の脳裏(のうり)に疑問が浮かぶ。


 というか、さっきの音色(ねいろ)はどこから鳴っていたのだ?


 これも当然の疑問だった。


 先の音楽は、彼の脳内で再生されたものではなかったからだ。




 思い当たる節は......ある。




 ああ。


 いる。


 後ろだ。


 俺の後ろに奴がいる。




 闘神は、覚悟を決め、そして素早く後ろを振り向いた。


 しかし、それは逃げも隠れもしなかった。


 堂々と、ただ、こちらを静かに見つめていた。




 黒く光るスマホ君が、そこにポツンと浮いていた。




 刹那(せつな)。スマホ君との思い出が、闘神の脳裏(のうり)(めぐ)った。




 スマホ君と彼は実に長い付き合い。いわば(くさ)(えん)の関係。

 今日(こんにち)(いた)るまで7年という歳月を共に過ごしたものだった。




 この7年。

 それは私の人生が大きく花開いてから、やりたいことをやり尽くすまでの黄金の時間であった。

 ただ、スマホというのは、7年も使うと、さすがにガタが来る。

 その内臓のバッテリーは、もう既に限界寸前。

 そして、充電の口はバカになり始めていた。

 そんな始末。

 しかし、一向に買い替えはしなかった。

 何故だろうか。

 替えるのが面倒くさかったという理由もあれば、まだ壊れてないという言い訳もあったし、特段、生活で困ることもなかったから、必要に(せま)られなかったのもある。




 そんなスマホ君と向かい合うこと実に数秒。


 あたりは緊迫(きんぱく)した空気に包まれていた。




 突如(とつじょ)、スマホ君から、クラシック音楽が流れた。




 ドボルザーク:交響曲第9番 『新世界より』第4楽章




 こ、ここでこの音楽か......




 それは緊迫(きんぱく)のリズムだった。


 そのスマホ君が、動き出す。


 それは、こちらへ、ジリジリと、距離を()める歩みだった。


 両者の距離は、さほど、離れていない。


 今、この瞬間、スマホ君が何か仕掛(しか)けて来ても、おかしくはない距離である。


 しかし、未だ、攻撃の()ぶりはみられず。


 ただただ、こちらへ、徐々(じょじょ)に徐々に、ゆっくりと、音楽に合わせて向かってくるだけである。


 それに対し、まばたきすらできない闘神。


 そんなスマホ君の、真っ黒の画面が、(あや)しく光る。


 が、しかし、未だ、スマホ君、何も仕掛けてこず。


 ただ、こちらへとやって来ているだけだった。


 何もしてこない恐怖がそこにはあった。


 依然(いぜん)、音楽が、スマホ君のスピーカーから鳴る。


 否。


 スマホ君の体、全体から、音楽が、


 いや。


 何故か、この空間、360度、全体から音楽が鳴り響いていた。


 が、しかし、今や、そんな悠長(ゆうちょう)な疑問を浮かべている時ではない。


 両者の距離は、もう、目と鼻の先。


 お辞儀をすれば、ぶつかる距離などとうに、超えた。


 もはや、眼前(がんぜん)に黒色の板。


 ゆっくりとした体当たりでもかます気か。


 そして、そこまで来た


 スマホ君は・・・


 何もせず、


 彼の横を通り抜けていった。




 それは完全なる無視だった。


 スマホ君からの復讐(ふくしゅう)に、身構えた闘神はただ、バカをさらしただけである。


 つまり、闘神の(ひと)相撲(ずもう)という訳で、全てが空回ったその姿は、地味だが、一定のダメージを神の心に刻むものだった。







 どうする......これは、追いかけていいものなのだろうか。




 すでに音楽は緊張したパートから弛緩(しかん)したパートへと突入していた。


 しばらく、スマホ君の独演会が続いた。


 よく見ると小刻みにステップしている。


 ノリノリだ。


 一体、何がしたいのだろうか。


 シュールな光景がそこにあった。




 そして、スマホ君は飽きたのだろうか。


 いつの間にか、ポップな音楽が流れ始めていた。


 次々とDJのごとく、ハイテンションな音楽が流れていく。


 もはや、どうでも良くなってしまった闘神だった。


 が、しかし、




 いや、まて、その曲はダウンロードなどしていないぞ!




 流れる音楽には闘神が聞いたことのないものまで混じっていた。




 こちらへ来る前にスマホ君が好き勝手にダウンロードしてきたのだろうか。それとも、あちらと今も、繋がっているのだろうか。




 激しく気になり、どうなのだと問い詰める。


 すると、突然こちらを振り向き、警報音が鳴らされた。


「あ、アウト? てことなのか?」




 それ以上はうんともすんとも、何のリアクションもしないスマホ君だった。




 うなだれる。


 まあ、心残りというか、気になることは多々あるのだが、この調子じゃ仕方ないだろう。

 しょうがないか。


 と(ひと)()ちる彼だった。


 それをスマホ君はじっと見つめていた。




 突如(とつじょ)、スマホ君が動きを見せる。




 ぐっと、闘神に近寄ったかと思うと、その目の前で、あるライブの中継をその画面に表示。


 それは、大晦日(おおみそか)の風物詩。


 紅白歌合戦の中継だった。


 場面は、ちょうど、白組の人気アーティストが歌っているところであった。


『2024年紅白』


 この文字列が痛々しく目に映った。


 ほんとうに、これが、ライブ中継なのかは分からないが、ただ、向こうの時が、明らかに進んでいるのが理解できた。


 時間にして、約一ヶ月。


 書斎(しょさい)に石板が出現したあの日から、地球のそれは進んでいるようだった。




 自分がいなかろうとも世界は回る。




 そう思ってしまったが(ため)に、たばこが無性に欲しかった。




 そんなに動揺(どうよう)したわけではなかったのだが、ただ少しだけ、悲しさが訪れていた。


 しかし、それもすぐに落ち着いた。


 この不思議な世界と、元居た世界はどこか地続きでつながっている。


 それが分かっただけでもよかったと思えた。


 しかし、それとは逆に、なんだか釈然(しゃくぜん)としない気持ちにもなった闘神だった。




 あちらから、こちらの世界に、別の誰かが、またやって来るのならば、自分の時と同じように、いやそれ以上にハイスペックな選択を取得できるものなのだろうか。

 そして、地球に戻る。その手段があった場合、もし、戻れたとして、この体はいかほどのスペックをあちらで維持できるのだろうか。




 闘神が抱いたのは、そんな、面白くもない問いだった。




 いやいや。それにしても、こういった考えは(せま)(くる)しくて嫌だなぁ。


 まあ、仕方ないか・・・




 それしか言いようがない。そんな話だった。




 これは(のち)に判明していく、いくつかの事実や出来事により、解消されていく不安なのだったが、それが紐解(ひもと)かれ出してゆくのは、あと数十年の歳月を要するものだった。




 とりあえず、どこかへ向かおう。




 紅白歌合戦に合わせてダンシングするスマホ君を(つか)み、ポケットにしまう。


 (つか)んだ瞬間、何故かこの場にそぐわぬ映像を流しやがったのだが、無視を決め込む。


 どうやら、触らないで! と主張しているつもりらしい。







 特に、これといった問題はない。


 一瞬。

 いつの間にか、どこかへ落としてしまった、たばこの()(がら)へ想いを()せたのだが、パーカーの姿をしたタキシード君が、これに勘づき、これまた異議申し立てるかのように、ポケットの口という口を堅く結んだので、あきらめた。


 仕方ない。


 未練はあるが、所詮(しょせん)は吸い殻。


 ふと、当たりを見渡す。


 草原はどこまでも広がっていた。




 遠くの方に見える山脈。




 あの方角へ飛んで行ってみよう。




 全速前進。




 宙に浮かび、そのまま真っすぐ、飛んでゆく。


 風を切り、はるか遠くに見える山の方へと闘神は向かってゆくのであった。







 闘神が飛び()ね、そして陥没(かんぼつ)した地点。


 そこに、たばこの吸い殻がポツンと転がる。


 それはよく見ると、ジリジリとある一定の方角へ向かって動いていた。










評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ