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雷剛政変~断腸と悶えし決起~

 頼れる者の一人も居らぬ幼き身で、今日まで一体どれだけの艱難辛苦を耐えしのいできた事か……されどもう終いじゃ。最早そちは奴隷に非ず。今この時より、そちは我等が同胞じゃ。そちは朕や将軍たちと同じ、掛け替えの無い命が一つじゃ。

「陛下……」

 そちをここまで苦しめてしもうた償いも兼ね、ここからは朕がそちを守る。朕がそちの力と為る。朕がそちを救い上げてみせる。この義雄国(ぎゆうこく)皇帝・天龍義海(あまたつよしうみ)と共に生きていこうではないか、(てつ)。否、義雄国兵士・空柳義虎(そらやなぎよしとら)よ。

「陛下……何卒、御無事でっ」

 意図せず声が迸る。それは延々と続く漆黒、極寒の地下通路を虚しく木魂し、そして岩壁に弾かれ跳ね返り、義虎の心を貫いた。

 それでも戦人は、断じて止まりはしなかった。

 十三年前があの時より……陛下が降伏しし敵国が奴隷兵たるこの鉄へと、畏れ多くも皇家へ代々伝わる『義』の字と御言葉を御授け下されしあの時より、この義虎が心は一切合切が脱漏を許さず、永遠に陛下が刃であるを望むのみにござりまする。故に陛下よ、我が御仏よ。何卒それがしが参るまで、何卒、何卒御無事で居て下され……。



 雷剛(らいごう)政変。

 義雄国宰相・雷島片信(かみなりじまかたのぶ)の謀反であった。

 雷剛の二つ名をもつ片信は義雄国四天王の一角を担う百戦錬磨の大将軍であると同時に、皇帝・天龍義海とは鋼鉄の信頼で結ばれた義兄弟の間柄、この叛逆は全くの想定外の事件であった。

 昨年、義雄国の歴史そのものたる絶対的指導者、四天王筆頭、大将軍・仙嶽雲海(せんがくうんかい)が齢九四にして戦場へ散った。

 皇帝や宰相を育て、後進の武人たちを育て、そして国家を育てた真の戦人に相応しい、堂々たる壮絶な最期であった。死の間際、雲海は駆け付けた片信や義虎へ、義雄国を頼む、と笑い掛けた。しかし、その笑みの喪失は残された全ての義雄国の人々にとって、余りに大き過ぎるものだった。

 絶対的指導者が欠けて以来、義雄国朝廷は戦を続けるか否かで真っ二つに分裂した。

 この『戦』とはかつての義虎のような奴隷たち、即ち乱世に苦しむ全世界の民を救済するという義雄国の国家方針、『民が平和で自由な世』を築く為のものである。

 皇帝・天龍義海は世界統一を成し遂げるまで絶対に戦を諦めてはならぬとし、二人の四天王・山垣翼昌(やまがきよくまさ)と空柳義虎もこれを支持した。対して宰相・雷島片信は、民が平和で自由な世の為には一刻も早く戦を止めねばならず、これ以上雲海のような犠牲を出さぬ為にも、今後は和平交渉により戦乱の終焉を目指す道を模索すべきであるとして、多く文官たちの賛同を得た。

 皇帝派、宰相派共に一歩も譲らず、朝廷では日夜熾烈な舌戦が隆昌を誇り、遂には国境及び敵国への警戒が疎かに為った。

 義雄国は宿敵・天護(てんご)国に外皮を剥ぎ取るを許してしまった。肉片まではくれてやれぬと、皇帝派と宰相派は一時休戦、大将軍・山垣翼昌を総大将に、大将軍・空柳義虎、将軍・富陸毅臣(とみおかたけおみ)嶺森白巖(みねもりしらいわ)、軍師・武藤水有(むとうみずあり)を始めとする四〇万の防衛軍が編成され、天護国大将軍・棘帯鷲朧(いばらおびわしおぼろ)率いる侵攻軍七〇万を粉砕せんと出陣した。

 先陣を切る義虎が開戦早々敵の将軍を討ち取り、防衛軍は士気を上げた。

 だが彼等は前方へ集中してはならなかった。真の敵は己が心臓にこそ存在した。防衛軍の将帥の内、毅臣、白巖、水有はいずれも雷剛色の甲冑を纏う者だった。

 時ここに至り、雷剛政変は勃発した。

 義虎軍は突如後方の味方・毅臣軍よりの襲撃を受け大混乱へ陥り、そこへ前方の敵・鷲朧軍がここぞとばかりに喰らい付いた。義虎軍六万の兵士たちは、皆が一様にこの乱世の理を呪いながら地へ沈み、義虎は僅かな部下と共に血達磨と為ってこの修羅場を斬り抜けた。

 これは本陣の翼昌軍も同じであった。

 雷剛・片信の腹心である水有の策で、鷲朧と示し合せた上で毅臣が義虎へ、白巖が翼昌へと全く同時に攻め掛かり、皇帝派の双柱たる二人の四天王を始末するを目指した。

 義雄国最大の巨躯を誇る翼昌はその金剛力の唸るままに、共に本陣にて軍議を進めていた水有が伸ばす暗殺の刃を爆砕し、そのまま生け捕り落ち延びて、更に後方の玉華(ぎょくか)城へと立て籠もり、同時に義虎の保護も成し遂げた。

 翼昌と義虎は、天護国最強を誇る虎将・鷲朧、義雄国で最も大将軍に近い豪将・毅臣、底の知れぬ深淵たる経験値の光る老将・白巖らの、計百万という大軍勢による十重二十重の包囲の中で、都城・義真(ぎしん)城には皇帝・義海が雷剛・片信と共に残っている現実を憂い、歯を一本残らず砕き尽くさんばかりに噛み締めた。

 毅臣らの鷲朧との共闘は、義雄国が天護国へ対し領土割譲などの融和的な外交政策を断行したが故のものとしか考え難く、そしてそのような所業を可能とし且つ動機も有するのは、宰相であり毅臣らの後見でもある片信以外には存在しない。翼昌は、手にした杯を握り割った。

「始めより閣下は……陛下へ謀反し国を掌握せんとしておったのじゃ。謀反が成就には我等二人が巨石の如き障害と為ろう、それ故に天護国軍を出陣させ、これを討たせんと我等を都より遠ざけた。それも己が腹心三将を付け確実に潰しに掛かるとは、流石は……流石は賢明なる我等が宰相閣下よな!」

「御師匠様。閣下は陛下が義兄弟、よもや御命まで狙う事はござりますまいが、それでも陛下の御身が気懸かりでなりませぬ。それがし義真城へと潜入し、陛下を御救いしたく存じます。宰相派及び天護国軍へ抗うには、我等には陛下が欠かせませぬ」

「難儀を極める事と為ろうが、頼めるか、義虎。そなたが細さ身軽さなれば、これをやり遂げる事も叶うであろうぞ」

 義虎は瞳を紅蓮に炎上させて、大きく一つ、頷いた。



「御一人にてどこへ行かれる大将軍。否、逆徒・空柳義虎よ」

「逆徒……にござるか」

 偃月刀を引っ提げる義虎の細き指先が、大樹を握り潰さんばかりの圧力を噴く。

 義虎一騎へ対し、彼を囲む宰相派・毅臣の手勢は視認出来るだけでも三〇〇は下らない。しかし義虎にはその様な事は関係無かった。

 一生涯を掛けようとも決して返しきる事あたわぬこの大恩、せめてその一部分なりとも報いる事叶うのであれば、たとい命燃え尽き灰と為ろうと風に舞い上がりてでも御守り致す。十三年前がこの誓いは断固揺らがず今日へ至り、そして戦人の頂点へ立つ大将軍、四天王・空柳義虎がここに居るのじゃ。今こそ正に報いる時、その途上での敵の包囲など何するものか。

「逆徒と言うなら毅臣将軍、御手前方こそこの汚名を刺青されるに相応しい。民が平和で自由な世を築かんと命擲つ我等義雄国が気高き誇り、これをあろう事か溝の泥水へと一切合切が躊躇を欠き投げ込みし御手前方を、後が史書は一体どれ程の技巧を尽くして罵倒し嘲笑致す事にござりましょうや」

「笑止! 誇りだの理想だのと有名無実に呼ばわるそなたらをこれ以上のさぼらせておくなどと、それこそ民が平和で自由な世など永遠に訪れはせぬというもの。此度の閣下が挙兵は偏に民が平和で自由な世を想えばこそ、これは断じて謀反などには非ず、戦を止めぬ全世界が民への逆徒たるそなたらへの……革命と知れ!」

「今日まで轡を並べ共に流汗淋漓が紅蓮地獄を斬り抜け続けし御方へ切っ先を向けるは、流石に後ろ髪引かれぬと申せば偽りにござる。されど、最早この後ろ髪は切り捨てるより他に道無きと存ずるが、如何に⁉」

「決戦上等。来い、青二才!」

 空柳義虎、齢二七、身長一七八、体重五九、武器は偃月刀。

 富陸毅臣、齢五二、身長二二四、体重一六八、武器は蛇矛。

 風が消え、音が死す。そこへ忽然として颫颻を巻き上げ、真紅の咆哮を轟かせ、二つの魂が鬼神へ化ける。大地を震わし、大気を燃やし、大勢を釘付けとして戦人の戦いは始まった。



 何故……何故じゃ、兄者⁉ 何故謀反など起こしたのじゃ⁉ 朕と兄者が仲は皇帝と宰相という枠など遥かに凌駕し、生有る内は勿論死して後も未来永劫に二人手を取り合い歩を進めるものであったはず。我等兄弟が六〇年の絆とは、かように脆く儚いものであったのか。

 皇帝・義海は僅かばかりの近衛兵に守られながら、寂静且つ迅速に宮殿を脱出した。

 宰相・片信が私兵を率いて宮中へ攻め入り、義海の捕縛とその廃位を目指していた。

 いいや、左様な事など断じて無い。兄者よ、そちとて大いに悶え苦しんでおるはずじゃ。兄者は断腸が想いで現実を受け入れ、どうしても理想を諦められぬ朕との間で苦悩に苦悩を重ねたのじゃ。そうして出した答えが革命。それはこの朕こそが誰にも増して心得ておる。故に朕がそちを責める事など、有り得ぬぞ……。

 兄を許せ、我が最愛の弟よ。かような形でしか内部分裂を解決出来なんだこのわしを、どうか、許してくれ。そしてどうか逃げ延びてくれ。無傷がままで生き抜いてくれ。六〇年、六〇年ぞ、我等が共に民が平和で自由な世が為だけを想い駆け抜けて参った歳月は。わしはうぬとの絆を信じておる、分かってくれるな、我が弟・義海よ……。

 宮中、朝議の間。そこの玉座に、主は居ない。

 片信はこれを確かめ、視界へ漆黒の幕を下ろし全ての筋肉へ停止を命じ、只静かに佇んでいた。



 剣戟の音が飆回する。

 九夏三伏、呼吸も許さぬ熱気の中、陽を返し、光が幾重にも迸る。千古の眠りより目覚めし大火山、その天を貫く灼熱の岩漿に等しき火花の群れが、怒濤の如き流汗、砂塵、皆を巻き込み竜巻と化し、この死闘の舞台へ何人たりとも寄せ付けぬ堅固な結界を張り巡らせる。

 義虎と毅臣。

 気炎万丈たる堅甲利兵の一騎打ち。

 圧倒的な体格差をものともせずに、義虎は速疾な刃を奔らす。膂力においては赤子と大人、まともに受ければ腕が砕ける。故にいなし、受け流し続けて攻め口を探る。否、攻め所を生み出す。

 毅臣の蛇矛が左、真横より来る。かっと見開かれた義虎の眼が、勝機に奮え焔を噴く。義虎は蛇矛の直上へと偃月刀を押し込み、同時に馬上の身を右へよじって遠心力を呼び起こし、毅臣の武器を遥か右へと追いやった。次の瞬間、偃月刀の刃が返り、右下から左上、毅臣の腕を一閃する。さしもの毅臣も一刹那の間隙を生じた。そう、刹那であった。毅臣が義虎を捉えた時には、既に猛虎は飛翔していた。烈火の蹴りが炸裂し、毅臣の巨体が馬上を去った。

 大将軍。

 この地上に跋扈する巨億の戦士たち、その中のほんの一握り、最後の最後まで生き抜いた正真正銘の強者だけが掴み取る、激烈な栄光、夢の称号。万の敵を葬り去り、万の友を奪われながら、血達磨と化して修羅の戦を重ね続けた紛う事無き真の英傑。骨を砕き、肉を裂き、命を薙ぎ払い雲煙万里を朱と為す、そんな業を抱え立つ者。

 そこへ若干二四にして辿り着いた虎将こそ、この空柳義虎である。

 虫にも劣る奴隷の子として生まれ落ち、僅か三歳にして唯一無二の心の拠り所たる母を目の前で嬲り殺された。通りを行けば石や汚物、豪雨の如き鞭や罵詈。齢十にして甲冑はおろか竹槍、草履すら持たされずに戦の最前線へと投げ込まれた。

 そこは人と人とが殺し合う、狂気や怒号、悲鳴の果て無き乱舞の場、血で血を洗う業火の渦中に他ならない。

 生き地獄。

 そこへ差した光明こそ、天龍義海という明星である。

 未来永劫、絶対不動の忠義の心で、義虎は只ひたすらに戦い続けた。

 義海や義雄国の志・民が平和で自由な世、即ちそれまでの己の如く、生涯全てを徹底した差別と連日の苛烈な拷問に喘ぎ、苦しみ、そして力尽きて、誰にも知られず、何一つとして幸せを感じず、只泥に埋もれていく為だけに費やす事を定められた多くの者たち、この皆を救済するという夢を成就させんと、血を吐く想いで獅子奮迅たる働きを重ねに重ねてきた。

 この焱瞬の猛虎・義虎は、断じて誰にも止められぬ。

 馬上戦から地上戦へ、義虎の俊敏性が最大限に引き出される形である。睨み合う暇も与えずに、義虎の姿が掻き消える。毅臣の喉元へと、神速の一刀が迸る。毅臣は奮然とこれを跳ね上げるが、義虎は偃月刀を手離して毅臣の懐まで滑り込み、抜刀と同時に斬撃を放つ。毅臣はその巨躯に見合わぬ速さでこれをかわし、敵の背後へ蛇矛をねじ込む。太刀を口へ咥えると、義虎は落ちて来た偃月刀を掴み上げ、背後へ一瞥もやらぬまま、その蛇矛を相殺する。と思えばいつ足をさばいたのか、毅臣は己の後ろの殺気を見た。

 激しくざわめく周囲一帯。

 これが四天王の力量、大将軍級の心力なのか。

 大きく血道の避ける中、毅臣は歯を食い縛って蛇矛を回し、剛力のままに義虎の身を押し退ける。義虎は逆に下がってそれを逃れ、全血液を沸騰させる。疾風迅雷、無造作に、猛虎は真正面から突っ込んだ。そこへ渾身の蛇矛を叩き込む毅臣は驚愕した。

 当たらなかった。残像を掠めただけだった。

 沈む陽の最後の光を吸い取って、偃月刀は、真紅の水を滴らせた。



「おのれ貴様、よくも毅臣様をっ!」

「断じて許すまじ! 逆臣に死を!」

「それ、取り囲んで、斬って捨てい!」

 閃光。

「ぐわあああっ⁉」

 四面楚歌、十重二十重の包囲網。それへ断末魔を強制する。

「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは義雄国四天王、焱瞬の猛虎・空柳義虎大将軍也! この義虎の在る限り、そなたら民が平和で自由な世が謀反人は一兵たりとも我が主上、古今東西に比類無き真の聖君・義海陛下が御尊顔を拝し奉る事叶わぬと知れ! ……今御助けに参りまする、我が御仏よ!」

 戦人は馬へうち跨り、万丈の気を解き放ち、黒き敵の波間へ突進する。赤糸縅の鎧に赤地の陣羽織をはためかせ、赤塗りの柄の偃月刀を赤く炎上する眼光の放出するまま縦横無尽に唸らせて、遮二無二戦人は斬り進む。

 目指すは一路、帝都・義真城。只真っ直ぐに、只揺らがずに、その華奢な体躯からは想像だに出来ぬ灼熱の刃が、天を焦がし灰塵と帰する紅蓮の覇気が、通る水面を有無を言わさず蒸発させる。

 陛下! 陛下っ! 陛下あっ! 偉大にして崇高なる我が帝を! 我が仏を! 我が全てをっ! この手で! 必ずやこの手で! この手で御救いするのじゃ! 何としても御救いするのじゃっ!

「陛下あぁーっ!」



 義真城には、将軍や大臣ですら知らぬある最高機密が存在する。

 落城に備え地下に掘られた坑道で、これは皇帝などの最重要人物が城外へ脱出する為のものである。義海や片信は無論の事、四天王の一角として国家の太柱を担う義虎もこの地下通路の存在を知っており、彼はこれを利用して逆に城内侵入を果たそうとしていた。

 毅臣軍の包囲を単騎で突き抜けるという奇跡の偉業を成し遂げた義虎は、既に瞼を下ろす、或いは立ち止まる程度の行為の施行で、たちどころに一線断時(いっせんたゆるとき)落々磊々、意識を暗闇の深淵へと重りを付けて手放してしまう程に憔悴しきっていた。最早全身で隆昌を振るう傷の痛みも、身を支えんと伝う岩壁の感触も、何もかもを感じない。

 それでも爛々とその眼を燃やし、一歩、又一歩と震える脚を前へ押し出す。

 義海の逃避行が成功していれば必ずここを通るはずであり、そして片信が追手をここへ遣わすのは十中八九疑い無い。

 義虎はこの坑道へ踏み込む直前まで城外を駆けて来たが、毅臣軍を撒いた後は静寂そのもの、義海が既に脱出を終え片信軍がそれを追っているという事態は考え難い。

 即ち、義海はまだ城内に居る。捕縛の手中か抗戦の最中か、やはり逃亡の只中か検討も付かぬが、いずれにせよ義海を救うにはここを走り抜くより他に無い。

 辺りは一面の闇、物音一つ無く、肌を刺す冷たい空気が身に沁みる。黒は情け容赦無く満身創痍の脚を呑み込み、硬い床へと引き摺り倒す。血を滴らせ、泰山を背負わされたかの如く立ち上がり、気力のみで前進する。

 それを幾度と無く繰り返す内、遂に彼は、完全に地へと沈んでいた。

 漸くここまで、ここまで辿り着いた。辿り付いたのじゃ。だのに、ここで。ここで動かず何とするのじゃ我が四肢よ! 動け! 動けえっ! 動かぬかこのたわけ者っ!

 もう、体が言う事を聞かない。

 痙攣する脚へ拳をぶつけ、何とか立ち上がらんと懸命にもがく。ぶつけた拳にさえ何の感覚も残っていない。本当にぶつかったのかも分からない。視界が霞み、声は消え去り、意識も朦朧と遠退いていく。はっと激しく、心中首を横に振る。

 おのれ情けなき豎子(じゅし)の極みが! この体たらくは何なのじゃ! 許さぬ、許さぬぞいい加減にせよ動きやがれ大うつけ者めがあっ!

 脳裏によぎる、己の歴史。

 雌伏が雄飛へ、陰影が陽光へと生まれ変わったあの転機。

『頼る者の一人も居らぬ幼き身で、今日まで一体どれ程の艱難辛苦を耐えしのいできた事か……。されどもう終いじゃ。最早そちは奴隷などには非ず。今この時より、そちは我等が同胞じゃ。そちは朕や将軍たちと同じ、掛け替えの無い命が一つじゃ』

「陛下……」

『そちをここまで苦しめてしもうた償いも兼ね、ここからは朕がそちを守る。朕がそちの力と為る。朕がそちを救い上げてみせる。この義雄国皇帝・天龍義海と共に生きていこうではないか、鉄。否、義雄国兵士・空柳義虎よ』

「陛下……何卒、御無事でっ」

 意図せず声が迸る。

 そして、大将軍・空柳義虎は立っていた。最早戦人は、断じて止まりはしなかった。

 そうじゃ、思い出せ。幼き日々があの地獄。紅涙を刻む、凍て付き張り裂けるあの痛みを、この身は余さず、尽く耐え抜いた。これ全てはあの御方へ出逢わんが為、あの御方と共に生きんが為。さあ今こそ報いる時ぞ、陛下を御救い奉るのじゃ!

「よ、義虎……義虎、か⁉」

「……陛下っ!」



 真の信頼で結ばれた真の主従の再会であった。

 彼等の間に言葉などは必要無かった。義海は全身全霊の力で義虎を抱き締め、熱い涙に明け暮れた。義虎には、この一瞬で地下の闇が例外無く光へ変わったのが明瞭に感じられていた。

 義海は改めて義虎の姿を見回した。陣羽織は至る所で擦り切れ、甲冑ごと右胸を横断した斬撃により右半分は見事に切り離され、力無くぶら下がるだけである。籠手や草摺も砕け落ち、そこに赤黒く血が固まり、固まりきらぬ所は未だ紅蓮に泣いている。どこで離脱したのか兜など無く、強引に引き離された折の組紐が、首筋にしかとその抵抗の証を留めていた。

 ここまで必死に逃れて来た高齢の身を押して、聖君は自ら忠臣の身をその背へ抱かんと進み出た。

 流石に近衛兵の一人が義虎を負ぶったが、彼は城外へ向けて進みながらその掠れた声を振り絞り、天護国との戦線にて起こった事、毅臣を討ち取った事などを報告し、更に今後の展望を進言した。

「よ、翼昌大将軍がおわすっ、ぎ、玉華城は……鷲朧大将軍っ、率いる、天護国軍に囲ま、れ、近寄れ……ませぬ……翼昌、大っ将軍は、水有軍師をっ、人質に……故に、玉華城はっ……暫くはもちましょう……その南が玉華、城と、北が日願(にちがん)城、で、敵を……はさ、挟み討つが、上策かと」

 この雷剛政変に関わる主な城塞は、皇帝派・翼昌の籠る玉華城、宰相派・片信が占拠した義真城、そして皇帝派の将軍・結城醍蒙(ゆうきだいもう)の守る日願城、南から順にこの様な位置関係と為っている。

 醍蒙は武勇、智謀、そして忠義、いずれの度合いも高く三拍子揃った名将であり、兵力も兵糧もよく蓄えている為、合流出来れば大いに心強い事である。又鷲朧の大軍勢が陣を張る玉華城付近と真逆の方向に在る日願城なら、その合流も可能であろう。

「なる程、名案じゃ。して警戒すべき相手じゃが、朕は鷲朧と共に玉華城を囲む白巖こそ、その最たる者と考える。正直、兄者があの老獪な白巖を御しきれておるとは思えぬのじゃ……兄者はおそらく、朕が義真城を抜け出す事叶う様にと仕込んでおる。なかなかに大規模な展開をやってのけし追手たちが、この地下通路へは参らぬが何よりの証拠。されど白巖には兄者程の情けは無かろうて。憶測が域を出ぬ事じゃが、白巖は……兄者が朕を逃がす事、見抜いておるやも知れぬのう。さすれば……」

 白巖は玉華城を離れ、義海を捕らえんと北上する。

「……参りましょう、陛下!」

 義海ははっとした。息が漏れる様にやっとの思いで話していた義虎が、今はすっきりと言い切った。そしてその眼は、確かな笑みを湛えていた。

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