05.踊り子
「やっ……た……ッ!」
斬った、討ち取った。シデンの胸中は高揚感と達成感に満たされていく。証たる物体は瞬きを二回する頃にはごとりと広場に転がって。やがて体も傾いでいくだろう。
しかして目的は果たされた。格上に勝ったのだ、誇っていい。紛うこと無きシデンの勝利――
――のはずだった。
「……そんな……まさかッ?!」
勝利に沸き立つよりも早く違和感に気付く。おかしい、手応えが無い、血が噴き上がらない、これじゃまるで霞でも斬ったかのよう。
俄かに倒れ伏すはずの肉体は、ゆっくりと陽炎のように消えていく……。
「ぶ、分身……ッ!?」
「はーい、ざんねえェ~ん」
声のした方を振り向いた瞬間、横っ面に鈍く重い痛みが走った。容赦のない殴打にシデンの身体は二、三跳ね回りながら地面を転がる。
「がはっ――ッ!」
「ちょっと動けた割にはこんな初歩的な駆け引きすらも読み切れねぇのかよォ……ま、所詮シロートか。あーあ、めんどくせぇなあ……これ以上遊んでやんのもよォ……」
勝てるかもしれない。描いた希望は淡くも崩れ去った。
がりがりと頭を掻きながら、ハーヴはさもつまらなそうに息を吐く。
「これで終わりだ。呆気なかったなァ……ま、思ったよりは楽しめたぜェ?」
「まだ、まだッあああッ!!!」
「《沈め、重圧に》」
「がっ……あっ――!」
ハーヴの詠唱は衝撃へと変わる。上空から降り注ぐ雨が鉛の粒のようだ。シデンの身を襲うのは、巨人の掌で地面に抑えつけられているような、そんな感覚。
指先を動かすのも難しい、倒れ伏したままでしか居られない……これは指定対象への重力負荷を増大させる中級魔法『空重圧』。この魔法に掛かった相手はその時点でほぼ無力。故に生殺与奪の権利はハーヴにあると言っても過言ではなかった。
「這いつくばれよ、もっと」
「ぐ、がはッ――!」
腹部と顔面を執拗に蹴られ、シデンはもがき苦しむ。防御態勢をとることも出来ぬまま、蹴打によって蹂躙されていく。抵抗する気概はある、しかし無抵抗で居ざるを得ない。心情と現状の二律背反に憤懣が募っていく。垂れ落ちる鼻血すらも凄まじい熱気によって、瞬時に蒸発する。
畜生、このまま睨み付けることしか出来ないのか。畜生、ちくしょう――!
「ヘェ~? まだ随分と反抗的な目付き出来んじゃん」
「ま、まだ、終わってない……! まだ、やれ――」
「《灼火よ・苛め》」
「ぐっ、があああああああああああああ!」
極限まで圧縮された詠唱はシデンの左腕を始点として起動される。三元に属する基礎魔法『炎』が起こした種火が服を焼き、生肌の上を生物のように這いずり回る。一瞬で炭化させられた方がまだマシだ。じわじわと浸透していく魔力の炎は、逃れ得ぬ痛みをこれでもかと与えてくる。
「あああああああああああっ――ッ!!!」
「ま、十分に悲鳴も楽しんだし? これくらいで止めとくか。もうつまらねぇ」
本当に退屈だったとでも言わんばかりに首の骨を鳴らしながら、ハーヴは『炎の剣』をシデンの頭上に振り上げる。
「じゃ、死ね」
ハーヴは事もなげに言い放つ。発散される冷酷な殺気に、威を放つ『炎の剣』の熱気をも凍りつくシデンは痛みも忘れて戦慄した。
「く、そ……ッ……!」
迫りくる、死。
死。
死。
死。
『■■■■っ! ■■■■っ――!!!』
自分の行く末を決定づけたあの一夜。忌まわしき血塗られた記憶までが蘇る。
シデンにとって体験を人に語り聞かせるのは、困難極まりないことであった。話の種にするには陰惨過ぎる、悲鳴に彩られた夜の記憶。しかも断片的にしか覚えていないのだ。
なのにそれが今、不完全ながらも思い出されている。
例えるなら、まるで走馬灯のように。
『シデン、生きて。生きるの、あなただけでも……』
俺はあの時、誰かの犠牲によって生かされた。
俺は、こんなところで終わるのか?
色んな人に助けられて来たのに、誰も救えないまま?
「くそおおおおおおおッッッ!」
「ヒャハハハハハハハハハハッッッ!!!」
叫んだところで形勢は変わらない。重力を跳ねのけようと力を振り絞っても、無意味。立ち上がることも、悔しさに地面を殴ることも叶わず。こんな醜い足掻きではハーヴを楽しませることに同じ。黙って死を待つだけが残された道――
「じゃあ……来世に期待するんだなァ!」
殺しこそが最高の愉悦だ……地獄に住まう餓鬼さながらに醜く顔を歪ませながら、ハーヴは首を燃やし溶かす、暴威の刃を振り下ろした。
終わった。
シデンの人生は此処で終わる。
助けられて生きて来たくせに、誰一人助けることが出来ないまま――。
『――諦めるな』
どくん、心臓が強く高く跳ねる。
――本当に、そうか?
まだ、諦めるには早いんじゃないか?
まだ、可能性は残っているはずだ。
俺にはまだ眠っているものがある――!
「頼む俺に……」
誰でもいい、誰でもいいから。
「力をくれ……!」
絞り出すように呟いた、その時だった。
『んあ~……ふう……やっと、出番かのう?』
突如、女性の声が脳内に響いた。
「は、あ……?!」
余りに突飛な出来事に、シデンは素っ頓狂な声を上げてしまう。しかしそれが迫った死を回避する方法でもあった。
「あぁン、何だァ?」
シデンに起きた異変に興味が沸いたのか、ハーヴの動きが止まったのだ。
『ほれみぃ、ちょーちょーべりーらっきーなチャンスじゃぞ。呆けとる場合か、脳に現れるまま、とにかく唱え続けるのじゃ』
「誰だ……?! どこにいる……!?」
疑念が渦巻いていく。叫びを上げ、辛うじて動く目で周囲を調べる。こんなに近くから聞こえるのに、自分たち以外誰もいない。一体なんだ、何が、何が起こっている?!
『これこれ案ずるでない、おぬしの望み通り、力を呉れてやる』
「ちから……?」
『ふふん――勝ちたいじゃろ?』
勝つ、勝てるのか、本当に?
『当然じゃ、わしが保証してやろう』
その一言だけで気力が漲ってくる。従わなければならない、拒否という思考は生まれる余地がない。シデンは確信する、縋るべきものが生まれたことを。
現状を打破するためには疑問を挟むことも許されない、この一瞬。目を閉じて、己の内側に響く声に集中した。このとき、些細ではあるが変化が起きていた。首にしたタリスマンが冷ややかな光を放っていたのだ。胸元から零れ出る微かな光にハーヴはもちろん、シデンもまだ気付いてはいない。亜空間より届く謎の声だけが、シデンに伝達されていた。
『出力安定、構築開始、メンタルリンク強化接続! さあ、続けぇ!』
「……現出せよ、幻たる我の影姿――輝きしその御霊を偽りの棺から開放し、この地に漂う力を用いて、万物を統べし力を我と共に揮い給え――」
『そうじゃ、そのまま紡げ、わしの身体を創り出せ!』
「おいおい、お祈りでもしてやがんのかあ? それとも気でも狂いやがったか、まァそうかも知んねぇよなァ……」
ハーヴの声など全く耳に入ってこない。目蓋の裏に映る文字を無心で唱えていく。まるで体が覚えているかのようだ、編み上げられた祝詞を読み上げれば、きっと……いや間違いなく。
"彼女"に出会える――
『うむ、よいぞぉ! タリスマンを握り締めろ!』
縋るしかない、何が起ころうとも死ぬよりマシだ。降りかかる重圧に逆らいながら胸元に開いた服の隙間に手を突っ込んだ。なんだ、仄かに温かい。『炎の剣』から放たれる熱気とは違う。タリスマンを探り当て、ぎゅっと握る。合点がいった、芯から温めるような穏やかな温もりの出所はここだ――!
「我、汝と契約を結ぶ! 応えてくれ、頼む――ッ!」
「そうだ叫べ、わしの名を! 唱えろ、心の底から!」
「ま、まさかコイツ――!?」
心中だけで響いていた声が、いま確かにシデンの両耳を震わせた。
誰が来る? 正体は? そもそも益があるのか? 本当に勝てるのか……?
考えたくとも時は無情。待ってなどはくれない。
出来るのは先程から一つだったはずだ。必要なのは現況を正しく理解し、持てる力を出し尽くし、生き残る道を探し続けること。初志を貫徹し、向かい来る全てに身を委ねろ!
全てを呑み込み糧にしろ、勝ちたいのならば……
勝ちたいのならば、俺たちの本懐を遂げたいのならば――!
シデンは手を伸ばす、未知の領域に。
脳の片隅に意識を傾け、謎の指示に従い続ける。やがて光がタリスマンへと集いだす。服越しからでも分かるほどに輝いて、徐々に魔法のような力を象っていく。
「う、うおおおおおおおおおおッッッ――!!!」
「――装着繰機師なのかァアアアッッッ?!!」
「気付くのが遅いんじゃよ! 真エーテル接続ゲート創出、高次分子体準備完了じゃ、いつでも行けるぞぉッ!!!」
「うるせぇェエエエエエ!!! ここで死ね、灰燼と化しやがれクソガキィイイイイイイ!!!!!」
怒りの吼え声と共に頭上から、絶死の炎熱が、空気すら溶かす斬撃が迫りくる。
これまでと決定的に違うのは嬲るような速さでは無いことだ。自分の与り知らぬところでなぜかハーヴの焦りを誘うことができ、瞬く間に本気を引き出させた。喜ぶべきことではない、元より芥子粒レベルだった勝ちの目がこの時を以って消え失せたのだから。
このままでは、死ぬ。もう、間もなく。
なればこそ、頭を上げろ、最後まで抗ってやる!
俺はまだ死ねない、死ぬわけにはいかないのだから――!
更に輝きを増すタリスマンを強く、強く握り締め、シデンは己を断たんと欲する敵の刃を真っすぐに見据えた。猛然と迫りくる熱と圧。避けなければ死ぬ。ここはシデンの瀬戸際――だったはずなのに不思議だ、負ける気が全くしない。
遅い、遅い、遅すぎる。こんなものでは俺を、シデンの命を止められるものか!
手の平を盾のように振りかざし、固く閉ざしていた目を見開いて。己が肉体に従うままに、最後の一文を猛々しく吼えた。
「論理照合、適合反映――我が身に応えし機体よ、下位世界へ創出しろ――ッ!」
『プログラム、マテリアライズ――!』
祈りの言葉が紡がれ切れば。
タリスマンからは闇夜を照らす尊き光りが溢れ出す――
「うおおおおおッッッ?!」
唱え終わると同時、眩い閃光が周囲を照らし、辺り一面を白色に染め上げた。振り下ろされた狂気の刃は、当然シデンを斬り裂き溶かし大気の一部にせしめんと向かっていた……そう、向かっていた。刹那の間に丸ごと変わった。
闇によって白光が逃げていけば、次第に目の前は開けてくる。
そこに映るのはシデンとハーヴだけでは、無い。
この場にそぐわない存在が、二人の驚愕の間に屹立していた。
犬のような耳と尾を持つ、幼い少女の後ろ姿。
驚きが齎す数瞬の静寂、沈黙を打ち破ったのは。
「やあっと、会えたのう。なんだか、ひどく懐かしい心地じゃわい」
修羅場に似つかわしくない、愛らしく落ち着いた声が響く。穏やかに笑う彼女に見覚えなど一切なかったのに、かつての記憶が揺り起こされるような気分がした。知る由もないのに知っている。奇妙な喜びが胸の片隅を支配し始めた。
「あなたは……」
思わずシデンは名前を訊ねていた。彼女は半身をこちらに向ける。背中からでは知ることが出来なかった整った容姿が露わになった。
栗鼠の柔らかな毛皮を思わせるような明るい茶色の髪は、子供のように二つ縛りでおさげにしていた。そして目を引くのは子犬を思わせるような茶の犬耳と尾だ。獣人、なのだろうか、ぴこぴこと動くそれらは可愛らしくはあるが、この場の雰囲気には余りに不似合いだ。
背の丈、肉づき、雰囲気は十か十一の幼女そのもの。なのに、やや垂れがちな焦げ茶の瞳からは、母のような優し気な眼差しがある。所作の全てからどこか妙に達観したような雰囲気が漂っており、子供にしか見えないのに、大人のよう。
どうやら武の心得もあるようで、周囲には溌溂とした闘気が漲っている。筋肉の有無が見て取れない柔そうな腕なのに、ひとたび拳を振るえば周囲を更地に出来そうなほどの威圧感が沸き上がっている。情報量が多過ぎて脳が混乱しそうになるが、外見からは見て取れない厚み、凄みがそこには確かに存在していた。
「わしは幻影型機体……いやさ、そこはどうでもよいな。わしは……えーと、カーネじゃったかな確か。ま、そんなもんで気軽にカーネ、とでも呼んでくれい」
「は、はぁ……」
「――クソが、クソがクソがクソがクソがアアアアアアアアアアアアア!!! おいクソガキィイイイ!!! 何だテメェはァアアアアアア?!!」
カーネと名乗った少女はどことなく嬉しそうにはにかみながら、シデンを切り裂かんとしていた『炎の剣』を、左手一本だけで軽々と抑えていた。それもまるで花を摘むような柔らかな力の加減で。
ハーヴを見れば、奴は必死に掴まれた剣を離させようと健闘していた。だが力負けしているのか、はたまた別の理が働いているのか、カーネはびくともしない。しかも信じられないことに、それまで皮膚はおろか内蔵をも焼き尽くすように迸っていた『炎の剣』の熱気も、何時の間にか掻き消えている。
カーネを除いてこの場の全員が困惑の渦に包まれていた。
「あとは……ふむ、そうじゃな。この場のエーテル放射の消去も必要じゃなあ」
自由の利く右手を天にかざし、ふわっと空気を混ぜるようにして軽く握り締める。指揮者が曲の終わりを示すかのような動作。たったそれだけで降り注いでいた驟雨は止み、巻き起こった旋風によって煙霧が四散していく。
多量の疑念が浮かんでは消えずに残っていく。当たり前だ、理解の範疇を越えている。一体、何が起こっている? シデンはよろめきながら立ち上がり、次の行動を窺った。
「おっ、起き上がれたな? いよぉし、戦いじゃ、戦いじゃよおっ! おぬし、早よう名を示せ! リンクしとるとは言え、おぬしの頭の中までは読み取れん。これじゃ会話にも困ろうよ。そら、名じゃ。わしに名前を教えとくれ!」
なぜならと区切り、目を輝かせて。
未だ現況の理解が出来ないシデンに、カーネは不敵に微笑んだ。
「おぬしとはこれから一蓮托生なんじゃからな!」
喚くハーヴなど一顧だにせず、シデンだけに意思を伝える彼女は、まるで野に咲いた可憐な花のようで。
「……俺は、シデン=カイエン。シデン、と呼んで下さい」
自分の置かれた状況など忘れて、ぽりぽりと頬を掻きながらシデンは握手を求めるように手を差し伸ばした。カーネは彼のそんな反応が面白かったのか、満足げににんまりと笑う。
ぱん、と乾いた音が鳴った直後、肌の感触を楽しむようにぎゅっぎゅっと握り返された。妙な気恥ずかしさに視線を彷徨わせていると、カーネとつなぎ合わせた手の平に、痺れるような鋭い痛みが走った。
情緒もへったくれも無い剣呑さ極まる修羅場で、長きに亘る運命の流転が――ここに開始した。
「にっひっひ……おもろいのう、あいさシデン。よろしくのう」
噛み殺すように楽しそうに頬を緩ませてから。
「もっともっとおぬしと語らいを楽しみたいが……生憎そういう雰囲気でもなさそうじゃ……」
とても残念だ、とカーネは嘆息する。するといきなり刺すように冷たい空気が辺りに満ちた。否、元から満ちていたのだ。ここは麦一粒の油断が死を招く鉄火場。彼女の仕草、雰囲気におどけた台詞など返せない。
いつまでこの睨み合いが続くのか、そう思った瞬間。カーネはシデンに背を向け、声高らかに意気揚々とハーヴへ宣言した。
「まずは、目の前のほそっこいやっこさんを、ちゃちゃっとやっちまうかのう!」
肩を叩かれこそしないが、これは明らかにシデンへの発破。それを理解できぬほどシデンは鈍感では無い。負傷で荒くなっていた呼吸を整え、機敏に動けるよう戦闘の構えに移行した。
そうだ、なにも分からなくてもまずは。
眼前の敵を倒さなくては、何だって始まらない――!