境界
雨は来たときよりもまた強くなっていた。教材と制服の入った手提げ袋が雨に濡れないように胸元に抱えながら、バスが来るまで、傘をさして待っていた。
「今日はありがとう。夏休みなのにわざわざごめんね。」
「ううん、それよりあの高校、どうだった?」
夏穂は、水色の傘から少し顔を覗かせて私に尋ねた。
私は、うん、と頷いて笑って見せた。質問の意味が見いだせず、返す言葉が見つからなかった。
そんな私の曖昧な返答に、彼女は笑って応えた。失望でも満足でもない様子だった。相変わらず何を考えているのか私にはわからない。
「荷物、重いだろうし。半分もつよ。」
夏穂の手が私に伸びる。
「いいよ。大丈夫、大丈夫。私の物だし。」
手を左右に振って強く否定した。重い荷物から片方の手を離したせいで、両手で抱えた手提げ袋が私の腕から滑り落ちそうになる。一息ついてから大丈夫、と、もう一声して痺れる手で抱え直した。
バス停に面した片側二車線の道路は車がほとんどなく、傘に落ちる雨粒の音が永遠と頭上で鳴っている。反対方面へ行くバス停の傍らに建っているコンビニさえも車一台停まっていない。店の脇に積まれたコンテナの影には猫が退屈そうにしている。身を自然によせてしまえば、高校で鳴っていた金管楽器の音が聞こえてきそうなほど静かである。
「あ、猫だ。」
彼女は八月の風に舞う水の粒子の向こう側を指差した。
「二匹、三匹いるね。」
彼女は背伸びをしたまま言った。店の奥側にいるのか、私にはその一匹しか見えない。
私から見える一匹は、コンビニの四角い屋根から落ちる水滴を、身体を伏せて見つめていた。猫が風流を理解できるとは思えないが、まるで水滴に何かを重ねて、深く悲しい事を憂いているようだった。猫に憐れみを感じるほど、私は彼らが好きではないが、自由気ままで、媚と油が売り放題の猫が何を憂いているのかは、少し考えてみようという気にはなった。猫には猫なりの何か深い悩みがあるのだろうか。深く突き刺さる何かが。
雨が降る大通りは人影もなく、とにかく雨の音しかしなかった。まるで滴り止まぬ涙の世界に全人類私達二人が迷い混ん込んだかのようだ。
「ねえ」
私がそう夏穂を呼ぶと、なに、と応えた。彼女と目が合わないように、じっと雨粒に浸る猫を見つめたまま、私は口を開いた。
「昨日の夜の話って、本当なの?」
夏穂は少し考えたあと、うん、と答えた。
「ここには、いつ来たの?」
「中学三年になる時だから、三年前かな。春先だったから、電車が凄く混雑してたよ。」
「一人だったの?」
驚いたように尋ねる私に戸惑ったのか、彼女は少し口ごもった。それから、そうだよ、とだけ返答した。
コンビニ脇のコンテナの影から二匹目の猫が姿を見せた。それに気付いた一匹目が身を起こして振り返った。お互い間柄が良くないのか、警戒するように見つめあっている。
猫から目を離さないように、声が相手に届くように、ゆっくりと息を吸い込んだ。これから放つ言葉は、聞いて良いのかわからない疑問だ。だけれどもどうしても気になって仕方がない疑問である。
「どうして、ここに来たの?」
私の声は思いの外、大きく出た。二匹の猫がびくんとしてこちらに振り向いた。私は思わず手で口を覆った。二匹は、私の方を向いて動かない。手元の荷物がまたずり落ちそうになって、抱え直した。
「知りたいの?」
傘の隙間から、彼女の横顔がちらりと見えた。いつものような口調で、やはり不快そうな表情も示さない。
「ううん。やっぱりいいや。知りたいけどね。」
夏穂には見えていないと、分かりつつ首を横に振った。
「お互いに昔の話はしない方が良いと思うよ。少なくとも私は話したくないし、小春ちゃんもそうだと思ってた。」
彼女は傘で顔を隠した。風に流れる雨を防ぐために傘の向きを変えたのか、私の目が嫌で、そうしたのかは分からないが。
「でも昨日のは本当、私はあの家の親戚でもなんでもない。」
傘の向こう側で、彼女は呟くように言った。
「そっか」と納得したような声を出してみた。私の声の後には整然とした沈黙だけが残った。彼女が何を見て、何を思っているのかは結局分からないままだった。
別に失敗したとは思っていない。私達はどこまでお互いを知るべきなのか、どこからが知られたくないのか、境界は初めから、はっきりとすべきだったのだ。私が気になって聞いた。彼女はそれを拒んだ。事実はそれだけである。
静寂に流されるように、もう一度コンビニ脇に目をやった。しかし、もうそこに猫の姿はなかった。