仮初めの記憶
わたしは、2人の女性と結婚している。
不倫でも浮気でも、ましてやニ重婚というわけでもない。
「ちょっと、聞いてる?」
目の前で、不機嫌に眉根を寄せているのは、紛れもなく、わたしの妻だ。
妻は、新卒で就職した会社の同期だった。
何度か研修などで一緒になり、終わったあとに仲間で飲みに行くと、よく仕事の愚痴を聞かされた。
その時、丁度、前の彼女と別れたばかりで、寂しかったのもあるかも知れない。
愚痴とはいえ、やたらと絡んでくる彼女と話していると、気が紛れた。
ある時、仕事終わりに呼び出されて、いつもの愚痴かと思って行きつけの居酒屋に行くと、緊張した面持ちの彼女がいた。
その場でプロポーズされた。
そこから一緒に住むまでには時間はかからなかった。
--..…っくしゅ--
「聞いてるよー。なんか、前に言ってた温泉旅行の話だっけ?」
「ほんとに聞いてた?温泉旅行の話には違いないけど、この話は今したばかりだからね。」
----.そうか、前にしてた「話」は無かったことになったのか。
「宿を早めに予約したいけど、どこがいいかな。」
--..…っくしゅ--
「ここなんてどう?」
私は、趣味の合いそうな旅館のホームページをスマホに表示させてみせる。
「ここって…まえにも行っだけど、わりとよかったよね。」
「そ…そうだね。じゃあまたここでいいかな」
その宿の記憶がぼんやりと頭の中に流れ込んでくる。
目の前の彼女は幸せそうだ。
彼女のことは好きだし、結婚に後悔はない。
だけど、ふと頭によぎるのは、「あの子」の顔。
もう、ぼんやりとしか思い出せないが、確かに大切だった。
「あの子」のことを思うと、息ができないほど、胸が締め付けられる。
「あの子」とは、昔からなんとなく近くにいて、なんとなく、ずっと一緒にいるものと思っていた。
ーーー実際、「あの子」とは、大学の卒業とともに結婚して、地元で共働きしながらも、幸せな日々を過ごしてきた。
結婚して4、5年くらいした頃だろうか。
「あの子」との会話の中で、齟齬を感じることが多くなり、自分の記憶に自信が持てなくなっていた。
記憶の齟齬というと大袈裟だが、ほんの些細なことだった。
昨日の食事、以前観た映画、小学校時代の先生のあだ名…
それが、数年続き、次第に間違えようのない事柄になっていった。
親友の名前、高校時代の担任、さらには家族構成まで。
流石に病院にも行って、検査もしたが、異常はなかった。
そして、悪魔の悪戯としか思えない、「あの日」が訪れた。
あの日は、流行りの風邪をもらって、家で寝込んでいた。
熱はそれほど高くなかったのだが、咳とくしゃみが激しくて、感染防止のために念のため休んだのだ。
「あの子」は一応会社には行ったが、早退して、昼前には帰ってきていた。
扉が開いて、「あの子」の顔が見えたその時、
--..…っくしゅ--
くしゃみをして、顔を上げると、別人がそこに立っていた。
…いや、これは、この人は自分の「妻」だ。
ぼんやりとした頭で考える。
職場の同僚で…気が合って結婚した…んだったっけ。
…じゃあ…幼馴染だった「あの子」は…
そうだ、ちょっとした行き違いで会わなくなったんだっけ…。
…そうじゃない。
そうか…記憶がおかしかったんじゃなくて、多分…過去が「ズレて」いたんだ。
くしゃみをするたびに、僅かに他の、並行世界に移動する。
記憶がその世界の過去に書き換わるほんのわずかな隙間、自分とその世界の記憶の齟齬が生まれる。
少しずつ、記憶が、過去がズレて…いやいや、そんなバカな。
でも、いや…しかし。
…あの時、混乱した頭で、湧き上がる疑念疑問を否定し続け、一方で、それまでのいろいろな出来事が腑に落ちる感覚を覚えていた。
あれから、合間をみてはくしゃみをするため、コショウを持ち歩く癖がついた。
誰にも理解はしてもらえない。
話をしても荒唐無稽すぎて、冗談にしか聞こえないだろう。
周りからは、病気を疑われることも多くなった。
そして、未だわたしは、「あの子」にまた出会えることを願いつつも、目の前の妻との幸せに、胸を痛める日々をおくっている。




