天才美少女は夢を語る《シャーロット視点》
薄暗い路地裏の、連なる屋根の軒下に小さな看板がある。三角形のそれには『黒猫亭』という文字が書かれていた。
「……たぶん、ここ、だよね?」
あの時の酔っぱらい女性の言葉が気になってはいたものの、酒場が開くのは夜だけだ。夜に旧レムウッド城を抜け出す機会もなく、このまま会えずじまいになるのだろうと思っていた。
ところが昨日になって突然、シスが『明日の夜出かける用事があるんだけど、シャルも来るか?』と誘ってきたものだから、あたしは便乗することにした。
窓の外から見るかぎり黒猫亭の客入りはまばらだ。ここに線の細い『美少年』が入ると悪目立ちしないかという不安はあるが……ええい、女は度胸だ!
ガバッと勢いよく扉を開け放つと、店の内側からにょきっと伸びてきた手にあたしの手首を掴まれた。
「……!? はなしっ――」
「マスター、私、もう帰りますね? 弟が迎えに来ちゃったので。いつもどおり、ツケで」
「いや、ほんと早く帰ってください……。弟さん、毎日だって迎えに来てくれ!」
「何よぉ、その言い方!」
店主の悲痛な叫びには耳も貸さず店を後にして、あたしを引きずるように進んでいく彼女の手は、小柄な体格に反して不思議と力強く振りほどけなかった。
「ほんっと、見てて心配になるわねえ、お嬢さん。変に腹を括っちゃってるというか、大胆というより無謀というか」
「一応は考えているつもりですけど……?」
「ぽやっとして何を言ってるの!? 初対面の人間なんて『もしも悪い人買いだったら』と思わないとダメよ!」
「あなたは違うでしょう?」
「……そりゃ違うけどね? それくらい警戒しなさいってこと!」
「ところで、どこに向かってるんです?」
「やっと!? そういうところよ! 男装なんてのっぴきならない事情があるんでしょうし、個人的には美味しいなあと思うわけだけど!……いや、それは置いておいて!」
今日は素面らしい『酔っぱらい女性』は、あたしを睨みつけて怒ったように言った。
「そのかっこでフラフラ出歩いてるとか、危険だし大問題よ!? せっかくの天賦の素材を雑ぅ~に扱ってるのも気に食わない! 私の宿の部屋に来なさい!」
たっぷりのお説教の後で、元『酔っぱらい女性』は『ミア・ウィロー。エルダーリヴラの脚本家。『ミア』でいいわ』と名乗った。
連れていかれた先は、どこまでも中の中等級の宿屋の一室だった。部屋の中には雑然と物が散乱している。
「あなたの周りには節穴しかいないから無事だったんでしょうけど、本気で性別をごまかしたいなら、体型補正用のプロテクターを付けるべき! さらしで胸を押さえつけると、形が崩れるばっかりよ。詰め物をして、男女では骨盤や腹回りなんかも違うんだから、全体的にもっと寸胴にして……」
部屋に入って扉に鍵をかけるとすぐに、ミアは荷物から衣装を引っ張り出しては、ああでもないこうでもないとあたしの身に当ててきた。出してばかりで片付ける気配が無いからこそ、部屋がこの惨状になるのだろう。
「ちょっと! 私の話聞いてる!?」
「聞いてます聞いてます!」
不機嫌顔のミアに、慌てて相槌を打つ。
「……なら、いいけど。こんなもんじゃない?」
曇りも歪みもない全身鏡なんて貴族の屋敷にしかないが、宿の水泡入りのガラス窓と外の夜の暗さは、その代わりにはなった。
ミアに促されて見てみると、そこに映ったあたしの姿は随分『少年らしく』見える。体格が良くはない華奢な少年なのは否めないが、『折れそうに細い』だとか『か弱そう』とはいえないだろう。
「あなたは『男装した女の子』にしか見えないわ。明日からはこれくらいしなさい」
「……でも、急に変わったら不審がられませんか?」
「体型が響きにくい服を着て、徐々に印象を薄れさせれば自然に移行できるんじゃない? クラヴァットやジャボ襟で厚みを出して首の細さをごまかす、とか」
「なるほど」
「あと、テキトーに結ってた髪も! コテでふわふわさせてボリュームを出して、そうしたらいろいろ隠れるから」
「なるほど……?」
「なんで疑問形なのよ。……まあ、いいわ。補正下着類はあげる。次はこれに着替えて。こっちが本題」
「?」
渡されたのは、白い布の山だった。これだけの布を使うのだから高価な衣装なのだろう。ほぼ初対面の相手にそれを着せる意図は分からないが、親切にしてくれたぶん断れない。
「えっと……?」
「黙って。うーん……なるほど、イメージとは若干違うかなぁ。もうちょっと薄手の素材かしら? 高見えするようにしたいけど、ごてごて縫い付けると動きにくいし材料費が高くつく……」
品物を鑑定する目を向けられるとちょっと居心地が悪い。
あたしが他人に対して同じことをやってるのを、ちょっぴり後悔した。今度からはバレないようにさりげなくやろう。
ミアはあたしの髪を指先で弄びながら言った。
「髪は白銀かぁ。合う色の鬘は今無いなあ。なんで髪切っちゃったの? 長く伸ばしたら綺麗だったでしょうに」
「最後の家族がいなくなった時、修道院に入ろうかと切りました。いろいろあって今も俗世で生きていますけど、一度切ると肩よりも伸ばして手入れするのも面倒だなって気づいて」
これは本当だ。養父の家を出た時、世の中は子どもが独りで生きていけるほど甘くはないから修道院に保護してもらおうと先走って切ってしまった。後から知って顔を青ざめさせていた養父には、悪いことをしたと思わなくもない。
だから、学園に入ってから会ったものは皆、長い髪のシャーロットを知らないはずだ。
「深刻な理由かと思って聞いたのが申し訳なかったのに! もったいなっ!……けど、分かるわ。私も忙しいと手入れどころじゃないし、動き回るならひっつめるくらいしかできないし」
吹き出した彼女の周りの空気が緩んだ。『同じだ』と思って気を許してくれたのだろうか。この機会を逃すつもりはない。
「……ミアは、そんなに多忙なんですか?」
「多忙も多忙! 脚本に、衣装や道具の発注、スケジュール管理に……人付き合いと演技指導以外のことはだいたい私がやってるわね。早く辞めたい」
「それはお疲れ様です。……エルダーリヴラは、いつまで巡業公演を続けるんですか。パトロンを募って拠点を作って留まることはしないんですか。常設の劇場で決まった演目を上演するならもう少し余裕もできるんじゃ……」
「さあね? 座長の気が済むまでじゃない?」
ミアはどこか投げやりに、うんざりしたように言った。
これなら勝機はある、と思う。あたしは深呼吸を一つした。
「……考えてたんです。この街は完成しきっていて商業的な成長の余地はない。だけど、住民は金を持っていて嗜好品に金を払うほど裕福だ。城下の一庶民にも『良いもの』を正当に評価できる目と払える金がある。文化を生み出すのにこれほど向いた土地はない――それが旧レムウッド城市の強み。ここが流行の発信地となれば、外貨の獲得だって!」
もちろん今のエルダーリヴラの人気と公演の盛況ぶりは、機会が年に一度に限られているせいもあるだろう。でも、それだけじゃないはずだ。それだけじゃない熱気を、あの時あたしは確かに感じたんだから。
彼女たちがこの話にのってくれれば、全てはうまくいく。
「――悪いけど」
それなのに、あたしの提案は最後まで言いきることさえできずに途中でぴしゃりと遮られた。
「私は、お嬢さんの意見に賛成、大賛成よ。劇団が安定して潰れないなら草葉の陰で先代たちも喜ぶでしょうね。得しかないもの、ノるわよ、普通は。……でもね」
ミアは困ったように笑っていた。
母親が利かん坊の子どもを窘めるような、慈愛に満ちた表情で、眉を下げて――。
「座長がそういうのは嫌がるわ。『権力の元にある芸術なんて芸術じゃない! そこには自由がない!』ってもっともらしいことを言ってね。……バカだから損得勘定ができないのよ」
――それでも、幸せそうに、誇るように笑っていた。
「……そんなことで?」
「私もバカなのよ、きっと。大変だし、疲れるし、毎日辞めたいと思ってる。それでも私は、彼が彼らしく生きるのを、彼の傍で見ていたい。そのために私ができることなら何でもしたい。私にできることは、そう多くはないけれど」
「……」
どこかで聞いたような話だ。まるで、鏡の向こうの世界を見ているみたいだと思った。
「ところで、そんな話をしてくるなんて、あなたの仕えている相手ってかなりの大物?」
「……ご想像にお任せします」
こちらの『パトロンに付くから金を産む金の鶏になれ』という本題は伝えきれていないのに、今度はミアから探りを入れられてしまった。
「ねえ。あなたはその『誰か』のことがそんなに好き?」
「……っ!」
それも彼女の追及には容赦というものが無かった。
あたしにとっての一番の『泣きどころ』を真っ先に攻めてきたのだから。
「あなたたちのアイデア、すっごく良かったわよ。そうねえ、他領で座長の気が向いたら『お抱えにして』って売り込もうかしら」
「……それはっ!」
「『女の子を小姓として侍らせてる』話もスキャンダルとして売れるかしら?……警戒しなさいよ。女の子が、そんな格好で、利権に関わる密使みたいな真似をして、素性もわからない女に会いに来るなんて、危険だと思わないの?」
「だって、あなたは」
「『私なら大丈夫』? あのねぇ、私だって腹芸の一つや二つはするわよ、お嬢さん?」
あなたにそんな危険なことをさせる相手に、あなたが尽くす意味や価値ってあるのかしら?
意地悪なミアの言葉にはいくらかの気遣いも含まれているのだろうと思った。彼女は『シャーロット』の人生の使い方を心配して、哀れんでいるのだ。
「……あなたが身分違いの恋の御都合主義のハッピーエンドが嫌いなのは、身につまされるからでしょう?」
「ちがうっ、違います!」
「自分が身分違いの恋をしているのに『許嫁』にも同情したのは、あなた自身が秩序を嫌いながらも尊重するべきだと思っているから。つまりあなたは、あなたの主人のことを好きで好きで仕方がないのに、だからこそ『ふさわしい』相手と幸せになればいいと思っている。……違う?」
ミアの言葉はなるほどもっともらしかった。さすがに『天才脚本家』と呼ばれるだけあって、彼女は人間の気持ちの機微には詳しいのかもしれない。
「全然違いますね」
けれど、あたしはそれだけははっきりと言いきることができた。
あたしのシスへの気持ちは『身分違いの恋心』なんかじゃない。そんな枠には収まらない。
「恋とかそんなに綺麗なものじゃない、強いて言うなら『執着』です。あたしが選んだあたしのものは一つしかないから、失くすわけにはいかないし、宝物を汚したりキズをつけるひとを近づけたくないだけです。……あたしも含めて」
宝物には綺麗なままで、彼らしく輝いていてほしいから、その邪魔になるような悩みを排除したいだけ。あたしが邪魔になるなら消えるという、それだけの話だ。
「もう帰ります」
「……帰りは、さっきあげた補正下着をつけた方がいいと思うけど」
「そうですね、ありがとうございます」
ミアに礼を言って布の塊のようなドレスを脱ぎ、いつもより少しだけ頼もしい男装に着替えた。
部屋の扉を開いた時、背中に声をかけられた。
「あの話のね」
「……?」
「公演のあの話の本当の結末は、男の努力が実って血筋とか関係なく評価されて、男が男のまま令嬢を迎えに行くことだったんでしょうね。それなら、男でも許嫁でもどちらが選ばれようとフェアだもの。……でも、その結末に割くほどの紙幅も時間も無かったのよ。それだけなの」
あまりに現実的な理由を聞いて、あたしは笑った。
「オトナの事情ってやつですね」
「だから、時間さえあれば、もしかしたら結末も変わったかも」
「そんな結末があり得るなら、その時はあたしも好きになれるかもしれません」
おとぎ話のような幸福な結末を。




