涼太くんの誕生日
7月27日。
夏休み中だけれど部活で学校に来ていた僕、荒井章一は帰路につく途中の廊下で見慣れた人影を見付けた。
「あ、白沢先輩!」
声をかけると向こうも自分に気付いたのか、白沢涼太はゆっくりと僕に近付いてきた。
「よぉ、章一。部活か」
「はい。白沢先輩も部活ですか?」
「…………おう」
風の噂によると、期末テストで赤点を取った3年生は今日が追試の日らしい。
うん、深く追求はしないでおこう。と心の中で頷いていると、白沢先輩の目線が窓の外に向けられた。
その先にあるのは、旧校舎だ。
「明後日からだってな、取り壊し」
「そうですね」
実の所、今日部活で学校に来ていたのは明後日から取り壊しが始まる旧校舎の外観の写真を撮る為だった。
結局中に入る事はなかったなぁ、とぼんやり思っていると不意に白沢先輩が僕の方に目を向けてくる。
その目が、新しいおもちゃを見つけた子供のそれに似ていたからか僕は思わず身を引きそうになった。
が、それより先にがしりと白沢先輩の手に腕を掴まれてしまい、挙句の果てに。
「章一、今から行くぞ」
「い、行くって……どこへ?」
何となく彼の返答は解っていたけれど聞いてしまい僕は後悔した。そして。
「もちろん、旧校舎だ」
彼の返答を聞いて、僕は更に後悔した。
「章一。この廊下、左端の方は床板が腐ってるから真ん中歩けよ」
「はい……」
白沢先輩の後ろにぴったりとくっつきながら、僕は心の中で「僕何してるんだろう」と呟いた。
入口には夏休みに入る前より厳重に『立ち入り禁止』のテープが張ってあったのだけれど、この旧校舎を知り尽くした白沢先輩には意味がなかったようだ。
彼は僕を旧校舎裏の入口に連れて行くと、そのままスルスルとあっさり中に侵入してしまったのである。
外は茹であがってしまいそうな程暑かったのに旧校舎はひんやりとしていて、僕は思わず傍にいた白沢先輩の制服を掴んだ。
そんな自分を見て白沢先輩は小さく笑うと、「じゃあ行くぞ」と歩きだしてしまったのである。
逃げる事も出来ず、仕方なく白沢先輩の後ろをついて歩きだし……そして今に至るのだった。
「白沢先輩、本当に旧校舎慣れてるんですね」
「1年の時から何回も入ってたからな。大体の事は把握してるぜ」
よくこんな所1人で来れるなぁと感心しながらも、僕は少しだけわくわくした気分で白沢先輩の後ろを歩いていた。
本音を言うと、旧校舎にはとても興味があったのだけれど、不気味なこの場所に1人で入るような勇気は持ち合わせていない。
取り壊される前に入る事が出来て幸運だったと喜ぶべきなのかなと少々複雑な気持ちを抱えながら周囲を見渡すと、想像していたものよりも荒廃が酷かった。
すると、前を歩いていた白沢先輩が不意に立ち止まった。
「1階はこんなもんだけど、上も行ってみるか?」
気付けば階段まで来ていたらしく、振り返った白沢先輩は指で上の階を示す。
彼が指示した2階への道のりを見上げて僕は暫し考えた末、せっかくだから行ける所まで行ってみたいと思い小さく頷いて返した。
「よし。そうこなくっちゃな」
白沢先輩は僕が頷いたのを見て嬉しそうに笑うと一段踏み出した。
新校舎と違い、木造の旧校舎は一段階段を踏みしめるだけで物凄い音がする。
床板が抜けてしまわないだろうかと心配していてなかなか一歩を踏み出せずにいると、不意に目の前に何かが差し出された。
顔を上げると、数段昇っていた白沢先輩が僕に向かって手を差し出していた。
「えっと、白沢先輩?」
「不安なら掴んでてやるから。手、出せ」
「だ、大丈夫ですよ!」
「そんなに力んでる状態で昇ったら階段ぶち抜いちまうぞ。いいから、ほら」
そう言って白沢先輩は再度手を差し出してきた。
暫く逡巡したが、確かに階段を踏み外したりするのは怖い。
少し恥ずかしさはあったけれど他に見ている人もいないし、手を差し伸べている本人がいいと言っているなら断る理由はないか。
僕は小さく頷くと、差し出されている白沢先輩の手に自分の手を重ねた。
「それじゃあ……よろしくお願いします」
「おう、任せとけ」
重ねられた手をしっかりと掴むと白沢先輩はゆっくり歩きだし、僕もそれに続いた。
先程まで寒さを感じていたからか、触れた手から伝わってくる温もりに多少なりとも最初の方に感じていた恐怖は薄らいでいった。
2階をそのまま通過し、3階まで上がると目的地でもあるのか白沢先輩はそのまま歩きだす。
その後ろを大人しく歩いていた僕は暫く周囲の様子を眺めていたのだが、ふとした瞬間ある事に気付き息を止めた。
既に階段は通過し、今は慎重に廊下を歩いている。
だというのに、彼は僕の手を掴んだままだった。
当人は気付いていないのか「3階は1階に比べて窓とか案外割れてねぇんだよ」などと呑気に語りかけてきている。
伝えるべきだろうかと悩んでいるうちに、白沢先輩の足が一つの教室の前でピタリと止まった。
扉に鍵はかかっていないのか、あっさりと開いたその教室に彼はそのまま僕を誘う。
「……わ、」
教室に入った瞬間、僕は思わず声を上げていた。
先程まで通過した教室と同じように、ここも荒廃して薄暗い雰囲気だと思っていたのだが別世界だった。
窓から差し込んだ夕陽が教室全体を淡いオレンジ色に染め上げている。
新校舎の夕暮れとは違う光景に思わず見入っていると、隣に立っていた白沢先輩が小さく笑った気配がした。
横を見ると、彼はオレンジ色の教室ではなく僕の方を見ていて。
「思いきって来てみて良かっただろ」
イタズラが成功した子供のような笑みを浮かべて言って来た白沢先輩に僕は力強く頷いて返した。
まさかこんな風景が見られるとは思っていなかっただけに、大げさかもしれないけれど小さな感動を感じていた。でも。
「この風景ももう見納めだ」
数日後には旧校舎の取り壊しが始まる。そうなれば、もうこの場所でこの風景を見る事も出来なくなるのだ。
ここで過ごした回数が多い白沢先輩には何か思う所があるのか、彼はぼんやりと夕陽が差し込む窓を見つめている。
「あの、白沢先輩。どうして今日、僕をここに連れてきてくれたですか?」
そんな彼の横顔を眺めながら僕はここに来るまでにずっと抱いていた疑問をぶつけた。
夕陽を見ていた白沢先輩は少しの間首を傾げて考えるような仕草をしてから、「章一。俺、今日誕生日なんだよ」と、全く予想外の事を口にした。
突如告げられた『今日誕生日』という言葉に一瞬固まる。
「え、あ、それは、おめでとうございます」
「おう」
それだけ言うと、白沢先輩はぼんやりとまた窓の外を眺めてしまった。
僕はそんな彼を見上げながら、先程の自分の質問はどこに行ってしまったのかと困惑する。
スルーされたしまったのか……もう一回聞くべきかなぁと悩んでいると、掴まれていた手に突如力が籠められ思わず肩がびくりと震えた。
相変わらず白沢先輩は僕を見ないまま、それでも繋いだ手を離すまいと言わんばかりに握りしめていて。
「章一。俺、お前から貰いたいもんがあるんだけど」
ぽつりと呟かれた言葉に僕は白沢先輩を見上げながら一度、ゆっくり瞬きをした。
彼の頬が僅かに赤く染まっているように見えるのは、差し込んでいる夕陽のせいだろうか。それとも自分の気のせいなのか。
白沢先輩から視線を逸らす事も手を離すことも出来ず、ただ僕は今日この場でしか見られないであろう彼の姿を記憶に焼きつけていた。
「白沢先輩にあげられるようなものは何も持ってませんよ。当然、お金もありません」
「俺は後輩から金巻き上げるような真似なんかしねぇよ」
肩を僅かに揺らして笑ってから、白沢先輩はゆっくりと僕の方に顔を向けた。
その表情がとても真摯なものだったからか、僕は一瞬呼吸を忘れそうになった。
何も言わず、ただお互いに黙って相手を見つめている。
どれくらいそうしていたのか、白沢先輩が僅かに掴んでいた僕の手を引いた。一歩、距離が縮まる。
「白沢先輩が欲しいものって何ですか?」
肝心な部分を言わない白沢先輩に焦れて、僕は小さな声で問いかけた。
けれど、彼は何も言わずにただ自分を見上げている存在を見つめ続けている。
そんなに見られていると落ちつかない、と僕が思わず目を逸らしたまさにその時。
「……章一」
名前を呼ばれて弾かれた様に顔を上げると、すぐ目の前に白沢先輩の顔があった。
何か言わなくちゃ、と解っていても頭の中をよくわからないものがぐるぐると廻っている。
あと少しで息が触れる、と思った瞬間。
『キャーキャー!』
『やだぁ、危ないよぉ!』
『こわーい!』
甲高い悲鳴(といっても喜び混じりの物だが)に次いで、ガラスが割れるような音が下の階から響き渡り、僕たちは思わず体を硬直させた。
よくよく耳を済ませると、複数人の女子が楽しげな声を上げながら軋む廊下を歩いているようだ。
恐らく自分達と同じように記念に取り壊し前の旧校舎に忍びこんだのだろう。
暫く沈黙がこの教室を支配していたが、やがて白沢先輩が「そろそろ帰るか」と呟いた。
見れば、窓の外の夕陽が傾き始めて次第に暗くなりかけている。
完全に暗くなってからでは出るのも大変だからと僕の返答を聞く前に白沢先輩は既に歩きだしていた。
来た道を歩きながら、先程の出来事を思い返す。
……もしもあの時、下から他の闖入者達の声がしなかったらどうなっていたのだろうか。
目の前を歩く白沢先輩は何も言わず、僕も何も聞かないまま夕陽の教室が遠ざかっていく。
来た時よりも少し早足で廊下を抜け、階段を下りて1階に差し掛かった頃、不意に白沢先輩の手の力が緩んだ。
少しずつ手が離れ、人差し指だけが辛うじて引っ掛かっている。
このまま進んでいけば、いずれその感触と温もりも離れてしまうだろう。そう考えると切ない。
やがて旧校舎の出口が見え、お互い何も言わぬまま気付けば外に辿り着いていた。
来た道を振り返ってみると廊下は漆黒の闇に包みこまれていた。
先程まであの場所にいたのが僅かに信じられず、僕は思わず息を飲む。
不意に指が離れた事に気付き、僕は隣に立っていた白沢先輩を見上げた。
彼はいつも通り、魔女のようなクールな笑みを浮かべたまま何も言わない。
「あの、白沢先輩」
このまま別れるのが何だか切なくて、僕は白沢先輩のシャツを掴んだ。
どうして自分をあの教室に連れて行ってくれたんですか、とか。
本当は今日部活じゃなくて追試だったんでしょう、とか。
言いたい事聞きたい事は沢山あったんだけれど。
「誕生日プレゼント、何が欲しかったんですか?」
あの教室で彼は自分から貰いたいものがあると言った。けれど、それは聞けずじまいだった。
旧校舎に連れて来てくれたお礼になるかはわからないが、それくらいは聞かないといけないような気がして僕は手に力を込める。
白沢先輩は何を考えているか解らない表情でまっすぐ僕を見つめた後、小さく笑った。
「__章一」
少しだけ身を屈めると、自分を見上げている僕の唇に、自分のそれを重ねる。
一瞬触れただけですぐに離れたそれが何か、理解するのに時間がかかった僕は徐々に頬を赤らめて体を震わせた。
そんな様子を見てやはり小さく笑うと、白沢先輩は僕の体を引き寄せて、一瞬だけ強く抱きしめた。
「俺はあの時ちゃんと言った筈だ」
耳元で囁き、白沢先輩は頬に軽く口づけると僕の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
混乱した頭で、教室での出来事を一生懸命思い出す。
あの時、彼は何と言った。
『白沢先輩が欲しいものって何ですか?』
『……章一』
「あ、」
思い出した瞬間、耳元でクスリと白沢先輩が笑う。
顔を上げると、今日一番意地悪な笑顔を浮かべた彼が自分を見ていて、僕は自分の顔が真っ赤になるのが嫌でも解った。
「……白沢先輩、ずるいです」
「誕生日だから許せ」
笑いながら言って自分の体を強く抱きしめる白沢先輩の背中に、僕はおずおずと手を回してそのまま彼の胸に顔を埋めた。
思えば今日は白沢先輩に振り回されてばかりである。
何だか悔しくなった僕は、せめて一度くらいは自分が彼を翻弄したいと思い、
「白沢先輩」
「しょう、」
思い切って顔を上げ、白沢先輩が返事をするより先に彼の首に腕を回して限界まで背伸びをする。
今度は自分から白沢先輩に口づけて、ちょっと驚いた彼に対して満面の笑みを浮かべた。
「お誕生日おめでとうございます、白沢先輩。それと、ここに連れて来てくれて、ありがとうございました」
先程まで余裕綽々だったくせに不意を突かれたからか、白沢先輩は頬を僅かに赤く染めるとぶっきらぼうに「おう」と呟いた。
やっぱり白沢先輩はこうでなくちゃと笑いながら、僕はもう一度彼の胸に顔を埋めた。
心臓が物凄くドキドキしていた事に笑いそうになってしまったのは、ここだけの秘密である。