呉越
夏休み最後の週にも関わらず、バスは閑散としていた。降り続ける雨の中、信じられないような急勾配の坂道を登ったり降りたりしながら、いつの間にか、建物が立ち並ぶ町の方へ出ていた。
シャッターの降りた店の商店街、店の規模に見あわなく広い駐車場のコンビニ、所々に並ぶ大手の外食系列店。
それらを尻目に見ながら、私は眠気に煽られていた。昨夜、自分の部屋に戻った後も一睡もできなかった。朝になって、夏穂から新しい制服と教科書を取りに行こう、と誘われた時も、私は彼女を心のどこかで信用できないでいた。この先、こんな調子で大丈夫なのだろうか。そういう心配事をため息にのせて吐いていると、横にいた夏穂に、降りよう、と言われバスを降りた。
そこから車通りのない歩道へ曲がり、また坂を少しほど登ると、ようやく目的地についた。携帯電話のディスプレイは八時二十分を示していた。あの家から大体、三十分ぐらいだろうか。
「ここが学校だよ。」
普通のグラウンドに、普通の校舎。少し古いくらいで、特筆すべきところは特にない。朝から降り続く雨のせいで、校門の手前のくぼんだ地面に大きな水溜まりができていた。
「どうかな、田舎くさい?」
「学校に田舎も都会もないよ。あっちと特に変わらないかな。」
彼女は、ふうん、と言いながら、校舎をしばらく眺めていた。
傘に落ちる雨の音の中に、学校の方から金管楽器を吹く音が聞こえる。目の前の水溜まりが淀んだ空を写し出し、そこに雨粒が作り出すいくつもの波が互いに干渉して、ゆらゆらと曇り空を動かしていた。
「教材と制服。貰いに行かないと。」
不規則に発生する水溜まりの波形に、魅入ってしまいそうになる自分自身を引き戻すように呟いた。
私達は水溜まりを踏まないように校門をくぐった。
「失礼します。二年二組の榎田夏穂です。転入生連れてきました。」
「失礼します。」
転入生という馴染みの薄い言葉が、私を指すことに戸惑いを覚えつつも、彼女に続いて職員室に入った。
前にいた学校の半分か、それより少し大きいぐらいの職員室に、ガラガラと音をたてながら動くクーラーが、冷気とコーヒーと洋菓子の甘い匂いを運んでいた。夏穂を見ると、背伸びをして辺りを見渡していた。
「夏目先生か校長先生はいらっしゃいますか。」
人の少ない職員室に彼女の声が響く。普段とは違う、社交的な少し高い声だった。ここまで来るのに、歩きまわって火照った体から熱が出ていくのを肌で感じる。
入ってすぐの教員の机の隅に、おそらく娘の写真が飾られていた。幼稚園か何かの制服を身につけて、健気に私の方へピースサインを掲げている。
「夏目先生はさっき出ていったよ。それから校長先生は夕方まで戻られないよ。」
部屋のどこからか、老人の精一杯の声が聞こえた。
「ありがとうございます。失礼しました。」
夏穂は丁寧に一礼すると、凛とした姿勢で職員室を出た。私も後を追って続いた。
「きっとすぐに来るよ。待ってよう。」
夏穂は振り向いて私にそう言った。今度は無邪気に微笑んでいた。おかしくもないのに、つられて口角を上げてしまう。
私は彼女の表情の多面性に、恐れに近いものを感じていた。
自分と会話している彼女が、実は他人行儀な彼女なのではないか。実際の彼女はもっと別のことを考えていて、本心では私を煩わしく思っているのではないか。あの夜に見た彼女の姿は、あの夜の彼女の言葉は、夢だったのではないか。そう思えてくる。
恥をかく前に幻想なんて捨ててしまえばいい。
そうだ。彼女はきっと私に構っているよりも、夏休みの終盤にやりたい事だってあったはずなのだ。見知らぬ私に時間を使うのはさぞ口惜しい事だろう。彼女は優しい。昨日の夜は、同情されているだけなのだと無理矢理に完結させた。
廊下に私達以外の人の姿はなく、しばらく鳴り続けていた金管楽器の音色もいつの間にか止んでしまった。彼女の様子をそっと伺うと、黄昏れるように、外を見たまま窓枠に肘をつけていた。
「蝉しぐれ。」
唐突に彼女が呟く。
「何?」
「蝉の声が雨みたいに降って来るから、そう言うらしいよ。今日は雨だし、蝉も鳴いてないから"しぐれ蝉"だね。」
夏穂が窓を開いて手を伸ばす。雨避けから彼女の腕に涙粒ほどの水滴が落ちて、彼女の腕で硝子玉が割れるように弾けた。
目を閉じて耳を済ませる。降りしきる雨は蝉の声には聞こえない。
「そうだね。」
私も彼女の横で腕を伸ばす。晴れの日なら、窓から運動場の方へ景色が開けているのだろう。今日は、雨が風に乗って白い霧の塊になって横へ動いていく。ここ来るときよりも、雨の勢いが強くなっているように感じた。