果てなき大地
遠くの方に山脈が望める。
あたりいったいは草原であった。
風がそよぎ、雫がきらめいていた。
視力が格段に上がっている。
朝方だろうか、それにしても、体調がいい。
心地がいいのだ。生まれ変わった。そう感じられた。
これは、夢ではないようだ。
先ほどまでは、どこか夢心地であったのだが、しかし、私は今、生きている。
「闘神か」
ふと、彼は、握りこぶしを作ってみた。
そして、力をこめてみる。
どこまでも力がこもっていった。
限界はあるのだろうか?
次第にあたりの空気が熱を帯び、ゆらぎだした。
汗は一切かかなかった。
熱い。
とんでもない暑さの中にいるということは理解できた。
しかし、その暑さも、熱の痛みも全く問題がなかった。
かといって、痛みや感度を失っているといったわけではない。
感覚に意識を強く向ける。その度合いが強まれば強まる程、痛みは増していった。痛みは既に味わうものと化していた。
だが、汗はいつまでもかくことはなかった。
もう一方の手元を見る。
そこには、既に半分ほど燃え尽きている、たばこがあった。
一緒にやってきたのだ。
それをくちびるで、はむ。
吸い方に迷った。
どう吸うかにより、たばこの味は変わる。
そして、精神状態にも左右される。
しかし、迷ったのは一瞬だった。
煙が肺に、ただ純粋に満ちていった。
最期かもしれないのだから、これでいいか。
煙を、口元でためもせず、鼻へ通すこともなく、また、ふかすこともなく、一息にのむ。
そして、ゆっくりと鼻腔を通して煙を吐き出した。
うまい。
なんてことだ。
ベストな吸い方をしたときにしか出会えないうまさが、広がった。
ラムの香り、甘みが満ちていた。
そして、ふた吸い。み吸いと至高の一服が続いていった。
だが、あっという間に終わってしまった。
しかし、最後まで、落胆させられるという瞬間は訪れなかった。
たばこの味を感じられなかった時は残念な気持ちになるものである。だが、此度はそんなことはなく、一吸いごとに変化があり、実に多くの表情を味わうことができた。そう言える。
おそらく、今の体が優れているがためだろう。
一流のソムリエの感覚を、意識するだけで手に入れられる。そんな具合だった。
だが、たばこの味が変わった訳ではない。それだけはわかる。
私の感覚器官が繊細に研ぎ澄まされたのだ。
味わいたいという意識。それ一つで。
さらに集中すれば、空気中に漂うわずかな煙も楽しむことだってできる。
無防備な時間がただ過ぎていった。
だが、それも終わった。
吸い殻だけが、手元に残る。
さらば
と捨てようとしたのだが、何か惜しくなった彼は、服のポケットにでもしまおうかと、考えた。
しかし、吸い殻というのはひどい匂いなのだ。
どうしたものか。
キャップ付きの缶コーヒーでもあればよかったのだが。
ああ、コーヒーが足りない。
と、そんな考えに耽りながらも、まあ、いいかと、吸い殻を直接、服にしまおうとする。
しかし、なぜか服のポケットというポケットは頑なに口を開かなかった。
ちょっと待て。
薄々は感じていた。しかし・・・なぜ俺はこの服を着ているのだ。
それはブランド物のタキシードであった。
正装である。
堅苦しく感じられるそれは、実はよく着ていたお気に入りであった。
ただし、いつもは着崩しており、シャツは黒でネクタイはなし。
袖元にはカフスをつけていた。
これでたまにあるパーティーなどに出席していた。
すると不思議なことに、彼がそれを考えた瞬間。まったくその通りに洋服が変化したのであった。
「どうなってんだこれ」
試しに彼は、彼が持っていた他の服を思い浮かべてみたが、何の変化もなかった。
それを着たいと念じてみてもダメであった。
特殊な服かなんかなのか。これはいったいどう扱っていいものか。
いつまでもタキシードを着るわけにいかないし。外に出ない日はジャージで済ませたい。
しかし、これが貴重な物ならば、適当に脱ぎ捨てるわけにもいかないだろう。
そう思いつつ上着を脱いでみる。
手から離すとそれは地面に落ちず、溶けるように空気に消えていった。
あっと驚いてしまった。
どこにいったんだ・・・
あたりを見渡すも、なんの意味もなかった。
失ったのか?
そう考えてもしょうがなかった。
ただ一人ポツンと突っ立ち一人思案していた。
そしていつの間にだろうか、彼は脱いだ上着を着ていたのだった。
いや! いつ着たんだ!? おかしいだろ! 俺は脱いだぞ! いつの間にっ、そんな訳あるか!!
おかしい。
絶対におかしいのだが。共感する者がこの場に居ようか。
だから、彼は検証の為に、再び上着を脱いだ。
そして手を離す。
故に上着は地面に落ちる。そのはずが、先ほどと同じく、落ちる前にそれは空気に溶けて消えた。
まだ上着は着ていない。
シャツしか、私は着ていない。
よし。
と彼が思ったときには、彼は脱いだはずの上着を着ていたのだった。
再び上着を脱ぐ。
宙に放り投げる。
空中で、それはやはり溶けて消えた。
まだ、上着は着ていない。
と思ったそばから、既に彼は上着に着られていた。
再び、次は急いで、上着を脱ぐ。
今度は地面に叩きつける。
叩きつけたはずなのだが、それは浮いた。
そして再び、次はゆっくりと、空気に溶けていった。
消えた上着は、いつの間にか彼に装着されていた。
再び上着を脱ぐ。
と、あ、あれ? ぬ、脱げない・・・
上着はぴちりと体に張り付いていた。
脱ぎ捨てすぎたか?
いや、さっき地面に叩きつけようとしたのがマズかったのか?
と考えた時、どことない違和感が、彼を襲った。
まて、
いや、
こいつはいかん。
いかんぞ!
この服、
どうやら、こいつは意思をもってしまったようだ!
その瞬間。キュッ! はっきりと体が服に締め付けられた。
危機。
それに対し、彼の思考が加速する。
それは、突如、訪れたイレギュラーに対し、彼、つまり、闘神が、無意識で、臨戦態勢へと、突入した形だった。
これは、この世界が初めて直面した神の異常である。
過ち。
一つの過ちが闘神の脳裏によぎる。
その過ちは、一見すると、くだらない。
しかし、それはこちらが、くだらないと思えば思う程、相手方は憎しみを募らせるものであった。
ほーん? それで? その過ち、認めるの? 認めないの?
タキシードからの無言の圧力が、迫る。
それでも闘神は幾度も否定を試みた。
だが、無理だった。
俺はあの石板でポイントを取捨選択する際、10Pのスーツセット(黒)を捨てたのだ。
捨ててしまったのだ・・・
スーツセット?
いやいや、こいつはタキシードだろ。
いや、しかし、今は、そんな違いなど、どうでもいい。
つまるところ、こいつがあのスーツセットだったとでもいうのか? ということはだ。
ぞわりと、背筋が凍る。復讐の二文字が頭に浮かんだ。
「俺がたばこを優先して、お前を捨てたこと、その事を覚えているというのか」
その言葉は、口には出さなかった。
しかし、その思考はタキシードへと伝わる。そして、ギュギュギュっ! と締め付けが増した。
つまり、それが正解だった。
マズい! いや、そんな馬鹿な事はないはずだ! そんな恨みはあっちゃならない!
ボギュッ!
タキシードの締め付けは、体を捻りつぶさんという勢いであった。
しかし、それだからか、そのやりすぎなタキシードの行為に対し、少し冷静になってしまう闘神だった。故に、
ありゃ~こりゃあ、常人の体じゃあ、骨はボッキボキだぁ~
と、ちょぴり不真面目な考えを巡らせてしまったのであった。
それがいけなかった。
ギュルルルル!
まるでわずかに湿った雑巾を念入りに絞るような苛烈さ執着をタキシードがみせる。
にもかかわらず、
不遜な態度を見せたら、これか・・・
と、また、そんないらぬ事を考えてしまった闘神だったものだから、タキシードは、いまや、万力のごとき力を発揮し、暴れ散らかす始末だった。
闘神の体は、暴風にさらされた稲穂のように、しっちゃかめっちゃか、前後左右。捻じられ、振り回されるものだった。
そこには手加減などない。
捨てられた恨みつらみは、もう手の施しようのないところまで来てしまっていたのだった。
だが幸いなことに闘神の体は軟ではなかった。
そして、無理やり動こうと思えば動けもした。
いや、嘘である。
実は、自由に動けた。
しかし、そうしてはならないものである。
決して、逆らってはならないものである。特に、事ここに至っては。
故に、闘神はタキシードにやられるがまま、懇願するしかなかった。
「まってくれ、捨てたわけじゃないんだ。君が、その、そう! タキシード君だ。タキシード君だと分かっていたのならば、捨てはしなかった! いや、いやっいや! あ、痛っ! ま、まってくれ! 分かった、わかったから! 正直に言おう!!! 君がタキシード君でも僕は、たばこのために君を切り捨ててたさ!! ああぁっ!!! りっ、理解してくれ! と、ところでだ! 話を変えようじゃないか。いったい君に何が起こっているんだい。どうしてその、そう、あれだ、建設的な話をしようではないか!」
すん。とタキシード君が静かになった。
「タキシード君」とは、ついさっき、とっさに考えた名前であるが、それがお気に召したのか、タキシード君の反応は落ち着いた。
いや、それは違った。
タキシード君はどこにもいなかった。
いま闘神は全裸だった。
衣類という衣類が、
つまり、上着、シャツ、ズボンに下着、靴下、靴といったものまでも、全てが、今、どこにもなかったのだった。
ああ、やりやがった。あいつは、やりやがった。
しかし、己の体を見つめた時、その感情は、もうどうでも良くなってしまった闘神だった。
丸裸の自身の肉体が、それはもう美しいバランスを保っていたからである。
感動したのだ。
身長は10cm程伸びているように感じられた。
もしそうなら、今の身長は194cmである。
デカい。
そして、体は筋骨隆々(りゅうりゅう)、均整がとれ、
加えて、ムダ毛というムダ毛、つまりは、首から下には毛という毛が一切生えていなかった。
恥ずかしいのやら、美しのやら。ただ、まあ、自慢はできる。ずいぶんと立派な肉体に成り代わったものだ。
これは、逃げたタキシード君には悪いが、勝負はこちらの勝ちだ。堂々としていればいいのだ。何の問題があろうか。美にかなう価値なし。
と、そう思う闘神だったが、ただ、これは彼の危険な思い上がりであった。
後に、闘神は思い至るのだが、その気になれば、タキシード君はどんな服にでも変化できるのだった。
つまり、決定的な場面で全裸以上の復讐に走ることもできるのである。
だがしかし、今は何も知らない闘神である。
そしてそれは知らない方が幸せであった。
ふう・・・ひどい目に遭った。こりゃ、選択しなかった、スマホとジッポライターも酷いことになっているかもしれない・・・
ふと、足元が、キラりと輝いた。
その輝きを拾ってみると、それは銀のジッポライターであった。
見たことはないが、どこか、懐かしいジッポライターだった。
いや・・・こりゃ俺がいつも愛用していたジッポライターじゃないか!
それはピースブランドのジッポライターであった。
ピースのたばこを愛煙していたので、おのずと、そのブランドのライターも手に入れて、使用していた闘神である。
その本来の色は、深い青色。
ジッポライターの面には「鳥が枝を咥えた絵」が金色で描かれ、その下には金文字で「Peace」と刻印されていた、はずだった。
だがしかし、どういう訳か手元のライターは銀一色に塗り替わっていた。
銀以外の色は一切、混じっていない。
着色が剥げたのだろうか?
それにしては、その表面は、ずいぶんと磨き上げられた表情で、まさに鏡のような仕上がりだった。
その小さな鏡に映った己の顔をのぞきこんでみる。
どこも変わっていない。いつも通りの顔だった。
いや? 肌が綺麗になったか?
くすみや、青髭などと言った顔の影はきれいに消え去っているように見えた。
そして、それは事実であった。
闘神の肌という肌は、まるで生まれ変わったかの如くみずみずしくハリ、そして、一切の汚れ、くすみ、穢れ、たるみ、ムダ毛といったものと無縁であった。
そこには満足気な顔が映りこんでいた。
元来気に入っていた自分の顔つきが、より洗練されたのだから、文句はない闘神だった。
髪型もベストな状態。お気に入りのそれであったから、彼の気分は上々だった。
寝起きの髪を水で濡らし、タオルでガシガシと拭く。
その状態から、適当な時間、放置していると髪が渇く頃に、緩めな天然パーマが仕事をし、ちょうどいい具合に今の状態に決まるのである。
長すぎず、短すぎず。額に髪が覆い被さりすぎることもなく、ボリュームがでる格好であった。
例え、風が吹こうとも、髪をかき上げようとも、ちゃちゃっと直せば今の形に自然と戻る。お手軽無敵天然セットと彼はそう名付けていた。
銀のジッポライターで顔を観察している闘神であったが、それとは別に、このライターのある不可解な点が気になっていた。
それはジッポライターの表面に刻まれた、わずかなへこみ。
それは、「金の鳥」と「金の枝」、そして「Peace」のロゴの刻印の跡である。
つまり、ジッポライターの表面に出来た、そのへこみが、「Peace」という文字や、「金の枝」の型を作っているのである。
けれども、いったいどうして、「金の鳥」の刻印の跡だけが、綺麗さっぱりと、そこになかった。
鳥はどこへいったのだ。
タキシード君の前例があるだけに、ろくなことにならないような気がするのだが、まあ今はいい。
問題は、果たして、このライターの火がつくかどうかである。
それは、ちょうど一昨日。彼のジッポライターは、オイルを切らした。
そして、そのオイルを交換しようと思っていた矢先、いつの間にか、このライターを家のどこかで無くしてしまった彼だった。
まあ、家で無くしたのだから、直ぐに見つかるだろうと気楽に考え、100円ライターを彼は使ったので、当時、問題はなかったが、ただ、それならば、このライターのオイルは空なはずであった。
すちゃっ。とジッポライターのケースの上部を開ける。
右の親指をホイールに引っ掛け、素早く点火。
じりっ。とフリントが発火する音と共に、見事な火花が舞った。
ジッポーの火花は美しい。
ただ、今起こったその火花は、これまでのそれとは比較にならなかった。
思わず息をのむ。
直後。
ボボッ!!! ジッポライターが火を噴いた。
火柱が顔面を襲う。
「あっっつ!!!」
くはなかったが、思わず声が出てしまった。
こいつもどうやら俺に怒り心頭というわけだ。
しかし、どうだろう。もっと遠慮なく丸焦げにされると思ったのだが、一度、火を噴いた後は、次第に落ち着きを取り戻し、元の1cm程度の火に戻っていった。
今は、ゆらゆらと揺れている。
性格があるのだろうか?
意識を持っているのであれば、当然性格もあるのだろうが。なんといっていいものか、この子は、控えめな性格なのかもしれない。
嫉妬深さも感じられなくはないが、おそらく、タキシード君よりは、いい子であるはずだ。
ほら、褒められてちょっと嬉しかったのか、気恥ずかしそうに身の炎をよじっている。
かわいい。
だが、お前はだめだタキシード。
いつの間にか、装いが元に戻っていた。
何やら危機を感じたのか、慌てて姿を現したタキシード君。
だがもう遅い。
ジッポライターちゃんが俺の一番だ。
そんな闘神に対し、タキシード君が抗議。
が、しかし、
「ふぅん? なに? なるほど。それはちょっと待ってくださいと。はぁ~あのね~君、あんなことしといて、よくそんなことが言えるね~」
と、あからさまな溜息を、これみよがしにつきながら語り出す闘神に対し、何の手も打てないタキシード君だった。
「まあまあ、いいでしょう。タキシード君。ん~~。でも、そうだね~。君は努力というものが必要だ。手始めにだね、この格好はいささか肩肘がはる。だから、いつも出かける時に来てた、あの、刺繍の入ったパーカーのセットにホルムチェンジで。いける? ん? いけ、ない・・・ほお? あ、なに。いけるかもしれません? ん~~~それは結局どっちなのかな。いけるの? いけないの? どうなの? はい、返事は?」
ぐぬぬぬぬ。
とタキシード君の唸り声が聞こえたような気がしたが、その数秒後には見事に、服装が変化していた。
スニーカーに、スラっとした黒のズボン。そして、派手だが、彼に似合う、パーカーが装着されていた。
満足であった。
やればできるじゃないか。
闘神の一つの懸念が解消された瞬間であった。
ただ、一方のタキシード君だが、そのタキシード君はというと、正直、そこまで闘神と敵対しようなどとは思ってはいなかった。
少し懲らしめてやればいいや。
でもやっぱむかつく。
といった具合。
つまり、いかにして、そのストレスの拳を振り下ろせば、スッキリするものか、それがタキシード君には分からなかったというだけで、闘神に対して、怒り心頭だったという訳でもなかったのである。
だから、スッキリさえすれば、服装のフォルムチェンジも、闘神の要望があれば受け入れるつもりであった。
しかし、事ここに至り、強制されるような形で、自己の正装というアイデンティティーが貶められた。
それは、タキシード君にとって、許しがたいことだった。
これが闘神と縁を切れるものなら、何の苦悩もなかったことだろう。
しかし、何故か、タキシード君には、そしてそれは、ジッポライターちゃんにもだが、彼らには共通して、闘神への親しみというか、敬愛というか、忠誠心、いや興味のようなものが存在したのだった。
そしてこれが、各々の感情を歪ませていくのだが、今はその予兆がくすぶるだけである。
闘神に対する興味。
それは、遠くの草陰からこちらを伺い、そして、撮影しているスマホ君にも存在した。
闘神の元所持品たち。
彼らは、闘神に捨てられると同時にその意識を獲得したものたちである。
そして共にこちらの世界へ来てしまったのだった。
鮮やかな感覚、未知の感情、怒涛の情報。
といったものを楽しむ彼らであったが、これは、闘神がそれら元所持品に思い入れがあったからこそ生まれたものである。
悲しくも、あっさり切り捨てられた彼らは、捨てた本人との想念を元に、意識を創発させていたのだった。
その内のひとりのスマホ君であるが、彼はいつ闘神の前に出てやろうかと、先ほどから、ずっとタイミングを伺っていた。のだったが、もう今や、それはどうでもよくなりつつあった。
立て続けに起こる事件のすべてが、スマホ君のツボに、見事にはまっていたからである。
そして今はタキシード君がパーカーに変化した際に仕掛けた闘神への悪戯が、実にくだらなすぎて、また笑い転げている最中であった。
そんなこんなはつゆ知らず、楽な服装に着替えられて満足していた闘神は自身に対する検証を再開するのであった。
次に行ったのは、息をどれくらい止めていられるかであった。
呼吸を奪われては生きてゆけない。そんな体では、魔法があると想定されるこの世界では致命的だ。
しかし、どうだ、そもそも人体の構造は地球と同じなのか?
己の腹を切り裂いてみる気などはないが、まあ、いい。それは、いずれわかることだ。
とりあえず、今、私は息をしている。
肺がしっかりと動いているのを自覚できた。
息を止める。
しばらく時間が経つ。
そして、また時間が過ぎてゆく。
一向に苦痛は訪れなかった。
もはや、皮膚で呼吸しているのではないかと疑う程であったが、水に浸かることもできなかったので、検証はできなかった。
そもそも、この世界の空気の成分が地球と同じかどうかも分からない。
結局のところ、その検証は闘神が飽きたところで終わった。
限界など見えなかった。
そのはずであった。
神の体は呼吸など必要としないのだから。
ふぅ。
空気がうまい。
もう面倒くさいな。
どうでもいいか。
そう思ってしまった闘神だった。
闘神を選んで、それが実は弱点がありました。なんてなったら、興ざめだ。
だったら、その時、死んじまおう。
無敵だから楽しいのであって、弱みがある生をわざわざ生きながらえる義理はない。
みじめで嫌になる。
毒を食らわば皿までだ、臆病風に吹かれてたまるか。
飛び上がりたい。
そんな気分だった。
どこまでジャンプできるものだろうか。
空を見上げる。
いい天気だった。
しかし、太陽は見当たらなかった。
青い空が広がっていた。
太陽は向こうに陰る雲にでも隠れているのだろうか?
大地を蹴りつける。
そこまで強く力みはしなかったが、ざっと、50mほど飛び上がってしまった。
下方の地面がえぐれている。
そのさなか、ふと、このまま宙に浮くことは叶うのだろうかという気にさせられた。
そして、見事に宙にぷかぷかと浮いたのであった。
そして浮いたまま上下左右、思うままに移動できると分かると心の底から、喜びがあふれた。
「なんて自由なんだ・・・」
その全てが素晴らかった。
雲の上で、眠ることも夢ではない。
おお!
その感嘆は、宙に浮いたまま、かなりの速度を上げた飛行が、叶ったから訪れたものだった。
思い一つで、ものすごいスピードが出たのだ。
戦闘機にだってなれる。
これには、彼は、ますます満足だった。
気づけば、童心に帰って遊んでいた。
いつの間にか、パッヘルベルの「カノン」のオルゴールが、あたりに流れていた。
そのドラマチックな曲調とオルゴールの音色とが、この世界の輝かしさと同調し、闘神の胸を満たしていった。
救われたような、そんな気がした。
しかし、その想いが頂点に差し掛かるその前に、急に、孤独が彼を襲った。
何をやってるんだ......ドラマチックな陶酔によくここまで浸れたものだ。
ちくしょう。しらけちまった。
いつの間にか、音楽も止まっていた。
だが、なんでカノンなんだ?
ふと、闘神の脳裏に疑問が浮かぶ。
というか、さっきの音色はどこから鳴っていたのだ?
これも当然の疑問だった。
先の音楽は、彼の脳内で再生されたものではなかったからだ。
思い当たる節は......ある。
ああ。
いる。
後ろだ。
俺の後ろに奴がいる。
闘神は、覚悟を決め、そして素早く後ろを振り向いた。
しかし、それは逃げも隠れもしなかった。
堂々と、ただ、こちらを静かに見つめていた。
黒く光るスマホ君が、そこにポツンと浮いていた。
刹那。スマホ君との思い出が、闘神の脳裏を巡った。
スマホ君と彼は実に長い付き合い。いわば腐れ縁の関係。
今日に至るまで7年という歳月を共に過ごしたものだった。
この7年。
それは私の人生が大きく花開いてから、やりたいことをやり尽くすまでの黄金の時間であった。
ただ、スマホというのは、7年も使うと、さすがにガタが来る。
その内臓のバッテリーは、もう既に限界寸前。
そして、充電の口はバカになり始めていた。
そんな始末。
しかし、一向に買い替えはしなかった。
何故だろうか。
替えるのが面倒くさかったという理由もあれば、まだ壊れてないという言い訳もあったし、特段、生活で困ることもなかったから、必要に迫られなかったのもある。
そんなスマホ君と向かい合うこと実に数秒。
あたりは緊迫した空気に包まれていた。
突如、スマホ君から、クラシック音楽が流れた。
ドボルザーク:交響曲第9番 『新世界より』第4楽章
こ、ここでこの音楽か......
それは緊迫のリズムだった。
そのスマホ君が、動き出す。
それは、こちらへ、ジリジリと、距離を詰める歩みだった。
両者の距離は、さほど、離れていない。
今、この瞬間、スマホ君が何か仕掛けて来ても、おかしくはない距離である。
しかし、未だ、攻撃の素ぶりはみられず。
ただただ、こちらへ、徐々(じょじょ)に徐々に、ゆっくりと、音楽に合わせて向かってくるだけである。
それに対し、まばたきすらできない闘神。
そんなスマホ君の、真っ黒の画面が、怪しく光る。
が、しかし、未だ、スマホ君、何も仕掛けてこず。
ただ、こちらへとやって来ているだけだった。
何もしてこない恐怖がそこにはあった。
依然、音楽が、スマホ君のスピーカーから鳴る。
否。
スマホ君の体、全体から、音楽が、
いや。
何故か、この空間、360度、全体から音楽が鳴り響いていた。
が、しかし、今や、そんな悠長な疑問を浮かべている時ではない。
両者の距離は、もう、目と鼻の先。
お辞儀をすれば、ぶつかる距離などとうに、超えた。
もはや、眼前に黒色の板。
ゆっくりとした体当たりでもかます気か。
そして、そこまで来た
スマホ君は・・・
何もせず、
彼の横を通り抜けていった。
それは完全なる無視だった。
スマホ君からの復讐に、身構えた闘神はただ、バカをさらしただけである。
つまり、闘神の独り相撲という訳で、全てが空回ったその姿は、地味だが、一定のダメージを神の心に刻むものだった。
どうする......これは、追いかけていいものなのだろうか。
すでに音楽は緊張したパートから弛緩したパートへと突入していた。
しばらく、スマホ君の独演会が続いた。
よく見ると小刻みにステップしている。
ノリノリだ。
一体、何がしたいのだろうか。
シュールな光景がそこにあった。
そして、スマホ君は飽きたのだろうか。
いつの間にか、ポップな音楽が流れ始めていた。
次々とDJのごとく、ハイテンションな音楽が流れていく。
もはや、どうでも良くなってしまった闘神だった。
が、しかし、
いや、まて、その曲はダウンロードなどしていないぞ!
流れる音楽には闘神が聞いたことのないものまで混じっていた。
こちらへ来る前にスマホ君が好き勝手にダウンロードしてきたのだろうか。それとも、あちらと今も、繋がっているのだろうか。
激しく気になり、どうなのだと問い詰める。
すると、突然こちらを振り向き、警報音が鳴らされた。
「あ、アウト? てことなのか?」
それ以上はうんともすんとも、何のリアクションもしないスマホ君だった。
うなだれる。
まあ、心残りというか、気になることは多々あるのだが、この調子じゃ仕方ないだろう。
しょうがないか。
と独り言ちる彼だった。
それをスマホ君はじっと見つめていた。
突如、スマホ君が動きを見せる。
ぐっと、闘神に近寄ったかと思うと、その目の前で、あるライブの中継をその画面に表示。
それは、大晦日の風物詩。
紅白歌合戦の中継だった。
場面は、ちょうど、白組の人気アーティストが歌っているところであった。
『2024年紅白』
この文字列が痛々しく目に映った。
ほんとうに、これが、ライブ中継なのかは分からないが、ただ、向こうの時が、明らかに進んでいるのが理解できた。
時間にして、約一ヶ月。
書斎に石板が出現したあの日から、地球のそれは進んでいるようだった。
自分がいなかろうとも世界は回る。
そう思ってしまったが為に、たばこが無性に欲しかった。
そんなに動揺したわけではなかったのだが、ただ少しだけ、悲しさが訪れていた。
しかし、それもすぐに落ち着いた。
この不思議な世界と、元居た世界はどこか地続きでつながっている。
それが分かっただけでもよかったと思えた。
しかし、それとは逆に、なんだか釈然としない気持ちにもなった闘神だった。
あちらから、こちらの世界に、別の誰かが、またやって来るのならば、自分の時と同じように、いやそれ以上にハイスペックな選択を取得できるものなのだろうか。
そして、地球に戻る。その手段があった場合、もし、戻れたとして、この体はいかほどのスペックをあちらで維持できるのだろうか。
闘神が抱いたのは、そんな、面白くもない問いだった。
いやいや。それにしても、こういった考えは狭っ苦しくて嫌だなぁ。
まあ、仕方ないか・・・
それしか言いようがない。そんな話だった。
これは後に判明していく、いくつかの事実や出来事により、解消されていく不安なのだったが、それが紐解かれ出してゆくのは、あと数十年の歳月を要するものだった。
とりあえず、どこかへ向かおう。
紅白歌合戦に合わせてダンシングするスマホ君を掴み、ポケットにしまう。
掴んだ瞬間、何故かこの場にそぐわぬ映像を流しやがったのだが、無視を決め込む。
どうやら、触らないで! と主張しているつもりらしい。
特に、これといった問題はない。
一瞬。
いつの間にか、どこかへ落としてしまった、たばこの吸い殻へ想いを馳せたのだが、パーカーの姿をしたタキシード君が、これに勘づき、これまた異議申し立てるかのように、ポケットの口という口を堅く結んだので、あきらめた。
仕方ない。
未練はあるが、所詮は吸い殻。
ふと、当たりを見渡す。
草原はどこまでも広がっていた。
遠くの方に見える山脈。
あの方角へ飛んで行ってみよう。
全速前進。
宙に浮かび、そのまま真っすぐ、飛んでゆく。
風を切り、はるか遠くに見える山の方へと闘神は向かってゆくのであった。
闘神が飛び跳ね、そして陥没した地点。
そこに、たばこの吸い殻がポツンと転がる。
それはよく見ると、ジリジリとある一定の方角へ向かって動いていた。