転生したけど魔法使えない世界だったし、俺はイノシシ
思ってたのと違う。
会社帰りにトラックに轢かれたのは覚えている。
そこで意識を失って、気づけば見慣れない山の中だった。
まだ日は高く、空気は濡れた落ち葉の匂いをはらんでいる。
目の前には金髪の美少年が正座をしていて、期待のまなざしで見つめてきた。
これが噂の異世界転生かと胸が高鳴ったが、それにしてはあまりにひどい設定だ。
「あ、目が覚めたみたいですね、イノシシさん」
『誰?』
誰? の声がブブゥ? に聞こえたことからして、俺だ。
イノシシは俺だ。
『え、待って、イノシシじゃないから。イノシシっぽいけどイノシシじゃないから』
ブゴブゴブゥー! と元気な声が骨伝導で全身に響く。
そっと視線を落とすと、地面が近い。
二つに分かれた蹄からは毛むくじゃらの足が伸びていた。
完全なるイノシシだけれどそれでも俺は君と同類なんですよ、と必死の思いで目の前の彼に訴える。
少年は、目をぱちくりとさせた。
少女のような頼りない体つきは十歳くらいだろうか。
もっと上かもしれないが、薄汚れた灰色の服と痩躯からしていいものを食べているとは思えない。
ただ豊かな髪は月光を紡いだかと思うほどに美しく、青くきらめく瞳は童話の世界の住人のようだった。
「イノシシさんはイノシシじゃないんですか?」
少年が問うた。
というか、俺の言葉が分かったのか。
これが異世界転生の力か。
「あ、別にイノシシだけとかじゃなくて。僕、みんなの考えてることが分かるんです。ところでイセカイテンセイってなんですか?」
『ちょっと待て、なんだその設定』
思わずヒヅメで地団太を踏む。
彼は魔法使いか何かか。
やはりここは剣と魔法のファンタジーワールドか。
「え……魔法使いとかって本当はいないと思いますよ。イノシシさんは信じてるんです?」
『そんな目で見んな』
二十も下の子供に苦笑いされるとは思わなかった。
だって『考えていることが分かる』と言ったじゃないか。
それだけでここが異世界認定できそうじゃないか。
「ああ、それですね。そもそも僕が特殊なんです、みんなの心の声が聞こえちゃうんで。たまーに生まれるらしいって村では伝説みたくなってたらしいんですけど。
おかげで村中から気味悪がられて、だから生贄に差し出されちゃって」
生贄?
こんな小さな子が?
突然出た不穏な言葉に、湿った鼻をぴくぴくとうごめかせる。
『どゆこと? この山にはバケモノでもいんのか?』
「え、いるじゃないですか」
小枝のような指が、当然のごとく突き出た豚鼻を指す。
「本当のイノシシじゃないんでしょ? 村人が言うところの『山に棲むバケモノ』ってあなたですよね」
『はぁ?』
低いしゃっくりのような異音が喉奥から出る。
「違うんですか? 村じゃ『バケモノの棲む山でイノシシを狩ったせいで呪われた』って大騒ぎですけど」
『イノシシにそんな思い入れはねえから』
ほんの数分前までは二股のヒヅメがあることすら知らなかったくらいだ。
「うーん本当に違うみたいですね……」
碧眼が困ったように宙を見る。
ニコラと名乗る少年の話を要約すると、こうだ。
――この山は昔よりバケモノの棲む山と恐れられていたらしい。
そのバケモノはイノシシの姿をしているのでイノシシだけは狩ってはならないとされてきたのだが、長雨による不作で村人の食糧事情が悪化した。
そこでとある村人がイノシシを狩ったところ、食した者たちが謎の病気に罹ったということだ。
目玉が黄色くなり、生気を失い、ベッドから出ることができなくなる。
生きるために食べたせいで、村人たちは死にかけている。
ならば一刻も早くバケモノの怒りを収めなければならない。
人の心を読むことができるニコラならばバケモノの心さえも読み、鎮めてくれるはずだ……。
「ま、要は生贄ですよね。武器ひとつ持たせてくれませんでしたし」
『ひっでえなあ。お前のカーチャンは何してんだ』
「ママは一番ノリノリでしたよ、何しろ今までで一番本音を聞いてきた相手ですし」
『だからって我が子だぞ?』
「表面上は涙の別れをしましたよ。どっちにとってもバレバレの茶番でしたけどね。僕の手を握りながら謝罪をしてるあいだ、ママや村の人たちは同じことを思ってたんです――」
少年は軽やかな笑顔で人差し指を立てる。
「〝バケモノにはバケモノをぶつけるしかない〟って」
『はぁあぁ?』
先ほどよりも大きな鳴き声が響いた。
俺は独身だしイノシシだし、だから余計に彼が小さく見えてしまうのかもしれないが、それでもやっぱりニコラは子供だ。
そりゃあ心を覗かれたくない気持ちも分かる、俺だってニコラがミニスカートの巨乳美少女だったら岩肌に頭をぶつけて強制的に思考停止を図っていただろう。
けれどそれは俺の問題であって、そのように生まれついてしまったニコラに非があるだなんてみじんも思わないし、俺の性癖は俺だけの責任なのだ、ってこれも全部聞かれちゃってるのかなもしかして。
「聞こえてますね」
死にたい。
『お、大人にはいろいろあるから……重責とかからのストレスみたいな……』
「分かりますよ」
曇りのない表情でニコラが受け止める。
「子供は『大人になればきっと』って現実味のある希望を持てますけど、大人にはそれがないですもんね。だから村の人たちが、魔法だの呪いだのを信じる気持ちも分かるんです」
『お、おう……』
「みんなの本音を子守唄にして育ちましたから。心底おびえてるのはいつだって大人ですよ、子供なんかギャーギャー泣くけどそれ以上の意味はありません」
『なにそのオトナ目線……』
おそろしく苦労人なんだろう。
それでも皆を恨まないのは、秘めたる葛藤までをも漏れ聞いてきたせいだろうか。
幼さを残した口が語る言葉はアンバランスで、なんだか歪にさえ感じる。
「それで、イノシシさんは何者なんですか? 今まで信じてこなかった魔法も、あなたの口から聞けば信じますよ」
『残念ながら魔法使いではないな』
今度は俺が語る番だった。
と言っても大した話ではない。
口のうまい同僚のミスを俺のせいにされて説教された挙句、四時間のサービス残業を言いつけられていた。
よくある話だ。
終えて帰宅する途中、疲れからつい歩道をはみ出してしまい、そのままトラックに轢かれた。
意識はブラックアウトして、次にはもうこんな状態だった。
あまりに急すぎて、自分がイノシシになったことにもニコラの言葉で初めて気が付いたくらいだ。
異世界転生なのかタイムスリップなのかはよくわからない。
ニコラは日本という国を知らず、トラックを魔法使い以上に魅力的な存在だと言って驚いた。
元人間のイノシシよりトラックのほうがインパクト大というのにはなんだか納得がいかない。
「トラックに乗ったら、どんなに遠いところでも行けるんですね。すごいなあ」
『限度はあるけど、まあ馬よりは便利だな』
「魔法よりカガクのほうがよっぽど夢があります。良いなあ、いつかイノシシさんの世界でトラックに乗りたいな」
『一応俺の名前は伊野な……』
我ながら悪趣味な偶然だ。
「イノさんの世界にも魔法はないんですか? 呪いは?」
『魔法はないが、呪いを信じてるやつは一定数いるぞ。とはいえ今回のことが呪いだって断定しちまうには早い気がするな』
「というと?」
「まずは病気を疑うべきだろ。慣れないもん食って当たっただけじゃないのか?』
今まで食さないようにしてきた山のイノシシで具合が悪くなったというなら、そう考えるのが自然だろう。
しかしニコラの表情は渋い。
「食べてから具合が悪くなるまでが結構空いてるんですよ。イノシシを狩りに行ったのがバーマンさんっていうんですけど、最初はやっぱり一人だけで食べたそうです。それで具合が悪くならなかったものだから、家族や友人にも分け与えたと」
『食ってない村人は?』
「僕を含めて、イノシシを食べてない人は大丈夫でした」
『発症するまでの正確な日数は分かるか?』
「えっと、最初に食べたバーマンさんは一か月ちょっとあったと思います。ほかの人も大体食べてから一か月以上は経ってましたよ。みんなが薄っすらバケモノの呪いなんかないんだって思い始めてたある日、思い出したように具合が悪くなって。症状もちょっと普通じゃないから、みんなやっぱり呪いは本当だったんだって」
一か月以上経ってからの発症となればただの食中毒ではないだろう。
しかし、ウイルス感染ならば話は別だ。
『で……目が変色するんだっけ?』
「はい、白目が黄色くなったり吐き気がしたり、お腹が痛くなったり。あとは身体がむくんだりとか、お腹だけ太ったりとか」
『黄色くなるのは白目だけ? 肌とかは?』
「ああ、確かに黄色かったです」
肌と白目の変色。
いわゆる黄疸だ。
とすれば、肝機能障害の典型的な症状ということになる。
「カンキノーってなんですか?」
『肝臓、つまり腹の中にある大事なとこが悪くなってるってことだ。黄疸だったり倦怠感だったり……あとは腹水。お腹に水が溜まるんだ、だから膨れる』
「へええ……!」
少年は目を丸くした。
ここが異世界か過去かは分からないが、俺のいた世界と同じようなウイルスが存在するらしい。
先人たちは見抜いていたのだろう。
ウイルスを知らなくても、それを呪いと解釈することで子孫たちに危機回避させようとした。
『素人判断だが、E型肝炎ってとこだろう。ジビエ料理で感染するって聞いたことがある』
「だけど、町の貴族は普通に食べると聞いてますよ? 僕たちは自分たちで育ててる豚肉くらいしか食べたことありませんけど。それも特別なときだけ」
『ちゃんと焼いたか? オーブンで充分に加熱するとか』
「いえ、普段は肉とかってグリュエルに入れて食べるんです」
ニコラによれば、グリュエルとは薄い粥のようなものだそうだ。
食事に手間をかけられない庶民は、大抵のものを鍋に入れて煮るらしい。
「ただ長雨のせいで不作だったので、後からはイノシシの肉だけを焼いて食べたそうです。腐る前に食べきったほうが良いし、わざわざ少なくて長持ちするライ麦を今すぐ消費することもないってことで」
『長雨……』
ヒヅメのすぐ下は、柔らかな色合いの草と黒土のまだら模様だ。
しっとりとはしているが、そこまで濡れていない。
『今年は雨は多いのか?』
「ですね、水の量はそれほどじゃないんですけどとにかくジメジメして。麦が育たなくて、十年に一度の不作だって村の人たちが言ってました」
『それじゃあ薪だって湿気るんじゃないか』
「薪どころか身体中にカビが生えそうだって村中でボヤいてましたよ、もちろん半分くらいは心の声なんですが。最近は晴れが多くなってきたから良かったです」
『ジメジメはいつまで続いてたか覚えてるか?』
「二か月ほど前ですかね」
状況を整理する。
イノシシ肉を食したバーマンが肝炎らしき症状を発症したのが、食後一か月と少し。
その後ほかの人々も発症。
そこでニコラが生贄に駆り出された。
逆算すれば、バーマンが肉を食した時もまだ雨は降っていただろう。
「その通りです」
話が早すぎる。
『ということは、加熱が不完全だった可能性がある。薪は湿気て食料も不十分、じっくり火を通すだけの余裕がなかった』
それに、と俺は思う。
味だけを言えばミディアムレアが一番美味しい。
「ちゃんと火を通さなかったからこうなったんですか?」
『E型肝炎の原因はウイルスだからな。あるいは単に、調理した人の手やまな板、包丁が充分に洗えてなかったのかも』
村人たちの衛生観念がどれほどのものかは知らないが、空腹で気持ちの余裕がないときには誰だって雑になるものだ。
肉に火が通っていたとしても、手洗いが不十分だったり、もしくは水自体が汚染されていたりという可能性もある。
「もしかして……死にますか?」
『すまん、俺は医者じゃないんだ。ただ俺のいた世界でも特効薬はなかったはずだから、ひたすら安静にするしかない」
黙りこんでしまったニコラのために心の中で付け加える。
E型はほかの肝炎のように慢性化することはない。
個人の体力に賭けるところはあるものの、静かに回復を待ってやれば可能性はあるだろう。
「そうなんですね! ありがとうございます」
やっぱり話が早すぎる。
『しかし、自分を生贄に差し出した奴をよく心配する気になれるなあ。俺なら死んでもなんとも思わねえわ』
「あ……」
ニコラは視線を外し、薄汚れたシャツの裾を意味もなく指先でこする。
「ずっと罪悪感みたいなのはあるんです。僕だけがいろいろ見聞きして、自分の心だけは知られないままで。フェアじゃないでしょそういうの。不公平感からくる恨みっていうか。
自分はずかずかひとの家に入ってくくせに、自分だけは部屋に閉じこもってるっていうか」
ニコラはせわしなく瞬きを繰り返す。
動作は次第に大きくなり、落ちない汚れを何度もぬぐっているように見えた。
「でもいざ自分のドアを開け放しても、誰も入ってこないんですよね。そこに何が隠れてるか分からないから。フェアになろうとしても信じてもらえないし、みんなの真似をしたところで僕は根本的に違うから、だって僕、僕は、バケモノだから」
「ニコラ」
慌てて二本足で立ち上がり彼の両肩にヒヅメを置く。
余計なことを言ってしまったらしい。
『いいんだよ、悪かった。逆だったんだな』
「……え……?」
『お前、心配してたんじゃなかった。だよな?』
さらりと聞き流してしまったが、ニコラは確かにこう訊いたのだ。
「死にますか?」と。
『心配してるなら〝治るんですか?〟って訊くはずだからな』
「そ、そんなこと……」
『安心したわ、って言っていいか? ぶっちゃけた話、自分のこと見捨てたやつらをちゃんと恨めるのは健全だと思うぞ』
欲しくもない能力のせいで虐げられたことを正当化してしまうよりは。
自分を切り捨てた両親は正しかったのだと受け入れてしまうよりは。
「そんなこと……僕は」
唇を噛みながらもニコラは取り乱さない。
先ほどよりはるかに冷静だ。
自分の中に立ち込めていた昏い靄の正体を知ったからだろうか、腑に落ちた表情をしている。
「でも……僕、ウソをついたわけじゃないんです」
『分かってるよ、罪悪感があるってのも。両方とも本当なんだよな? 心ってのは単純じゃねえから』
目を真ん丸に見開いてニコラが迫る。
「イノさんも相手の心が読めるんですか?」
『んなわけないだろ、俺はごく普通の人間。ていうかもはやイノシシ』
「じゃあなんで……」
『大人だからさ』
平凡な人生だが、子供よりは生きてきた時間が長い。
その中で様々な経験も積んでいる。
けれどニコラはまだ子供である上に望まない能力を持っている。
大人に匹敵するほどの修羅場ともいうべき経験に見合った時間を、彼はまだ与えられてはいないのだ。
それでは消化不良を起こすに決まっている。
「消化不良?」
『あるじゃん、自分の中で答えがまとまらないやつ。こうあるべきだよなあっていう理想に、本音が全然追いついてこないやつ』
「僕の……本音」
だからこそニコラはトラックの話に目を輝かせた。
馬でさえ敵わない、どんなに遠いところにでも行ける乗り物に。
どうしようもない〝今〟から逃げるために。
「僕は……苦しんでる村の人たちに、なんてひどいことを」
『いやいや全然いいじゃん、思うくらい。俺なんかミス押し付けた同僚を毎回頭ン中でボッコボコにしてるわ。全社員に俺の心ン中の惨劇見せつけてやりてえくらい』
ニコラが歯を見せてくすりと笑う。
子供が子供らしく笑うのは、とてもいい心地だ。
『ってかさ、思ってたのと違うぜ、俺の世界だって。仲間をイジメるやつもいるし子供を捨てる親もいる。当然魔法は使えないし、カガクだって万能じゃない』
「そうなんですね……」
『だからこそだよ、カガクの世界に転生考える前に足掻こうって話さ。ほら、今さらだけど俺見てみ? 身体でっかくて、体重なんか百キロくらいはありそうでさ』
「美味しそうですね」
『食うな!』
けらけらと笑われる。
俺の言いたいことを読んだうえでの発言だから食えないやつだ。
『とにかく、足腰だって強えから馬みたいに乗れるぞ。鼻が利くから食料も探せる。人語も分かるし現代日本の知識もちょっとはあるから、まあそれもなんか役立つだろ』
「僕は相手の心が読めるのと、この世界の知識を少し」
『そそ、そういうこと』
ニコラが嬉しそうに俺の背を撫でる。
最初はそっと。
そして、最後には両腕でしがみつくように。
「温かいですね。臭いけど」
『うるせえ』
「……気持ちいいです」
ぽふんと背中に小さな顔がうずめられる。
くすぐったいけれど身震いをするのは我慢した。
『新生ニコラの誕生だ。適当に頑張ろうぜ』
「はい。まずは食料ですよね?」
返事代わりに腹が鳴る。
さすがの読心術だ。
ニコニコ顔の少年に鼻を鳴らす。
この先どうなるかは分からないが、ニコラと口がうまくない俺とは案外いい組み合わせかもしれない。
首尾よく食料を調達できるかは分からないが、いざとなったら知らない町で、見世物をして小銭を稼ぐ手もある。
イノシシと心を通わせる美少年、なんて大人にウケそうじゃないか。
「隣町まで相当あります。まずはこの山で食料を調達してから、隣町にたどり着くまでの算段を整えましょう」
相棒がリアリストなのもいい。
下手したら俺より現実的だ。
『へいへい』
――まあ、これからはゆっくり大人になればいいさ。
土に鼻を寄せる。
小さな生き物たちの豊穣な息遣いの中に、木の実の気配を嗅ぎ取った。
【了】