悪役令息の逢引き
前辺境伯夫妻の居住する城――通称『旧レムウッド城』だが、そう呼ぶと『過去の遺物』感を感じ取った祖父母が激怒するので呼び名に困る城――に俺たちが押しかけてから、はや1ヶ月が経った。
このひと月、俺がしたことと言えば、城の帳簿を改めることと街道沿いの領地の視察。
あとは――。
「あとは、侍従のシャルロ君とのご主人様ごっこだもんね」
「殴るぞ、シャル」
「おー、こわこわ」
うんうんと分かったように頷きながらとんでもない大ボケをかましてくる親友の言は即座に訂正しておく。……誤解のないように言っておくけど、そんな事実は一切ない。
「あとは、反乱分子のリストアップだ。けど、これは全然進んでないんだよなあ……」
「まあ、素人が見てもすぐにわかるくらい目立つなら、あの『女帝』様が既にしょっぴいてるでしょ」
「それな」
信頼の厚い敵でさえ気づかない反乱分子を丸め込めたらそれが一番いいのだが、難しい。
俺には『俺』という極上の釣り針があるとはいえ、獲物はなかなかかかってくれないみたいだ。
「そういえばさぁ」
「ん?」
気持ちだけ焦っても仕方がないと眉間に寄った皺をほぐしていると、シャルが珍しく疲れた調子で声を掛けてきた。
促せば、これまた珍しいことに言い渋る。
「なんだよ」
「あ〜、う〜、そのぉ、言っていいのかなぁ」
「いいから言え」
「あのね、今日も『これ、レイモンド様に差し入れです!』って、ご婦人から渡されたんだけどぉ……」
いかにも気が向かなそうにシャルが差し出してきたのは、素朴な布の小さな袋だった。……いい匂いがする。匂い袋か?
「なんか、家の畑で育ててるんだって。香りで気持ちがほぐれて疲れに効きますよ〜って」
「リラックス効果があるものはありがたいな……って、またか?」
「また」
「……」
俺はがっくりとうなだれた。
差し入れが嬉しくないわけじゃない。学園生の頃の俺なら女の子からのプレゼントを手放しで喜んでいただろう。肉体年齢思春期の少年を甘く見ないでほしい。
問題はそこじゃないのだ。
「……ジジババども、『緘口令』の意味を知らないのか?」
「さすがに腐っても元辺境伯夫妻でしょ、知ってると思うよ。知らないとしか思えない動きばかりするけど」
何度彼らに『レイモンド・アレクシス・レムウッドがここにいると知らせるな』と説明したら、正しく意図が伝わるのか。
『シスは反乱分子のリーダーになりたいわけでしょう? だったら、その正体は謎めいて後ろ暗いところがあった方がいい』
これから旧城下町で何をするのかを話し合ったとき、シャルは俺にビシリと指を突きつけて言った。
『最終的にアレクシアの息子で辺境伯家の正当な跡取りだと主張するのに?』
『それでも、だ。誰がどう見たって今の領地は『女帝』の支配下にあるんだ。そんな中、その息子が公に訪ねてきたらどう思う?』
『まぁ……普通は『母親のお使いで来た』と思われるよな』
アレクシアの思惑を汲んだ敵情視察か示威行動だと思われるのが、普通だろう。
俺の答えに満足したように、シャルは頷いた。
『逆に言えば、そんな普通に考えれば思惑が見え見えな君から『僕も反乱に加わりたいんですけど』と声をかけられただけでペラペラ内情を話すような頭が悪くて見る目も無い反乱分子、仲間にしたいか?』
『で、でも、情報源になる可能性はゼロじゃないし、いないよりマシじゃないか?』
『ジジババ以外にも無能な味方を量産したいというなら、侍従であるボクからは何も申し上げることは無いですけども』
『絶対したくない、です!』
ぶるんぶるんと首を振って俺は全力の拒絶を示した。また、深々と頷くシャル。
『ともかくそういうわけで、反乱のリーダーにはアングラな魅力が必要なのさ。それに――正体を明かした時に映えるでしょ?』
ヒーローは遅れて派手にやってくるものだよ、とシャルは片目をつぶって見せた。
……とか、言ってたのになあ!
「なんっでジジババは黙ってられないんだ!?」
「孫がいけすかない嫁と仲違いして自分の味方をしてくれたのが嬉しくて、口が軽くなっちゃうのかねぇ」
「それで済まないだろ!? あいつら、少しは警戒心を身につけることを覚え……てたら今こんなことになってないよなあ!」
思った以上に、敵より『味方』に足を引っ張られすぎている。
どうせアレクシアは旧レムウッド城内にも子飼いの密偵を潜り込ませていて、報告を聞くたびに笑いすぎて涙を流しているんだろうと思うと無性に腹立たしかった。
「……気を取り直して、とりあえず出来ることから終わらせよう。帳簿と街道沿いの視察は?」
「適度に放漫経営で多少の使途不明金はあるけど、財政破綻の心配は無し。その不正にしても、締めつけすぎて金庫番が逃げるよりはマシかなってくらい」
担当者による横領の気配はあるが、そのせいで領地が機能不全になるほど多額ではない。ここらの地域は街道沿いで関所での通行料の取り立ても商店からの税収も安定しているから、見逃してやっても大きな問題はないのだろう。
「視察の所見は?」
「領地の中でも豊かな地域だ。目立って貧苦に喘ぐものもない。この土地はこの上なく平和だ。……これで不満を持つ者がいる理由が分からないくらいに」
手詰まりというか、俺がここで何かする必要はあるのだろうか。ここに救いを求める者などいるのだろうか。
アレクシアへの反発は俺の独りよがりにすぎないのじゃないかと、心がぐらつく。気づけばため息が漏れていた。
そんなときに、シャルが言う。
「じゃあさ、せっかく暇なら城下町デートしない?」
「デ……!?」
「んー? 『逢引き』とか言った方がいい?」
「言い方の問題じゃない!」
シャルが突拍子もないことを言うのは今に始まったことじゃないが、話題によって適したタイミングがあるだろう!?
今は真面目な話をしてたんだぞ、こっちは!
「え〜? 庶民目線で見て回るのも大事だよ、あたしと二人でなら気づくこともあるかもしれないし。ねぇ、次期領主様?」
あたしとデートしようよ。
そんなふうに小首を傾げられても……くそっ、可愛い! 変人のくせに見た目だけは可愛いな!
シャーロット・ベルモアは黙ってさえいれば『天使』か『妖精』と呼びたくなる見た目をしている。白銀の髪をはじめとして、彼女を構成する色合いは一見して淡く儚げに見えるからだ。
「おっちゃん! あたしにも焼き芋ちょうだい!」
「あいよ! バターと塩つけて食うとうめえぞ! お嬢ちゃん可愛いから一個オマケだ、そこの兄さんに分けてやりな!」
「ほんと!? わーい!」
一見して……つまり儚さは見た目だけの話で、蓋を開けてみればとんだ儚げ詐欺だと思うけど。
城内では『侍従』扱いの彼女は、普段はシンプルなシャツにスラックスだけで過ごしている。
今日もシャルは男装のまま城を出て、城下町に降りてから適当な店に入って淡い翠色のワンピースを買い、店の試着室で着替えていた。
「それにしても『服の試着』なんてできるんだねぇ。あの『吊るし売り』方式も初めて見た。あたしが小売店の販売形態に疎いだけかもしれないけど」
シャルは王都暮らしも長いはずだが、訳あって『王都の普通の一般庶民』として暮らしたことはないのだという。まるで『一般庶民だけど普通じゃない』生活をしていたとでも言いたげだ。
気にはなるが一度聞こうとしたときに『細かいことを気にする男はモテないぞ』と茶化されて以来、なんとなく聞けずにいる。友達なのにな。
話を戻そう。服の吊るし売りのことだったな。……これも、敗北宣言みたいになりそうだから、あまり言いたくはないけれど。
「……言い出したのは、あの女だよ」
「そうなの?」
シャルは、きょとんと目を瞬いた。
貴族の令夫人が庶民の服飾にまで影響を与えていることは、天才の頭脳をもってしても予想外だったのだろう。
どういうことかと説明を求める目に、俺はうろ覚えの知識を必死で探った。
「ええっと、元々金持ちは自分の家に仕立て屋を呼ぶのが普通だろう? オーダーメイドというか」
「うん。逆に、庶民は布から家で手作りすることが多いよねぇ」
「家で作るのは面倒じゃないか?」
「そりゃ、面倒だけど。お針子や職人に頼むと高くなるんだから金持ちしか任せられないでしょう? 金持ちの一張羅と違って庶民の普段着は時間と手間さえかければ誰でも作れるんだし」
シャルの言うとおり、この国の服飾には元々『手間がかかるが安い手作りの普段着』か『人任せだが高い豪奢な服』しかなかった。
その二者択一だと思われていたのだ。だが、そこにアレクシアは第三の選択肢を投入した。
「――もしも、ペダルを踏むだけで手縫いよりも速くまっすぐ縫える機械があったとしたら?」
たったそれだけのことが、この世界にどれだけ大きな影響を与えたか、おまえはどう評価する?
挑み試すようにシャルのことを見つめると、まっすぐな視線を返された。
「そうだね、普段着なら複雑な装飾の無いものの方が多いから、直線だけでも機械で縫えれば出来上がりは早い。彼女はその機械を発明して、普段着を大量生産したの?」
「さすが、理解が早いな」
「作業時間の短縮化と工程の単純化。素人の手作りより高品質なものを機械で速く、職人の手を借りずに安く作る。『服を客に合わせて作る』のではなく『客が服に合わせる』ようにすれば、サイズ違いの同じ型紙を3種類くらい用意するだけでいっぺんに作れるからさらに効率的だ。その『客が服に合わせる』ための作業が『試着』か」
見事だ。相変わらずの神童っぷりに、舌を巻く。
前世では『足踏みミシン』と呼ばれていたミシンの前身について、俺には『世界史の資料集で写真を見た覚えが無くもない』というくらいの朧気な知識しかない。
見たこともない『もしもそんなものがあったら』を前提にして、その影響を正しく論じられるシャルは本物の天才なのだろう。前世の知識というカンペを見てカンニングしてる俺が恥ずかしくなる。
「しかも、基本的に後払いの仕立て屋とは違って店頭で既製服を買う形式にすれば、代金の踏み倒しの心配も無いし、お得意先の御用聞きや未回収になっているツケの催促の手間や人件費も削れるから店にとってもメリットがある。……彼女は、賢いねえ」
シャルは本気で感嘆したように唸って、アレクシアのことを手放しで褒めた。
一度考え始めると思考が止まらなくなる悪癖は健在のようだ。結論を出してトリップから戻ってきたシャルに『お帰り』と呟いた俺の声は、沈んでいるように聞こえなかっただろうか。
「なんとなくわかった気がする。女帝は正しいひとなんだ。この土地は豊かで平和で幸せだ、彼女の成すことはこの上なく正しいとも。でも、その急激な変革に晒されて、不満を抱くことすら『正しくない』と切り捨てられて、受け入れられないひとも出る。そういうタイプの正しいひと」
「……どういう意味だ?」
「さあ? ねえ、次の店も行こうよ」
「ああ」
シャルは一度決めると貝のように口を閉ざすから、ここで粘っても無駄だろう。
俺は追及を諦めて、早くも次の店に吸い寄せられているシャルの後を慌てて追った。
旧レムウッド城の城下町は、伝統あるレムウッド辺境伯家とともに歴史を刻んできた古い街だ。
城の近くには古参の家臣の館が連なる漆喰の住宅街があり、石畳の大街道沿いには賑やかな商店街が、奥まった路地裏に職人の工房と専門店の数々が並ぶ。職業別に住む地区が分かれているわけだ。
そうは言ってもあまり厳密な区分けではなくて、例えば街の外れに行くとすぐに農村が見えてくる。
商業に従事する街の民だって、自分が日々食べるパンが無ければ生きていけない。食料品や日用品の生産は近郊農業に支えられているのだろう。
「次はどこに行こうかな、っと!」
「その小間物屋を出たら、いったんどこかで一息つこう」
屋台で串焼きを頬張ったと思えば、次は金物屋。その次は若者向けのアクセサリーショップに。――興味の赴くままにふらふらと吸い込まれていくのだから、付き合う側としては落ち着かない。
とりあえずは迷子防止だと慌ててシャルの手首を掴んだが、彼女には幼児用ハーネスが必要かもしれない。
シャルはふざけて『デート』だと言ったが、彼女には甘ったるい雰囲気は微塵もなく、目に映るもの全てから何かを吸収しようとするように観察していた。そうして彼女は時折口角を下げて、俺と繋いだ手にはきゅっと余計な力が入る。
「……どう、思った?」
中央広場の中心にある噴水の縁に腰かけて、ジェラートもどきみたいな冷たい菓子に夢中なシャルに、俺は目を合わせずに聞いた。
正直なところを言うと、俺はこの街の『出来の良さ』に圧倒されていたのだ。
「豊かで幸せな、美しい街だねえ」
「……そう、だよな」
彼女の目にも、俺と同じものが映っていたらしい。
この街の富とモノと人。どれをとっても『これより良くする』ことは難しい。それくらい完成された街だ。
俺だったら先祖代々引き継いだこの街さえ手元にあれば、それで満足してしまう。手放さないことにばかりこだわってしまう。
それなのに、アレクシアはこの街を惜しげもなく捨てて、自力で一からさらに大きな町を作った。
バケモノだろ、そんなの。
「うん、ほんとにすごい。だからこそ、女帝サマはこの街を捨てたんだろうね。彼女は本当に頭が良い」
「……!?」
のほほんと続けられた言葉の不穏さに、俺はばっとシャルに向き直った。
見ると、シャルはジェラートもどきを匙で突いた拍子に、手に垂れそうになる果汁にわたわたしていた。……落ち着きのない幼児か!?
いったん菓子を預かって、その間に手を拭かせ、持ちやすいようにコーンを懐紙で包んで返してやる。
「わーい、ありがと」
「それはいいから、さっきなんて言った!?」
「えっ、続き? 完成した街には伸びしろがない。既存のギルドや組合としがらみが多すぎるし、あの『御用達』の看板の多さを見るに、領主家とズブズブに繋がった店も多そうだ。そういう老舗に既得権益を放棄させるのは、誠意だの信頼だの交渉だの、労力が要る。新規参入は厳しいだろう」
そう言って、シャルはまた一口氷菓に食いつき、コーンを齧る。
「同じ手間をかけるなら、意欲的で利に敏い商人に免状一つ与えれば済む新しい街の方がいい。『これから当たりそうなモノ』にヤマをかけて資金援助だけすればいいんだから。……まあ、流行を読むのが一番難しいんだけどね」
シャルは事実を淡々と指摘するように、一本調子の演説を続けた。
ようやく氷菓を食い終わったらしく、包んでいた懐紙を手持ち無沙汰に弄んでいる。
「たとえば、痩せた土にも育つ芋もそうだ。海が遠いこの地で干物以外の魚介類をみるとは思わなかったし、この氷菓も初めて見た。バターや日持ちしない生鮮食品の種類が豊富なのは、近隣の農家の方に働きかけたね? 『普段着』もそうだけど、これまで『商品にならないモノ』と扱われてきたものまで女帝は『売り物』にした」
ほっくほくの蒸かし芋に添えられたバターとイカの塩辛もどきを思い出す。屋台のおっちゃんは『このトッピング、最近人気があるんだ』と笑っていたっけ。
この国には醤油の文化は無いけれど、代わりに使われていた味つけの魚醤の味も、俺にとってはひどく懐かしく感じられた。
それらの全てが『最近』『当代になって』――アレクシアが領主になってから持ち込まれるようになったのだという。
その本当の意味を、俺だけは痛いほど理解している。
「この階層ごとに住み分けられた街みたいに、作り手と売り手と買い手の役割が綺麗に分かれてるなんて女帝は思ってない。彼女は、商人をも『自分の客』にしようとしている。元からある市場を奪い合わずに、新しい商品を、新しい需要を、新しい市場を、ゼロから作ったんだ」
「そうは言っても、アレクシアと組んでる商人たちだっていずれはこの街でも活動するようになる。かち合うのは避けられないだろうし、そうなった時はたぶん、安かったり新しかったりするものを売る彼らの側が勝つだろう?」
「だろうね。この古い街は、いずれ彼女の手の者に金を搾取される側に回る。それでも、これだけの規模の栄えた街なら潰れることはない。緩やかに領地の中での比重を下げていくだけだ。だからこそ誰に任せておいてもいい――ほんと、吐き気がするほど合理的」
常に飄々としたシャーロット・ベルモアは、珍しく吐き捨てるような言い方でアレクシアを称えた。
「……どれだけのものを見れば、目先の豊かさを捨ててそこまで考えて割り切れるんだろう。あたしには無理だ。悔しいけど、知識も思考も及ばない」
この街を見渡すたびにこわばる顔も力のこもった指先も、悔しさを堪えていたのだ。
天才児シャーロットは、敗北を知らない。彼女はやろうと思えばたいていのことをできるから、失敗を知らない。だから、初めて目の前に突きつけられた不安が恐ろしいらしい。
俺にも覚えがあるが、アレクシアの異常さを一度目にすると、何をするにも『どれだけ努力しても自分はアレクシアには及ばない』という疑念がつきまとうようになってしまう。
そこで逃避をせずに自省に走るところが『シャルらしい』とは思うけど。俺としては『及ばない』という結論は歓迎できない。
俺がため息を吐くと、シャルはびくりと体を揺らした。
「さっき、俺が『反乱分子が見つからない』って言った時、シャルは『そう簡単にいくならもう対処されてるだろ』って言っただろ」
「……うん」
まるで悪戯を叱られた猫のようにちろっと窺われて、苦笑いしてしまった。
何を勘違いしたか知らないが、それを責めたいわけじゃない。
「それと同じ話で。そう簡単にラスボスを倒せてたまるかって思うんだ。アレクシアは賢くて理性的な手ごわい敵だよ。でも、理屈が通っているぶん、彼女が何を考えてどう動いているかは俺たちにも理解できる。それをわかってくれただけでもよかったし、今日は十分な収穫だよ」
だって、敵の姿がはっきりと見えた今だからこそ、一緒に悪口が言い合えるじゃないか。
話を結んで、惚けているシャルの肩を小突いた。……二倍の力ではたき返された。元気そうで何よりだ。
「そっか。あたしはちょっと、焦ってたのかも」
「これから長丁場になるんだからさ。あんまり今から思い詰めるともたないって」
「そうだね。……ごめん」
「じゃあ、帰ろうぜ」
差し出した手に、今度はおずおずと手を重ねられた。
☆
「おやすみなさい」
「おやすみ」
今日はよく歩いて疲れたからとしちめんどくさい晩餐を断って、早々に自室に引きこもる。
独りになってベッドに横たわり、今日の出来事を振り返った。
今日俺が見たもの、感じたこと、考えたこと、全部を。
「……焦ったって仕方がない、か」
俺がシャルに言った言葉だ。
そうだとも、だって長丁場になるんだから――違う、俺は長引けばいいと思っているのだ。
『……どれだけのものを見れば、目先の豊かさを捨ててそこまで考えて割り切れるんだろう。あたしには無理だ。悔しいけど、知識も思考も及ばない』
さっきのシャルの声はネガティブな雰囲気を伴っていた。
俺たちの五年間の付き合いでも初めて聞くような暗い声。そりゃそうだ、変人シャーロットは周囲のことなど気にしないのだから、悩むことも無いだろう。そもそも、彼女の好奇心を満たすに足るような人間は間違いなく変人だろうし、そうそういてたまるか。
そのシャルが、自分と引き比べて自らの不甲斐なさを嘆きさえする――強烈に他人を意識する日など来ないと思っていたのに。
シャルが『自分には無理だ』と吐き捨てた言葉の中には、自嘲と嫉妬と微かな憧憬と……歓喜が含まれていた。
今までどこか退屈そうに生きてきた彼女が、初めて自分の好敵手と言える存在の影を見て、喜ばないわけがない。
ああ、もう、持ってまわった言い方はやめよう。
俺は『シャルとアレクシアは天才で、俺だけが凡才だ』と言いたいのだ。そして、そのことに危機感を抱いている。
アレクシアがシャルに会えば、息子に対してそうしたように『何もするな』とは言わない。シャルには『力になってほしい』『助けてくれ』と意見を求めるのだろう。
そして、あいつはシャルを俺よりも上手く使える――シャルにとっても、こんなところで足踏みしている俺の傍にいるより自分の能力を活かせる方が嬉しいだろう。
考える度に、どうしようもない焦燥感に駆られる。
シャルが言った『俺の価値を見極めるまで一緒にいる』とは、いつまで、何をするまでのことだ?
俺の価値を見極めて、その結果どうしようもなく劣っていて価値が無いと分かったら……シャルは俺にも他人行儀な冷ややかな目を向けるのだろうか。
そうして、シャルはまた別の理解者を探すのだろうか。その時、彼女はどこに向かうのだろう。可能性が高いのは――。
「……そんなの、嫌だ」
シャルに俺以外の『特別』ができるなんて、嫌だ。
もしも『あいつはおまえが感心するほど大したやつじゃない』と言えたら、アレクシアへの興味を失くしてくれるだろうか。
だって、アレクシアは――。
これまで何度も喉奥まで迫り上げては結局一度も口から出せずに声にならなかった言葉が、また過ぎる。
思い浮かべたのは何度目だろう。とっくに『疑い』ではなく『確信』と言えるほど固まった、ソレ。
いや、アレクシアにしてみれば隠す気なんて特に無かったのだと思う。手駒の俺にはわざわざ言わなかっただけで。
俺はあの女の鉄壁の澄まし顔に、この言葉を投げつけて、突きつけて、怯ませて、歪ませてやりたかった。
なあ、アレクシア。
あんたにも異世界の知識があるんだろう?
それも『俺』の記憶なんかより段違いに出来の良い代物が。
だったらあんたは全然『すごくない』じゃないか!
だって、あいつのやることなすこと、めちゃくちゃだ。
アレクシアは人間の試行錯誤の歴史の美味しいところ取りをしたみたいに、最短経路で最適解に辿り着く。『頭がいい』とかそんな次元の話じゃない。
彼女の偉業の恐ろしさは、成果の大きさとか成功の数じゃない。不自然に『失敗を知らなさすぎる』ことだ。
彼女の異世界からの借り物知識の歪なつぎはぎを、この世界の人間なら『ズルい』『フェアじゃない』と責めることもできただろう。その正当な権利も資格もあっただろう。
だけど、同じ境遇である俺だけは認めなくてはいけない。
俺が母親に面と向かって『転生者なんだろ?』と確認することを躊躇ったのも、結局のところそれが理由だった。
きっと誰に責められたところで、あの女は眉の一つも動かさず、美しい微笑を湛えたまま言うのだ。
『ええ、そうよ。それが何か。わたくしには知識と力があった、だから使った。それの何が悪いの? 為すべき時に痴れ者のふりをするなんて、施政者としての怠慢でしょう。何とでも言ってなさい、口だけで何もしないし何もできない貴方とは違うのよ』
「……ああ、クソ。完敗だよ、くそったれ」
俺は、現実からも想像からも逃げるみたいに、頭から布団を被って目を瞑った。