夏穂
いつか嗅いだような畳の匂い。遠くで聞こえる風鈴の音。ここだけが時間の流れが緩やかで、そわそわした気持ちが収まらない。
殺風景な八畳間に私の荷物を積み上げた。夕暮れの外を見ると、地平線が見えるほどの広大な農地に、西日で影になった大きな山の形が現れている。時折遠くで、背の高い晩夏の稲が風になびいて輝く波を作っていた。
惹かれるように、その景色を眺めていると、襖の方からノックする音が聞こえた。私の返事も聞かずに襖は開く。
「えっと、橘小春ちゃん、だよね。」
しゃがれた声の若い男だった。スーツ姿なので、私より年上の社会人なのだろう。私は、そうです、と答える。男は部屋を見回してから、窓に肘を乗せた私を見て言う。
「寛いでくれているようでよかったよ。下に降りておいでよ。みんないるよ。」
「はい、わかりました。ありがとうございます。」
私は会釈をしてそう答えた。声の主は、じゃあ、と言って襖を締めた。
ダンボールを部屋の隅に動かして、私は男の後を追った。採光のない廊下は、日中の陽光を吸い込んで、生温い空気に包まれていた。記憶をたよりに、廊下を歩く。
革のソファーがある部屋に着くと、すでに先生と、女性が二人いた。一人は、年配の方で私を見ると、
「よく、来たね。」と言った。
くすんだ髪色に、皺寄せた顔をしていたが、声はどこか力強かった。外見から察するに、先生の奥さんだろうか。
もう一人の女性は私と同じ位の年齢だろう。部屋の隅で私をじっと見ている。私が目を合わせると、彼女は小さく控えめに手を振った。思いがけないことに慌てて目線をそらす。
私が戸惑っていると、私の部屋に来た男が戻ってきて、
「じゃあ、えっと、とりあえず紹介から。こっちが父さん、こっちが母さん、それからあっちが妹の夏穂。」
と、ふらふらと手を揺らしながら説明をした。あまりに簡易な紹介に不満を口にできるはずもなく、私は、よろしくお願いします、と言ってお辞儀をした。よろしく、とまばらな声が返ってくる。
すると、奥さんが大きく手を打ち付けると、
「じゃあ、ご飯にしましょう。」と一喝すると、私を見ていた四人がぞろぞろと動き始めた。
私は小さく息を付き、その有り様を眺めていた。
ここへ来る車の中で寝過ぎたせいか、それとも鼻に付く畳の香りのせいか、とにかく眠れない。開いた窓からは、夏の夜を象徴するような、名も知らない無数の虫の鳴き声が、風に乗って流れてくる。
今日の全てが美しさの欠けた夢のようだった。悲しいとか、これからが不安だとか、そういったことは、頭の中では半分投げ槍になりながらも、東京で全て理解していたつもりだった。それでも心の奥底にある何かが、今の私を揺さぶり続けていた。それが何を訴えているのか私には分からなかったが、でもどうしてか人肌恋しく、堪らなく泣きそうになった。布団に頭を埋めて必死に息を止めてみても、布団に染み付いた未知の匂いが、また私の嗅覚を襲った。
畳に手をかけると、なだらかな凹凸が、ほどよい弾力を帯びている。そこに目一杯の力を当てて、私は立ち上がった。濡れた枕を軽く蹴り飛ばす。恐怖から逃れるように私は部屋を出た。
熱気に満ちた廊下へ、わずかに線香の香りを運ぶ風を感じた。意味もなく、暗闇の中、手探りでその方向へ足を向けると、知らずのうちに、今日この家に入る時に見た縁側に出ていた。
外を隔てている薄い硝子の扉の向こうで、風が木々を揺らす音がした。僅かに見える空には星が浮かんでいる。
「そんな所にいたら、虫に噛まれるよ。」
驚いて振り返ると、この家の私と同年代の娘が、廊下から歩いてきた。私はいつものように小さく頭を下げた。彼女はそんな私を少し笑って、小さい声で、
「もうそれはいいよ、私もあなたと同じ歳だって。同級生だよ。それより、こんな遅くにどうしたの?」
と言った。
特に意味もなく彷徨っていた私は、眠れなくて、すいません、と言った。
彼女は首を小さくかしげた後、何かを閃いたように、縁側の薄い扉を開けて外に出た。それから、振り向いて、
「おいでよ。」と言った。
彼女に促されるまま外に飛び出した。窓から少しだけ見えていた星は私の天上まで広がった。星を眺めるなんて何年ぶりだろう。そして、なんて綺麗なんだろう。
「綺麗だよね、この景色。」
彼女と言った。白い肌と少し色落ちした茶色い髪が、月明かりに優美に照らされている。私は大きく頷いた。
「ねえ、小春ちゃん。」
彼女の瞳が私をとらえる。悪事を働いて、追い込まれたような緊迫感が私を縛る。山から吹き下ろす風が、彼女の髪をなびかせる。
「ここでやっていけそう?」
私は躊躇った。私が小さく笑ってごまかそうとすると、彼女は星を見ていた時と、違う目で私を見ている事に気が付く。
「どうだろう。まだ分からないかな。」
本心は分からない。自分でさえ答えが分からない。今まで何千回、何万回されてきた多種多様な質問に対して、数百、数千回、答えをはぐらかして生きていた。むしろ気付かれないように隠すのは得意だった。それでもこの時、幼い頃に感じた、嘘をついた時の罪悪感が心を曇らせた。どこか見透かされてるような気がして、怖かった。
「そうだよね。まだ分からないよね。」
「うん。」
辺りは風が止んで、虫の鳴き声と、私と彼女の呼吸だけが耳に入る。しばらくして、彼女は息を吸って、目を閉じながら、私に言った。
「あのね、私は本当はこの家の人じゃないんだ。小春ちゃんがどうしてここに来ることになったのかは詳しくは聞いてないし、私とは事情もきっと違うのだろうけど、」
それから目を開いて私を見て、
「たぶん大丈夫だよ。私、今ここで幸せだもの。」
と、笑って言った。
その瞬間、風が今日一番の強さで吹き付けて、彼女の長い髪が、大きくなびいた。
その瞬間、近くにいるはずの彼女が、優しく私に歩み寄ってくれた彼女が、何故だか遠くに感じた。