赤いボール
「夕暮れ時の学校に1人で居てはいけません。
その時、もし、赤いボールを見つけたならば、拾わないようにしましょう。
拾ってしまった時は、持ち主である女生徒に返すまで絶対に落としてはいけません。
何故ならば、それは女生徒の大切なものだからです。
それを返すまで女生徒はどこまでも追ってきます。どこまでもどこまでも。
追い付かれた時、あなたは血で赤く染まり、二度と動くことはないでしょう。
そう、まるで赤いボールのような………」
「あ、それ知ってる。『赤いボール』って怪談でしょ?」
ジー、ジー、と聞こえる鳴き声を聞きながら、パタパタとブラウスの胸元に風を送る。
蒸し暑いこの気温に加え、この鳴き声を聞いただけで暑さが増すような感覚に陥り、嫌気が差す。
昼の休憩のチャイムと共に、「怖い話をして涼もう」と言ったのは、田島明里だった。
「もー!知っててもそこは怖がるところなの!美和は可愛くないなあ。ね、琴羽!ちょっとは涼めたでしょ?」
「いや、ちょっとどこが怖かったのか分かんなかった」
「何で皆そんなに冷たいの!あたしの方が冷えるわ!」
「よかったね」
「あいむこーるど」
明里は私達の対応に心が折れたようで、机の上に置いていた弁当を持ち上げ、後ろを向いてしまった。
明里はこうやって感情を素直に出してくれるところが面白くて、ついつい遊んでしまう。
私は鞄の中に入っていたお菓子を明里に差し出しながら、肩を叩く。
「ごめんごめん。これあげるから許して」
「…そんなことでこの明里様が許す訳……こ、これは……!パティシエとも云われる琴羽様が作られたお菓子ではありませんか……!」
「パティシエは大袈裟」
「え、それ私にも頂戴」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと美和の分もあるから。はい」
「ありがと」
趣味でする手作りお菓子は、この2人には大変好評で、私は時々こうやって学校に持ってくる。
口に頬張って食べるのを見るからに、明里は機嫌を直してくれたみたいだ。
ちゃっかり自分の分を持ってきていた私は、お菓子を取りだし封を開ける。
「それにしても、何で赤いボール?」
「んむ?ん、と、何かこの怪談って、この学校で実際にあった事件を元に作られたみたいで、そこに関係があるのかな?」
「そうそう。何でも、教師が生徒を殺したって」
実際にあった事件と聞いてぎょっとしたが、まあそれも大分昔のことだろう。
弁当を袋に詰め、箸箱を入れ忘れていたことに気付き、もう一度袋を開けた。
「だから、それで何で赤いボール?」
「うーん、分かんないなあ。気になるんだったら、図書室にでも行ってみたら?たぶん昔の記事とかもあるんじゃない?」
「美和賢い!」
パチン!と指を鳴らした明里は、「いつか行ってみよう」と鼻唄を歌う。
けれど私は知っていた。明里の「いつか」は永遠に来ないことを。
まあ、どうでもいいか、と紐を結び終えると、丁度予鈴が鳴った。
私は既にその怪談を、一時の雑談として、記憶の中から薄れさせていった。
は、と顔を上げた。
テストが近いと、私は決まって放課後、図書室で勉強して帰るようにしている。
あと3日後に控えたテストのために、私は無心になって勉強していたようだ。
気付くと辺りは夕焼けに赤く染まり、人の気配はなくなっていた。
私は下校時間のことを思いだし、慌てて荷物を片付ける。
今日の授業分の教科書の重さを感じつつ、図書室の扉を開けた。
ぱっと目に入ったのは、野球ボールくらいの大きさの球体だった。
「赤い、ボール……?」
誰がこんなところに置いたのだろうと、屈んでボールを拾った私は左右を見渡す。
人影も見当たらないところを見るに、落とし主は気付かずにどこかへ立ち去ってしまったのだろう。
それにしても、変わった人もいるものだ。
私はまじまじとそのボールを見つめた。
手触りはプラスチックのようなのに、何故かずっしりと重量感がある。
こんなもの、何に使うのだろうか?
私は首を傾げながら、もう一度その場に屈んだ。
もしかしたら、落とし主がここで落としたことを思い出して戻ってくるかもしれない。
行き違いになってはいけないだろうとボールを置こうとした私に、小さく声がかかった。
「……返して…」
右を向くと、離れた場所で女子生徒が1人立っているのが見えた。
おかしいな。さっきまでは誰もいなかったはずなのに。
私とすれ違わなければ階段もないはず。
まあ、どこかの教室にいたのかもしれない。
自問自答をしつつも、私は女子生徒に近付く。
女子生徒は俯いて立ったままだ。自分から来てもよさそうなものなのに。
私はその様子に少し苛々しながらボールを差し出して歩く。
「はい、次からは気を付け、て、ね……」
あと数歩というところで私は立ち止まった。
女子生徒は立ったままだ。
そう、立っている。
なのに、どうして影がないの。
「…返して」
女子生徒が、一歩、踏み出す。
ポキッ、と何かが折れる音がした。
更に、一歩。
私は、気付くと女子生徒から離れようと足を動かしていた。
ゴキ、の音と同時に、女子生徒の腰が真横に曲がった。
「…返してぇぇぇぇえええ!」
ボキボキボキボキボキボキッ!と鳴り、女子生徒の関節という関節が折れ曲がった。
私はその異様な光景に吐き気を催しながら、反対方向へと全力で逃げた。
何あれ何あれ何あれ!
気持ち悪い何で骨があんな風に曲がってるの!
ヤバすぎる!あれに捕まってはいけない気がする。
捕まったら、私はどうなるの?
私は、死ぬ?
「嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない死にたくない死にたくない!誰か、誰か!美和!明里!先生!助けて!」
突き当たりを左に曲がる。
そうすれば、いつもの教室がある。
きっと誰かはいるはずだ。
誰でもいい。誰か助けて!
ちらりと後ろを確認する。
居ない。今はあいつは居ない。
自分の学年と組の書いてある表記を見て、ふっと気持ちが軽くなる。
やった、これで私は助かった。
「誰か!たすけ、て……」
私の期待は深い海に投げ出されたように沈んでいった。
どうして、誰も居ないの。
はー、はー、と呼吸の音が教室に響く。
むくむくと再び絶望感が沸き上がる。
いや、座っている場合じゃない。
あいつが、来る。
「…返してぇ……返してぇ……」
バキッ、ズル、ヒタ、ともう何なのか分からない、不気味なそれらを鳴らしながら廊下を這う音がする。
教室の窓の下へ隠れて口を抑える。
息がし辛いけれど、見付かるよりはマシだ。
「…返して…返して………」
声が遠くなる。
私は静かに息を吐く。
何とか撒けたのだろうか?
あれは何なんだ。幽霊?妖怪?そんな非科学的なことは信じない質だったが、そうでなければ説明ができない。
返して。
その言葉は、何を示しているのか。
はっと私は自分の右手に持っているものに目を向けた。
「赤い、ボール?」
ズル、と這っていた音が、途切れた。
しまった!
私は荷物を捨て、女が行ったであろう方向と逆へ走った。
後ろからビタビタと掌を床に打つような音が聞こえる。
私は後ろを見て、後悔した。
女は、あれだけの骨が折れる音からして、まともに歩ける姿勢になっていなかったのだろう。
腰は真横に曲がってからそのまま真下に折れたような格好になっており、二足歩行から四つん這いに変わっていた。
片手は宙に浮いたまま、肘は折れてはならない方向に曲がっている。
その有り得ない姿勢のまま、足と手を動かしている。
それでも、ただただ、私を追いかける。
「死にたくないよぉ……!」
じわりと涙が浮かんでくるが、前が見えなくなるのは危険だ。
私は素早く目元を拭い、赤いボールについて思考を巡らす。
赤いボール。
確か、前に明里が怪談として話していたような気がする。
1人でいちゃいけなくて、ボールを拾ってもいけない。
それから、それから……
駄目だ、肝心なところが思い出せない。
思い出せない自分に歯を食い縛りながら、美和の言葉だけが脳裏に浮かんだ。
『気になるんだったら、図書室にでも行ってみたら?たぶん昔の記事とかもあるんじゃない?』
「図書室だ!」
私は校舎をぐるぐると回り続けていたようで、すぐ先には図書室の表記が見えた。
転がるように飛び込むと、しっかりと鍵をかけた。
これで、当分は大丈夫だろう。
汗だくで張り付く髪を掻き分け、荒い息のまま、新聞記事の項目にすがるように探った。
いつの。いつなの。
何の記事。何の事件。
分からない。赤いボール赤いボール赤いボール。
バサッとファイルが落ちる音で我に返った。
赤いボールなんて、書いてある訳ない。
ひとまず呼吸を落ち着けようと、深く息を吸う。
ゆっくりと息を吐くと、思考が少しだけクリアになる。
「そうだ、パソコン……」
もしかしたら、誰かが書き込みをしている可能性がある。
私は奥にあるパソコンへと向かう。
小さく、パキッと音が聞こえた。
時間がない。急がなければ。
スイッチを入れると、ウィーン、とパソコンが動き始める音がする。
それすらあちらに聞こえるのではないかと、びくりと肩を跳ねてしまう。
インターネットを開き、「赤いボール 怪談」と打ち込む。
すると、関連のものが数件出てきたが、手っ取り早く一番上のホームページを開いた。
【うちの唯一といってもいい怪談がある!「赤いボール」っていうショボい名前。内容は、夕方1人で学校に居てはいけない。その時、赤いボールを拾ってはいけない。拾ってしまった時は、探している人に返すまで落としてはいけない。っていう結構単純な内容。まず赤いボール拾わなけりゃ起こらないからねwww】
そう、そうだった。
ボールを返せば良かったのだ。
ああ、これで私は助かる。
安心する私の視界に、【赤いボール 事件】という見出しが目に入る。
【で、実はこの怪談、昔起きた事件を元にしてるらしい。調べてみたらホントにあった。それがこれ】
その下にあるURLをクリックすると、新聞記事の画像が写し出された。
「……生徒……教師に、臓器の一部取り出され……死亡……犯人の供述…『好意を持っていたが断られた。心を自分のものにしたかった』…」
私は自分の顔がどんどんと青ざめていっているのを感じた。
ごくりと唾を呑み、恐る恐る赤いボールへと視線を向ける。
それは心なしか、赤黒く変色しているように見えた。
「……もしかして、これって…」
ドン、と扉を叩く音がした。
「…あた、しのぉ、返してぇ、返して、返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して」
「ひっ……」
言葉と共に何度も扉を叩く音が大きくなる。
だが、バキッと何かが壊れる音がした途端、急にしんと静まり返る。
帰っ、た……?
ボールを強く握りしめ、荒い呼吸を整える。
早く、早くこれを返さなければ。
腰を上げようとした私の耳に、カラカラカラ………と軽い音が聞こえた。
扉を、開ける音だ。
私はぶわっと全身に脂汗が広がるのを感じていた。
ヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバい。
違う。いや、大丈夫だ。
これを返せば済むのだから。
早く、早く。
返さなければ返さなければ返さなければ。
どくん。
突然、私の手の中のボールが、脈をうった。
「……っ!」
私は思わず手を離してしまい、ボールは私の手の中からすり抜けていった。
私はどうすることもできず、スローモーションのようにそれを見つめていた。
グチャ、という粘着質な音が、辺りに響いた。
「みぃつけた」
女の身体からはパキ、ゴキ、と関節の音が不気味に鳴り続けている。
四つん這いになった女が、折れた手を足を前へ前へ動かしながら私へと近付く。
暖簾のように垂れている髪は地面に着き、時々自分で踏んではブチッ、ブチッと千切れる音がしていた。
カタカタと震える手が止まらない。
赤いボールは落としてしまった。
返すものが、ない。
「いや、あ、これ、これが……」
私は必死に、床に落ちているボールに掴みかかった。
けれど、ボールを掴んだ途端、グニュリと粘土のように私の指の間から飛び出した。
ボロボロと崩れるそれに、私は嗚咽と共に呻き声を上げることしか出来なかった。
「ああ、ああああ………ごめ、なさ……返、すものが、ない……」
バラバラになったそれらは、床に広がる赤い液体の中に沈んでいた。
私がそう言った瞬間、女の顔が不自然に上へと上がり、最早私を見ているのか分からない角度になっていた。
真横に傾げられた首は、ぐるりと一周した。
「返してくれないなら、あなたの、ちょうだい」
女は、私のある一点を目指して指を伸ばす。
それは、私の。
垂れ下がる髪の間から覗いた女の顔は、嬉しそうに笑っていた。
「……高校で、生徒である16歳の少女が何者かに殺されているのを巡回していた教師が発見。少女の心臓は取り出されており、何者かに持ち去られたのではないかと予測。悪質な犯罪として、警察は変質者等の心当たりはないか周囲の聞き込みを開始している。それでは、次のニュース………」
夕暮れ時の学校に1人で居てはいけません。
その時、もし、赤いボールを見つけたならば、拾ってはいけません。
拾ってしまった時は、持ち主である女生徒に返すまで絶対に落としてはいけません。
何故ならば、それは女生徒の大切なものだからです。
それを返すまで女生徒はどこまでも追ってきます。どこまでもどこまでも。
追い付かれた時、あなたは血で赤く染まり、二度と動くことはないでしょう。
そう、まるで赤いボールのようなあなたの心臓を、取られてしまいますからね。