トリングルスの夜明け
現代で言うところの京都府庁の建物のように、まるで洋館のような作りの城。雪の降るその城門前を行ったり来たりする老人がいる。60代くらいの男で、彼はトリングルスという。20年前からこの城の門番をしている。この門番、一日中ずっと立ちっぱなしで、3食の食事を含め、この場所を離れてはならない。家族の元へ帰ることも、トイレに行くこともできないのだ。その代わり任期を終えると、国からの莫大な退職金が支払われる。トリングルスは今日が任期の最後の日で夜明けが今か今かと待ち構えていた。
この城。城といってもそう大層なものではない。京都府庁のように高さはそれほどなく、城主の眠っている部屋に城門からトリングルスのような老人が石を投げても、窓ガラスを割ることができるほどだ。城門前に立っているからと言って、この城をどうこうしようとする市民はおらず、城壁に小便する酔っ払いもいる。威厳がないのだ。この平和な時代に一体なぜトリングルスのように門番が必要なのか、トリングルス自身もよくわかっていなかった。
城主はこの街の市議会議員で名前をラッセルマンという。30代の若い男で、この城にまだ威厳があったころの王様の孫に当たる。市議会議員と言っても、職務は人と会食したり、秘書に書類をまとめさせたり、あとは地方議会に出て居眠りでもしていればいい。唯一、発言の場があるとするなら、学校での入学式や卒業式の時くらいで、来賓紹介で名前を呼ばれれば「おめでとうございます」と一言いうだけでいい。それだけの職務でお金が入るのだが、トリングルスは文句を言えない。門の前で立っているだけで莫大な退職金が入るのだろと言われればそれまでなのである。違う。自分は40年間ずっとここを動かないで立っていると異論を唱えたとしても、それはラッセルマンも同じで、「お前に私の大変さがわかってたまるか」となる。その仕事がどれだけ大変かは、経験した人にしか理解することが出来ず、トリングルスとラッセルマンは一生分かち合うことはできないのだ。
トリングルスは城門を相変わらず行ったり来たりしていた。しかし、いくら歩き回っていても夜明けが早まることはないということに気付き、城門前でいつものように槍を片手に持って立った。ここに侵入してくる人はいないとわかっても細心の注意を払い、近づいてくる者は睨みつけた。ガラの悪そうな輩にも槍を見せつけて脅した。君が生きた記録そのものを抹消することが我が主には出来るのだぞと。輩は逃げていく。トリングルスはそこでため息をつき、それから足が震える。いくら槍を持っていたとしても若者が寄って集って来られるとさすがに部が悪い。命懸けでラッセルマンを守ると誓って20年になるが、こんなところで死にたくなかった。忠誠は誓っていたが、それとこれとはわけが違う。
トリングルスには妻と22歳になる一人娘がいた。家に帰ることは許されず、手紙も受け取れなかった。ラッセルマンがそれを拒絶させたのだ。もし、トリングルスが任期中に家族と会ってしまうと、注意力が散漫してしまうと考えたのだ。家族のことを忘れさせ、自分の命を守らせることだけを考えさせた。ラッセルマンの考えが正しいのかどうかは一般人と城主とでかけ離れている。一般人としては間違っているが、城を守っていく立場にある城主ラッセルマンとしては当然の考えだった。そのための見返りが莫大な退職金である。おそらく、この城を買い取ることもできるほどで、普通に生活をしていれば、トリングルスの娘の葬式を上げる頃までは使えるだけの金だ。それに、トリングルスには権利がある。辞める権利があったのだ。過酷なこの任務を辞めたければラッセルマンはそれに応じるつもりでいた。しかし、トリングルスは今日に至るまで辞めなかった。真面目に城門前に立った。嵐の日も、猛暑続きの夏も、大雪の日も、熱が40℃近くある日でさえもずっとそこに佇んだ。
夜明けが近くなった頃、トリングルスを尿意が襲った。しかし、トリングルスは我慢しなくてはならない。食事は執事が運んでくるお粗末なものを立って食べる。夕食を持ってくる執事と1時間だけ交代の時間が与えられ、その間にトイレと睡眠を済まさなければならないのだ。今はその時間ではなく、トリングルスは漏らしてしまうことも多々あった。特にここ最近は尿意が近く、漏らしてしまう回数も多かった。そして、今日もトリングルスは漏らした。ズボンを伝って、小便が雪の上に落ち、溶けていく。自分が人間として最低だとトリングルスは責めた。しかし、それも数時間後には終わる。莫大な退職金と一緒に家族の元へ帰り、余生を謳歌する。成人を迎えた娘と一緒に酒を酌み交わし、やり損ねた成人式を粛々と行い、娘の着物姿を感慨深く写真に収める。結婚相手を紹介された時は、座布団に腰掛け、腕組をしながら品定めをする。本当に娘を大事にすることができるだろうか、慎重に。きっとここでの任務が活きてくることだろう。そして、結婚式当日、その結婚相手と握手を交わし、「私はわけあって、娘をちゃんと育ててやれなかった。しかし、娘のことを忘れた日など一日もない。私にとってこの一人娘は自分の命よりも重い存在なのだ。私は城を20年守った。それから今日に至るまでの数年の間、20年を取り戻すかのように深い愛情を注いだ。しかし、それも今日で終わりだ。あとは君に任せるとしよう。城を注意深く見張っていた私が品定めした男だから、君はきっと娘を幸せにできる。娘をよろしく頼むよ」と激励してやる。トリングルスの品定めする男だから、きっと涙を見せず、しかしトリングルスの年老いた両手をしっかりと握って、「必ず幸せにして見せます」と約束してくれるだろう。瞼の裏でトリングルスはそんな未来を思い描いていた。
「寝ているのか?」
急に背後で声がし、驚いて振り返ると、尚驚いた。トリングルスの背後に立っていたのは、トリングルスが今日まで20年の間ずっと守ってきた他ならぬ城主、ラッセルマンであった。トリングルスはラッセルマンの前で膝待づき、それから許しをもらうと、重い腰を素早く起こし、ラッセルマンを城門の奥へ押し出そうとした。
「ここにいては危険です。どうかお戻りを」
しかし、ラッセルマンはそれには応じず、トリングルスの横、雪の積もった地面に胡坐をかいた。
「君は今日で最後の任務だろう。それまでの間、僕は君とろくに会話をしたことはなかった。君もそこで胡坐をかくがいい。少し話そうではないか」
「しかし、ここにいては危険です」
「なあに、僕の命を狙う輩なんかいないさ。平和な時代だからね。それにもしその時が来たらきっと君のことだ。命を投げ打ってでも僕を守ってくれるに違いない。僕は君を雇うとき、槍術の腕に惚れたのだ。僕は君を心底信用している。本当さ。まあ、ただ……」
ラッセルマンは言葉を濁した。
「……まあいい。とりあえず、座ってくれないか? 顎が疲れて話しづらいのだ」
トリングルスはラッセルマンに促され、雪の上、正座をした。ラッセルマンはそれも許さず、トリングルスに胡坐をかかせた。トリングルスが胡坐をかいたのは実に20年ぶりのことであり、城門前で座ったのは初めてのことであった。
「この20年、君は僕のことをどう思った?」
ラッセルマンの問いに、言葉が出ず、トリングルスはどぎまぎした。
「……僕を恨んだかい? 君を家族から引き離し、20年もここに拘束させたのだからね」
「滅相もございません! お慕いできて、本望でございました!」
トリングルスは胡坐をかいたまま深々と頭を下げた。
「嘘だな。それは」
ラッセルマンは笑った。
「君が僕を恨んだことが一度もないわけがない。恨むとまではいかないが、もしかすると、嫌悪感をむき出しにした夜なんかもきっとあったはずだ。なあに、隠すことはない。僕はそれだけのことをしてきたのだ。すまない」
ラッセルマンはトリングルスよりも深々と頭を下げた。頭が雪に付くほどの見事なもので、トリングルスは慌てふためき、「どうか頭をお上げください!」と何度も言って聞かせた。
「しかし、君は本当によくやってくれた。執事たちが君をどう思っていたかは定かではないが、きっと尊敬していたに違いない。一度、あそこの寝室から君と後退して、執事が城門に立っている姿を見たことがあってね。まあ、目を見張るものだった。頭が上下に揺れ、立ったまま眠るなんて高等な業だ。それに比べて君は本当に素晴らしかった。真剣に任務を果たしていた」
トリングルスは自分を見てくれていたことに感涙した。何度も、何度も「ありがとうございます」を繰り返した。
「しかし、そんな君は夜明けとともにいなくなる。城にはまた新しい門番が就くことだろう。なんと寂しいことではないか。ただ、同時に楽しみも増える。君は明日から一般人になる。僕は君と対等な立場で会食ができるのだ。僕は君と本当の友となれるのだ」
「友などと、そんな滅相もございません。恐れ多い」
「確かに君は僕を恨んでいるかもしれないから、僕の前に顔を出すのは引けるだろう。しかし、僕は君と暖かい部屋で暖かい食卓を囲みながら、他愛もない話をしたい。君の家族も一緒にくればいい。僕には娶る妻がいない。君さえ良ければ君の大事な娘さんを僕に紹介してほしいものだ、まったく」
「おお、我が主様よ。なんと幸せなことか。私があなたと友になるだけでなく、この城で一緒に会食をし、対等な立場でとおっしゃるだけでなく、我が娘を私なんかの下僕を見てくださる素晴らしいラッセルマンという御方に嫁がせることができるなんて。私をあなた様の義理の父親にさせていただくなど、ここで死んでも悔いはないでしょう」
ラッセルマンは笑った。「ここで君に死なれると僕が嘆き悲しむよ」そう言って感涙で雪を溶かすトリングルスの肩を抱いた。
「さあ、もうすぐ夜明けだよ」
ラッセルマンが指差す方向からは朝陽が顔を出し始めていて、トリングルスはこれほど綺麗な夜明けを今までに見たことがない。
1月1日。元旦。この日の朝、トリングルスは20年の任務を終えた。ラッセルマンは馬車を用意させたが、トリングルスは自分の足で帰りますと言い張った。それからラッセルマンとまた会う約束をし、固い握手を交わし、退職金を持ってトリングルスは城を出た。
家への道をトリングルスは自然と覚えていた。この路地を曲がったところにゴミ溜めがあり、ここから漂う匂いが懐かしかった。世間は正月一色に染まり、遠くで鐘が鳴った。
トリングルスの家は20年前と同じ場所にあった。古い家だ。窓ガラスの角が割れていて、それをテープで補修してある。トリングルスは玄関の扉を開けて、その場に佇み、やがて閉めた。
トリングルスは再び歩き出し、気が付くと丘の上に立っていた。その丘の上、莫大な退職金をジャラジャラと音を立てながら丘の上から撒いた。お金はある。手に入った。当初の目的はそれで、20年をこんな金貨に魅せられていた。手に入れたその時、初めて自分が犯した罪について理解し、トリングルスは自分を恨んだ。
全てを失った男、トリングルスはこの世に別れを告げるように身投げをした。翌朝、トリングルスの亡骸を引き取ったラッセルマンは彼のために大きな墓を城門の前に立てた。
こう、綴って。
「親愛なる我が生涯の友、トリングルス。安らかなる永遠の眠りをこの場所で」
完