愚者
問題に気が付いたのは、当校初日の朝になってからだった。これは、事前に確かめなかった私が、悪いと言えば悪い。とはいえそれが出来なかった程忙しかったことは事実だ。殺風景だった八畳間も今日なってみれば、ようやく部屋と呼べるものになっていた。
その部屋の姿見に、私が通すはずのなかった制服を着た私がいる。先日、夏穂と初めて学校に行った時に受け取った物だ。濃い紫がベースで、至って普通のだ。制服の上着の内側に、名字の刺繍が入っていて、私のものには、『榎田』の文字が、丹念に縫い込まれていた。
問題なのは、私の姓が『榎田』ではなく、『橘』である事だ。
部屋を出て、幅の広い階段を降りた。玄関先で榎田夏穂が私を待っていた。彼女は私を見ると小さく首を横に振った。先生に連絡を取るよう頼んでいたのだが、駄目だったようだ。
彼女とは未だによくわからない関係になっている。お互いに歩み寄っては、お互いの傷に触れないようにゆっくりと離れていく。この繰り返しだ。
玄関を出て、広い庭から門をくぐる。振り返ると、立派な柱の表札に、榎田の文字が彫られている。
九月に入ったとはいえ、未だに夏の陽射しは弱まらない。心なし蝉の声が小さくなった程度だ。私は着ていた上着を脱いで腕にかけた。バス停までは他の人影すら無いだろうが、名前の刺繍が他人に見えるのが嫌で、入念に内側に隠した。
「ごめんね、うちの学校、始業式とか行事がある時って、それ持っていかなくちゃいけないの。学校では冷房があるし、着ていてもそんなに苦じゃないと思うのだけど。」
私は、うん、とだけ返事をした。歩き始めた夏穂に付いて、私も一歩を踏み出した。
バスに乗って、山を少しを降りれば、両脇が田圃ばかりの道に出る。流れ行く緑一色の景色は、いつもよりいっそう非日常的に見えた。
「順番に刈っていくんだよ。あっちの方から。」
夏穂はここからずっと遠い、山の方を指差した。
「稲刈り機を皆で使い回してるんだってさ。こっちの端の人は気が気じゃないよね。雨が降ったらダメになっちゃうのに。」
と目の前の田圃を見て言った。
バスが通りすぎるたびに、頭の重い稲が、波を作るように揺れている。私達に手を振るかのように、あるいは私達に助けを求めるように。
「私、どうなるのかな。」
無意識に呟いていた。口にしてからしまったと思ったが、顔にでないように平気を装った。不安なんて、信用できない人に言うものではない。
「大丈夫よ。私も始めは不安だったもの。」
わけ知り顔で私に微笑む夏穂が、私の目にはほんの少し腹立しく映った。
「あなたは世渡りが上手いから。」
皮肉を込めて返したつもりだった。
それでも彼女は、ありがとう、といって笑った。
バスを降りる頃には、私達二人と同じ制服の人ばかり目に入るようになった。学校前の狭い坂道も昨日とはうってかわって、たくさんの学生で騒々しくなっていた。
私は登校すると、一度職員室に寄るように言われていた。昇降口で夏穂と別れると、早足で職員室を目指した。
夏目先生はいらっしゃいますか。と職員室の出入口で叫ぶと、部屋の奥の方から細い手がひらひらと奥で返事をしている。ここまで来い、ということなのだろう。新学期の始まりの日だからか、どの教師も右へ左へ、慌ただしそうに動いている。
「おはようございます」
「おはようございます。まだ時間が少し早いので待ってもらえる?」
女にしては低い声。黒地に少しだけ青みがかったスーツを着ている、歳はそれほど高くはなく、二十代の後半ぐらいだ。ただ、年齢に見会わない厚化粧で、失礼にも教育関係の職場の人には見えなかった。
夏目先生は、乱雑に自分の右側の椅子を引いて、座席を軽く叩いた。座れという合図なのだろう。そして私が動き始めるのを待たず、難しい顔をしてパソコンと向かい合い始めた。
机の上は顔に合わず綺麗に片付いていて、本棚にはどこかで見たような英語の本と、二、三年前にベストセラーになった小説が並んでいる。
「校長先生の所に住んでるそうね。」
「はい。」
彼女がパソコンのマウスを素早く二回クリックすると、私の真後ろにあった大型のプリンタが音をたてて動き始めた。ガタガタと音を立てていて、今にも壊れてしまいそうだった。
「どう?この辺りの生活は。」
「ええ、まだ来たばかりで良くは分かりませんが、そうですね、良い所だと思います。」
私がそう言うと、女はなにも言わず、目の端で私を見て、嘲笑するかのように意地悪く、にやけた。きっと、私のような子供がお世辞を言うことが可笑しいのだろう。
「おかしいですか?」
と聞く私の睨む視線を無視して、プリンタから出てきた書類に目を通し、それから引き出しを順番に開けて何かを探し始めた。机の中は物だらけで、彼女の性格がよくてでいると思えた。
上から二番目の引き出しを開けた時に、白い光沢のある布の上に、文字の刻まれた指輪が丁寧にしまわれているのが見えた。他の引き出しとは違って、その壇だけは丁寧に整頓されている。彼女の嘲笑が頭から抜けなかった私は
「先生は結婚されてるんですか?」と聞いた。
「生徒が気にすることじゃないわよ。」と女は返すので、
「引き出しの中の指輪は結婚指輪ですか?」と聞いた。
「ファッションよ。」と女は応える。
「イニシャルと日付が入っていましたね。今時の指輪は製造日が入っているんですね。」と、私はあどけなく笑ってみせた。女は一瞬私の方を見たが、また別の引き出しで探し物を始めた。
「大人ってね、答えにくいこともあるのよ。」
そう言って、引き出しの奥で探し当てた朱肉を使って書類に印を押した。そして机の時計を見て、そろそろ行きましょうか、と言って私を立たせた。
女の薬指には、引き出しの中の物とは別の指輪がはめられていた。
我ながら根性の悪い阿呆なことをしていると思いながら、背を正して女の後ろを追った。
結局、制服のことは夏穂以外の誰にも言わなかった。