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みかん

作者: 辻一成

 今朝、蜜柑を食べた。別に好物なわけではないし、毎朝食べるわけでもない。重ねて言えばこのくそ寒いのに我が家に炬燵という人類の英知の結晶、先人たちの知恵のかたまりもなく、かといって電気ストーブもないし石油ストーブもないから炬燵に蜜柑もストーブに蜜柑もできやしない。先端技術がなければ、風流に縋って頑固に懐古におんぶにだっこすることすらできない、なんともさみしい栄養摂取である。食べた理由なんてものもない。たまたま愛媛に住む祖母が送ってきたやつの消化のために己の胃袋に収めようとしただけのことだ。段ボール箱にごろごろと転がっていたうちの、ひときわつるつるして愛しのあの人の肌を思い出してしまうようなやつは気恥ずかしかったからその隣にまるでむくれたかのようにお尻を向けた、肌荒れのひどい自分みたいなやつを選んだ。腹立たしいことにこいつがなかなかどうして甘酸っぱいのである。このやろう、青春しやがって。僕みたいな見てくれの癖に。と難癖をつけながら一粒一粒味わって食った。

 口内は未体験の初恋の味でいっぱいで、歯を磨いて味気なくて味の濃い歯磨き粉で味付けするのが癪だったので歯磨きをしないでおいた。今日の僕はなかなか悪い子のようだ。今朝は母もいないしまあ良いだろう。

 おなかがすいたとき食べるために今度は適当に段ボール箱から蜜柑を一つ取り出し、乱暴に弁当袋につっこんで愛しの我が家を後にした。いつも通り何にもない住宅街が目に広がる。なんにも面白みなんてないけど、人々の装いはいつのまにか冬のそれにかわっていた。かくいう僕も寒さに弱く、少し早いかもしらないがコートとマフラーを着用している。寒がりなのである。決してオシャレさんではない。冬の空には雲すら浮かんでいなくて、殺風景な住宅街を彩る気は自然にはないらしい。さびいさびいとつぶやきながら靴底をこすって歩く。夏には青々と葉を茂らせていた街路樹もすっかり禿げ散らかしている。冬こそ服が欲しいだろうに、自然とはかなしいかな。


 僕の学校での生活は平々凡々としたもので、友達と話して、女の子とは目を合わさないようにして、愛しのあの人の背中を追って、授業は国語だけ真面目に聞いて、他の文系科目は寝て、理系科目は使えない脳を回してすべて徒労に終わって、弁当を食って蜜柑は残して部活はやらずにまっすぐおうちに帰る。今日もご多分に漏れずそうなるはずだったのだが、放課後テストの補修を食らった。5時間目から寝ていたら6時間目の最初にやる英単語テストのときにも眠りこけてしまったらしい。友達からは眠り姫と呼ばれたが、それならキスでおこしてやってほしかった。

 補修といえど、たいしたものではない。類題のテストをといて、できるまでやり直しさせられるだけ。

さっさと終わらせて帰ろうと思っていた。こんな補修を受けているのは自分くらいのものだろうし、英語の先生は嫌いじゃないし一種の恩返しである。それくらい尊大なきもちでいたのだが、思いのほか人数はいた。その中に愛しのあの人もいた。悪友はこれをみこして僕を起こさなかったのだろうか。多分違うな。一度目は動揺したのかスペルミスでやり直し。二度目はスペルミスだと思っていたところがそもそも間違っていてやり直し。くすくすと笑われている気がして恥ずかしかったが三度目でなんとかクリア。まだ残っている愚か者もいたが、愛しのあの人はとっくに帰っていた。教室をでると廊下は白い息がでそうなくらい寒かった。すぐにコートとマフラーをカバンからとりだした。小腹もすいていたので蜜柑も一緒にとっておいた。氷みたいに、とは言わないけれど冷蔵庫からとりだしたコップくらいには冷たかった。

 蜜柑をお手玉みたいに手から手へと投げて遊びなが校門へ向かうと、愛しのあの人が白い息を吐きながら、寒さで頬を赤くして立っていた。待ち合わせだろうかとその相手が男でないことを祈りながら通り過ぎようとすると、彼女は右手から左手へと移ろうとしていた僕の蜜柑をひったくった。そりゃあもう驚いた。彼女の顔を見ると、頬を赤くしたままにぱっと笑っていた。いたずらが成功した子供みたいに。僕も

頬が赤くなっていただろう。彼女は僕の蜜柑をもったまま、あっけにとられた僕を尻目に頬を緩めたまま走っていった。そして、少し先で振り返って手を振ってきた。僕を待っているようだった。僕も細い足に力をこめて精いっぱい走り出すと、彼女もまた走り出した。いったい僕はなにをしているのだろうか。女性を追いかけまわして通報されないだろうかとか考えながら、それでも足は懸命に動かし続けた。やっとの思いで彼女に追いつくと、彼女ははあはあ息を切らしている僕の前で、カバンから何か取り出して、僕に差し出した。それは小指の部分だけ作られていない、赤い手袋だった。しかも左手だけ。彼女は眼でそれをつけるように促しているようで、おとなしく従うと彼女も右手の小指部分がない手袋をつける。すると、今度は茶色のコートのポケットから赤い毛糸をとりだして、僕の裸の左手の小指と、彼女の右手の小指に巻き付ける。彼女は僕の蜜柑を代わりにポケットに入れて、ようやく口を開いた。

「君のみかんはもらうけど、その未完成の手袋をあげるよ。その赤い糸も。」

そして、間をあけて、

「...わかるよね?」

と。そういった彼女の頬はさっきより真っ赤で、やっぱり朝見た蜜柑みたいにすべすべだった。

「手袋、一緒にいないとずっと未完成なんだから。」


 翌朝、僕はまた蜜柑を食べた。なんのことはない。大量の蜜柑を消化するためだ。相変わらず炬燵もストーブもないから冬らしさも何もあったもんじゃない。でも今日食べた蜜柑は昨日より甘ったるい気がした。今日はしっかり歯を磨いて、顔も洗ってみた。やっぱり今日も弁当袋に蜜柑を入れた。そうこうしていると、家のチャイムが鳴った。バタバタとコートとマフラーをつけて、最後に未完成の赤い手袋をつける。

 ドアを開けると、青空に押しつぶされそうで、殺風景な町中に頬の赤い愛しのあの人が立っている。昨日よりも頬が緩んでいるような気がする。昨日は僕は君にやられっぱなしだったから、今度は僕が先手をとった。

「おはよう、みかん。」

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