マンション
「なんで引き止めないのよ!」
車から、ずんずんとやって来た鈴の一言は、闘神にとって衝撃的なものだった。
なぜ彼女は、車から降りたのか、なぜ、彼女は、こちらにやって来るのか、その訳が分からなかった。だから、その鈴の一言は、闘神にとっては、驚愕で、まさに青天の霹靂であった。
もし、鈴が何を意図して、車から降りて来るのか、その時、闘神が分かってしまったのなら、ここまでの衝撃はなかっただろう。
全くの予想外だった。
ゆえに、その言葉をぶつけられた闘神の心臓はバクバクと、うなっていた。
動揺してしまったとも言える。
真っ先に、思い浮かんだ感情は、怒られた、である。
彼女は、何か、忘れ物を取りに来るようなそんな具合で、こちらへやってきて、思い切り、怒りを込めながら、その言葉をぶつけてきたのだ。
そう、怒りがこもっていたのである。
「なんで引き止めないのよ!」
この言葉に怒りの力がこもっていた。
それは、闘神に何かを目覚めさせるような、その時、はっと、心が覚醒したかのような、そんな感覚を引き起こしたものである。
ケンカの相手が現れた。
つまり、対等な相手が、対等な目線で言葉をぶつけあえる相手が現れた驚きである。
闘神の体に喜びがみちあふれた。
そして、この世界にやっと、しっかり立つことが出来たという実感が湧いた。
それは、これまでの闘神の孤独を埋めるような、否、時ここに至って初めて、満たされた闘神は、私はそれまで孤独であったのだと、気付かされたようなものだった。
対等な存在がいない世界は孤独だった。
しかし、彼女の言葉は、孤独になるなと、孤独に打ちひしがれるなという怒りがそこにこもっていたものだった。
車へと乗りこんだ彼女にじゃあな、というポーズをとっていた闘神。
つまり、片手、振り上げ、その手ふりおろす格好をとっていた闘神のその仕草の意味、それは、羅王の大陸から去る、完全に去る。それを意味していた。
劉備、曹操、鈴のその心臓に宿るロイヤルは回収できないからである。
しかし、可能かどうかで言えば、可能である。
殺せばいいのだから。
心臓に、一突き、手を入れて。
ほんとうに、ロイヤルが心臓にあるかどうかも、分かるものだった。
彼らといる間、常に、彼らの心臓にロイヤルの存在を感じた。
だから、苦しかった。
そして、彼らと、実際に会ってしまったその為に生ずる情というものが、己を縛っていた。
殺せる訳もない。
そして、殺せないのであれば、羅王の大陸にいる意味もなかった。
だから、あの時、鈴が見た、闘神の姿。
片手ふりあげ、ふりおろす、その瞬間は、闘神が去る、その瞬間であった。
つまり、その手がふりおろされていたらば、もう、闘神はなんぴとも追えぬ速度で、羅王の大陸を去っていたものだった。
しかし、そうはならなかった。
鈴が、寸前のところで彼を引き留めた。
そして、闘神は、いま、鈴に対し、
「ああ、そうか、そうだったのか」
と、ぼやくしかなかった。
ゆえに、鈴も
「何が?」
と、怪訝な表情できき返すしかなかったものである。
「いや、いい。こちらの話だ」
と、闘神が鈴の言葉を返した。
その闘神にの返答に対して鈴は、少し、考えるそぶりを見せたが、
「だったら、行きましょ! 帰りましょ!」
と、即座に闘神にこの言葉を投げるものだった。
それは、「私の帰る居場所ができるのか。家ができるのか」という実感を闘神にあたえるものだった。
だから、
「ああ、帰ろう」
と、素直に、言えた闘神だった。
帰りの帰路は、鈴の軍の車列に導かれた帰路だった。
鈴が先ほど乗り込んだ車の後部座席に二人して乗り込む。
先に闘神が、次に、鈴が、の順で乗り込むのだった。
ふたをされた安心感がそこにあった。
そして、出発である。
夜空には星雲のごとく輝いている鈴の軍の車列があった。
その目の位置に、闘神らが乗る車が、浮かび上がっていく。
それは、これまで闘神が経験した、出迎えの車列の規模とはくらべものにならない程のものだった。
その理由は、ひとえに、その車列が、本来、闘神をむかえるものではなく、鈴をむかえるものであったからであろう。
劉備と曹操の出迎えの車列は、それはそれで、立派なものだったが、今回のものは、壮大さが異なった。
都市の夜景が夜空にある。
ひとことでいうなれば、こうだろう。
そして、それが、一様に動くのだ。
帰るためだけに。
それが、総帥の出迎えで、そして、それが、かつて羅王林であった者へ向けられた最大の敬意であった。
もちろんだが、鈴の軍の軍人は、全て、鈴が羅王林であることを知っているものである。
―出発―
その出迎えの車列の中には、車のみならず、航空戦艦や、戦闘機も数多配備されているものであった。
それらは、ピタリと、空中で止まっていたが、出発の号令で、一斉に動き出す。
そして、空を、駆けて行った。
その司令塔は、闘神らが乗る車の運転手である。
その運転手がひとこと。
「空間ゲート展開」
すると、壮大な車列の前方、その空間が大きく、割れた。
とつじょ、リング状のゲートが現れたと言ってもいい。
そのゲートに向けて、壮大な車列が、突っ込んでいった。
そして、そのゲートはその車列を全てのみ込んで、消えていったのである。
真夜中の出来事だった。
たまたまその光景を見た者は、口を開けて、だたただ固まるしかなかったものである。
司令塔である運転手が展開した、空間ゲート。
それは、運転手の能力から生み出されるものであった。闘神が中央大陸へとやって来る際に乗った列車が通ったゲートと似たものであった。
ゆえに、運転手のゲート展開は、一度キリではなかった。
第一陣のゲートに続き、第二陣、第三陣と、ゲートが展開されてゆく。
そして、鈴の本拠地についたその時には、すでに、空は、明けだしている頃であった。
そこは、中央大陸の中心地からすると、へき地である。
中央大陸の端の方と言ってもいいだろう。
その場所が、鈴の拠点であった。
「散開!」
鈴のこの号令一つで、壮大な車列は、跡形もなく、散り散りに消えていった。
後は、鈴と、闘神が乗る車が残るだけである。
朝の静けさの中、空から、一台の車が、ぴたりと、地面に接着する。
そして、そのまま、市街地を走って行った。
ああ、そろそろ、つくのか。
闘神の中に、そんな思いが浮かんだものである。
果たして、家は、どんなものなのか、私はどのような家に居つくことになるのだろうか。
けれども、そんな思いを吹き飛ばすようなものがあった。
いや、吹き飛ばす街がそこにあった。
何だ、これは……
と、その街を見たとたん、闘神は、驚愕してしまったものである。
それは、なぜか?
なぜなのか、分からない。だが、闘神がこれまで、見て来た、遊んできた、日本の街がそのまま、そこにあったのだ。
見慣れた景色。
見慣れすぎた街の景色がそこにあった。
今、闘神がいるその街は、それそのまま、
渋谷であった。
驚き、鈴にそれを聞く。
「ここは、どこだ、この街の名前は!」
俺は、いま、夢を見ているんじゃなかろうか、スクランブル交差点が、そこにあるのだ。
「スクランブルっていう街よ」
地名までは渋谷とはいかなかった。
夢の気分が、少し晴れ、しっかりとした現実が頭をもたげたような気がした。
「いい街でしょ、民間の街だけど、私が結構手を入れたの。だから私発案の街といってもいいわね、どう? 気に入った?」
「ああ……」
鈴が作った街。
鈴も同じ地球人なのかもしれない。そして、同じ日本ですごした者なのかもしれない。
これは闘神にとって衝撃だった。
しかし、地球も宇宙も彼女は分からない。だから、次の言葉を思わず口走ってしまったものだった。
「この世界に来た時のことを覚えているか?」
「来た……うーん私、羅王の時の記憶忘れちゃってるんだよね。でも、なんか、体は覚えているっていうか?」
ああ、そうか、彼女には、記憶の断裂があるのだ、聞いても意味が無い……
と、うなだれる闘神だった。
羅王林の頃であれば覚えているのかもしれないが、彼女はもういないのだ。
しかし、どうやら、いや、確実に彼女は地球人である。その喜びが、闘神の胸を満たした。
けれども、驚きは、まだ、ここからであった。
その車でしばらく、道を行き。
スクランブルという都市から離れた郊外に再び驚きがあった。
その郊外、
そこは、闘神が住み慣れた、住んでいた、つまり、そこは地元だった。
「ここは、まさか」
「お、知ってるの?」
と、鈴がひとこと
「「あっちの方に、軍事基地がある」のよね」
言葉が、重なった。
そのあっちの方とは、日本で言えば、駐屯地、つまり、自衛隊がある方角だった。
闘神は今や、驚き疲れ果てていた。
スクランブルからここまでの道中、その道はまんま、己が知っている日本そのものであったのである。
いや、細かいところは違った。けれども、要所要所、は同じで、その地形も、道も、道の横に並び立つ施設も、それに似たものがそこにあった。
そして、我が家もその街には、あったものだった。
車がその横を通ったのである。
あっとなった闘神だった。
しかし、どうやら、そこは、闘神のための居住ではないようで、鈴にその事を聞くと、別の用途でそこがあるという。
そして、到着したのは、マンションだった。
そこは、闘神の記憶では、比較的最近建ったマンションで、闘神も知っているマンションだった。
「ここも、この街も、君がデザインしているのか?」
「そうよ、私がね。なんか時々無性に絵が描きたくなって、それも、街の絵ね。そして、それが採用! って感じ、最近建ったのよ、このマンション、行きましょ。ここよ、あなたの家は」
そのマンションはオートロックのマンションだった。
暗証番号を入力し、エントランスへと入場する。
そこから少し歩いて、一階。
とある扉の前にて、二人して立ち止まる。
「ここが、あなたの部屋ね。私は、隣だから、じゃ、またね~起きたら、ピンポン押して、ご飯たべよ」
その言葉を残し、鈴は、隣のドアから帰っていった。
残されたのは闘神である。
いま、一人の男が、扉の前にて立ちすくんでいた。
どうしたものか。
情報量が多すぎて、硬直してしまった闘神だった。
すると、先ほど部屋に入った鈴が、ドアを開けて、こちらへと顔を出し、ひとこと。
「あ、ちなみにだけど、そこは、ゲストルームだったから禁煙ね、たばこ吸いたきゃ、外で吸ってね、ベランダはダメ、後で、ここに喫煙所作ってあげるから、じゃあね、ばいばーい」
がちゃん。
鈴の扉が再びしまった。
そして、また再び、どうしたものか、となってしまった闘神だった。
たばこを吸おう。
残り、1本となったたばこを手に取る。
しかし、いま、喫煙所の用意されていないここで、吸ってもいいものか、と固まる。
と、その時、
―彼女とは、何か、かかわりがあったのだろうか?―
ふと闘神にこの念が浮かんだ。
しかし、記憶をどうたどっても、鈴と思わしき人物が思い浮かばない。
同じ日本人でかつ、この街を知っている。出会っていてもおかしくはないはずだった。
頭が、加熱していた。
冷静になろうと、試みる。
しかし、無理だった。
辺りは静けさに包まれていた。
それが、ふと、眠気に繋がった。
ああ、寝よう。寝てないからか。とりあえず、寝て、ここが夢なのかどうか、また再び考えよう。
と、なった闘神は、部屋に入って行ったのだった。
部屋に入ると、たちまち、闘神は、ベットのある方へと、あゆみ、そして、熟睡してしまったものだった。
起きた時、空は、暮れなずんでいた。
その際、闘神の体は、一糸まとわぬ全裸で、その服のタキシード君はと言うと、スマホ君とジッポーちゃんとで、リビングルームでテレビゲームを楽しんでいるところであった。
彼らのゲーム。
それは、曹操のところで、彼らが楽しんだそれを曹操が気を利かせてもってきてくれたものだった。
闘神が寝ている間に、宅配便があり、ゲームセットの一式をスマホ君たちが受け取ったのである。
これには、曹操の拠点から去る時、ゲームのデータ……となっていたスマホ君たちも朗報であった。
しかし、闘神からすれば、それは、曹操の戦略家としての巧みさを思い知らされるものだった。そして、この時、初めて、曹操があの会談を用意した意味をも全て、悟った闘神だった。
この曹操からの贈り物が、二度と、こちらには手を出すなよ、いや、出さないよな? というメッセージに思えて仕方なかった。
そして、もちろん、手を出すつもりもない闘神だった。
タキシード君に合図をする。
すると、全裸だった、体が、黒シャツ、黒ズボン仕様の服装に切り替わった。
たばこを吸いに行く時間である。
玄関を開けて外にでる。
すると、そこには、もうすでにその場所に喫煙所が設けられていたものだった。
たばこ吸いのための喫煙所。
別に灰が積もることも無いこのロイヤルだが、格好は大切である。
ジッポライターちゃんが口に咥え(くわえ)たたばこに火をつける。
そして、一服である。
闘神は、三吸いしたあたりで、鈴の玄関のチャイムを鳴らそうとした。
しかし、そのとき、その扉が内側から開いた。
鈴が中から出て来たのである。
「あ、使ってるんだ。おはよう」
少々寝ぼけまなこの鈴は、かわいかった。
鈴は、たばこ吸いではないが、二人して、喫煙所に突っ立つ。
「それにしても、そのたばこ不思議ね、灰が、溶けるように消えてく」
「これか、実はな……」
闘神はロイヤルについて、次の発言をするか、否か。いいよどんでしまった。
しかし、隠し事はしたくなかった。ゆえに、言葉が続いた。
「この大陸に来たのは、これを回収する為なんだ。その心臓のロイヤルは、俺の物なんだよ」
その時、闘神は、鈴の顔を見れなかった。
しかし、鈴が、唖然と、驚いているのは、理解できた。
無言が続いた。
「じゃあ、あの大災害は、あなたが引き起こしたの?」
鈴が、ぽつりとつぶやく。
そのつぶやきには、確信があった。
「ああ、そうだ」
なんの言い訳もなかった。その災害が事故であっても、非難されるのであれば、されようという心構えであった。
しかし、鈴は無言をつらぬいていた。
そこには、非難という影もなかった。
そして、しばらく無言が続いた後、鈴は別の話を切り出すのだった。
「なんかね、私、記憶無くしちゃったじゃない? でもね、さっきも言ったけど、どこか、体で覚えてるのよ。それでね、その忘れた頃の思い出というか、なんていうかね、その時の光景をよく夢で見るの。それを毎回起きた時にシャシャっと、描くんだけど、そこにいつもいる人がいるの。その人の顔までは分からないけど、でもね、何か、あなたに似ているのよね。それもね、その、なんていうか、私が羅王だった頃も、いまと同じようなことしていたみたいでね、羅王の頃の私が遺したノートにも、その人が描かれてるの。しかもそこには、くっきりと、顔が書いてあるの。それを、さっき確認したんだけど、あなた……あなたの顔がそこにあったの。なんていうか、なんていうんだろう。あなたと、私って、何か、かかわりがあったの? ねえ、何か覚えてる?」
鈴の言葉は、たどたどしくも、しっかりとした、確信を持っていた。それは、深い関係が両者にはあって、ひとことでいうなれば、両者は運命の糸で結ばれている。というものだった。
「いいや、全く覚えがない。でも、分かるのは、君と僕は、おそらく同郷の人間だ。君には、そのころの記憶が、体に宿っているのだろう。だから、君が、描いて、作り上げられた街は僕にとって、なじみ深すぎる。まるで夢を見ているようだ」
「そう、あなたは覚えてないのね。でも、私を見た時、何か……感じた? こう、ドキっていうか、雷に打たれたかのような、なんていうんだろう、そんな衝撃……」
「ああ、だから、奴を吹っ飛ばしたんだ」
「やっぱり、そうなのね」
この時の鈴の内心を探ると、そこには、乙女の心があったと言える。
夢でいつも見る、誰とは分からない人物。長い年月を生きたからこそ、その中で、その人物が来るのを心待ちにしていた。そのために、恋愛の経験もなく、純粋な乙女心が、育まれた。
そして、それが、いま、現実になり、目の前に現れると、緊張というものが、走っていた。
それは、鈴が、羅王の遺したノートを確認した時、初めて訪れた、衝撃である。
唯我の顔が、まんま、そのノートに描かれていたのだ。
夢にて見る人物と、そのノートに描かれていた顔、そして、唯我の存在が一気に線でつながったのである。
運命的なものを感じざるを得なかった。
そして、それまで、唯我に感じていた、えも言えぬ感情が、ここでつながるのだと、つながっていたのだと、初めて認識した時、自身の、唯我に対する想い。
それは、なぜかこの男を離したくない。
という感覚が納得できるものとなるのであった。
つまり、見ず知らずの赤の他人にどうしてここまで、己を開示したのか、一緒の時を過ごしたのか、その理由がひとえに分かったというものである。
ああ、ずっと、夢で見ていた人だ。私が待っていた人だ。
という乙女の心である。
そして、唯我は、その乙女の心にかなうだけの男であったことも大きかった。
顔は、鈴のタイプであったし、身長が比較的高い鈴と比べても、唯我の方が、背が高かったし、また、外見以外も、その内面は、鈴の好む性格に適していた。
危険な遊びに付き合える度胸もそうだが、何より、鈴の普通の遊びに付き合ってくれる、それも、見守るような形で。
そして、その中で、いかなる自由も許してくれる存在が唯我だった、加えて、その遊びに本気で取り組んでくれるのである。
例えば、スーパーチキチキレーが終わった後の7日間の遊び、ボードゲームや、ゲームセンター、アミューズメントパークを渡り歩いたものだが、全て、鈴のしたいようにやらせてくれた。しかし、それでも、倦怠感をみせず、その上、面白い、勝負、賭けの提案をしてくるのだった。
そして、各遊びにおいて、唯我は強かった。
それが心地よかった。
張り合いがある方が、本気になって遊べるのである。
いつも、こういう時、つまり、鈴と誰かが遊ぶとき、鈴は、しばし孤独を感じてしまうものだった。
それは、自分が、一総帥であるという立場に加えて、鈴が、ゲームで無類の強さを発揮してしまうからである。
しかし、唯我は、その強さに並ぶのである。
例えば、この世界でもゴルフなるものがあり、(不可知なる力を排してプレーされるそれは、好まれている)
そしてその勝負となると、鈴はプロ並みの圧倒的な強さを発揮してしまうものだが、それに唯我は、競り合うことが出来ていた。
(これは、唯我が闘神となり、体の使い方、感覚もろもろが発達したから可能であった)
そんな、唯我に好ましい感情を鈴が抱いてしまうのは、しょうがないことであった。
その好ましい感情の延長線上に惚れる心というのがあるものだが、鈴の内心を決定的にしたのは、羅王の遺したノートに描いてあった、男の顔の絵を見た時であろう。
唯我と、マンションにて別れ、そのまま、就寝した、のち、鈴の書斎の机にあった、そのノートを久方ぶりに、なんともなしに、開いてみた時、衝撃は起こった。
全てが繋がってしまったという感覚があったといえる。もやもやとした思いの一切が、その時吹っ飛んでしまった。
そして、今の鈴は、玄関から、出て、そこに唯我がいて、たばこをぷかぷか吸っている姿を見て、実は、上がってしまっていたのだった。
目の前に夢に描いた人がいるのだから。
あらためて、顔を見てみる。
カッコよかった。
りりしく整った長い眉毛、二重の瞼は、切れ長のようで、はっきりと、開いている。
鼻は、すっと通り、顔の輪郭は、きりりと整っていた。
1万5000年前の自分を殺した大災害も、どうでもいいと言えた。
むしろ、その災害は、自分にとっては必然で、それがあったからこそ、いま、ここにて巡り合えているという感覚が鈴にはあった。
だから、非難などという心は、そこにはなかったのである。
「お腹空いた? ご飯食べましょ?」
運命の人を前に、未だ上がっている鈴からの誘いであった。
この時、初めて、鈴は、自分の誘いが断られてしまったらどうしよう、と、不安になるものであった。
鈴は、いま、情緒不安定の状態であった。
だから、闘神の
「ああ、減った。食べようか」
という言葉に、驚き、嬉しく思う鈴だった。
鈴は、この時から、恋というやつに振り回されていたと言える。
では、どこで、ごはんを食べるか、何を食べるか、それすらも、今は決まっていなかった。
そして、鈴は、
「じゃ、私の家に来て」
と、とっさに言ってしまうのだった。
自身の部屋が散らかっていることに鈴が思い至るのは、その発言をした直後である。
「ちょっと待って! いま、部屋片づけるから!」
あわてた鈴が、玄関を開け、一人、家に帰って行った。
取り残された闘神である。
その闘神も、何か、鈴の様子がおかしいなと、どこか思うのだった。
夕食は、鈴の手作りだった。
1時間後に家に招待された、闘神は、いま、リビングルームにて、ゆったりとしていたのだった。
台所から、鈴が料理を作る、音が、コンコンと、聞こえてくる。
普通の家庭だった。
それは一軍の総帥とは、不釣り合いなもので、曹操のように城に住んでいてもおかしくはないものである。劉備ですら、それなりの場所に住んでいるものである。
だが、鈴は、普通を望んだ。
このマンションも軍の施設ではなく、民間の施設である。
鈴いわく、これは遊び心だそうな。
そして、こっちの方が落ち着くと。
そんな普通の心を持った鈴だった。
ふと、闘神が尋ねる。
「羅王のノート、見せてくれないか?」
鈴の答えは、もちろんYesだった。
料理を途中で切り上げた鈴が、書斎から、羅王の遺したノートを持ってきた。
それは、黄ばみ、古びれたノートだった。
1万5000年前のノートであるから、原型を保っているだけすごいものである。
その歴史が刻まれたノートをめくる。
そこには、まず一ページ目に、
「大陸のルールは変えるな」
と、大きく、殴り書きされた文字が、あった。
羅王のノート、それは、羅王林が死に際して遺したメモである。
その一ページには、「大陸のルールは変えるな」という文字が書かれている。
そして、これが鈴が、劉備の提案に乗らない理由の主であった。
では、ここで、羅王の大陸のルールがなぜ、ここまで複雑なのかを記そう。
羅王のルールの複雑さ。
その全ては、羅王のルールが、意識により、運営されているからである。
ゆえに、たった6つのルールにて、ここまでの体系が構築されているのである。
そして、その規則を読む者も、意識を相手にしているから、その全貌をつかめないのである。
では、いかなる意識が、羅王のルールに関わっているか?
それは、羅王林の大陸の格を超える力により生み出された生命である。
羅王林から、羅王ちゃんずと、呼ばれた、者たちが、羅王のルールの運営に関わっていた。
彼らの居場所は、羅王の大陸のネットワークである。
その紹介から始めよう。
大陸ネットワークにて、各大陸の主要サーバーとなるところ、そこには、各大陸の紹介と言ってもいい情報が開示されている。
インターネットにて、政府の公式ホームページを見るような具合である。
しかし、羅王の大陸はそれとは違う。
羅王の大陸のネットワーク。
そこには、羅王の大陸がそのままある。
と言える。
もっと、具体的に言えば、羅王の大陸を大陸ネットワークにて覗くと、羅王の大陸の地図が、いや、地形が、いや、そのままの羅王の大陸の全てがそこにある。
グーグルマップにて地図を拡大していくと、その土地の建物が立体的に見れる具合で、羅王の大陸は、そこに存在する。
つまり、3Dの街が、仮想空間が、大陸ネットワークに存在するのである。
そして、羅王の大陸のネットワークはなんと、その3Dの街に出入り可能であるのだ。
それはゲーム画面の中に入りこむような形である。
そして、その街には住人がいる。
それが、羅王ちゃんずである。
形としては、ゲームの世界にNPCがいるような形で、羅王鈴が生み出したキャラクターたちが、生命たちが、そこに住んでいるのである。
これが、羅王の大陸のネットワークの全貌で、しかし、そのキャラクターは意識を持っているとは、全く思われていない。
それは、羅王林が、意識を持っていることは秘密だよ、彼らと、お約束したからである。
そんな羅王ちゃんずだが、その筆頭は、かわいらしい女の子のキャラクターである。
彼女の名前はそのまま、羅王ちゃん。
これは、羅王林が一番目に創った生命である。
その始まりは、ひょんなことから。
ある日、大陸ネットワークに羅王林がお絵描きしたのがはじまりである。
初期の大陸ネットワーク。それは、シンプルで、素朴なデザインだった。
大陸ネットワークの必要事項がただただ箇条書きされただけの画面。
そんな画面を眺めていた羅王林は、ふと、あることを思いつく。
これ、お絵描きして、華やかにしちゃえないかな?
そして、彼女の能力、面と線と色にて、大陸ネットワークは、落書きされた。
その一番目の絵が、羅王ちゃんという女の子の絵である。
羅王林が大陸の格を超える力を手にしたのは、その時である。
その落書きが、羅王の力をもたらした。
初めに描いた、羅王ちゃん。彼女が、ピョンっと画面から出て来てしまったのである。
これには、さすがの羅王も慌てふためいた。
そして、より、慌てふためくことが続けて起こった。
それは、大陸の格がそれに激怒したことである。
生命の創造。そして、大陸の格を超える力。
これは、実のところ、大陸の格の力を鈴が奪ったために得た力だったからである。
つまり、羅王の大陸の格。それそのものも実は、生命のひとつで、力を宿していたのだが、羅王ちゃんが、ピョンと、画面から出て来た時に、大陸の格の力が、鈴のものになったのである。
ゆえに、己の力を奪われた大陸の格は激怒した。
そして、羅王に対し、呪いをかけた。
それは、死の呪いである。
遊の力、「戦闘からの逃走した場合、その力を持つ者には、死を与える」
遊の力に死の条項が加わったのはこの時である。
同時に、この強すぎる呪いのために、マジモードでなければ、無敵であるという条項も追加された。
それまで、遊の力とは、ただ、楽しめば楽しむほど、遊べば遊ぶほど、力が強くなるというものであったが、大陸の格による呪いで、ここまで、能力が変化したのだった。
7.語りえぬものについては、沈黙すべし
―ウィトゲンシュタイン―
彼女が生み出した、羅王ちゃん。それに激怒した、大陸の格。そして、羅王林は、大陸の格に激怒されたときに、自らが生み出した生命が、大陸の格を超えていること、つまり、大陸のルールに縛られない存在だという事に気付いてしまったものである。
その気付きは彼女を焦らせた。
なぜか?
それは、生み出したキャラクターたちの精神年齢が幼かったからである。
そして、羅王ちゃんずたちの力が恐ろしく強かったからである。
幼子に、機関銃を握らせているようなもので、このまま、彼女を外の世界に放り出せば、民間人に危害を加えてしまう可能性があった。
つまり、羅王の大陸のルールに縛られない存在だからこそ、その行動が例え無為で、あそびの範疇であったとしても、人を傷つけることが可能なのである。
試しに、打ってもらった、ファイヤーボール。
それは、無邪気ながら、とんでもない威力を発揮していたものである。そして、明らかに人を傷つけてしまうものだった。
そんな羅王ちゃん。
彼女は真っ赤なワンピースを着たおさげの女の子である。
お目目は、くりくりとして、お口はニコニコしている。
羅王林の子供の頃の姿と言えば、そうも言えた。
可愛かった。
しかし、どうしよう。
と、林は慌てふためくことしかできなかった。
一度生み出した生命、消すことなど、できない。
が、消さねば、おそらく彼女は、民間人にも危害を加えることだろう。
まだ、物の分別がついていないのだから。
また、この力を持つことが一般に知れた時、それは恐れの対象になりかねない。
その恐れは林に新たなる敵を作ることだろう。
それは、好ましくなかった。
そして、大陸の元首たる者、平等を目指さなければならぬという信念が鈴にはあった。
力をふりかざして皆を黙らせるというのは彼女が嫌う心そのもので、それは遊びの力とも相性が悪いものだった。
そんな、こんなを悩んでいる時、ふと、羅王ちゃんが、林にこう聞いた。
「ねえ、私、いらない子なの?」
その言葉は林には、耐えられなかった。
せっかく、生まれてきてくれた子に、消えてくれ、などと、思えなかった。
だから、考えた挙句、林は次にブック君を生み出した。
これは、本の生命である。
そのブック君。誕生した彼の能力は便利だった。
それは、本の中に羅王ちゃんを収納できるという能力である。
本の中に、世界があった。
そして、その本に羅王林がまた、絵を描くことによって、新たな世界を創ることもできた。
だから、林は、そのブック君に、様々な、楽しい世界をたくさん書いて、同時に新たな仲間を次々と創造し、本の世界に閉じ込めたのである。
8.本書を禁書指定とする
―羅王の大陸、ルールその8―
そして、その本。つまり、ブック君を大陸ネットワークの空間スクリーンにぬいっと収納したところから羅王の大陸ネットワークの歴史は始まった。
それは、林がなんとなく、ここから、羅王ちゃんが出てきたのなら、この中に羅王ちゃんたちをしまい込めそうね。と思ったのが始まりである。
そしてそれが出来た時、羅王の大陸のネットワークは一気に様変わりした。
つまり、羅王の大陸ネットワーク上に、羅王の大陸が3Dで現れたのである。
地図も、地形も、その中に立つ建物も再現されていた。
これは、ブック君が羅王の大陸の運行の規則を読み取り、街そのものを再現したものであった。そして、ブック君に描かれた別の世界は、また、階層を変えて、そこに存在した。
つまり、現在の羅王の大陸のネットワークで言えば、まず、見える形として、羅王の大陸がそのまま、3Dにて、そこに存在し、誰も見えない形で、2層3層4層と、ブック君の作り出す世界がそこに存在するのである。
ゆえに、部外者が訪れることのできる場所は、第一層の羅王の大陸、3Dの仮想空間だけである。
そして、他の第二層第三層と続く、数多存在する階層は、羅王の大陸の運営チーム、つまり、羅王ちゃんずの世界である。
そんな羅王ちゃんずだが、その数、膨大である。
それは、鈴が次々に生命を生み出したからであり、また、羅王ちゃんずは成長すると、鈴と同じく、自分自身で生命を生み出すことが出来るようになるからである。
だから、今なお、その生命、羅王ちゃんずの数は増え続けている。
そんな羅王ちゃんずだが、彼らの仕事は、羅王の大陸の運営である。
ある者たちは、羅王の大陸ネットワーク、その第二層。部外者が立ち入れない大陸の格のコントロールルームにて、日夜仕事に勤しむ。
そこにて、行われることは、主に、羅王の格の拘束、また、羅王の格が、許すか、許さぬか、面白いか、否か、の判定である。
そして、これこそが、羅王の格のルールが複雑になる主因である。大陸の格のコントロールルームを乗っ取る形で仕事をする彼らは、彼らの恣意的な判断にて、大陸のルールを幾度となく捻じ曲げる。
また、ある者たちの仕事は、羅王の大陸ネットワーク、その第一層にて、NPCとしてふるまうことである。
つまり、羅王の大陸ネットワークを覗くと表示され、実際にそこへゆける3Dの仮想空間、その住人としてふるまう仕事である。
彼らは完璧に再現された羅王の大陸の住人となり、様々な活動を行うものである。
例えば、曹操の本拠地もそこにはしっかりとあり、地下第3層、そして、奈落の第4層までそこでは再現されているものである。
そして、それらの使用用途も、現実と同じで、NPCの軍が管理するものであった。
またこれは、現実の軍が強ければ強い程、その本拠地の防衛、つまり、仮想空間上の防衛はNPCによって、手厚く守られるとこだった。
つまり、羅王の大陸ネットワークにて、その仮想空間が完璧に再現されているからと言って、部外者に全ての軍事機密が筒抜けになってしまうというという訳でもなかった。
そして、これら管理は、羅王ちゃんずが勝手にお遊びでやっていることである。
だから、彼らとの戦争に勝てば、軍事機密、つまり、例えば曹操の本拠地の詳しい機密を得ることも可能だった。
ただし、羅王ちゃんずに勝つというのは、羅王林に勝つと同程度の意味であるから、無理な話ではあるのだが。
そして、このゲームのような仕様の仮想空間だが、ホーム画面というのもあった。
それは、羅王の大陸ネットワークを覗いたとき、まずいの一番に現れる画面である。
そこには、様々な項目が掲げられており、例えば、実際の羅王の大陸、または、仮想空間の羅王の大陸に行くかどうかの選択肢画面や、運行の規則などが掲げられている。また、その画面にて、運営者の通知も掲げられていたりもする。
通知というのは、今日の羅王の大陸のトップニュースなどである。
そして、そこにて、大陸の格の核が羅王の大陸にもたらされたというニュースが流れたものだった。
分かりやすく、そのホーム画面にて、
「大陸の格の核、現る!」
と、通知されたものである。
そして、この通知は、今もなお、でかでかと掲げられているものである。
ゆえに、その画面をのぞいた者の全てが、つまり、羅王の大陸ネットワークを検索した全ての者が、その事に気付く仕様となっていた。
格の核などありえない。あってはならない
―元帥 トルト・リヒトー―
鈴が作った料理が出来上がった。
それは、ハンバーグ定食だった。
ハンバーグに白米。それとサラダがついた定食である。
今思えば、これが二人で食べる初めての料理だった。
「やっぱハンバーグには白米よね。ねえ、もしかしてだけど、日本という場所にも、これあった?」
「ああ、あった。白米なんか日本の主食だ」
頂きますと言い、二人は、ハンバーグ定食に手を付けた。
「へぇ~、そうなんだ。なんか落ち着くのよね。やっぱ私も日本から来たのかしら」
「どうして、そう思う?」
「ここまでくるとき、街を見て、驚いてたじゃない。特に、私が手を入れた場所とか、知ってたんでしょ? つまり、日本のその光景があったんじゃない?」
「ああ、その通りだ」
ハンバーグ定食は、とても、家庭的な味わいのおいしさに満ちていた。
「じゃ、私が描く絵って、日本の絵なんだ。へぇ~おもしろい。記憶取り戻せないかな~」
「羅王の頃の記憶も取り戻せたらいいな」
「あっ、ね、それね。そうだよね。なんか、ぽっかり空いちゃった感じがするの、でも、なんか、誰かが待ってるような感じ、まだ、失ってないよって感じがするんだよね」
「ほう、それは期待できるな」
「でも、仁と、双を倒さなきゃいけないしな~……」
仁は、仁宗徳が劉備で、双は双猛宗が曹操のことである。
「それで、一つ聞きたいのだが、心臓のロイヤルは、医療か何かで分離できないものか?」
「ああ~……それね、多分無理。力の具合って言ったらいいのかな、浸透率っていったらいいのかな。体の隅々まで連動してしまってるのよね、このロイヤルと、そこに宿った力は。たぶん、羅王の力にしろ、ロイヤルにしろ、切除したら、死んじゃうわ」
鈴からの答えは、闘神も覚悟したものだった。ゆえに、心臓にロイヤルを宿す本人からの言葉は、闘神を大して刺激はしなかった。
ある種の諦めが闘神の胸を支配した。
「ねえ、ちなみにだけどさ、昨日、私が引き止めなかったら、どうしてたの?」
それは、鈴からの純粋な質問だった。
鈴本人は結構そのことが気になるようで、ぐっと、こちらに前のめりになっていた。
「羅王の大陸を去っていたさ」
闘神のその答えを聞いた鈴は、一瞬悲しそうな顔をしたものだった。
「そう、そうなのね。じゃあ、もしかして、今生のお別れになっていたかもしれない?」
「ああ、そうなっていただろうな。俺は、君たちのロイヤルを回収することを諦めているから」
「でも、たまには会いに来てくれたりしたわよね」
「未練を立つ時は、根元からさ。正直、あと一歩でも、君が遅かったら、瞬時に大陸を去っていた。そしたら、この果てなき大地だ。再会は難しいだろう」
これは、闘神の意地悪な物言いであった。
今の闘神は、鈴をいじってやろうという気持ちが芽生えていた。
鈴は、それには気づいていない。
もし、あの時、闘神が羅王の大陸を去っていても、たばこの道しるべがあるから、再会は難しくはない話だった。
「それで、こちらからも聞きたいのだが、何故、デートの誘いを断られたんだ? 私は」
「え、え、あ、あれは……いきなりだったから、ビックリしたの!」
闘神の顔は、ニヤリとしていた。
鈴が、いま意地悪されていると気付いたのは、この時である。
「そうか、あれは傷ついたな」
「で、デートなら、いくらでもしてあげるわよ!」
「お、言質とった」
「意地悪!」
二人の会話のテンポが上がっていた。
「そんなこと言うなよ、楽しみだぜ、色んなところに行こう」
「でも、あなた、色んな所に行けるだけのお金持ってるの?」
それは、鈴の唐突に放たれた刺客の言葉だった。
ウっと、なる闘神。
立場が一気に逆転した。
例えばこれまでの7日間の遊び。
その支払いは、全て鈴の支払いだったので、鈴も鈴で闘神の懐事情というのを理解しているものだった。
一気に形勢逆転である。
いま、鈴の顔は、してやったりと、二やついていた。
「あなた、働く気あるの? 軍の仕事はダメね、仁にも双にもメンツがあって、仕事できないでしょ」
鈴のこの言葉は、闘神の内心をよく察しているものだった。
「それで、じゃあ、普通にバイトするしかないのよね」
「それが、無理なんだ」
「どうして? 働きたくないから?」
「いや、うん、まあ、働きたくないと言ったら働きたくないが、実は、身分証が作れなくて……」
といったとこで、劉備の陣営にいた時、何があったかを鈴に説明する。
つまり、DNAの検査が全て、失敗に終わった、かの出来事を話したのである。
「ええ~! そんなことある? 腕、貸してみなさい!」
「な、なにをするんだ」
鈴が、グイっと、せまって来た。
そして、ひとこと。
「かじってあげる!」
「やめろ、やめっろ!」
しかし、あえなく腕をかじられる闘神だった。
「あれ~ほんとに硬いわね~痛かった?」
腕には、鈴の歯形がくっきりとついていた。
それが、少し、キスマークに見える闘神はぼーっとしてしまうものだった。
消えなければいいのに。と、そんなことを考えていたものである。
しかし、はっ! とする。
いや、いや、何を考えているんだ。
鈴の突然の行動に驚いて一時思考停止してしまった自分のスイッチを入れ直す。
「痛かった?」
再度、鈴が聞いてきた。
この女、S気があるのかもしれない……そう思う闘神だった。
「少し、痛かった」
と、答える。
それに対し、どこかしら満足気味な鈴の顔があった。
「でも、もう少し、本気で、噛んでも良かったかしら。大丈夫よ、傷なんて、一瞬で治るから、もう一回、腕かしてみなさい?」
今度の鈴は本気のようだった。
「注射針はないのか、注射針は」
「そんなもん、ある訳、あ、包丁があるんだけど、どっちがいい? 噛まれたい? ぷすっと、いきたい?」
と、聞いてきた鈴の顔は、いかにもこちらを馬鹿にしたような表情であった。
つまり、冗談である。
冗談を言っているのである。
しかし、闘神には、その事が分からず、噛む方を選択するものだった。
ガブリ。
しかし、状態は先と変わらなかった。
腕を噛んだまま、鈴が、
「え~なんで~……硬すぎるんですけど~」
と、うめいている。
そして、口を離した。
鈴が結局のところ本気で噛んでないから歯形がついただけで終わったのか、それとも、闘神が神であるから、歯形だけで終わったのかは分からねど、神の体に、歯形をつけたのは、鈴が初めてであった。
「ま、いいわ、あなたの話信じてあげる。で、身分証が作れなかったという話よね。じゃ、内輪の仕事でも、手伝う? と言いたいところだけど、多分あなた、嫌よね?」
「ダンジョンに潜るとかなら、楽でいいのだが」
と、ふと、ここで、初心者ダンジョンにてお金を稼ぎ、ギャンブルに使う日々を思い出した闘神は、その日常を鈴に話すのだった。
鈴は笑っていた。
その時何があったか、どんな熱いドラマがあったかを子細、闘神と、元所持品ズから聞き、それを楽しむ鈴だった。
そして、最後には、
「どんな稼ぎ方をしてるの、馬鹿じゃないの」
と、呆れも混じっていた鈴だった。
そして、この時の鈴からすれば、闘神の処遇はもう決まっていた。
この男は、お金がなくとも生きていける。
しかし、ないはないなりに、工夫をして、楽しむものである。
だから、普通の仕事を与えたところで、長続きはしないだろう。
「じゃ、いいわよ。あなたの面倒、私が見てあげる!」
と、なった鈴だった。
ヒモ男、爆誕である。
「いい? 私が、あなたの生活費? 出してあげるから、毎日ここに来るのよ。基本、1日……そうね、1人5000円で! 充分? 足りなかったら増やすわよ、日払いね! 今日何するのか、教えてくれたら、その分出すわ」
ほう、ヒモにならせてくれるのか。
この鈴の提案に、闘神も願ったり叶ったりであった。
5000円という基準は、熱い。
ギャンブルで増やすにはちょうどいい元手である。
そして、1人5000円とは、元所持品ズも含めて5000円である。
つまり、一日2万円貰えるということだった。
また、鈴はこうも言ってくれた。
「足りなくなったら、これね、はいカード」
と、クレジットカードを渡してくれたのである。
「1日の上限は50万だから。それ以上必要なら、連絡してね」
と。
至れり尽くせりだった。




